話 2
望月結衣が個室に戻った時、そこに残っていたのは広瀬翼ただ一人で、大塚英志に付き添っていた。
他の三人の友人はすでに姿を消していた。
「翼、ごめんなさい。 遅れてしまって」
結衣はドアを開けて入ってきた。 顔に残っていた涙の跡は、すでに完全に拭い去られていた。
「義姉さん、遅くないっすよ!あの三人はもう帰りましたし。俺、今夜ちょっと約束があるんで、悪いんですけど兄貴を家まで連れて帰ってもらえませんか?」
翼は結衣に笑いかけたが、その視線はどこか泳いでいた。
さっきの話が、まだ頭の中でぐるぐると回っている。義姉さんに何か言うべきかどうか迷っているのがわかった。
しかし、最終的に彼は何も言わないことに決めた。
和哉言う通りだ。これは兄貴と義姉さんの問題で、自分が余計なことを言うべきじゃない。
「どうしてこんなに飲んだの? このままじゃ、 また胃を壊しちゃう」
結衣は英志の前に歩み寄り、その端正で彫りの深い顔を見下ろしながら、抑えきれない心配を口にした。
「あー……たぶん、俺たち五人、久々に集まったからつい。義姉さん、次は絶対に兄貴を見張ってますから、酒なんて飲ませませんんで!」
翼は頭を掻きながら、適当な理由をでっち上げた。
結衣は黙って英志の寝顔を見つめ、長い間、声を発しなかった。
「あの……義姉さん、車は?
兄貴の車、運転できます?」
翼はそう言いながら、手の中の車のキーを結衣に差し出した。
結衣は俯いて答えた。 「車では来ていません」
彼女はタクシーでこのクラブに駆けつけたのだ。 こんなに急いだのは、あの良い知らせを真っ先に英志に伝えるためだった。 しかし、今となっては、自分の行動がどれほど滑稽だったかを思い知らされる。
結衣がキーを受け取るのを見て、翼は素早く言った。「じゃあ俺、兄貴を車まで運びます!」
「ええ、ありがとう」
英志は背が高く、もし翼の助けがなければ、結衣一人の力では車に乗せるのは難しかっただろう。
「義姉さん、そんじぁ!」
結衣は運転席に座り、翼に頷いてから車を始動させ、交通の流れに合流した。
結衣は英志と結婚してから運転免許を取得した。 普段はほとんど車を運転せず、特に英志のような大型車は慣れていないため、道中は非常に慎重に運転していた。 そのため、彼女は後部座席の英志がすでに目を開けていることに全く気づかなかった。
実際には、結衣が個室に入ってきた時、英志の意識はすでに覚醒していた。 彼はただ声を出さず、翼と結衣に車まで運ばれるままにしていただけだ。
夜は、感情の抑えがきかなくなっていた。
昼間、紗也から電話があったからだ。
『英志、私が乗るフライトは明日着くの。 空港まで迎えに来てくれる?』
電話の向こうから聞こえてきた懐かしい声に、英志の呼吸は一瞬止まった。それから彼は声を抑えて、こう断った。
『俺はもう結婚した』
そう言って電話を切ったが、心はざわついたままだった。だからこそ、夜になって翼たちと酒を飲みすぎてしまったのだ。
二年前、彼は当時の恋人である紗也のために、汐見市中が注目する盛大なプロポーズの儀式を自信満々に準備した。 しかし、紗也本人は現れず、ただ一本の電話をかけてきて、海外でダンサーになる夢を追うと告げただけだった。
その日、丹念に飾り付けられた花畑の中に一人で立つ彼は、汐見市最大の笑い者となった。
その翌日、祖父に無理やり結衣と結婚させられた。
当時、感情に任せて衝動的に結衣と籍を入れた。この二年で、紗也のことはもう忘れたと思っていた。なのに——なぜ、たった一本の電話で、またこんなに心が乱れるんだ?
車が家の前に着いた時、結衣は英志がすでに目を覚ましていることに気づいた。
彼女は彼を見て尋ねた。 「目を覚ましたの?自分で車から降りて歩ける?」
結衣は、自分の力では背の高い英志を支えきれないだろうと感じていた。
「ああ」
英志は淡々と返事をしたが、まだ酔いが残っていて少しふらついていた。結衣は身をかがめて、彼を車から支え出した。
英志は自然と、結衣に体を預ける形になった。彼女から漂う、いつもの爽やかなミントの香りが、酔いで濁った頭をほんの少しだけ冴えさせた。
二人で別荘の中に入ると、結衣は彼をそっとソファに座らせ、自分はキッチンへと向かい、酔い覚ましを用意し始めた。
英志はソファに寄りかかり、キッチンに立つ結衣の後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。
やがて、結衣は酔い覚ましの飲み物を手にキッチンから出てきた。 ちょうど英志が眉をひそめているのが目に入った。
「これを飲んで。 少しは楽になるから」
結衣はその飲み物を彼に差し出した。
英志はそれを受け取ると一気に飲み干し、顔を上げて結衣を見た。彼女はまだその場に立ったまま、動こうともしない。
「何か言いたいことでもあるのか?」
英志が突然尋ねると、結衣の表情はわずかにこわばった。 彼女は思わず心の中で自問した。
私、何を考えてるの……?子供を使って、英志を繋ぎ止めようなんて? 二人の婚姻契約はもうすぐ期限が切れる。 これ以上、余計な面倒を増やす必要はない。
結衣はとっさに嘘をついた。
「ええと……実は、今日おじい様から電話があって、時間がある時に本家で一緒に食事をしたいとおっしゃっていたの」
「そうか、わかった。 じゃあ、明日一緒に本家へ行こう」
「ええ」
話 3
昨夜、大塚英志が酔い潰れたため、望月結衣は朝早く起きて、胃に優しい粥を用意した。
粥ができた頃、英志も目を覚ました。
「起きた?朝ごはんにしよう」
階段の踊り場に立つ英志を見て、結衣は優しく声をかけた。
英志は階下へ降り、食卓に腰を下ろして粥をすすり始めた。 二人の間に会話はなかった。
短い沈黙が流れ、気まずい空気が漂う。
ピリリ――
英志の携帯電話から、メッセージの着信音が鳴り響いた。 その静寂の中で、ひときわはっきりと聞こえる。
彼は携帯に目を落とした。
「英志、あなたが他の人と結婚するなんて信じられない。 私をわざと怒らせようとしてるの? とにかく、空港で待ってるから」
差出人は坂本紗也だった。 英志は返信することなく、携帯の画面をロックした。
二年前、紗也が汐見市を去った時、彼は彼女の連絡先をすべてブロックしたはずだ。 これは彼女の新しい番号なのだろう。
ピリリ――
また新しいメッセージが届いた。
「英志、二年前、あなたのもとを去ったのには事情があったの。 本当に、あなたのことを忘れたことなんて一度もない」
ピリリ――
「英志、もし空港に来てくれなかったら、私、ここから動かないから」
英志は携帯の画面に表示されたメッセージをじっと見つめ、唇を固く結んだ。
この番号もブロックしようとした、その時だった。 ピリリ――、飛び込んできた次の一行に、彼の指が止まった。
「英志、 あなたはご両親がどうやって亡くなったのか、 ずっと知りたがってたでしょう? 私、 手がかりを持ってる」
そのメッセージを見た瞬間、英志の表情が一変した。
彼は携帯を置き、結衣に向かって言った。 「今日は急用ができた。 じいさんのところへは行けなくなった」
結衣は一瞬戸惑った。 昨夜、レストランの個室の外で偶然耳にした会話を思い出す。 胸の奥に込み上げる苦しさを押し殺し、彼女は優しく口を開いた。
「ええ、わかったわ。 急ぎの用事なら仕方ない。 おじい様には私から説明しておくから」
英志は彼女に視線を向けた。 結婚して二年。 彼女はいつもこうして優しく従順で、彼の言うことに反論したことは一度もない。 いつも穏やかに彼の意向を受け入れる。
否定できない。彼女は良い妻だ。 友人の前では常に品行方正で、非の打ち所がない。 夫婦生活も円満だ。 だからこそ、英志は今、自分が結衣に対して抱いている感情が何なのか、自分でも分からなくなっていた。
おそらく、ただの慣れなのだろう。
ただの慣れだ。彼女がいる生活に慣れただけで、そこに“愛”はない。
紗也が去ったあの日、彼の恋愛感情はすべて、彼女に持っていかれたんだから。
紗也は、彼が少年時代から想いを寄せていた相手だった。 舞踊科でひときわ目を引く存在。 彼女もまた、彼と付き合うために少なからず努力をした。 しかし、彼がプロポーズし、一生を共にしようと決意したその時、彼女はプロポーズの場で彼を拒絶し、去っていった。
その後、飛行機に搭乗する直前、紗也からメッセージが届いた。
「英志、フランス留学のチャンスを諦めたくないの。 二年だけ、待っててくれない?」
英志は、待つということを知らない人間だった。 その翌日、彼は結衣と結婚し、それ以来、紗也と連絡を取ることは二度となかった。
……
英志が家を出てから、夜になっても帰ってこなかった。
結衣が彼の携帯に電話をかけても、誰も出ない。 何かあったのではないかと心配になり、彼女は彼の秘書に電話をかけた。
『森山さん、英志はまだ会社で残業してる?』
英志と結衣の結婚は公にされていないが、森山は結衣の正体を知っていた。
彼はすぐに答えた。 『奥様、本日は会社で残業の予定はございません。 大塚社長は午後には会社を出られました』
『……そう』
電話を切った後、ある推測が彼女の心に浮かんだ。 だが、深く考える間もなく、胃のあたりに激しい不快感がこみ上げてきた。
持病の胃炎が再発したのだ。
結衣は慌てて薬を飲み、横になって休んだ。
その夜、彼女は不安な眠りについた。 朝、目を覚ましても、部屋に英志の姿はなかった。
携帯電話にも、彼からの着信履歴やメッセージは一件もない。
胃の痛みはさらにひどくなり、周期的に激しい痛みが襲ってくる。
もう我慢できない。 結衣は車で病院へ向かうことにした。 タクシーを呼ぼうとも思ったが、彼女の住む場所では車を捕まえるのが難しく、無理を押して自分で運転するしかなかった。
しかし、途中で胃の激しい痙攣が突然襲ってきた。 結衣は自分の手が震え、ハンドルを握る力さえ入らなくなるのを感じた。
彼女はナビゲーションを見つめ、なんとか病院の近くまで車を走らせた。 結衣は歯を食いしばり、少しスピードを上げた。 だが、カーブを曲がったその時、一台の黒いセダンが突然左前方から飛び出してきた。 彼女は反応する間もなく、二台の車は正面衝突した。
「ドン!」
巨大な衝撃音と轟音が彼女の耳元で炸裂した。
彼女は一瞬にして何も聞こえなくなり、額から温かい液体が流れ落ちてくるのを感じた……
(赤ちゃん……)
半ば意識が朦朧とする中、結衣は救急車のサイレンの音を聞いた。
その中に、途切れ途切れの会話が混じっている。
「急いで!救急室へ!」
「患者は妊娠している。 流産の兆候あり。 緊急連絡先に電話を!」
「かけましたが、誰も出ません」
「……」
結衣は全身がだるく、まるで果てしない暗い深海に沈んでいくようで、何も掴むことができなかった。 耳元で時折、慌ただしい足音が聞こえるが、彼女はどうしても目を開けることができない。
結衣が再び目を覚ました時、空はすでに完全に暗くなっていた。
彼女の世話をしていた看護師は、彼女が目を覚ましたのを見て、目を輝かせた。
「目が覚めましたか?」
「ええ……私……」結衣は口を開いて、自分の声がひどくかすれていることに気づいた。 全身に力が入らず、額には包帯が巻かれている。
「今朝、病院の入口で交通事故に遭われたんです。 怪我はひどくありません。 軽い脳震盪だけです。 ただ、胃炎の発作を起こしていて、しかも妊娠中だったので、こんなに長く眠ってしまったんです」
看護師はそう言うと、携帯電話を結衣に差し出した。
「目が覚めたら、ご家族に電話してください。 緊急連絡先の方とはずっと連絡が取れないんです」
「ありがとう」
看護師は注意事項をいくつか伝えると、部屋を出て行った。 結衣は黒い画面の携帯電話に目を落とした。
通話履歴を開くと、病院から英志に何度も電話がかかっていたが、彼は一度も出ていなかった。
きっと忙しいのだろう、と彼女は思った。
結衣が携帯電話を閉じて、もう一度休もうとした、その時だった。
ある芸能ニュースの速報タイトルが彼女の目に飛び込んできた。
「【熱愛スクープ】人気舞踊家・紗也、帰国初日にお泊まり愛!お迎えは大塚グループ若き社長・英志」
パチン!
結衣の手から携帯電話が滑り落ち、床に落ちた。 その瞬間、すべての疑念と推測が確信に変わり、頭のてっぺんから足の先まで、冷たい感覚が彼女を襲った。
やはり、彼は紗也に会いに行っていたのだ。
どうりで、昨日あんなに慌てて祖父の家に行く約束をキャンセルしたわけだ。
一晩中帰ってこなかったのは、きっと彼女と一緒にいたからに違いない。 二年ぶりの再会だ。 二人はきっと……
結衣はそれ以上考えることができなかった。 彼女は身動き一つせず、虚ろな目で天井を見つめていた。 どれほどの時間が経ったのだろう。
彼女の手は、無意識のうちに自分のお腹に触れていた。 おそらく、本当に去るべき時が来たのだ。
「赤ちゃん、お母さんがあなたのお父さんの存在を教えてあげられなくてごめんなさい。 でも、お母さんは約束する。 あなたを大切に育てるわ。 あなたのお父さんの分の愛も、全部まとめてあなたに注ぐから」