話 2
電話の向こうは三秒ほど沈黙し、やがて軽やかな笑い声が響いた。
「もちろん」
陸聞昭は興味深そうに内容を尋ねたが、林見微が事の次第を説明し終えると、彼は沈黙した。
この案件を受けたくないのだと、林見微は思った。彼女は力なく電話を切ろうとした。
その時、予期せず陸聞昭が言った。「お辛かったでしょう」
その一言で、林見微はもう耐えきれず、口を押さえて泣き崩れた。
葉梵舟を八年間愛してきた。その想いは、あまりにも無惨に踏みにじられたのだ。
彼女が泣きやむのを待って、陸聞昭は咳払いを一つしてから言った。「林さん、この案件、お引き受けします。一月後に帰国し、あなたの上訴をお手伝いします。なるべく早く証拠をこちらへお送りください」
彼女はすぐさま交通警察に連絡し、映像の提供を求めた。その時、背後から氷のように冷たい声が響いた。
「何の証拠だ?」
葉梵舟が、いつの間にか背後に立っていた。彼の視線は骨の髄まで凍らせるほど冷たく、林見微は慌てて電話を切った。
言い訳を探そうとしたが、それより早く、葉梵舟が抑えきれない怒りを込めた声で言った。
「梨霧はまだ若い。少し酒を飲んで、誤ってお前の母親をはねてしまっただけだ。すでに100億円は支払ったはずだ。普通の老人がはねられて死んでも、賠償金はせいぜい2000万円だ。林見微、いい加減にしろ。お前は儲けた方だろう」
儲けた?
林見微は信じられない思いで、氷のような表情の男を見つめた。心臓をえぐり取られるような痛みが走る。
葉梵舟の心の中では、葉梨霧以外の人間は、すべて金で勘定できる商売道具に過ぎなかったのだ。
妻も、そしてその母親でさえも。
林見微は涙の滲む目で彼を睨みつけ、震える声で問い詰めた。「葉梨霧は本当に、うっかりだったと? 人をはねたとわかっていながら、母が息絶えるまで何度も車で轢き続けたのよ。 これが殺人じゃなくて何だと言うの!? 彼女は自分の犯した罪を償うべきじゃないの!?」
彼女には理解できなかった。なぜ葉梵舟は、葉梨霧を庇うためなら、これほどまで臆面もなく白を黒と言いくるめられるのか。
ただ、愛しているというだけで?
葉梵舟は眉を深くひそめ、切れ長の目に冷たい光を宿した。彼の忍耐は、尽き果てたようだった。
林見微は自嘲気味に笑った。そうだった。八年間の交際中、葉梵舟が彼女に忍耐強くあったことなど一度もなかった。いつも、彼女が三言目を発する頃には、彼は背を向けて去っていた。
また去っていくのだと林見微が思った、その時。彼は不意に一歩踏み出し、無表情に言った。「林見微、もう一度だけチャンスをやろう」
言い終えると、彼は手招きし、ボディーガードが恭しくスマートフォンを差し出した。
画面に映し出されたのは、植物状態となって久しい父の姿だった。殺風景な病室に、黒服の男たちが立っている。
リーダー格の男がリボルバーを握り、その黒い銃口は、父の頭に向けられていた。
地獄から響くような、葉梵舟の冷え切った声が聞こえる。「お前の父親か、訴えの取り下げか。どちらか選べ」
全身を悪寒が駆け巡り、血の気が引いた。全身の血液が瞬時に凍りつく。林見微は絶叫した。「葉梵舟、それでも人間なの!? 父はあなたの命の恩人でしょう!!!」
林見微は、父が葉梵舟を救った日のことを決して忘れられない。
七年前、葉梵舟は彼女の恋人になることを承諾し、林家を援助してくれた。だが、林家はすでに破綻寸前で、立て直す術はなかった。
葉梵舟に感謝するため、父はプライドを捨て、彼の運転手になった。
そして彼が誘拐された時、父は命を懸けて彼を救い出し、誘拐犯に五十五カ所も切りつけられたのだ。
血まみれの父を見て、林見微は泣き崩れた。しかし父は最後の力を振り絞り、彼女の手を葉梵舟の手に重ね、途切れ途切れにこう言ったのだ。「娘よ、父さんはお前のために葉社長を助けたぞ……父さんにはわかる…… 葉社長に何かあったら、お前が悲しむだろうから……」
その日、林見微は胸が張り裂けるほど泣いた。葉梵舟は父に免じて、初めて彼女の手を振り払わなかった。
以来、葉梵舟は父の医療費をすべて負担し、たとえ彼女を愛していなくても、生涯父の面倒を見ると約束してくれた。
だが、彼はその約束を破った。かつての言葉を忘れたのだ。
葉梨霧のためなら、彼は父を、自らの命の恩人さえも殺そうとしている。
林見微は怒りで全身が震え、歯の根が合わなかった。「葉梵舟、忘れたの?父が植物状態になったのは、あなたを助けたからだということを!」
事実を目の前にしても、彼女は葉梵舟が葉梨霧のために、ここまで非情になれるとは信じられなかった。
葉梵舟は答えず、示談書を彼女の前に突きつけ、冷たく二文字を吐き捨てた。「サインしろ」
動画の中では、ボディーガードがすでに引き金に指をかけていた。
もし今日サインをしなければ、葉梵舟は本当に父を殺すだろう。林見微はそう予感した。
彼女はふと笑った。その瞳には、深い絶望の色が浮かんでいた。「いいわ、サインする」
(陸聞昭がいる。たとえ示談しても、再び上訴できるはずだ)
望み通りになった葉梵舟は、示談書をしまうと立ち去ろうとした。だが、林見微が彼を呼び止めた。「葉梵舟……」
しかし、彼は無情にも言葉を遮った。「急用がある。まとわりつくな。お前に付き合っている時間はない」
林見微は胸が詰まった。なぜ彼は、今になってもまだ、自分が彼を愛していると思い込んでいるのだろう。
しかも、彼の言う「急用」とは、たった今、葉梨霧から送られてきたスタンプ一つのことなのだ。
林見微は胸の痛みをこらえ、離婚協議書を最後のページまでめくると、静かに言った。「100億円じゃ足りないわ。もっと欲しいの。この書類にサインして」
葉梵舟は腕時計に目をやると、走り書きでサインをした。
林見微は静かに尋ねた。「何にサインしたか、見なくていいの?」
「必要ない」 男の声は、相変わらず冷え切っていた。
林見微は力なく笑った。そう、彼女のことなど、彼はこれまで一度たりとも気にかけてくれたことはなかった。
黙って彼が去っていくのを見送っていると、ドアに手をかけた男が不意に振り返った。「今日、法律事務所に行ったそうだな。無駄な足掻きはやめろ。お前の案件を受ける者など、どこにもいない」
葉梵舟は知らない。彼女が法律事務所へ行ったのは、離婚協議書を印刷するためだったことを。彼がたった今サインした、その書類を。
林見微は彼の警告を意に介さなかった。だが、交通警察に連絡して、彼女は葉梵舟の言葉の意味を悟った。
彼は特権を使い、すべての証拠を消去していたのだ。
葉梨霧を守るためなら、彼はどこまでも周到だった。
林見微は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。そんな時に限って、腹の子が激しく動き、吐き気がこみ上げてくる。
彼女の目に、決意の光が宿った。中絶の予約を入れよう。
その直後、医師から電話があった。「申し訳ありません、林さん。あなたの体は今、中絶手術には適していません。もし無理に行えば、深刻な後遺症が残り、二度と妊娠できなくなる可能性が高いです」
電話を切り、林見微はそっと腹を撫でた。
(中絶はやめよう。葉梵舟のせいで、これからの自分の人生を台無しにはできない。
大丈夫、一人でもこの子は育てられる)
(葉梵舟、離婚したら、この子は私だけのもの。あなたとは、もう何の関係もない!)
その時、陸聞昭から電話がかかってきた。
「林さん、もし犯行時の録音データが手に入るなら、全力で起訴します」
話 3
陸聞昭の言葉を聞き、林見微は涙を拭った。
たとえ僅かな希望であろうと、母の無念は必ず晴らさなければならない。
電話を切ると、彼女は署名を終えた離婚協議書をスキャンし、陸聞昭に送信した。
一ヶ月の冷却期間が過ぎれば、葉梵舟との関係も完全に終わる。
三日も眠れず、頭が割れるように痛む。林見微がようやくベッドに横になると、庭から聞こえる甲高いおしゃべりで起こされた。
使用人たちが集まって彼女の噂話をしているのだ。
この葉家では、夫である葉梵舟が彼女を愛していないため、使用人たちまで彼女を侮っていた。彼女たちが集まっては、旦那様に愛されていない、男を誘惑する卑しい女だ、と囁き合う……。そんな言葉を、林見微はこの八年間、聞き飽きるほど聞いてきた。
かつて泣きながら葉梵舟に訴えたこともあったが、彼は全く意に介さず、取り合おうともしなかった。その態度を見て、使用人たちの態度はさらにエスカレートし、今では面と向かって女主人を嘲笑うことさえある。
林見微は苛立ちを覚え、窓を閉めようと立ち上がった。だが、耳に飛び込んできた言葉に、その場で凍りついた。
「奥様、本当にお気の毒だわ。梨霧お嬢様が奥様のお母様を死なせたというのに、若様はまだお嬢様の味方だなんて」
年配の使用人が気のない声で応じる。「若様がお嬢様を贔屓なさるのは今に始まったことじゃないわ。学生の頃から、もう夢中だったもの」
「じゃあ、どうして奥様と結婚したのかしら?」
二階の部屋で、林見微は息を殺した。心臓が狂ったように高鳴る。その答えを、彼女自身も知りたくてたまらなかった。
使用人はため息をついた。「倫理的な問題があったからよ。若様は奥様を『隠れ蓑』にするしかなかったの。それにしても奥様は愚かね。若様が出張のたび、リビングでただひたすら待ち続けて……。まさかその若様が、海外で梨霧お嬢様とよろしくやっていたなんて、夢にも思わないでしょうね……」
林見微は立っていることさえできず、窓から崩れ落ちそうになった。
毎年、葉梵舟は一年の大半を家から空けていた。あれはすべて、葉梨霧に会うためだったのだ。
ふと、彼のシャツの襟に口紅が付いていたことが何度かあったのを思い出した。泣きながら「外に誰かいるの?」と問い詰めた自分に、
葉梵舟は目もくれなかった。結局、自分で自分をなだめ、彼を信じよう、つまらないことで彼を煩わせてはいけない、と言い聞かせてきたのだ。
まさか、あの時の嫌な予感は本物だったなんて。
そして、自分が葉梵舟と葉梨霧の背徳的な関係を続けるための、ただの隠れ蓑だったとは。
信じていた愛情が、最初から最後まで、偽りと利用でしかなかった。
(葉梵舟、どうして……。あなたにそんな権利があるの?)
林見微は壁に寄りかかり、声にならない嗚咽を漏らした。
あっという間に母の葬儀の日が来た。林見微がすべてを取り仕切り、祭壇は母が最も愛した百合の花で埋め尽くされている。
参列者が揃った頃、ようやく葉梵舟が遅れて姿を現した。そして彼の後ろに続く人影を見て、林見微は絶句した。
――葉梨霧だ。
燃えるような真紅のドレスをまとった彼女は、その身のこなしのすべてから傲慢さを滲ませていた。
葉梵舟は林見微に挨拶ひとつせず、葉梨霧の手を引いて焼香台へと向かう。
「出ていけ!」林見微は二人の間に割って入り、葉梨霧を突き飛ばした。
香炉の灰が手にかかり、葉梨霧は甲高い悲鳴を上げて葉梵舟の胸に飛び込んだ。
「おじ様、痛い!おば様が……私をいじめるの」 そう言うと、堰を切ったように泣きじゃくる。
涙に濡れた可憐な少女の姿に、葉梵舟は怒りを込めて林見微を睨みつけた。「梨霧は君の母上のため、わざわざ弔問に来てくれたんだぞ。それなのに君は彼女を傷つけた!林見微、今すぐ梨霧に謝罪しろ!」
林見微は呆然と彼を見つめた。自分の耳がおかしくなったのではないかと疑った。
葉梵舟は、母の祭壇の前で、母を死に追いやった張本人に謝れと言っているのだ。
だが、彼がこれまで葉梨霧にしてきたことを思えば、それも不思議ではないのかもしれない。
彼が誰かを愛する時、それはこれほどまでに無条件なのだ。
「ええ、わかったわ。謝る」
彼女があっさりと応じたことに、葉梵舟は虚を突かれたようだった。
林見微は彼を無視し、まっすぐ葉梨霧へと歩み寄る。葉梨霧の目に、一瞬だけ得意げな光が宿った。
次の瞬間、林見微は葉梨霧の膝裏を思い切り蹴り上げた。不意を突かれた葉梨霧は、為すすべなく膝から崩れ落ち、その体はちょうど位牌の方向を向いていた。
「葉梨霧!母に謝るべきなのは、あなたよ!」
林見微は彼女の頭を押さえつけて土下座させようとしたが、葉梵舟に強く腕を掴まれ、引き剥がされた。
その途端、それまでか弱く泣いていた葉梨霧の表情が豹変した。
「死に損ないの婆さんじゃないの。早く死んでせいせいしたわ、感謝してほしいくらいよ!おじ様に言われなければ、誰がこんな所に来るもんだと思って?」
言うが早いか、彼女は狂ったように祭壇の物を手当たり次第に破壊し始めた。
その一部始終を、葉梵舟は冷ややかに見つめているだけだった。
林見微は彼に腕を掴まれたまま、何もできずにその光景を見ているしかなかった。
やがて葉梨霧が母の骨壷を手に取った時、林見微の心臓は胸から飛び出しそうになった。
「やめて!」
彼女は葉梵舟に必死に懇願した。「お願い、彼女を止めて、お願いだから……!」
葉梨霧は残忍な笑みを浮かべると、骨壷を逆さまにし、中の遺灰をあたり一面に撒き散らした。
白い粉塵が宙を舞う。林見微は絶望に泣き叫びながら、冷酷な傍観者を憎悪の目で見つめた。「葉梵舟……!」
彼女が言い終わる前に、葉梨霧がその骨壷を彼女の頭に振り下ろした。
「この売女!あんたがおじ様と結婚さえしなければ、あんたの母親は死なずに済んだのよ!」
頭に激痛が走り、生温かい液体が額を伝う。
間髪入れず、二度目の打撃が加えられた。今度はさらに容赦がない。
「母親が死んだんだから、あんたも死ねばいいのよ!」
林見微の体が崩れ落ちたその瞬間、ようやく葉梵舟は彼女の腕を離した。
薄れゆく意識の中、彼女の目に映ったのは、夫が愛おしそうに葉梨霧の手を取り、骨壷の破片で怪我をしていないかと何度も確かめている姿だった。
彼は、最初から最後まで、一度たりとも林見微に目を向けることはなかった。