話 1
5年間、私は完璧な彼女だった。
湊の家族がすべてを失ったときもそばに寄り添い、彼がゼロからIT帝国を築き上げるのを支えた。
私たちの愛は本物だと、信じて疑わなかった。
でもある夜、彼が寝言で他の女の名前を喘ぐように呼ぶのを聞いてしまった。
――杏奈。
彼の金が尽きた途端、彼を捨てた元カノの名前。
血の気が引くような確信に襲われた。
私は彼の恋人じゃない。
ただの代用品だったんだ。
その残酷な仕打ちは、じわじわと心を蝕むような仕打ちが、やがて地獄の業火へと変わった。
パーティーでシャンデリアが落下したとき、彼は咄嗟に彼女を庇い、私は下敷きになった。
交通事故で私が道端で血を流しているときも、彼は私を置き去りにして彼女を慰めに行った。
彼はいつだって、彼女を選んだ。
毎回、毎回、毎回。
口では私を愛していると言いながら、彼の行動は「お前は使い捨てだ」と叫んでいた。
彼の愛は安らぎの家なんかじゃなかった。
心地よい嘘で塗り固められた鳥籠だった。
彼が仕組んだ自作自演の騒動から杏奈を救うため、私をヨットに置き去りにしたとき、ついに私の心は完全に折れた。
だから、彼の妹から「化け物みたいに醜いと噂の、引きこもりの男との政略結婚から逃げ出したい」と泣きつかれたとき、私はそこに自分の逃げ道を見出した。
私は彼女に返信した。
「心配しないで。私が代わりに嫁ぐから」
第1章
最初の兆候は、湊の体が深く震えたことだった。
私は手を止め、彼に背中に手を置いた。
「大丈夫?熱でもあるの?」
彼の肌は薄い汗でぬるりと濡れていたけれど、熱くはなかった。
ただ…張り詰めている。
全身の筋肉が固くこわばっていた。
付き合って5年、同棲して3年。
彼の背中のラインも、呼吸の変化も、すべて知り尽くしている。
でも、これは何かが違った。
「平気だ」
彼は苦しげな声で呟いた。
私の方を向こうともしない。
「疲れてるだけ。今週は仕事が長引いて」
私は彼の肩の緊張をほぐそうと、指で凝り固まった部分を揉みほぐした。
「お水持ってくるね。鎮痛剤もいる?」
頭の中で可能性が駆け巡る。
彼が経営する会社、ミカミ・テックのプレッシャーは計り知れない。
彼は金融スキャンダルの灰の中から、たった一人で三上家の名を蘇らせ、一代で帝国を築き上げたのだ。
その重圧を一身に背負っている。
「いや、葉月。いい」
彼は優しく、しかしきっぱりとした口調で言った。
私の手から逃れるように身をよじる。
「ただ…寝かせてくれ」
彼は完全に私に背を向け、布団を顎まで引き上げた。
マットレスの数センチの隙間が、とてつもなく広い距離に感じられた。
私は暗闇の中、彼の呼吸音を聞きながら横たわっていた。
眠るにはあまりにも荒すぎる呼吸。
胃のあたりに冷たい塊ができた。
何かが、おかしい。
一時間ほどして、私はそっとベッドを抜け出した。
クライアントのグラフィックデザインの企画書を仕上げなければならなかったし、部屋に漂う不穏な空気のせいで、とても休めなかった。
裸足でリビングへ向かい、バッグからノートパソコンを取り出してソファに腰を下ろす。
仕事を始めようとしたところで、お気に入りのペンを寝室に忘れてきたことに気づいた。
抜き足差し足で寝室のドアまで戻り、私は足を止めた。
寝室から声がした。
低く、喉の奥から絞り出すような呻き声。
それは苦痛の声ではなかった。
何か別の…もっとプライベートなもの。
心臓が肋骨を激しく打ち付けた。
私は廊下の影に隠れたまま、凍りついた。
そして、彼は彼女の名前を口にした。
「杏奈」
その名前は亡霊だった。
とっくに葬り去ったはずの過去の囁き。
杏奈。彼の元カノ。
三上家の財産が蒸発した途端、彼を捨てた自己中心的なお嬢様。
そして今、湊が再びIT界の寵児となった途端、ゴシップサイトに顔を晒し、私たちの街に戻ってきた女。
私は震える体で身を乗り出し、わずかに開いたドアの隙間から中を覗いた。
月明かりがベッドに一筋の光を落としていた。
湊は仰向けになり、目を閉じ、片方の手をシーツの下で動かしている。
その顔には、必死の渇望が浮かんでいた。
私には一度も向けられたことのない表情。
ただの一度も。
「杏奈…」
彼は再び、生々しく、苦しいほどの欲情に満ちた声で喘いだ。
「頼む…」
その声は、私を内側から引き裂いた。
これは裏切りだ。
私たちが共有するベッドで、彼は他の女を妄想している。
それも、よりによってあの女を。
これまでの年月、どんなに親密な瞬間でも、彼はこんな熱に浮かされたような、すべてを焼き尽くすような情熱を見せたことはなかった。
私との時間は、温かく、心地よく、穏やかだった。
彼は表面的には完璧な恋人だった。
気配りができ、気前がよく、一族の栄光を取り戻した男。
でも、これは…これは執着だ。
病気だ。
そして私は、血の気が引くような確信に襲われた。
私は彼の愛じゃない。
彼の安らぎだ。
嵐に焦がれながら、彼が立つための安定した大地。
私は、彼の代用品だった。
胃の中の冷たさが全身に広がり、骨の髄まで染み渡る氷のようだった。
私は空っぽになり、自分の人生が崩壊していくのをただ見ているだけの観客になった。
その瞬間を打ち砕いたのは、ナイトスタンドでけたたましく鳴り響く彼の携帯電話だった。
湊の目がカッと開いた。
彼は電話に手を伸ばし、相手の名前を見て、眠たげながらも即座に警戒した声になった。
「浩介?どうした?」
浩介は彼のビジネスパートナーであり、親友だ。
そして、湊に意見できる唯一の人間でもある。
「お前、正気か?」
浩介の声は電話越しでも鋭かった。
「さっき杏奈の最新の投稿を見たぞ。都心の新しいクラブで、お前がまだ自分に夢中だって言いふらしてる」
湊は身を起こし、髪をかき上げた。
「そういうわけじゃない」
「そうじゃないだと?」
浩介は言い返した。
「先週のパーティーで、杏奈が『転んだ』からって、お前は葉月ちゃんを公衆の面前で辱めて駆け寄ったじゃないか。ヨットのエンジンが火を噴いたときも、真っ先に杏奈の無事を確かめるために、葉月ちゃんを一人残した。今度はこれか?湊、お前、何やってんだよ」
私は固く目を閉じた。
ヨットの火事。
彼は、みんなが無事に避難できるように確認していただけだと言っていた。
嘘だった。
いつだって、杏奈のためだった。
「杏奈は…複雑なんだ」
湊の声が低くなる。
「俺には、あいつに対して責任があるんだ」
「責任なんてあるもんか!あいつはお前に借金と失恋だけを残して去ったんだぞ。お前を支えたのは葉月ちゃんだ。再起するのを手伝ったのも葉月ちゃんだ。彼女はお前を愛してるんだぞ、この馬鹿野郎」
長い沈黙が流れた。
私は息を殺し、私の未来のすべてが彼の次の言葉にかかっているのを感じた。
「わかってる」
湊はついに言った。
その二つの言葉には、何の感情もこもっていなかった。
「葉月はいい子だ。優しいし、安定してる」
「でも、愛してはいないんだろ」
浩介は諦めに満ちた平坦な声で言った。
「できないんだ」
湊は認めた。声がひび割れている。
「杏奈とは…すべてだった。俺は壊されかけた。あそこには戻れない。戻らない。葉月は…葉月は安全なんだ。この方がいい」
「じゃあ、ただ利用してるだけか?妥協してるだけか?残酷すぎるぞ、湊。彼女は、お前のクソみたいな代用品で終わるような女じゃない」
「そんなんじゃない」
湊は言い張ったが、その声には確信がなかった。
「まったくその通りだろ」
浩介は言った。
「お前は彼女を失うぞ。そして失ったとき、一生後悔することになる」
「彼女は去らない」
湊は、ぞっとするような確信を込めて言った。
「俺を愛してるから」
彼は一呼吸おいた。
「もし去ったとしても、それが一番いい。俺は彼女が望むものを与えられない」
電話が切れた。
私は音を立てず、機械的な動きでドアから後ずさった。
リビングにふらふらと入ると、パノラマウィンドウの外に広がる街の灯りが、意味のない光の滲みに見えた。
私が去っても、彼は気にしない。
彼はそれを待っている。
彼は私を安全だと言った。
安全な港だと。
でも港なんて、船が本当に行きたい場所へ出航する前に、ただ待機する場所に過ぎない。
私は床に崩れ落ち、冷たい窓ガラスに背中を預けた。
記憶が洪水のように押し寄せる。
私が人生だと信じ込んでいた、巧妙に築かれた嘘の奔流。
最初の出会いは大学のパーティーだった。
私は物静かなグラフィックデザイン科の学生で、親友の千夏――湊の妹――に無理やり連れてこられた。
空気は安いビールと香水の匂いで満ちていた。
そのとき、彼が入ってきた。
三上湊はただのハンサムではなかった。
電撃的だった。
彼が部屋に立つだけで、他のすべてが背景に溶けてしまうような存在感があった。
シンプルな黒のTシャツとジーンズ姿だったが、生まれ持った自信がすべての視線を引きつけていた。
私は一瞬で、どうしようもなく心を奪われた。
「あれ、私の兄」
千夏は呆れたように囁いた。
「あんまりジロジロ見ないで。嫌がるから」
彼はキャンパスの伝説だった。
賢く、野心的で、そして悪名高いほどに孤高。
女子学生たちが絶えず彼に群がったが、彼は丁寧だが揺るぎない冷たさで全員を拒絶した。
私は群衆の中の一人で、遠くから彼を眺め、スケッチブックを彼の秘密の肖像画で埋めるだけで満足していた。
そこに、杏奈が現れた。
彼女は私の正反対だった。
派手で、けばけばしく、彼を追いかけることに執拗なまでに積極的だった。
彼女は何ヶ月も彼を追いかけた。
鮮やかで、要求の多い、自然の猛威のような存在。
誰もが驚いたことに、触れることのできない王子様だった湊が、ついに折れた。
彼はただ彼女と付き合っただけではなかった。
彼女を崇拝していた。
一度、キャンパスの中庭を横切る二人を見たことがある。
彼は笑っていた。
それまで聞いたことのない、心の底からの、喜びに満ちた笑い声だった。
彼は彼女を抱き上げ、まるで彼女が宇宙の中心であるかのようにくるくると回した。
彼女の誕生日に車を買い、学費ローンを完済し、バーで彼女を侮辱した男と殴り合いの喧嘩までした。
彼は愛に取り憑かれた男だった。
私は、静かで、焼けつくような嫉妬に取り憑かれていた。
そして、三上家の財産が崩壊した。
彼の父親が巨額の横領スキャンダルに巻き込まれ、一夜にしてすべてを失った。
そのニュースが報じられた日、杏奈は荷物をまとめた。
「お情けで付き合ってあげるほど暇じゃないの」と言い残し、振り返りもせずに去っていった。
湊は粉々に砕け散った。
大学を中退し、狭いアパートに閉じこもり、誰とも会うことを拒んだ。
千夏は半狂乱だった。
私に彼の様子を見に行ってほしい、食事を届けてほしい、ただ生きているか確認してほしいと懇願した。
だから私はそうした。
何週間も、私は彼のドアの外に食事を置いた。
励ましのメモをドアの下から滑り込ませた。
ただ…そばにいた。
ある日、彼がついにドアを開けた。
彼はやつれ、目は虚ろだった。
彼は長い間、私をじっと見つめていた。
「まだ、いたのか?」
彼は使われていないせいで荒れた声で尋ねた。
私は言葉も出せず、頷いた。
「なぜ?」
私はただ彼を見つめた。
長年の静かな思慕が、私の顔にすべて書かれていた。
彼は長く、疲れたため息をついた。
「葉月は、俺のことが好きなのか?」
私は再び頷いた。
「わかった」
彼はそう言って、私を入れるために脇に寄った。
「付き合おう。君なら、あいつを忘れさせてくれるかもしれない」
その時でさえ、私は自分がリバウンドであり、彼の回復のための道具であることを知っていた。
でも、私はあまりにも恋に落ちていて、気にしなかった。
私の献身が彼を癒せると信じていた。
私の静かで、揺るぎない愛が、いつか彼女の派手で、破壊的な情熱に取って代わることができると信じていた。
5年間、私はそれがうまくいっていると信じていた。
彼が3つの仕事を掛け持ちし、彼の請求書を払い、最初の小さなITスタートアップを立ち上げるのを支えた。
ミカミ・テックがついに軌道に乗ったとき、彼は本来あるべき姿の男になった。
力強く、成功し、聡明な男に。
彼は私に贈り物を浴びせ、豪華な旅行に連れて行き、世界中に私が彼を救った女性だと語った。
彼は完璧な恋人だった。
優しかった。
親友の兄だった。
私の人生の愛だった。
私は勝ったのだと思っていた。
彼の心を癒したのだと。
でも、私は彼の心を癒してはいなかった。
ただ、下に膿み続ける傷に絆創膏を貼っただけだった。
そして、杏奈が再び金持ちで成功者として街に戻ってきた瞬間、彼女はその絆創膏を容赦なく引き剥がした。
彼の行動がおかしくなり始めた。
直前になってデートをキャンセルするようになった。
携帯電話を見て微笑んでいるとき、画面に彼女の名前が光るのが見えた。
彼は、深夜の会議だと私に嘘をつきながら、彼女がいるとわかっているパーティーに行くようになった。
オークションが、最初の公の亀裂だった。
彼はチャリティーガラで表彰されることになっていた。
そして、彼はオークションに杏奈との一夜を「寄付」した。
それは、力と復讐の、病的な、歪んだゲームだった。
彼は、今や自分が支配する側であり、金を持つ側であることを彼女に見せつけたかったのだ。
しかし、彼がステージに立ち、男たちが彼女に値を付けるのを見つめるその目には、勝利ではなく、見慣れた、必死の渇望が宿っていた。
彼はまだ執着していた。
今、私たちのアパートの冷たい床に座り、私の人生の断片がカチリとはまり、耐え難いほど鮮明な絵を形作った。
彼のすべての優しさ、すべての気前の良さ――それはすべて演技だった。
彼が自分自身に、そして私に語った嘘だった。
彼は私を傷つけようとしていたわけではない。
彼の心の中では、彼は私に良くしていたのだ。
しかし、彼の言う「良い」とは、快適さと安定で築かれた鳥籠であり、彼の心が他の女に鎖で繋がれたまま、私が去らないように設計されたものだった。
彼は私を愛していなかった。
彼は私の「アイデア」を愛していた。
私が従順で、忠実で、杏奈ではないことを愛していた。
私は、彼が本当に手に入れることも、本当に手放すこともできない人のための、ただの亡霊、代用品に過ぎなかった。
暗い窓に映る自分の姿を見た。
私の顔は青白く、目は深い痛みで見開かれていた。
その痛みは、まるで胸に物理的に穴を穿つほどのものだった。
5年間、私は自分の愛だけで十分だと信じ、彼を中心に自分の人生を形作ってきた。
それは決して十分ではなかった。
そもそも、勝負にさえなっていなかった。
私は震える足で立ち上がった。
バスルームに行き、鏡の中の自分の顔を見つめた。
そこに映っていたのは、愚か者だった。
愛情深く、献身的な愚か者。
一筋の涙が頬を伝った。
熱く、染みるような涙。
そして、もう一筋。
私は泣きじゃくらなかった。
痛みはそれには深すぎた。
それは静かな、内なる絶叫だった。
もう代用品でいるのはやめよう。
彼の安全な港でいるのはやめよう。
私は深呼吸をした。
その決意が、氷の塊のように魂に沈み込んだ。
私は去る。
彼の人生から、まるで私が存在しなかったかのように、完全に消え去るのだ。
カウンターの上で私の携帯が震えた。
千夏からのメッセージだった。
『お母さんから連絡があった。九条院家との結婚契約が最終決定されるって。私、あの化け物と結婚しなきゃいけない。葉月、無理だよ。お願い、助けて』
政略結婚。
何年も前に、三上家と、古くからの名家である九条院家との間で、事業提携を確実にするために交わされた取引。
千夏は、九条院家の跡取りである九条院蓮と結婚することになっていた。
彼は、幼い頃の事故で顔に醜い傷を負い、残酷で、10年間も公の場に姿を現していない引きこもりだと噂されている男。
千夏はミュージシャンの恋人と深く愛し合っており、恐怖に震えていた。
私の心の瓦礫の中から、狂気じみた、恐ろしいアイデアが閃いた。
それは、逃げ道だった。
私は携帯を手に取り、すべてを変えるメッセージを打ち込んだ。
『心配しないで、千夏。私がなんとかする。あなたは結婚しなくていい』
『私が代わりに嫁ぐから』
話 2
「代わりにって、何!?」
千夏の金切り声が電話の向こうから響いた。
「葉月、正気なの?本気で言ってるんじゃないでしょうね」
私は羽田空港のターミナルに立っていた。
空港の喧騒が、鈍い轟音のように遠くで聞こえる。
「本気よ。私があなたの代わりに行く」
「だめ!絶対にだめ!私がお願いしたのは、逃げるのを手伝ってってことで、あなたに犠牲になってほしいなんて頼んでない!九条院蓮は化け物だって言われてるのよ。子供の頃の事故でひどい傷を負って、性格も最悪だって。屋敷から一歩も出ないのよ。これは結婚じゃなくて、終身刑よ!」
「もう決めたことなの、千夏」
私は落ち着いた声で言った。
それは奇妙な、空虚な落ち着きだった。
すべての感情が燃え尽きた後に訪れる、静けさ。
電話の向こうで一瞬の間があった。
「…兄さんが、何かしたの?」
「湊とは、終わったの」
「何ですって!?」
彼女は叫び、近くでスーツケースと格闘していた男性の注意を引いた。
「別れたの?あのクズ!殺してやる!あなたがどれだけ尽くしたと思ってるの!杏奈のせい?神に誓って、葉月、私が兄さんを破滅させてやるから」
彼女の猛烈な忠誠心が、胸に鋭い痛みとなって突き刺さった。
「もうどうでもいいの、千夏。これは私の選択。あなたはリアムさんと幸せになるべきよ。行って。パリ行きの飛行機に乗って、振り返らないで」
私はすでに彼女のチケットを予約していた。
緊急用に貯めていた最後の貯金を使った。
湊と私のための家の頭金にしようと貯めていたお金。
その皮肉が、苦い薬のようだった。
「でも葉月…あなたの人生が…」
彼女の声は罪悪感で震えていた。
「私の人生は、これからは私のものよ」
私は言った。
そして初めて、その言葉が真実だと感じられた。
「あなたに幸せになってほしい。それが私にとって一番大事なことなの」
私たちは保安検査場で、涙ながらに慌ただしく別れを告げた。
彼女は私が息もできないほど強く抱きしめた。
「あなたには一生かかっても返しきれない恩ができたわ」
彼女は私の髪に顔をうずめて囁いた。
「ただ、美しい人生を送って」
私は彼女をゲートの方へ優しく押しやりながら言った。
「それが私への最高の支払いよ」
私は彼女の乗った飛行機が滑走路を走り、空へと舞い上がるのを見送った。
銀色の鳥が雲の中に消えていく。
自由。
少なくとも、彼女にとっては。
私は長い間そこに立っていた。
別の空港での記憶が心によみがえる。
3年前のことだ。
湊がミカミ・テックの最初の大型資金調達を成功させたばかりだった。
彼は私を驚かせようと、イタリア行きのチケットを用意してくれた。
私たちはまさにこのターミナルに立ち、彼は私にキスをして、君がいなければ何もかも不可能だったと言った。
私は彼の言葉を心の底から信じ、幸せで泣いた。
なんて世間知らずの、愚かな子供だったんだろう。
空港の後、私が最初に向かったのは銀座の高級ブライダルブティックだった。
政略結婚に関する三上家の担当者から電話があり、「花嫁」は今日中にドレスの試着をする必要があると冷たく告げられた。
彼らは名前すら使わなかった。
どの三上家の娘でもよかったのだ。
誰がその女性であるかは問題ではなく、ただ契約が履行されることだけが重要だった。
作り物の笑顔を浮かべた店員が私を迎えた。
「三上様でいらっしゃいますね?ヴェルサイユスイートをご用意しております。最高級のドレスをいくつか選ばせていただきました」
私は無造作に手を振った。
「一番シンプルなデザインを見せてください」
彼女は一瞬、戸惑った表情を見せた。
「シンプル、でございますか?ですが、こちらは九条院様とのご婚礼に…」
「一番シンプルなものを」
私は繰り返した。
彼女は私を、装飾のない滑らかなシルクのシースドレスの前に案内した。
レースも、ビーズも、トレーンもない。
エレガントだが、飾り気のないドレスだった。
「これにするわ」
私は言った。
「素晴らしいお目利きでございます。では、採寸をさせていただき、フィッティングを始めましょうか?」
「必要ないわ」
私は湊が「緊急用」に渡してくれたクレジットカードを取り出しながら言った。
「標準の9号サイズで箱に入れてちょうだい。仕立ては自分でやるから」
女性の笑顔が揺らいだ。
「しかし、お嬢様…ご試着もなさらないのですか?」
「これはビジネス取引よ」
私は平坦な声で言った。
「包装が完璧である必要はないの」
化け物と結婚するのに、何を着るかなんてどうでもよかった。
これは愛や幸福のためではない。
逃亡のためだ。
九条院家は権力があり、世間から隔絶され、国の反対側に住んでいる。
彼らの跡取りと結婚することは、証人保護プログラムに入るようなものだ。
湊は決してそこまで私を追っては来られないだろう。
三上家は、同盟が結ばれる限り、どの娘を送るかなんて気にしない。
私の両親は数年前に亡くなっているので、反対する人もいない。
きれいさっぱりと縁を切れる。
アパート――彼のアパート――に戻り、私は儀式を始めた。
額縁に入った私たちの写真をすべて下ろした。
イタリア旅行の写真、彼の最初の会社設立パーティーの写真、去年のクリスマスの写真。
私はそれらを叩き割ったりはしなかった。
ただ写真を取り出し、それぞれをきれいに四つに引き裂き、ゴミ箱に捨てた。
彼がくれた贈り物をすべて集めた。
ブランドバッグ、高価なジュエリー、初版本。
それらをすべて大きな段ボール箱に入れ、寄付することにした。
私が取っておいたのは、陶芸教室で作った醜いセラミックのマグカップだけだった。
歪んだハートと私たちのイニシャルが入ったもの。
なぜそれを取っておいたのかはわからない。
たぶん、自分自身の愚かさを忘れないためだろう。
それから私は携帯電話を手に取り、容赦ない武器のように親指を動かした。
すべての写真、すべてのメッセージ、すべての保存された留守番電話を削除した。
すべての投稿から自分のタグを外し、彼の番号をブロックし、私たちの5年間のデジタルな痕跡をすべて消し去った。
それは methodical で、痛みのない、絶滅行為だった。
ノートパソコンを初期化しようとしたちょうどその時、知らない番号から電話がかかってきた。
「プレストン様でいらっしゃいますか?こちらはクラブ『オークルーム』のマーティンと申します。先週、チャリティーガラにお越しいただきましたが、小さなスケッチブックをお忘れになったようです。こちらでお預かりしております」
私のスケッチブック。
そこには私のデザイン、私のアイデア…私のプロとしての人生のすべてが詰まっていた。
そして、裏表紙の裏には、湊の古いスケッチが何十枚も隠されていた。
「すぐに取りに伺います」
私は言った。
オークルームは、億万長者たちがウィスキーと葉巻を片手に取引をするような、高級プライベートクラブだった。
私が到着すると、メインホールは奇妙な、捕食者のようなエネルギーでざわついていた。
人だかりができており、彼らの声は低く、興奮した囁きとなっていた。
「信じられる?彼、また彼女の『初夜』をオークションにかけるなんて。野蛮だわ」
「初夜じゃないわよ、ダーリン。もう何回目かしらね」
彼女の友人はせせら笑った。
「でも、問題はそこじゃないの。彼は文字通り彼女を競売台に乗せているのよ。彼女が彼に這いつくばって戻ってきた後、これが彼の復讐のやり方なの。見事だわ。そして、病的よ」
私の血の気が引いた。
私は人混みをかき分け、部屋の正面にある即席のステージに目を向けた。
そして、そこに彼がいた。
湊は競売人の隣に立ち、ダークスーツに身を包み、ハンサムで残酷に見えた。
彼の表情は無表情だったが、その目は部屋を見渡すとき、冷たい炎で燃えていた。
そして、二人の大男が杏奈をステージに引きずり出した。
彼女は薄っぺらな、背中の開いた赤いドレスを着て、メイクは完璧で、その表情は恐怖と反抗的なプライドが入り混じっていた。
彼女はこれに同意したのだ。
金のため、地位のため、彼の軌道に戻るチャンスのため、彼女は彼に公然と辱められることに同意したのだ。
群衆はざわめき、その顔は衝撃と倒錯した興奮が入り混じっていた。
「彼を見てよ」
私の後ろの誰かが言った。
「彼が貧乏だったときに彼女に捨てられたことへの復讐だって言ってるわ」
「復讐?」
別の声が嘲笑した。
「まさか。あの男はまだ執着してるのよ。他の誰にも彼女を渡したくないから、この歪んだ見世物を装って、自分で彼女を『買う』つもりなの。彼は彼女を所有しようとしてるのよ」
「彼の彼女はどうしたの?デザイナーの?葉月、だったかしら?」
「可哀想に。彼氏が元カノとこんな病的なゲームを繰り広げている間、分別のある、退屈な選択肢でいるなんて想像してみて。彼女はただの代用品よ。みんな知ってるわ。彼は杏奈を愛したようには、誰も愛さないでしょうね」
その声は、私の耳の中で鈍い鳴り響きに変わっていった。
今、すべてが見えた。
これは復讐ではない。
これは求愛のダンスだ。
同じように傷ついた二人の人間の間の、毒々しく、破壊的な儀式。
彼は決して彼女から自由になることはないだろう。
彼は決して私のものにはならない。
そもそも、なったことなどなかったのだ。
競売人が競りを始めた。
湊はそこに立ち、見つめていた。
壊れた女王を取り戻す、静かで、所有欲に満ちた王のように。
話 3
競売人の声、群衆の興奮した囁き、グラスの触れ合う音――それらすべてが意味のないドローン音に溶け込んでいった。
私の心は、そのあまりにも残忍な光景によって完全に拭き清められ、真っ白な石板のようだった。
何も感じなかった。
まるで心臓がついに諦めて、心電図がフラットラインになったかのようだった。
考える間もなく、私は彼らの後を追った。
もちろん、「オークション」に勝ったのは湊だった。
彼は誰も太刀打ちできない、信じられないほどの高値を一回で提示した。
彼は勝利に酔いしれているようには見えなかった。
ただ…必然のように見えた。
彼は杏奈の腕を取り、所有欲に満ちた手つきで、見物人の群れから離れ、壮大な階段を上ってプライベートスイートへと向かった。
私は幽霊のように彼らの後をつけた。
廊下の影に身を潜め、豪華なカーペットが私の足音を飲み込む。
そして、半開きになったドアのすぐ外に立った。
「どうしてこんなことするの、湊?」
杏奈の声は震えていたが、恐怖の下に興奮の気配が流れていた。
「私を罰するため?」
「罰する?」
湊の笑い声は低く、ユーモアがなかった。
「いや、杏奈。これは罰じゃない」
「じゃあ何なの?まだ私を愛してるの?愛してるって言って」
彼は長い間黙っていた。
ついに口を開いたとき、その声は冷たい愛撫のようだった。
「お前のことなんて憎んでる」
彼は静かに言った。
「でも、どうしようもなく欲しいんだ。お前はまたゲームができると思って、俺のところに這いつくばって戻ってきた。でもルールは変わったんだ。今や、俺がお前を所有する」
「いつも私を追いかけていたのはあなたの方だったじゃない」
彼女は挑戦的な口調で囁いた。
「そして、俺に捕まることを許したのはお前の方だ」
彼は言い返した。
彼は彼女に近づき、その声は生々しく、親密な唸り声に変わった。
「お前が俺をこうさせたんだ。お前が俺に残酷になることを教えた」
彼の言葉は毒だったが、彼の行動は必死の解毒剤だった。
私は麻痺したように見つめていた。
彼が彼女を壁に追い詰めるのを。
彼の手が彼女の髪に絡みつき、頭を後ろに引かせ、彼の口が彼女の口に激しくぶつかった。
それは愛のキスではなかった。
所有の行為であり、怒りと飢えと、二人を永久に歪めてしまった毒々しい歴史の行為だった。
その光景は卑猥だった。
音はもっとひどかった。
服の擦れる音、鋭く息を吸い込む音、甘い呻き声。
彼は彼女のドレスの背中を引き裂いた。
布が裂ける音が、静かな部屋に暴力的に響いた。
そして、その絶頂で、彼の唇から一筋の、詰まったような嗚咽が漏れた。
一筋の涙が彼の頬を伝った。
杏奈は彼の下で静止した。
「泣いてるのね」
彼女は奇妙な、勝利に満ちた驚きを込めて囁いた。
「黙れ」
彼は厚く、壊れた声で命じた。
私は自分の体を感じることができなかった。
私の手は壁に押し付けられていたが、冷たい漆喰を感じなかった。
私の爪は手のひらに食い込んでいたが、その痛みを感じなかった。
私はただ、彼が終わるのを見ていた。
彼の体は、快楽というよりは苦痛のような解放感で震えていた。
彼は彼女と何時間も過ごした。
私は悲しみの像のようにそこに立ち、彼が何度も何度も彼女を抱くのを見ていた。
まるで、彼女を魂の奥深くに埋め込むことで、彼女を魂から追い出そうとしているかのようだった。
ついに、彼女は疲労で気を失った。
彼は優しく彼女に毛布をかけ、その手つきは今や優しく、その表情は深い悲しみに満ちていた。
その悲しみは、私自身の失恋を些細なものに感じさせた。
彼は、私には一度も見せたことのない愛と崇拝の眼差しで、彼女の寝顔を見つめていた。
その瞬間、私はついに壊れた。
私は振り返り、機械的な足取りで歩き去った。
クラブの空っぽの廊下を抜け、冷たい夜の空気の中に足を踏み出した。
世界が軸から傾いているように感じた。
私は歩き始めた。
どこへ向かっているのかも知らず、気にも留めずに。
タイヤの軋む音が、私が最後に聞いた音だった。
目もくらむような光の閃光、金属と骨の恐ろしい衝突音、そして…暗闇。
目を覚ますと、消毒液の匂いと、機械の規則正しいビープ音がした。
看護師が私を覗き込んでいた。
彼女の顔は、プロフェッショナルな心配でぼやけていた。
「あなたはとても幸運でしたよ、プレストンさん」
彼女は言った。
「腕の骨折と重度の脳震盪ですが、もっとひどいことになっていたかもしれません。骨を固定するために手術が必要です」
彼女は私にクリップボードを渡した。
「同意書に署名をお願いします。緊急連絡先に電話を試みたのですが…」
私の緊急連絡先。
湊。
もちろん。
震える手で、私は持ち物の入ったビニール袋から携帯電話を取り出した。
視界がぼやけている。
お気に入りリストの一番上にある彼の名前を見つけ、最後の、必死の習慣のように親指で通話ボタンを押した。
二回鳴った後、女性が眠たげで得意げな声で答えた。
「もしもし?」
杏奈だった。
喉が詰まった。
「どなた?」
杏奈は苛立ちを滲ませた声で要求した。
「湊はシャワー中よ。あら、葉月?」
彼女は残酷な面白さを声に含ませて囁いた。
「彼は今、ちょっと…手が離せないの。昨夜は本当に疲れさせられちゃったから」
私は話すことができなかった。
息もできなかった。
「湊、ハニー!」
彼女は甘ったるい声で呼びかけた。
「あなたの可愛い彼女から電話よ。話す?」
シャワーが止まる音が聞こえた。
湊の声が電話の向こうから聞こえた。
遠く、冷たい声。
「どうした、葉月?忙しいんだ」
「私…病院にいるの」
私はなんとか囁いた。
言葉が喉を掻きむしる。
「事故にあったの。手術が必要なの」
一瞬の間があった。
心臓が止まるような一瞬、私は希望を抱くことを自分に許した。
「後にしてくれないか?」
彼は尋ねた。
「杏奈の具合が悪いんだ。そばにいてやらないと」
私の隣の心拍モニターのビープ音が、突然の静寂の中で叫んでいるようだった。
彼は彼女を選んでいる。
今でさえ。
私の命が天秤にかかっているのに、彼は彼女を選んでいる。
「彼女は今や俺の所有物だからな」
彼は続けた。
その声は、先ほど聞いた所有欲に満ちた唸り声を帯びていた。
「俺の投資が守られているか、確かめないとな」
背景で杏奈のくすくす笑いが聞こえ、続いてキスの音がした。
電話が切れた。
彼は私に電話を切ったのだ。
看護師が私を哀れみの目で見つめていた。
「他に誰か呼べる人はいますか?ご家族とか?」
「いいえ」
私は囁いた。
その言葉は、最後の降伏だった。
「誰もいません」
私は彼女からペンを受け取った。
私の手はひどく震えていて、署名はほとんど判読不能な走り書きになった。
手の切り傷から一滴の血が紙に飛び散り、私の古い人生を捨て去る文書に、深紅の封印を押した。
そして、再び暗闇が私を飲み込んだ。