話 2
薄斯年は契約書に目をくれることもなくゴミ箱に放り投げると、震える声で私をきつく抱きしめた。
「霜霜、俺から離れないと約束しただろう?」
慌てたように薄斯年は謝罪の言葉を口にする。
「さっきのは他意はないんだ。ただ、瀟瀟が妊娠しているし、君は体が弱いから、彼女がいると君の障りになると思って」
薄斯年の腕から身を捩り、私は床に落ちた契約書を拾い上げて開く。
「安心してサインして。大丈夫だから」
この契約書は、退院してすぐに弁護士に依頼して用意してもらったものだ。
最初の数ページは、私が死んだ後に斯年へ贈るささやかな贈り物について。そして最後のページこそが、本題の離婚協議書だった。
彼を騙してサインさせ、適当な理由をつけてここを去り、どこか遠い場所で死ぬ。それが私の計画だった。
悲しまれるくらいなら、いっそ一生恨まれた方がいい。
薄斯年は契約書にざっと目を通すものの、その視線は終始、リビングに向けられていた。サインを終えると、彼は罪悪感と感謝の入り混じった表情で、再び私を腕の中に閉じ込める。
「霜霜、ありがとう。お腹の子は、君の子でもあるんだ」
その声に含まれた罪悪感に胸がちくりと痛み、私はずっと心の奥底にしまい込んでいた子供じみた問いを、試すように口にした。
「薄斯年、あなたは結婚式での誓いを、まだ覚えてる?」
彼はそっと私から体を離すと、その場で片膝をついた。その声にはかつての敬虔さはなく、代わりに罪悪感が滲んでいる。
「霜霜、私は永遠に君から離れない。決して君を諦めない。愛している。ずっとそばにいる。私は永遠に君にひざまずき、この心は君だけのものだ。この誓いは変わらない」
「きゃっ!」
突如、リビングから甲高い悲鳴が響いた。
薄斯年は弾かれたように、リビングへと駆け出して行く。
胃が引き攣るような激痛を無理やり押し殺し、私は吹っ切れたように目尻に浮かんだ涙を拭う。
結婚式の誓い。私たちは、二人ともそれを破ったのだ。
化粧室から戻ると、ダイニングテーブルには十数種類もの料理がずらりと並べられていた。
鶏のスープの香ばしい匂いが漂う中、薄斯年は瀟瀟の指を両手でそっと包み込んでいた。火傷で赤くなった人差し指に、何度も優しく息を吹きかけている。
「見ているだけで痛々しい。俺を心配させるつもりかい?」
鼻の奥がツンと痛む。じんわりと痛む胃を押さえながら、私も、とても痛いのだと斯年に伝えたかった。
その時、華奢な手が私の腕に絡んだ。
「霜霜姉さん、腕によりをかけて作ったんです。ぜひ味見してください!」
瀟瀟は私を支えるようにしてテーブルへと促し、かいがいしく料理を取り分けてくれる。その瞳には、心配と罪悪感の色が浮かんでいた。
「霜霜姉さん、お写真で拝見するより、ずっとお痩せになりましたね」
薄斯年は鶏の骨つきもも肉をひょいとつまむと、慣れた手つきで瀟瀟の皿に乗せる。
「霜霜もたくさん食べろ。痩せたら俺が心配する」
その言葉は上の空で、彼の視線は終始、瀟瀟の上に注がれていた。
瀟瀟は申し訳なさそうに、自分の皿のもも肉を私の皿に移した。
「霜霜姉さん、本当に、お痩せになりすぎです」
瀟瀟がしきりに私を気遣うのを見て、薄斯年はようやくこちらに視線を向けた。
「霜霜、どうしてこんなに痩せたんだ? 俺が瀟瀟のことで忙しくしている間に、またろくに食事をしていなかったんだろう!」
彼は痛ましげな、それでいてどこか諦めたような表情で、私の皿から鶏肉を瀟瀟の皿へと戻す。
「霜霜は子供の頃に胃を悪くしてから、あまり脂っこいものは食べられないんだ」
体にいくつもの不調が現れ始めてから、私の体重は5キロも落ちていた。
痩せたのではない。ただ、死が近いだけだ。
話 3
胃癌末期では、食べ物を一口飲み下すことすら拷問に等しい。込み上げる不快感に耐え切れず、青菜を二口ほど口にしただけで、私は箸を置き二階へと上がった。
部屋に戻り、痛み止めを飲んでベッドに横になる。しかし、胃を千々に引き裂くような痛みは、さらに激しさを増すばかりであった。
私はうずくまるように体を丸め、ナイトテーブルから睡眠薬を二錠取り出した。
どうしても痛みに耐えられない時は、眠りに落ちてしまえばいい。
ベッドの上で何度も寝返りを打つ。痛み止めはもはや気休めにもならず、胃の焼けるような激痛が神経を苛む。睡眠薬はただ意識を鈍らせるだけで、痛みからの解放はもたらしてくれない。
意識が朦朧とする中、階下から瀟瀟が薄斯年を優しく咎める声が聞こえた気がした。
「斯年兄さん、霜霜姉さんに対して少し無神経よ。本当に具合が悪そうだったわ」
対照的に、薄斯年の気にも留めない声が響く。
「霜霜は子供の頃から胃が弱いんだ。いつものことさ、心配いらない」
どれほどの時間が過ぎたのか。ようやく睡眠薬が効きはじめ、意識が闇に沈みかけたその時、ベッドの隣が軋みながら沈んだ。薄斯年が戻ってきたのだろう。
意識は半ば覚醒し、半ば夢の中にあった。重く貼り付いた瞼を開けることはできないのに、胃の灼熱感だけは少しも和らがなかった。
体内の癌細胞は、深刻なほどに広がっていると医師は言った。
もしかしたら、このまま目を閉じれば、二度と目覚めることはないのかもしれない。
胃腑をかき混ぜられる激痛に、私は苦悶の声を抑えながらかろうじて目を開けた。
家の中は、不気味なほどに静まり返っていた。食卓には、温め直された食事が虚しく残されている。
処方された薬が底をつき、私はふらつく体に鞭を打ってタクシーを呼び、病院へと向かった。
診察の間、担当医は何度も深いため息をついた。
「薄教授が新しく開発した胃癌の特効薬ですがね、完治はできなくとも、末期患者の発作の苦しみを大幅に和らげることができる。彼はあなたの夫でしょう。あなたのこの状況、いつまでも隠し通せるものではありませんよ」
主治医の説得を受け、私は決心した。薄斯年に、自分がもうすぐ死ぬという事実を打ち明けよう、と。
胃癌末期の苦しみは、まさしく生き地獄であった。廊下の大きな鏡の前を通り過ぎた時、ふと映った自分の姿に足が止まる。
血の気を失った顔。落ち窪んだ頬と眼窩。骨と皮ばかりに痩せ衰えた姿――。もう少しだけ、尊厳のある最期を迎えたい。
薄斯年にどう切り出そうか考えあぐねていると、すぐ後ろから心配そうな声がかけられた。
「霜霜、どうして病院に?また胃の調子が悪いのか?」
その声に誘われるように、胃の奥から灼けるような痛みがせり上がってくる。私は必死に彼の腕を掴み、懇願するように口を開いた。
「薄斯年、私、胃癌の末期なの。だから、お願い……」
言葉の続きは、彼の乾いた笑い声に遮られた。一瞬きょとんとした後、彼は堪えきれないといった様子で吹き出したのだ。
「霜霜、君は年々子供っぽくなるな。そんな嘘で気を引こうなんて、つまらない芝居はよせ」
私がなおも説明を続けようとすると、薄斯年は幼子をあやすように、私の頭を軽く撫でた。
「いい子だから、もう騒ぐのはやめるんだ。瀟瀟と、彼女のお腹の子を受け入れると約束してくれたじゃないか」