話 2
桜井芽衣 POV
数日ほど静養した後、私は馴染みのリユースショップの担当者に連絡し、手持ちの服やバッグ、アクセサリー類をすべて手放すことにした。
「奥さま、桜井社長はほんとに優しい方ですね。昨日、今季の新作をまとめて注文されたばかりなのに、今日にはもう衣装部屋を空けるなんて……」
そんな言葉を聞きながら、私はただ静かに微笑んだ。スマホの画面を指先で滑らせていくと、藤原寧々のSNSが表示された。投稿されたばかりの写真には、まさに今季の新作バッグが映っている。
「ええ、そうですね。彼は『最新品』が誰にふさわしいか、よくわかってますから」
――どうやら、新しい「持ち主」は、もう決まったようだ。
業者を見送ったあと、私は親友の佐藤ことりを誘って「一つ付き合って」とだけ伝え、車を出した。目指したのは、郊外の静かな丘にある霊園だった。
車が霊園の前で止まったとき、ことりは驚いたように私を見る。
「……ここって、墓地じゃないの?」
私は何も言わず、彼女の手を取って管理棟へと向かった。
受付では、丁寧な対応のスタッフがパンフレットと区画図を渡してくれた。
案内を受けながら、私は樹木葬エリアを中心に見学した。桜の木の下、陽当たりのいい場所にある一角がなんとなく気に入って、そこに決めた。そして、その場で仮契約と内金の支払いも済ませた。
私には、もう身寄りがいない。両親は数年前に他界し、兄弟もいない。亡くなったあと、誰かがお墓を訪れることもないだろう。
だったらせめて、自分の最期くらいは自分で準備しておこうと思ったのだ。
……今まで、蓮が稼いできたお金を私はあまり使おうとしなかった。彼のためにと遠慮して、贅沢もそこそこにしてきた。だけど、ようやく「使ってもいい」と吹っ切れたときに、それが自分の墓になるなんて。
――男に尽くす人生なんて、本当に馬鹿らしい。
スタッフに「墓所名義のお名前をお願いします」と言われ、私は迷いなく書き込んだ。
「桜井芽衣(旧姓:遠山)です。自分のために見に来たんです」
驚いた様子の職員と、目を丸くしたことり。その視線を気にも留めず、私は静かに手続きを終えた。
霊園を出たあと、ことりが運転席で怒鳴るように言った。
「芽衣!どういうこと!?なんで自分のお墓なんて見に来てんのよ!?」
その声には、焦りと不安、そして深い恐怖がにじんでいた。彼女は、私が消えてしまうことを本気で恐れている。
私はぼんやりとした目で窓の外を見ながら、淡々と答えた。
「膵臓がん。ステージ4なの。もう……余命、一ヶ月だって」
それはまるで、天気でも話すかのような平静さだった。
本当は、一人で来るつもりだった。
でも――こんなことを一人で抱えていると、あまりにも寂しすぎると思った。
それに、ことりには私の最期をきちんと見届けてもらいたかった。そう思った。
ことりの目に涙が浮かんでいるのを見て、私はふと、少しだけ嬉しくなった。
――ねぇ、蓮。
あなたはもう、私のことなんて何とも思ってないかもしれないけど……
それでも、まだ私を大切にしてくれる人が、ちゃんといるのよ。
しかしその瞬間、腹部を激しい痛みが襲った。
冷や汗が滲み、私は座席に身を倒しながら息を詰めた。
ことりはすぐに「病院に行こう!」と叫んだが、私はかすれた声で「……家に帰りたい」と頼んだ。
怖かった。無機質な病院のベッドも、機械音だけの孤独な空間も。そこで最期を迎えるのが、どうしても嫌だった。
ことりを心配させないように必死に意識を保っていたが、ついに限界がきて、私はそのまま意識を失った。
ぼんやりと意識が戻りかけたとき、隣で誰かが叫んでいるのが聞こえた。
「桜井蓮!あんたって人は……!今すぐ帰ってこい!この最低男!」
ことりの怒鳴り声だった。
蓮が家に戻ったとき、ことりの姿はもうなかった。
私は一人、ソファに座って、両手で湯呑みを握っていた。
たった数日で、すっかり痩せてしまった。以前はちょうどよかった服も、今では身体の上でぶかぶかしている。
――この病気は、本当に人を蝕んでいく。
「また何の茶番だ?いい加減にしてくれ。俺がどれだけ忙しいか分かってるのか?」
蓮は苛立ちを隠さずに眉をひそめた。
私は何も言い返せなかった。
そのとき、再び玄関のドアが開く音がした。入ってきたのは藤原寧々で、手には果物の入った袋を提げている。
私が何か言う前に、彼女の方から急いで口を開いた。
「奥さま、私が無理に来たんです。午後、桜井さんと街で買い物してたときに、あなたが倒れたって聞いて……心配で……」
――つまり「忙しかった」って、愛人とデートしてたってこと?
私は鼻で笑った。
「何その態度……!」
蓮の眉間にシワが寄る。「芽衣、お前、いつからそんな礼儀知らずになった?」
「あなたの『礼儀』って、妻を裏切って外で浮気すること?」
私の冷たい一言に、彼は言葉を失った。
「奥さま、ごめんなさい。全部私が悪いんです。桜井さんを責めないでください……」
藤原寧々の声は泣きそうに震えていたが、その表情にはどこか勝ち誇ったような余裕がにじんでいた。
「ご迷惑ですよね……今すぐ帰ります」
その瞬間、蓮が怒鳴った。
「俺も一緒に行く!こんなヒステリックな女がいる場所なんて、もう家じゃない!この家も、そろそろ『新気分』にしないとな」
怒りに満ちた蓮の表情を見た瞬間、私はふと、引っ越してきた初日を思い出した。
あの日、彼は私の手を引いて、家の隅々を一緒に回ってくれた。
ソファに並んで座りながら、彼は言っていた。
――「お前がいる場所が、俺の帰る家だ」
それなのに、今の彼は「ここは家じゃない」と言い捨てた。
私は湯呑みを握りしめ、視線を落としたまま、必死に涙を堪えた。
蓮は彼女の手を取り、部屋を出ていこうとする。
だが、そのとき、電話の着信音が鳴った。彼は数秒ためらったのち、スマホを持ってベランダに出ていった。
蓮の姿が見えなくなると、藤原寧々の表情が一変した。
ふっと肩の力を抜き、書棚の方へ歩み寄ると、私が大切にしていた詩集を一冊引き抜いた。
「この詩集、蓮さん『古臭い』って言ってたわよね。そろそろ新しいのに変えたら?って」
私は眉をひそめた。――どうしてそれを……?
「まさか、私が初めて来たと思ってる?」
彼女は微笑みながら、部屋の中を見渡した。
「このソファも、キッチンも、書斎も、そして……あなたたちのベッドさえも。私はあなたが思ってる以上に、この家のことをよく知ってるわ」
氷水を頭から浴びせられたような感覚。私はその場で凍りついた。
この家の家具はすべて私がこだわって選んだもの。
でも今は、それらすべてが吐き気を催すほどに汚らしく見えた。
「そうそう、書斎の椅子、もう変えた?あれ、ちょっと座り心地悪かったのよね……」
――もう耐えられなかった。
私は手を振り上げ、彼女の頬を打った。
パチンという音が室内に響く。藤原寧々の頬が真っ赤に腫れ上がる。
彼女はかすかに笑みを浮かべた後、突然しゃくりあげるように泣き出した。
「奥さま……ごめんなさい……次はもうしませんから……」
その直後、荒々しい力が私を突き飛ばした。
「芽衣、お前また何してるんだ!?」
話 3
桜井芽衣 POV
蓮は藤原寧々をしっかりと腕に抱き寄せた。声を出そうとしたけれど、喉の奥が締めつけられ、何も言葉にならなかった。
涙が頬をつたう頃には、もう彼の背中は遠ざかっていた。私は、どうしても今の彼を、あの十八歳の少年と重ねることができなかった。雪の中を駆けてきたあの背中と、今、冷たく去っていく背中が、視界の中で重なり、引き裂かれる。
――あの日、雪が降る駅前で「ずっと一緒に白髪になるまで」と笑ったあの人とは、もうまるで別人だ。
「……芽衣、もしお前が本当に死にそうだったとしても、俺は同じことを言うと思うよ」
彼は一度も振り返らず、そう言い残して出ていった。
「死んでくれるなら、やっと静かになる。だったらさっさと死ねばいい」
その瞬間、全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
……ああ、この人、本気で私が死ぬことを願ってるんだ。
それからというもの、蓮は二度と家に戻ってこなかった。私ももう、何も期待していなかった。
遺品整理リストを作り、遺影用の写真を撮り、最期に着る服を買いに行った。
写真屋では、数ある写真の中から、少し横を向き、遠くを見つめる一枚のモノクロ写真を選んだ。もう二人で写る必要はない。私だけの旅立ちだ。
数日後、写真屋の店主から「現像できましたよ」と連絡を受け、私は受け取りに向かった。
帰ろうと角を曲がったところで――蓮と藤原にばったり出くわした。
「……何してる。まさか俺を尾行でもしてるのか?」
くだらない言い合いはしたくなかった。腹の奥がまた疼きはじめていて、私はただその場を去りたかった。
「桜井さん、奥さま、写真を撮りに来たみたいです」
藤原がそう言って、私の手元にある封筒に手を伸ばそうとした。私は思わず一歩引いた。
「奥さま、見られたくないみたいですね。そんなに秘密にして……もしかして、何か隠してるんじゃ?」
彼女の声音は一見控えめで、けれど含みをもったその言葉に、蓮が目を細めた。視線が私の腕の中の写真フレームへと向かう。
「何を隠してる?」
痛みがどんどん強くなる。それでもここで立ち去ることだけを考えていたのに、蓮が私の手首をぐっと掴んだ。
その瞳にあるのは、かつての優しさではなかった。あるのは――嫌悪と疑念。
でも、私はもうその目に傷つくような女ではなかった。
「別に……あなたには関係ないことよ」
私は静かに彼の手を振りほどこうとしたが、彼は封筒を掴んで離さなかった。その拍子に写真フレームが落ち、袋から滑り出た中身が地面に、表向きで露わになった。
――私の遺影。モノクロの、静かな顔。蓮の驚愕に凍りついた顔と、陽の下で鋭いコントラストを描いた。
「……え? これ……白黒写真?」
藤原が驚いたように言う。けれど、彼女の唇はわずかに笑っていた。
私はただ、その写真を見つめた。
――やっぱり、見られてしまったか。
彼は、これを見て後悔するだろうか。こんなにも冷たくしたことを、少しでも悔やむだろうか。
「これが……お前の『隠し事』か?」
冷ややかな声が響いた。
蓮の顔には、一切の哀しみも、動揺もなかった。あるのは、ただ冷酷な静けさ。
「……今度は本気で死ぬつもりか?よくもそんな芝居を……!」
かつて、私が咳をしただけで心配で眠れなかった人が――今の彼は、私の死すら「芝居」だと疑っている。
私はふと、笑ってしまった。
「ダメかしら? 少しくらい後悔するあなたの顔、見てみたかったの」
「じゃあ勝手に死ねよ」
そう言い捨てて、彼は私を突き飛ばし、振り向くこともなく歩き出した。
その瞬間、もう限界だった。私は崩れるように地面に倒れた。
「奥さま!?」
周囲から驚きの声があがる。藤原が駆け寄り、私の身体を抱き起こした。
そして、私の耳元にそっと囁いた。その首元に、蓮が私に贈った誕生日のネックレスがきらりと光る。
「見たでしょ? あの人はもう、あなたが死んでも微塵も動じない。……あなた、もう愛されてないのよ」
私は残された力で、彼女の手を振り払った。
その瞬間――
「……やめろ、寧々。構うなよ。どうせ、また芝居だ」
蓮の声がした。振り返りもせず、冷たい声で吐き捨てた。
「演技が好きなら、勝手に一人で演じてればいい」
私は通りすがりの人に助けられて、どうにか家へ戻った。
ソファに倒れ込むようにして、やっと一息つく。
痛み止めを飲んで、少しだけ腹の痛みが和らいだ。
けれど、心の中は真っ暗なままだった。
目を閉じると、あの言葉が何度も何度もよみがえる。
――「じゃあ、勝手に死ねよ」
私は思い出す。あの冬のことを。
私は重い肺炎にかかって、何度も危篤の宣告を受けた。お金もなくて、彼は親戚や友人の家を回り、頭を下げ続けた。
何度も断られ、罵倒されて、それでも必死だった。
そんな彼が、ある日、病室で私の足元に膝をつき、泣きながら手を握った。
「芽衣……お願いだ、薬を飲んで。……死なないでくれ」
――あの時、あんなにも私を生かしようとしてくれた人が、今は誰よりも私の死を願っている。
壁のカレンダーを見上げる。余命の「ひと月」は、もうすぐ終わる。
……良かったね、蓮。あなたの望んだ通りになる日が、もうすぐ来るわ。