話 1
シンプルな内装ながらも、控えめながらも上質な雰囲気を漂わせる部屋に、女の甘く艶めかしい喘ぎ声と、男の低い呻き声が響いていた。
天野汐凪はベッドにうつ伏せになり、シルクのシーツを固く握りしめながら、上に乗る男のますます激しくなる動きに身を任せていた。
男の大きな手が、片方で彼女の腰のくぼみを掴み、もう片方で彼女の手を覆い押さえつける。 まるで、この一ヶ月の出張で溜め込んだ情熱を、すべてここで吐き出すかのように。
唇を噛みしめて痛みに呻く彼女に、男は最後に激しく突き入れ、共に頂点へと導いた。
二人は固く抱き合い、高潮の余韻にゆっくりと身を沈めていく。
「隼人、おじい様がまた子供のことを急かしているわ」
汐凪は手を反転させ、彼の指を握り返した。 その声は甘く柔らかく、暗闇の中で一層一層艶っぽさを増していた。
耳元に吹きかける男の熱い息を感じて、彼女の全身は微かに震えた。
「子供が欲しいのか?」
男はからかうように唇の端を上げ、手を伸ばして彼女の髪を優しく撫でる。
汐凪には彼の表情は見えなかったが、拒否されなかったことに、ほのかな希望が胸に灯った。 「ええ。 まだ若いうちに産んでおけば、体の回復も早いし、もし将来また欲しくなっても、その機会はもっと増えるでしょうから」
髪を撫でていた指が、ふと頬を伝って下り、彼女の顎を力強く掴んだ。 柔らかい肌はすぐに赤く跡を残した。
「子供で俺を縛りつけようと?お前なんかにその資格があるのか?」
氷のように冷たい言葉が耳に突き刺さる。 男は未練なく身を引き、汐凪は全身の力が抜けて、ベッドにぐったりと崩れ落ちた。
彼女は慌てて弁解した。 「これはおじい様のご意向で、私はそんなつもりじゃ……」
どれほどの時間が経っただろうか。 男の低く掠れた声が、再び部屋に響いた。
「明日の本家の食事会には、お前は来なくていい」
「どうして?」
汐凪は慌てて彼の方を振り返った。 ただ子供が欲しいと言っただけで?
明日は二人の結婚三周年記念日であり、家族全員が本家に集まって食事をする日だった。
部屋は薄暗く、男の輪郭が影の中にぼんやりと浮かび上がるのが見えるだけだ。
「優子が帰国した」
その言葉が落ちると同時に、部屋の明かりがぱっと点いた。
彼女は薄い掛け布団を引き寄せて胸元を隠し、ただ呆然とするしかなかった。
男は裸のままベッドを降りてバスルームへ入っていき、すぐにシャワーの音が聞こえ始めた。
汐凪の心臓がずしりと沈み、じわじわと痛みが広がっていく。
布団を握りしめていた手を緩め、その音をぼんやりと聞きながら、彼女は三年前のことを思い出していた。
三年前、彼女は重傷を負い、黒崎幸一郎に助けられた。
傷が癒えた後、幸一郎はただ一つの条件を提示した。 交通事故で植物状態になった孫の黒崎瑛斗と結婚すること。
彼女は幸一郎への恩返しと、自身の足跡を隠すために、彼と三年の契約を結んだ。
三年後、結婚を継続するかどうかは、夫婦二人の合意で決めるという内容だった。
汐凪はこうして黒崎家に住み込み、瑛斗の妻となり、献身的に彼の世話をした。
彼女の介護の甲斐あって、瑛斗は奇跡的に意識を取り戻した。
そして、彼女もまた、次第に彼に心を惹かれていった。
結婚して三年、正式に夫婦として過ごした時間は、わずか一年半に過ぎない。 瑛斗は、彼が心に秘めた憧れの人――吉田思乃の存在を、彼女に隠すことはなかった。
しかし、汐凪は幸一郎から、思乃が瑛斗が植物状態になった途端、あっさりと彼を見捨てて海外へ飛び出したことを聞いていた。
表向きは海外で服飾デザインを学ぶためと言っていたが、実際には次から次へと恋人を変えていたという。
まさか、契約の期限と思乃の帰国が、同じ時期に重なるとは。
三年にわたる介護と、温かい言葉の数々も、彼の中の憧れの人には敵わず、彼の心を温めることはできなかった。
シャワーの音が止み、バスルームのドアが開いた。 男が腰にバスタオルを巻いて出てくる。
彼の体は極めて優れており、腹筋はくっきりと割れ、筋肉は引き締まって力強い。 長い脚と引き締まった臀部。 裸の彼を知り尽くしている彼女には、それがよく分かった。
女がまだベッドに横たわっているのを見て、彼は微かに眉をひそめた。
クローゼットからシャツとスラックスを取り出すと、バスタオルを解き、ゆっくりと身につけていく。
「おじい様には、体調が悪いから行けないと伝えておけ」
男の顔は影の中でも彫りの深さが浮かび上がり、眉目秀麗だが、その言葉は氷のように冷たく、人を震え上がらせる。
何かを思い出したように、彼は身をかがめて床に落ちていたスーツのポケットから薬の箱を取り出し、彼女に投げつけた。
「薬を飲むのを忘れるな」
汐凪は薬の箱をじっと見つめ、晦渋な口調で言った。 「分かっているわ」
行為の後、彼はいつも自ら彼女が避妊薬を飲むのを見届け、決して彼女に子供を宿す機会を与えなかった。
だからこそ、幸一郎は彼女に子供を早く産むよう急かしたのだ。 瑛斗を縛りつけるためだけでなく、彼女を黒崎家に留めるためでもあった。
瑛斗は、幸一郎と思乃を除けば、他人に対しては常にこのような態度だった。
「時期的に、この結婚も終わるべき時だ」
シャツの最後のボタンを留めると、長い指がベッドサイドテーブルの引き出しから一枚の書類を取り出し、汐凪の目の前に置いた。
「これにサインしろ。 これからは、お互い干渉しない」
書類に記された「離婚協議書」という文字が、鋭い棘のように彼女の目に刺さった。 汐凪は紙を掴む手が震えるのを感じた。
話 2
この日がついに来たというのに、天野汐凪は別れを惜しむ気持ちが芽生えていた。
彼女は彼を見上げ、瞳を潤ませ、赤い唇を震わせながら、最後に一言絞り出した。 「本当に、私と離婚するの?」
男はベッドのそばに立ち、その端正な顔には一切の表情がなく、ただ冷ややかに彼女を見下ろしていた。
「黒崎夫人になるのは君じゃない、だが、どうしても俺のそばにいたいというなら、愛人の席なら空けておいてやってもいい。 」
彼はわずかに口角を上げ、その冷淡な眼差しに嘲りの色を浮かべた。
二人はベッドの上では意外なほど相性が良かった。 彼女がその気なら、養ってやるのも悪くない。
その言葉は、まるで雷鳴のように汐凪の頭を打ち据えた。 彼女が意図的に無視してきたすべてが、目の前で鮮明になっていく。
二人の初めての情事は、偶然の産物だった。 酒の勢いで、彼らは一晩中求め合った。
酔いが覚めた後、彼は怒りに燃え、彼女を殺したいとさえ思った。
彼女は、彼の充血した瞳に、自責と後悔の色が浮かんでいたのを覚えている。
黒崎幸一郎の存在があったため、彼は何もできなかった。 ただ、その後の情事において、ベッドの上で彼女を様々な方法で扱っただけだ。
二人は一緒に住んでいなかった。 黒崎瑛斗は意識を取り戻すとすぐに家を出ていき、彼女は一人で屋敷に住み、彼が訪ねてくるのを待ちわびていた。
だが、彼が訪ねてくるのは、あの行為のためだけで、他には何もなかった。
この関係性は、囲われた愛人と何が違うというのだろうか。
黒崎家において、黒崎幸一郎だけが彼女の立場を認めていたが、他の誰も彼女を黒崎夫人とは認めていなかったのだから。
汐凪は、名状しがたい怒りが頭に血を上らせるのを感じた。 理性を失い、ただ原始的な感情だけが残った。
「ふん、黒崎社長の愛人になりたい人間なら、金京市を一周しても余るほどいるわ。 元妻の私に回ってくるはずがないでしょうね。 」
瑛斗は彼女を見下ろした。 女の顔は鮮やかで、目尻は赤く染まり、赤い唇は嘲るように歪んでいた。
彼は認める。 汐凪は妻として申し分なかった。 彼がここを訪れることは稀だったが、来るたびに最高の待遇を受けた。
女は彼を、まるで宝物のように大切に扱い、彼のすべての負の感情をここで解放することができた。
だが、残念ながら、女はいくらでもいる。
天野汐凪一人いなくなったところで、柔柔がいるし、他の女もいる。
「そう思うなら、 俺にどうすることもできない、 離婚補償を見てみろ、 同意するなら、 さっさとサインしろ。」
瑛斗は手首の名時計をちらりと見た。 午後九時十分。 もう行く時間だ。
汐凪は心臓が締め付けられるような痛みを感じながら、彼の言葉に従って離婚補償のページをめくった。
資産6億円、車一台、そして家二軒。 なんとも気前のいい離婚補償だ。
女が驚愕している様子を見て、瑛斗の冷たい瞳に嘲りの色が浮かんだ。
やはり、骨の髄まで刻み込まれた金銭への執着は、隠しきれない。
「少ないと思うなら言え。 考えて、もう少し上乗せしてやってもいい。 」
この二年間、女の世話は彼の意にかなっていた。 これくらいの金は、はした金に過ぎない。
「もう十分よ。 」
汐凪はペンを手に取り、契約書の最後のページを開いた。 そこには、もう一方の欄に黒崎瑛斗の名前がサインされていた。
その筆跡は力強く、松のように雄々しい。
彼女は一画一画、書類の最後に自分の名前をサインした。
最後の一画を書き終えると、全身の力が抜け落ちたようだった。 彼女は目を閉じ、一筋の涙が熱く頬を伝って落ちた。
三年にわたる夢は、もう覚める時が来たのだ。
瑛斗は顔を上げ、女の目尻に光る涙を見た。 なぜか、ひどく苛立たしい気持ちになった。
約束通り離婚協議書を手に入れたのだ。 喜ぶべきではないのか。
彼は眉をひそめ、不快そうに舌打ちをした。 その眉間と目尻には、かすかな厭世感が漂っている。
「明日の朝九時、役所で会おう。 」
すらりとした指で離婚協議書を一枚手に取ると、男はためらうことなく背を向け、彼女に無情な後ろ姿だけを残して去っていった。
部屋には汐凪一人だけが残された。 彼女は身を縮め、膝を抱えて、激しく泣きじゃくった。
最後の一滴の涙が落ちた時、彼女の心にあった瑛斗への最後の感情も、葬り去られた。
三年の歳月は満了した。 もう、自分を愛さない男のために心を痛める必要はない。
翌日の午前八時五十分、役所の前には、すでに黒崎瑛斗が到着していた。
役所の前に停められたストレッチリムジンの後部座席で、瑛斗はうつむいてパソコンのメールを読んでいた。
男の表情は沈んでおり、感情を読み取ることはできない。
助手席に座る森川潤一は、ルームミラー越しに後部座席の男を盗み見ながら、信じられない思いでいっぱいだった。
今朝、黒崎社長から電話を受けた彼は、ベッドから飛び起きたほど驚いた。
黒崎社長と夫人が、今日、役所で離婚するだと?!
彼は黒崎社長が十二歳の時からずっとそばに仕え、もう十年以上になる。
黒崎社長が交通事故に遭い、黒崎幸一郎が植物状態になった社長に嫁を娶らせた。
彼は社長がもう目覚めないだろうと思い、この新しい夫人を気の毒に思ったものだ。
まさか社長が目覚めた後、すぐに夫人と離婚せず、長年にわたって何事もなく過ごしてきたとは。
それが、突然この日に離婚を切り出すとは。
夫人は、黒崎幸一郎が社長に娶らせた夫人だ。 こんな風に離婚して、黒崎幸一郎は黙っているだろうか。
「今、何時だ?」
冷たい声が潤一の思考を中断させた。 彼は携帯電話に目をやる。 「八時五十五分です。 黒崎社長、到着してから二十分になります。」
車内は静まり返り、二人の淡い呼吸音だけが響いていた。
潤一は思わず尋ねた。 「黒崎社長、黒崎幸一郎様には、もうお伝えになりましたか?」
瑛斗は目を伏せた。 黒崎幸一郎は天野汐凪をひどく気に入っている。 二人が離婚したと知れば、きっと激怒するだろう。
それこそが、彼が事後承諾を選んだ理由だった。
潤一は察した。 男は眉をひそめ、車内の気圧が急降下している。 社長は、きっと自分の気の向くままに行動しているのだ。
彼が一度決めたことは、黒崎幸一郎以外、誰にも変えさせることはできない。
話 3
森川潤一は車窓の外に目をやり、奥様の姿を探すと、ふと目が輝いた。 「黒崎社長、奥様がいらっしゃいました」
その言葉に顔を上げた黒崎瑛斗は、スモークガラス越しに、天野汐凪がタクシーから降りてくる姿をはっきりと捉えた。
彼女は体に密着した赤いドレスをまとっており、そのシルエットが美しいプロポーションをくっきりと浮かび上がらせている。
丈は太ももの中ほどで、フリルを幾重にも重ねたバラの花のような裾が、歩くたびに軽やかに揺れていた。
ウエストをきつく絞ったデザインが、彼女の細い腰を一層際立たせ、背中に流れる長い髪が、艶やかな色気を添えていた。
滅多に汐凪と接する機会のない潤一は、これほど華やいだ彼女の姿に、思わず口が滑った。
「まるで天女が舞い降りたようで……」
瑛斗は潤一を一瞥し、鋭い目を向けた。 離婚初日にこんな格好で、いったい誰を誘惑するつもりだ?
そう考えていると、 携帯電話が震えた。 画面をスライドさせて受話口に当てるうち、
彼の表情は暗雲立ち込める空よりもさらに陰鬱に沈んでいった。
『本邸に戻る』
『え?では奥様は?』
『一緒に連れて行け』
車を降りた汐凪は、すぐにあのストレッチリムジンに気づいた。 降りて来ないというのは、わざわざ自分から出向けということか?
近づいて車窓をノックしようとしたその瞬間、後部座席のドアが開き、男の長い腕が伸びてきて、彼女をぐいっと車内へ引き込んだ。
次の瞬間、車は猛スピードで発進した。
シートに座り直す間もなく、強い加速に体を前方へ投げ出された汐凪は、男の股間めがけてまさに突っ伏さんばかりの姿勢に――。
顔よりも先に手が、男の“あそこ”を押さえつけてしまった。
手のひらに、かすかな弾力と熱が伝わり、思わず身を引く。 慌てて起き上がろうとして今度は頭を天井にぶつけ、痛みに顔を歪めた。
先ほどまでの優雅さはどこへやら、 彼女は頭を押さえながら息を詰まらせて言った。 「離婚届を出すんじゃなかったの? ここはどこに行くって言うの?」
潤一は耳をそばだてた。 まさか、社長は思い直したのだろうか?
やはり、奥様が長年社長のそばにいたのだから、何かしら感情はあるはずだ。
さっきのハプニングなどどこ吹く風とばかりに、瑛斗の顔は恐ろしいほどに険しかった。 「着けばわかる」
スーツのポケットからミントキャンディを取り出し、長い指で包装紙を剥がすと、それを口に放り込んだ。 舌の上で強く転がし、心の奥底で渦巻く暴虐的な感情を押し殺そうとするかのように。
何も言わない彼に、汐凪も黙って不機嫌そうな顔をし、うつむいて携帯電話でメッセージを打ち始めた。
一時間以上走り続け、車はある広大な敷地へと入っていった。
数十億円規模の土地を擁するその荘園には、築山や流れ、東屋や回廊が配され、中国風と西洋風の建築が見事に調和して佇んでいた。
メッセージを打ち終えて顔を上げた汐凪は、見慣れた景色に一瞬、目を見開いた。
「どうして私を本邸に連れてきたの?」
今日は二人の結婚三周年記念日。 黒崎幸一郎のしきたりなら、家族が揃って本邸で食事を共にする日だ。
しかし昨夜、瑛斗ははっきりと来るなと言った。 離婚届を提出するはずだった時間に、なぜ急にここへ?
ストレッチリムジンは湖畔の別荘前で止まった。 瑛斗は汐凪の手首を掴んで車から引きずり降りると、駆け寄ってくる顔色の変わった執事をよそに、風のように二階へと駆け上がった。
執事は走りながら報告する。 「奥様(老夫人)は今朝からずっとお目覚めにならず、ようやくお目覚めになったかと思えば、突然発作を起こされまして……!幸いにも黒崎幸一郎様がすぐに気づかれ、今は石川生哉先生が手術室で処置にあたっておられます」
「これで二度目でございます。 倒れた時は口と鼻から出血が……。 石川先生のお話では、臓器不全も伴っているようで、どうやら……」
二階の主寝室の前には、黒崎家の面々がほとんど集まっていた。
老夫人(黒崎玉蘭)は三人の子を産んだ。 長男の黒崎和彦は軍に属し、ほとんどを軍で過ごしている。
次男の黒崎宏志は瑛斗の父親で、かつては黒崎グループのマネージャーだったが、今は隠居同然。
三男の黒崎修己は金京市の市長を務め、現在は出張中だ。
瑛斗の姿を見るなり、宏志の妻である黒崎琴音が唇を歪めて言った。 「心もない人もいるものねえ。 家族の生死にも構わず、金の亡者と化しているんだから」
彼女は瑛斗の後ろにいる汐凪に目をやり、舌打ちを二度した。 「あら、まだ離婚も済んでいないのに、人を見ても挨拶一つできないの?身の程知らずにもほどがあるわ」
シルクのチャイナドレスを纏った彼女は腕を組み、完璧に仕上げた顔に露骨な不満を浮かべていた。
宏志が瑛斗に言った。 「瑛斗、 お前が家にいた頃、 おばあさまがどれほどお前を可愛がってくれたか、 忘れたのか? もう少し遅ければ、 最期にも立ち会えなかったぞ。 俺に言わせりゃ、お前があれだけの事業を抱え込む必要はない。 少しは手放したらどうだ」
瑛斗は彼らと口論している場合ではない。 黒崎幸一郎の前に進み出ると、声を潜めて尋ねた。 「おばあさまは……?」
黒崎幸一郎は白髪白髭、妻の病状に憔悴しきっていた。 皺の深い目は生気を失い、固く閉ざされた扉をただ見つめている。
「石川先生曰く……もう、難しいかもしれん、と」
老爺の声は震え、両手で瑛斗の腕を力一杯掴むと、嗚咽をこらえながら一言一言、絞り出すように言った。 「瑛斗……玉蘭が、逝ってしまう……」 腕を握る力は千鈞の重さがあった。
瑛斗は表情を強張らせ、声に苦渋を滲ませた。 「そんな……ありえない。 おばあさまはいつもお元気だった。 きっと大丈夫だ」
汐凪は扉前に集まる年長者たちに一人ずつ会釈をすると、瑛斗の後方に控え、両手を組んで心配そうに扉を見つめた。
老夫人も幸一郎と同じく、この孫嫁をずっと可愛がってくれていた。
瑛斗が離婚を目前に控えた彼女を連れてくるのは、こんな緊急事態の時だけだ。
しばらくして、扉が開き、白衣を着た石川生哉が現れた。
「奥様(老夫人)は危篤状態です。 我々は最善を尽くしましたが……。 ご家族の皆様、ご覚悟を。 どうか、ご準備を」