1

清水瑠衣(しみず るい)は、手術の麻酔が解けていく中で、ゆっくりと意識を浮上させた。

重い瞼をかろうじて持ち上げると、視界の先、壁に掛けられたテレビから、野生動物写真コンテストの結果を告げるアナウンサーの声が静かに流れ込んでくる。

幾度となく死神の鎌をかいくぐり、ようやく掴んだ吉報。

その喜びに口元が緩みかけた、その刹那――瑠衣は息を呑んだ。

作品に添えられた署名。 そこに刻まれていたのは、夫である立川蒼空が心から愛する女――陸奥陽菜の名だったからだ。

全身の血の気が、すうっと引いていくのを感じた。

途絶えた返信。 途切れることのなかったゴシップの噂。 撮影に明け暮れたこの二ヶ月間の出来事が、点と線で繋がって脳裏を駆け巡る。

思考が追いつくより早く、枕元のスマートフォンが静寂を切り裂くようにけたたましく鳴った。

点滅する画面には、「旦那」の二文字。

高熱で意識が朦朧とする中、あれほどかけたのに、一度も繋がることのなかった番号だった。

瑠衣は震える指を伸ばし、通話ボタンに触れる。 乾ききった喉から絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。

「……どうして、私の作品が、陸奥陽菜の名前になっているの?」

受話器の向こうから聞こえたのは、その主を体現したかのように、氷のように冷たい声だった。 彼の、深い墨色の瞳に宿る、あの昏い光が脳裏をよぎる。

「あれは陽菜への、お前からの埋め合わせだ」

その一言が、瑠衣の心に突き刺さった。 「何度も説明したでしょう!あの時あなたを助けたのは、私なんだって!」

「俺は、自分の目で見たものしか信じない」

冷水を浴びせられたような衝撃。

瑠衣の唇の端に自嘲の笑みが浮かぶ。 胸にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込み、骨の髄まで凍てつかせるようだった。 瑠衣は一度、深く息を吸い込んだ。 そして、氷のような声で言い放つ。

「立川蒼空。 これは、私が命を削って撮った写真。 一枚一枚に、私の血が滲んでいるの。 それをあの女に渡すなんて、絶対に許さない」

蒼空の声には、あからさまな侮蔑が滲んでいた。 「お前の母親の医療費は、どうするつもりだ?」

あまりに脈絡のない言葉に、瑠衣はスマートフォンを握る手に無意識に力がこもり、白い指の関節が浮き出た。

言葉を出すのもやっとの状態で言った。「陸奥陽菜のために……そんなことで私を脅すの?」

蒼空はいらだちながら注意した。「忠告だ。 お前ごときに、俺に逆らう資格はない」

まるで心臓を直接握り潰されるような、鈍い痛みが胸を苛んだ。

陽菜が現れるまで、あれほど優しかった蒼空はどこへ消えてしまったのか。 あの温もりは、全て幻だったというのか。

不意に、瑠衣の唇から言葉が零れた。 「離婚しましょう」

蒼空の声が、一段と低くなる。 「清水瑠衣、お前の茶番に付き合う暇はない」

「違う、本気で……」

しかし、瑠衣の言葉は最後まで紡がれることなく、無機質な通話終了音が耳元で響いた。

切られたスマートフォンを握りしめ、瑠衣は必死に口角を引き上げようとした。 だが、その試みは虚しく、堪えきれなかった一筋の熱い雫が目尻を伝い、無力に握られた手の甲へと落ちた。

離婚してやる。

そして、私のすべてを奪ったあの女に、栄光など決して渡さない。

瑠衣は、医者の制止を振り切って退院手続きを済ませた。

自宅に戻るやいなや、陽菜が作品を盗用した証拠を一つ一つ整理していく。

これまで撮影地を飛び回った航空券の半券、膨大な数のネガフィルム。

それらは何より雄弁な証拠だった。

瑠衣はそれらをまとめ、すぐさまインターネット上に公開した。

投稿は、瞬く間に激しい波紋を呼んだ。

しかし、十分と経たずに全ての投稿は跡形もなく削除され、瑠衣のアカウントそのものが凍結されてしまった。

ウェブページに表示された「404」の無機質な文字を前に、瑠衣は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。

蒼空が、あの女のために、自分を社会的に抹殺したのだ。

凍結されたアカウントの画面を睨みつけ、一瞬、頭の中が真っ白になる。

だが、すぐに理解が追いついた。 今日は陽菜が写真界で最も権威ある賞を受賞した、その祝賀会の日。 自分がその祝宴に水を差すことを、蒼空が見過ごすはずがなかった。

その瞬間、玄関の外で車のエンジン音が響き、ぴたりと止んだかと思うと、ドアが叩きつけられるように乱暴に開け放たれた。

振り返った瑠衣の視線の先に。

彼は無言のまま大股で歩み寄り、瑠衣の腕を骨が軋むほど強く掴んだ。

嵐のような威圧感が、小さな体を飲み込んでいく。

「俺の言ったことが、もう忘れたのか」

アシスタントからの連絡があと数分遅れていれば、世論は完全に燃え上がり、陽菜のキャリアは芽吹く前に潰されていた。

だが、瑠衣はその怒りを前にしても、もう怯まなかった。 「言ったはずよ。 私の血と汗の結晶を、あなたが勝手に他人へ渡すのを黙って見ているつもりはない、と!」

彼女が、初めて見せた剥き出しの反抗だった。

蒼空の目に、一瞬だけ戸惑いの色が浮かぶ。

いつも従順で、自分の顔色ばかりを窺っていた女が、なぜ突然牙を剥くのか。

瑠衣は掴まれた腕を振り払い、自ら袖を乱暴にたくし上げた。 そこに刻まれた、生々しい無数の傷跡と、消え残る注射の痕を彼の眼前に突きつける。

「これが見える!? この一枚を撮るために、 私がどれだけのものを犠牲にしてきたか!」

「立川蒼空!あなたと対等な愛を望んだことなんて一度もない!でも、人としての最低限の尊重くらい、したっていいでしょう!」

溜めに溜め込んだ激情が、堰を切ったように迸る。

瑠衣の目尻は赤く染まっていたが、そこに涙はなかった。 ただ、燃え盛る怒りの炎だけが宿っていた。

蒼空の眼差しが、さらに険しさを増す。 彼は瑠衣を静かに見つめ、やがてその瞳に嘲りを浮かべた。 「全てお前が招いたことだろう。 嘘で始まった結婚に、何を期待していた?」

その言葉は、瑠衣の最後の強がりを打ち砕いた。 全身から、ふっと力が抜けていく。

瑠衣は力なく目を閉じた。 「……もう好きに言えばいい。 私の望みは一つだけ。 離婚よ」

蒼空は、そんな彼女を見下ろし、嘲笑うように言った。

「本気か?」

瑠衣の両手は、知らぬ間に固く握りしめられ、鋭い爪が掌に深く食い込んでいた。

実家が破産した時、自分を救ってくれたのは蒼空だった。 母の高額な医療費を肩代わりしてくれたのも、彼だ。

その事実が、瑠衣の愛に「感謝」という名の鎖を繋いでいた。

だからこそ、この数年間、どんな理不尽な仕打ちにも耐えてきたのだ。

だが、命そのものである作品まで差し出せというのは、あまりにも酷すぎる。

蒼空は瑠衣を冷ややかに見下ろしたまま、スマートフォンを取り出すと、無慈悲に言い放った。 『――ああ、俺だ。 清水瑠衣の母親の件、全ての医療行為を停止しろ』

2

電話口の向こうに誰かがいるにもかかわらず、立川蒼空の視線は針のように瑠衣を射抜いていた。

その冷たい眼差しに、清水瑠衣の瞳孔がきゅっと収縮する。 これが、蒼空が彼女に下す罰なのだと、肌を刺すように悟った。

蒼空の前では、彼女はあまりにも無力だ。

見えない鎖で締め上げられ、嘲笑されているかのような息苦しさが、波のように押し寄せては瑠衣の心身を絡め取っていく。

やがて蒼空はスマートフォンをソファに放り投げ、氷の刃のような声で言い放った。 「いつ過ちを認める?認めれば、お前の母親の治療を再開させてやる」

無数の棘が胸に突き刺さるような痛みに耐え、瑠衣は奥歯を噛みしめた。 「私は間違っていない。 絶対に認めない。 立川蒼空、あなたの非情さが、ようやく骨身に染みたわ!」

蒼空は氷のような瞳で、ゆっくりと告げた。 「お前が俺の前に跪き、許しを乞う日を待っている」

瑠衣の返答を待つでもなく、蒼空は冷ややかに言い捨てると、彼女に背を向け部屋を出ていった。

彼が戻ってきてから、まだ十分と経っていない。 だが、そのあまりに短い時間は、彼女に確かな絶望を刻みつけた。

糸が切れたようにソファに崩れ落ち、瑠衣の顔から血の気が引いていく。 絶望が全身を蝕む。

だが、その暗闇に沈みきる寸前、「母の治療費」という言葉が彼女を現実に引き戻した。 そうだ、ぐずぐずしている時間はない。 病院へ行かなければ。

父の会社が倒産し、父自身も失踪した後、母は自ら命を絶とうとした。

幸い一命は取り留めたものの、植物状態となり、残りの人生は高額な医療機器なしでは維持できない体になってしまった。

瑠衣は病院へ駆けつけると、真っ先にカードの有り金をすべて引き出し、当座の治療費に充てた。

結婚してからの三年間、彼女は働きづめだった。

だが、口座の残高は、わずか三ヶ月分の医療費にも満たない。

この歪んだ結婚生活から抜け出すには、まず経済的に自立し、蒼空の助けを一切必要としない自分にならなければ。

藁にもすがる思いで、瑠衣はひとつの番号をタップした。

「田中さん、お願いしたいことがあるんです」

相手は、彼女のマネージャーのような存在である田中静香だ。

ここ数年、野生動物写真家として少しずつ名を知られるようになった瑠衣の仕事を、静香は公私にわたって支えてくれていた。

電話口の静香は瑠衣の苦境に深く同情し、全力で助けると力強く約束してくれた。 人脈の広い彼女なら、きっと突破口を見つけてくれるはずだ。

午後七時。

瑠衣は車を走らせ、景瑞ビルに到着した。

静香が、今回のコンテスト主催者との面会を取り付けてくれたのだ。

傍らのハンドバッグには、陸奥陽菜に作品を盗用されたことを証明する、すべての証拠が収められている。

瑠衣はエレベーターで22階へ向かい、2203号室のドアをノックした。

やがてドアが開き、だぶついた腹を揺らしながら、見るからに脂ぎった中年男が入ってきた。

瑠衣は礼儀正しく頭を下げる。 「はじめまして、佐藤社長。 今回のコンテストに参加させていただいております、清水瑠衣と申します。 私の作品が盗用された件で、ぜひ社長のお力添えをいただきたく参りました。 田中静香から話は伺っておりますでしょうか」

佐藤寛は、品定めするような粘ついた視線を瑠衣の全身に這わせた。 「ほう、あなたが噂の清水カメラマンですか。 これほどお若く美しい方が、あんな危険な場所で撮影とは、ご苦労なこった」

「この美貌に、この繊細な手……ネイチャーフォトなんざ、まさに宝の持ち腐れですな」

言いながら、その脂ぎった手がぬるりと伸びてくる。

瑠衣の笑みが凍りつく。 彼女は反射的に身を引き、その手が触れる寸前でかわすと、用意していた資料を押し付けるようにして手渡した。

「佐藤社長、まずはこちらの証拠をご覧ください。 主催者でいらっしゃる社長でしたら、私達のように命懸けで記録を撮る写真家の気持ちを、きっとご理解くださると信じております。 わたくしは、ただ公正な判断を求めているだけなのです」

寛は資料をテーブルに叩きつけ、口の端を醜く歪めてせせら笑った。

「清水瑠衣さん、あんた本気でこんなおままごとみたいなことを考えてたのか?何の対価もなしに、この俺がいわゆる『公平な正義』のために、あの立川社長を敵に回すとでも?」

瑠衣は表情を変えぬまま拳を握りしめる。 鋭い爪が掌に食い込む痛みで、かろうじて平静を保っていた。

「お金でしたら、問題は……」

だが、彼女が言い終わる前に、寛の嘲笑がそれを遮った。

彼は心底から侮蔑するように言い放つ。 「あんた、立川蒼空があの業界でどういう存在か、知らないわけでもあるまい?」

瑠衣の張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

蒼空の地位を知らないはずがない。

わずか五年で立川グループを頂点に押し上げ、今やその規模は、東京広しといえど新井グループに次ぐのみ。

「だが、まあ、その美貌に免じて、あんたが俺と一晩じっくり『お付き合い』してくれるなら、話は別だがな」

寛が卑しい笑みを浮かべ、その重い体で覆いかぶさってくる。

脂の臭いが鼻をついた、その刹那――。 バタン、と乱暴にドアが開け放たれる。 次の瞬間、伸びた影と、しなやかで力強い脚による一閃。 巨体が宙を舞い、壁に叩きつけられる鈍い音が響いた。

何が起きたのか分からず、瑠衣はドアへと視線を投げた。 逆光の中に立つ、長身の人影。 その人物が誰なのかを認めた瞬間、彼女は息を呑んだ。

新井湊……?

立川蒼空の、宿敵。

彼が、なぜここに……?

3

腹部を押さえ、呻きながらゆらりと身を起こした佐藤寛が、憎々しげに吐き捨てる。 「どこのどいつだ、命知らずにもこの俺様に手ぇ出しやがって。 ぶっ潰して……」

しかし、その罵詈雑言は不自然に途切れた。 視線の先に立つ男が新井湊だと認識した瞬間、まるで氷水を浴びせられたかのように凍りつき、わなわなと震えだしたのだ。

さっきまでの威勢が嘘のように萎み、彼はへこへこと湊に駆け寄ると、卑屈な笑みを顔に貼り付けた。

「これはこれは新井社長! 一体どのような風の吹き回しで?」

その変わり身の早さは、もはや滑稽ですらあった。

湊はそんな男をまるで路傍の石でも見るかのように一瞥もくれず、ただ冷淡な視線で清水瑠衣を捉えている。

「失せろ」

氷のように冷たい声で湊はただ一言そう告げた。 「は、はいっ! ただちに失礼いたします!」

寛は這う這うの体で部屋を飛び出していく。 男が去った個室には、

重たい沈黙が二人を隔てる壁のように横たわっていた。 どちらも口を開かず、 張り詰めた空気の中では、 自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

この男の真意が読めず、瑠衣は探るように言葉を紡いだ。 「先ほどは……お助けいただき、ありがとうございました、新井社長」

湊は無造作に、しかしどこか優雅な仕草で椅子を引き、静かに腰を下ろすと、瑠衣がテーブルの上に揃えていた資料へふと目を落とした。

「いえ、お気になさらず」

感情の読めない平坦な声。 彼がゆっくりと資料をめくるその掴みどころのない態度に、瑠衣の胸中は戸惑いの霧に包まれるばかりだった。

立川蒼空の妻である自分。 業界の者なら誰もが知るこの関係性を、

そして、 その最大の宿敵である新井湊。この男は気まずいとは思わないのだろうか。

この重苦しい空気を振り払うように、瑠衣は小さく咳払いをした。 「新井社長、申し訳ありません。 急用を思い出しましたので、本日はこれで。 このご恩は、日を改めて必ず」

言い終わるやいなや、彼女は資料を抱え、逃れるように席を立とうとした。

しかし、その動きは、骨張った長い指に阻まれた。 湊の手が、彼女より一瞬早く資料の上に置かれていたのだ。

彼の左手小指で、金色のピンキーリングが照明を受けて閃光を放った。 砕氷を思わせるダイヤモンドの輝きの中に、小さなアルファベットが刻まれているのが見て取れたが、それが何という文字なのかまでは判然としない。

湊は顔を上げ、深く、すべてを見透かすような眼差しで彼女を見つめた。 「清水さん、私はあなたの写真家としての才能を高く評価している。 私の会社に興味はありませんか?」

思わぬ言葉に、瑠衣は思わず息を呑み、訝しげに湊を見つめ返した。

「ですが、私の立場はご存じのはずです。 立川蒼空と、社長は……」

「私の評価対象は、あくまで写真家としてのあなたの才能。 それ以外の何かが、仕事に関係するとでも?」

とん、と湊は指先で資料を軽く叩いた。

「もし同意してくださるなら、明日にも弊社へ。 その際には、あなたに満足してもらえるだけの入社祝いも用意しますよ」

瑠衣の思考は、まるで嵐の中の小舟のように揺れていた。

なぜ、この男が自分に手を差し伸べるのか。 いくつもの疑問符が頭の中を駆け巡るが、答えは見つからない。 逡巡の末、彼女は意を決して口を開いた。

「新井社長……大変申し訳ありません。 せっかくのお申し出ですが、今回はお断りさせていただけますでしょうか」

湊の問いは、短く、鋭利な刃物のように核心を突いていた。 「立川蒼空が、理由ですか?」

その瞬間、なぜか再び、彼の指輪に刻まれたアルファベットが瑠衣の網膜に焼き付いた。

それは、小さな「s」の文字に見えた。

「いえ、違います」

立川蒼空の名を聞いた途端、瑠衣の瞳から戸惑いの色が消え、氷のような冷たさと、隠しようもない嫌悪が浮かび上がった。

湊の視線は凪いだ湖面のようでありながら、底知れぬ冷たさを湛えている。

長年、業界の頂点に立ち続けた者だけが放つ。

絶対的な威圧感。

ただ椅子に腰かけているだけなのに、 その存在は瑠衣の呼吸さえも圧迫するようだった。抗いがたいプレッシャーの中、 彼女は本音とも建前ともつかぬ言葉を絞り出した。

「私はただの写真家でして、もう何年も組織というものから離れております。 ですので、新しい環境に順応できる自信がございません」

その答えを聞いた湊の唇に、 初めてと言っていいほどの微かな笑みが浮かんだ。 まるで全てお見通しだと言わんばかりに、

珍しく言葉を続ける。

「組織に馴染む必要などありません。 あなたには、あなたの得意なこと――好きなことを続けてもらえばいい。 新井グループでは近々、公益CMの撮影を予定していましてね。 あなたのレンズが、いかに巧みに人の感情の機微を捉えるか、私はよく知っています」

瑠衣は唇を固く引き結び、沈黙の中で思考を巡らせた。

ここ数年、個人スタジオを運営してきた。

不安定さと引き換えに、何物にも代えがたい自由があった。

一度契約を結べば、その自由は失われる。

だが、その自由も、立川蒼空という名の重圧と、日に日に嵩む母の治療費の前では、もはや風前の灯火だった。

そして、目の前にいるこの男こそが、増長する蒼空を止められる唯一の切り札かもしれないのだ。

瑠衣の葛藤を見抜いたかのように、湊は絶妙な間で言葉を継いだ。

「なんなら、あなたのスタジオに私が個人として投資する形でも構いません。 そうすれば、あなたは引き続きオーナーとして、今の自由を保てる」

もはや、断る理由はどこにもなかった。 彼が提示したのは、そういう条件だった。 だからこそ、拭えない疑念が心をよぎる。

「新井社長、一つだけお伺いしても? なぜ、私なのでしょうか。 新井グループほどの企業なら、腕の立つ写真家など綺羅星のごとく集まるでしょう。 その中で、なぜ私を?」

一瞬の逡巡ののち、瑠衣は覚悟を決めたように、まっすぐに湊を見据えた。

「もし、社長が私と立川蒼空との関係を考慮されてのことでしたら、今ここではっきり申し上げておきます。 私たち夫婦は、すでに離婚に向けて準備を進めておりますので」

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清水さん、お元気でしたか。元夫の天敵に三年越しで溺愛されています

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