話 1
川市、夜。帝王苑と呼ばれる高級住宅街。
広々と明るいリビングに、二人の男女が向かい合って座っている。テーブルに置かれているのは、一枚の離婚協議書。男はアイロンの行き届いたスーツに身を包み、その完璧な顔立ちは冷淡な表情を浮かべていた。全身から放たれる強烈な圧迫感が、部屋の空気を支配している。
彼の冷ややかな視線が、向かいに座る黙したままの女に向けられる。その瞳の色は、外の夜闇のように深い。
「月曜に離婚する」 桜庭海が、疑いを挟む余地もない口調で言い放った。声は低く、冷たい。「離婚協議書に書いてある補償以外に、何か要求があれば言いなさい」
「……どうして、そんなに急ぐの」遠坂希の声は、いつもよりずっと低く、沈んでいた。
桜庭海は、ただ一言で答えた。「華ヶ原佳苑が、戻ってきた」
華ヶ原佳苑。希は知っていた。短い沈黙の後、彼女は静かに頷いた。「……わかった」
そのあっさりとした返事に、桜庭海は僅かに虚を突かれたようだった。
彼女がこれほど潔く受け入れるとは、予想していなかったらしい。
希は離婚協議書に目を落とす。そこにびっしりと並んだ文字を見ていると、桜庭海と出会った頃の記憶が脳裏に蘇った。
二年前、彼らは川市のナイトクラブ『宵闇』で出会った。悩み事を抱えていた彼女は、失恋したばかりの桜庭海と出会った。何杯か酒を飲むうちに、旧知の仲のような気分になり、話は弾んだ。
ありきたりな一夜の関係はなく、酒を飲み終えると、互いに名残を惜しむこともなく別れた。
再会は、その夜から三日後のこと。桜庭海が秘書を伴って彼女の家を訪れ、唐突に結婚を申し込んできたのだ。
そして、彼女はそれを受け入れた。
結婚してからの彼は、確かに良き夫だった。細やかに気遣い、困ったことがあれば真っ先に助け、病気をすれば自ら薬を飲ませてくれた。シャンプー後には、進んでドライヤーを手伝ってくれた。二人の関係は、外から見れば申し分ないものだった。
――半年前、彼が一本の電話を受けるまでは。
あの日を境に、彼は変わってしまった。
彼女に対する態度は冷淡になり、かつての優しさは影も形もなくなった。
その日、希は初めて知った。桜庭海が自分と結婚した理由、あの優しさの全てが、自分が彼の理想の女性である佳苑と少し顔が似ているからに過ぎないのだと。
過去の記憶を振り払うように、希は唇をきつく結び、淡々とした声で桜庭海に問いかけた。「さっき、補償についてはこちらから提案してもいいと言ったわね」
「ああ」 桜庭海は短く応じる。
「どんなことでも?」 希が顔を上げて彼を見る。その整った顔立ちからは、いつもの活気が消えていた。
その眼差しに射抜かれ、桜庭海の胸に微かな罪悪感が芽生える。「……ああ」
彼は心づもりをしていた。
彼女が提示する要求が法外なものでない限り、できる限り応じるつもりだった。
この二年、彼女が自分によく尽くしてくれたのは事実なのだから。
「それなら、あなたのガレージにある一番高価なスーパーカーが欲しいわ」
「いいだろう」
「郊外の別荘も一軒」
「わかった」
「それと、結婚してからの2年間であなたが稼いだお金は折半しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、それまで表情一つ変えなかった桜庭海の瞳が、初めて揺らいだ。
聞き間違いかと思った彼は、薄い唇を開く。「……今、何と言った?」
「婚姻中の収入は夫婦の共有財産でしょ。あなたの投資や資産運用を除く、この2年間の給料と会社の利益配当だけで、数十億円はあるわ」 希の口調は真剣そのもので、冗談を言っている気配は微塵もない。「多くは望まない。その四割を慰謝料として頂戴」
桜庭海:「………は?」
希はさらに言葉を続ける。「もちろん、私の収入からも四割をあなたに渡すわ」
「遠坂希ッ!」桜庭海が、ついに怒りを露わにした。
先程までの罪悪感は、どこの気の迷いだったのか。これまで、彼女がこれほど金に執着する女だとは気づかなかった。
希は彼を真っ直ぐに見つめ、真摯に問い返す。「ダメかしら?」
ダメに決まっている!
桜庭海は、考えるまでもなく心の中で否定した。
「ダメなら結構よ」希は手にしていたペンを置くと、静かに言い放った。「今度ご両親にお会いした時、あなたが結婚中に心で別の女性を想っていたことについて、相談させてもらうわ。きっと私の味方になってくださるでしょうから」
桜庭海の全身から放たれる気が、少しずつ冷え込んでいく。その視線は、もはや刃のようだ。
この女が、これほどの二面性を持っていたとは。これまでの聞き分けの良さは、すべて見せかけだったというのか。
「本気で、俺とそういう話がしたいのか?」
「ええ、本気よ」
希は一歩も引かず、彼の視線を受け止めた。
彼が脅迫を何よりも嫌うことなど知っている。だが、それがどうしたというのだ。自分だって、婚姻関係における裏切りが何よりも嫌いなのだから。
「……いいだろう」 桜庭海の瞳が、昏く沈んだ。「くれてやる。だが、もしこの離婚が滞るようなことがあれば……どうなるか、わかっているな」
「桜庭社長。それは脅迫かしら?」希は椅子の背にゆったりと身体を預ける。
白と黒のコントラストが鮮やかな瞳は、どこまでも真剣だった。
その姿は、桜庭海が今まで一度も見たことのないものだった。
この二年間、希は常に聞き分けが良く、おとなしく、優しい女だった。牙をむいて彼に対峙するようなことは、一度もなかった。
「……違う」 桜庭海は、すでに彼女を「処理」する算段を頭に巡らせていた。声は、氷のように冷たい。「家も車もくれてやる。月曜、必ず離婚しろ」
希はふと目を細め、ゆっくりと口を開いた。「もう一つ、お願いがあるの」
「言え」 桜庭海の忍耐が、刻一刻と削られていくのがわかった。
「明日、買い物に付き合ってほしいの」 彼の放つ冷たい空気など気にせず、希は続けた。「買い物が終わったら、一緒に実家に行くわ。ご両親には私から離婚するって伝える。『あなたのことがもう好きじゃなくなったから』って」
「……わかった」 桜庭海は、それを受け入れた。
話がまとまると、桜庭海はこの場に一秒でも長く留まりたくないというように、冷たい気を纏ったままリビングを後にした。
ここに来る前は、もし希が離婚の事実を受け入れ難いようなら、少し時間をかけて心の準備をさせてやろうとさえ考えていた。
だが、今となってはどうだ。
受け入れ難い、だと?
笑わせる。
彼女は一刻も早く離婚して、俺の財産を分捕ることしか考えていなかったではないか。
もし希が彼の考えを知ったら、きっと冷笑しただろう。「そんなちっぽけな金、私が欲しがると思う?」
ドアの前で、桜庭海は足を止めた。 「今夜は戻らん。明日の朝九時に、迎えに来る。行きたい場所は、事前にリストアップしておけ」
「華ヶ原佳苑に会いに行くの?」
「お前には関係ないことだ」
「浮気されるのはごめんね」関係が壊れた今、希も仮面を脱いだ。「離婚が完了するまで、彼女と寝ないでちょうだい」
桜庭海の表情が、険しく歪んだ。
彼は踵を返し、希の前まで戻ると、彼女を睥睨した。
しかし希は、その威圧に臆することなく言い返す。「あら、どうしたの。たった二日半も待てないのかしら?」
「お前が腹を立てているのはわかる。だが、そんな言葉で俺を煽るな」 意外にも、桜庭海は怒りを爆発させなかった。冷静に考えてみれば、もし自分が同じ仕打ちを受ければ、彼女以上に過激な反応を示したかもしれない。「俺たちはただ離婚するだけだ。敵同士になる必要はない」
希:「……」
どの口がそれを言うのか。
「早く休め」 その一言を置き土産に、桜庭海は今度こそ部屋を出て行った。
ドアが閉まる、その瞬間。
テーブルの上に静かに置かれた離婚協議書を前に、希はただ一人、長い時間立ち尽くしていた。
心が揺れなかったと言えば、嘘になる。
半年前、自分が身代わりに過ぎなかったと知ったあの瞬間から、彼女はずっと苦しんできたのだから。
桜庭海は、彼女の24年の人生で初めて好きになった男だった。あの電話の前までは、彼は無口なところ以外は完璧な夫で、我慢強く優しく、ほとんど心配をかけたことがなかった。
だから、彼の心に他人がいると知った時のショックは計り知れなかった。それでも彼女は離婚を切り出し、彼の理想の女性のところへ行くように言った。彼を解放してあげることが、自分にできる最後のことだと思ったから。
だが、あの時、桜庭海は離婚に同意しなかったのだ。
話 2
桜庭海が結婚に同意した理由は単純だった。佳苑が戻ってくるまで、身内の目を誤魔化す人間が必要で、彼の両親や祖父に気に入られている彼女が、その役にぴったりだったからだ。
時折、希は問いただしたくなる。
――私、そんなに馬鹿に見えるのかしら?
でなければ、どうしてあの男は、私が進んで彼の浮気を家族に隠すのを当然だと思えるんだろう。
彼から離婚を切り出された今、胸の奥に何かがつかえているような息苦しさを感じる。
半年も心の準備をしてきたつもりだった。彼がどうしようもない男だと分かっていても、まだ少し感情が動いてしまう。
深く息を吐き出すと、希はソファに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
LINEを開き、連絡先リストの中から『陽人』と登録された相手を探し出す。二年もの間、一度も開かれることのなかったトーク画面に、メッセージを打ち込んだ。 【桜庭グループに最近問題はないか、それと桜庭海が不治の病にかかっていないか調べて】
メッセージを送信した途端、相手から即座に返信が来た。
陽人:【!!!!!!】
陽人:【希姉、生きてたのか!?】
陽人:【マジかよ、生きてるうちにお前から連絡もらえる日が来るとは! この二年、どこで何してたんだよ?】
陽人:【こっちはもう、あんたの墓を建てる相談してたんだぞ】
遠坂希:「……」
彼女は詳しい説明を返す気になれず、不機嫌な感情のまま、一言だけ送った。【調べて】
陽人:【了解!】
希はスマートフォンをテーブルに置き、返事を待った。
もし、桜庭海が自分を巻き込むことを恐れて離婚しようとしているのなら、過去のことは水に流し、力を貸すことさえできる。だが、彼が本当にただのクズだったのなら――その時は、一片の躊躇もなく切り捨ててやる。
およそ三十分後、スマートフォンの通知が鳴った。
陽人:【問題なし、不治の病なし、健康そのもの】
陽人:【てか希姉、なんでまたそんなこと調べてるんだ?】
陽人:【っていうかさ、桜庭海ってイケメンでスタイル良くて金持ちだろ?けっこうお似合いじゃん。姉、イケメン好きだし、試しに付き合ってみたら?】
希は彼の問いを無視し、容赦のない言葉を叩きつけた。【あなたも、犬とお似合いよ】
そう返信すると、彼女はLINEのアプリを閉じた。
外部要因がない以上、理由は一つしかない。あの男は、正真正銘のクズだ!
返信を受け取った陽人は、その言葉にただ戸惑うばかりだった。
希姉、火薬でも食べたのか?
その問いの答えを、今の彼が知る由もなかった。
希はテーブルの上の離婚協議書に目をやった。しばしの躊躇の後、傍らのペンを手に取って署名する。書き終えたそれを部屋の棚に放り込むと、彼女は浴室へと向かった。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、スマートフォンに夥しい数の通知が溜まっていた。
LINEの未読メッセージは99件以上、不在着信は32件。
遠坂希:「……」
北川陽人が、自分が連絡してきたことを皆に言いふらしたのだろう。考えるまでもなかった。
片手で濡れて乱れた黒髪をタオルで拭きながら、もう片方の手でスマートフォンを手に取り、メッセージを確認しようとした、その時。
ロックを解除する間もなく、電話が鳴り響いた。
表示された発信者名は――『クソ親父』
丸二年、音信不通だった相手の名を見て、希は何とも言えない気持ちになった。
母のことをきっかけに、彼女は帝都を離れた。彼女から連絡することはなく、父からも連絡はなかった。それは互いの暗黙の了解事項だった。
幾度か迷った末に、彼女は通話ボタンを押した。
その声は、ひどく平坦だった。
「……もしもし」
言葉が落ちると、電話の向こうはしんと静まり返り、何の音も聞こえてこない。
彼にそれほど我慢強くない希が、電話を切ろうとしたときだった。
相手が口を開いた。その声は、少し掠れていた。「……隼夏」
たった二文字の呼び名が、遠坂希の記憶の最も深い場所を呼び覚ました。
彼女は反論することなく、ただ淡々と問い返す。「何か用?」
「陽人から、連絡があったと聞いた」 中年の男の声が続いた。声の端々に、隠しきれない後悔の色がにじんでいた。「桜庭海を調べているそうだ……父親として、何か手伝えることはないか」
「ないわ」希は、彼とこれ以上関わるつもりはなかった。
遠坂雄は、しばらく言葉を失った後、再び口を開いた。「……それで、彼とはどういう関係なんだ?」
「今まさに離婚しようとしてる、夫婦関係よ」 希は、静かに爆弾を投下した。
遠坂雄:「!!!」
離婚?
隼夏が?
夫婦関係?
「お前……」
「用がないなら、切るわ」 これ以上、彼と話したくはなかった。
「待ってくれ!」遠坂雄が慌てて引き止める。
希は黙ったまま、彼の次の言葉を待った。
張り詰めた沈黙が、二人を隔てる。
やがて、電話の向こうから声が聞こえた。「いつ、帰ってくるんだ?」
彼は、彼女が電話を切るのを恐れるように、急いで言葉を付け加えた。 「『あの人』は、もう家には住んでいない。お母さんのものも、誰も手をつけていない」
その言葉に、希の瞳の奥で感情が渦巻いた。だが、彼女の返事は冷たい三文字だけだった。「……わかった」
そう言うなり、彼女は一切の躊躇なく通話を終了させた。
スマートフォンを手に、遠坂雄は悄然と立ち尽くす。
結婚のこと、まだ何も聞けていないのに……
父がどう思おうと、今の希には関係のないことだった。電話を切るとすぐにスマートフォンを機内モードに設定し、髪を乾かしてベッドに身を投げた。
その夜、彼女は夢を見なかった。
翌朝、八時。希は起床し、身支度を整え、朝食を済ませて服を着替えた。
今日、彼女はあえて淡い化粧を施した。つややかな白い肌はさらに血色が良く見え、唇はふっくらとして近くで見ても唇の皺はない。何より人を惹きつけるのは、その桃の花のような形をした目だった。
その瞳が細められ、笑みが浮かぶ時、それはすべてを癒す力があるかのようだった。
桜庭海が迎えに来たとき、彼女はもう支度を済ませてソファに座っていた。肩までの髪は耳の後ろに流し、前髪はきれいに上げてある。頭にのっているのは黒いベレー帽だ。
彼の姿を認めると、彼女は立ち上がり、傍らのコートを肩に羽織った。
その佇まいは、まさしく名家の令嬢そのものだった。
「行きましょう」 希は、ハンドバッグを手にそう言った。
しかし桜庭海は動かなかった。体にぴったりのスーツがその長身をさらに引き立てている。「今日は外出しない」
遠坂希:「?」
「他に処理すべきことがある」 桜庭海の低い声はどこか冷淡だった。だが、その視線は、今日の彼女の姿から離すことができずにいる。「明日、改めて付き合う」
「桜庭海」 希は、彼の名を呼んだ。
その呼び方を、桜庭海は好ましく思っていなかった。
「今日はちゃんと化粧してきたんだから」希はわざと親切に言った。「スムーズに離婚したいなら、その用事は全部キャンセルしてちょうだい。約束を守らない男は嫌いよ」
桜庭海の眼光が、刃のように鋭くなる。
彼は損得を考えた後、部屋を出て電話をかけた。かすかに聞こえてくる声には「佳苑」「病院」「再検査」という言葉が混ざっていた
ハンドバッグを握る希の手に、ぐっと力がこもる。心の中で、彼を二度、三度と罵った。
――こんな時まで、あの女のことばかり考えて。
桜庭海は彼女の感情の変化に気づいていない。ただ、今日の彼女が普段とは比べ物にならないほど美しく、いつもの穏やかな様子とはまるで違うことに驚いていた。その纏う雰囲気さえも、大きく変わってしまったように感じられた。
彼は電話を終えると、どこへ行きたいか尋ねた。希は、川市で最も大きな高級ショッピングモールの名を挙げた。
それはもう買い物ではなく、仕入れと呼ぶにふさわしいものだった。
午前十時。
彼女の後ろには四人のボディガードが控え、その両手はすでに無数のショッピングバッグで埋め尽くされていた。腕時計、宝飾品、バッグ、衣類――希は、目につくものすべてを買い漁った。
桜庭海のスマホには、カードの利用通知が次々に届いていた。
さらに別の高級宝飾店へと入っていく女の背中を見つめ、彼の顔色は鍋の底のように真っ黒になった。買い物に付き合う?とんでもない。今になって、ようやく理解した。この女は、ただ自分に嫌がらせをするためだけに、この茶番を仕組んだのだと。
話 3
「社長、レストランを予約しましょうか?」伊藤助手が、桜庭海の顔色をうかがいながら尋ねた。
桜庭海は苛立たしげに眉間を揉みしだく。「必要ない」
遠坂希が不満を発散させていることは、わかっていた。金を使うことで彼女の気が少しでも晴れるのなら、好きにさせればいい。
そう思った矢先、彼のスマートフォンに新たな決済通知が届いた。
――六億円超。
伊藤助手と四人のボディガードは、ただ黙って視線を落とす。誰もが口を開くことなく、荷物持ちという名の道具に徹していた。
希が宝飾品店から出てくると、ごく自然に、買ったばかりのジュエリーの袋を、何も持っていない伊藤に渡した。彼女が次の店へ向かおうとしたとき、桜庭海のスマートフォンが鳴った。
着信表示に目を落とした途端、彼の苛立ちが僅かに和らぎ、顰められていた眉も解ける。骨張った長い指で電話を取ると、その声は驚くほどに優しかった。「佳苑か」
伊藤助手:「……」
四人のボディガード:「……」
――社長! 奥様がまだここにいらっしゃることを、お忘れですか!
「社長、佳苑さんが病院へ検診に向かう途中で事故に遭いました! 今も手術室で、意識不明です!」 電話の向こうの声は大きく、切迫していた。「お手数ですが、こちらへお越しいただけないでしょうか。彼女、手術室に入る直前まで、ずっとあなたの名前を呼んでいたんです」
「住所を送れ。すぐに行く」 桜庭海の心臓が、きつく締め付けられた。彼は即座にそう答えた。
電話を切った後、彼は希の方に視線を向けた。
何か説明しようとしたが、やめて、遠坂希に指示を出した。「お前たちは希と買い物を続けろ。彼女が欲しがるものは何でも買え。持てないものは午後家に届けさせろ」
「はっ、承知いたしました」とボディガードたちが応じる。
桜庭海は長い脚を翻し、その場を去った。
後に残されたのは、希と、伊藤助手、そしてボディガードたち。
気まずい沈黙が、その場に流れた。
伊藤特助は、社長のメンツを保つために何か言わなければと思ったようだ。金縁メガネを押し上げ、お決まりの愛想笑いを浮かべた。「奥様、ご心配なく。社長は用事を済ませば、すぐに戻ってきます」
「お疲れ様」 希は、意味深長にそう言った。
伊藤助手:「?」
何を?
希は、華やかなモールを見渡しながら、ゆっくりと言った。「昼夜働くのはいいけど、良心に反してそんなこと言うなんてね。愛人のところに行って、途中で戻ってくる男がいると思う?」
伊藤助手:「……」
ボディガード一同:「……」
一瞬、彼ら五人の視線に、憐れみの色が浮かんだ。
これが、名家に嫁ぐということの苦しみなのかもしれない。
夫が他の女のもとへ行くのを知りながら、怒ることも、感情を露わにすることも許されないのだ。
「そんな目で私を見ないでちょうだい」
彼らの反応に、希は思わず笑ってしまった。 彼らの反応を見て、希は思わず笑った。そして現実を言った。「あなたたちが今持っている袋一つで、あなたたちの1年分、いや10年分の給料に相当するかもしれないのよ」
ズキッ!
それは、まさに会心の一撃だった。
その言葉は、あまりにも心に刺さる。
「何か欲しいものはある?」と、希が尋ねた。
五人は、一斉に顔を上げた。
頭の上には、無数の疑問符が浮かんでいる。
社長夫人の、その突飛な思考の飛躍に、誰もついていけなかった。
「あの人が愛人に会いに行くなら、私はあの人のお金であなたたちにプレゼントを買ってあげる」 希は手の中のカードを握りしめ、先程よりも少し声のトーンを落とした。
彼女自身、桜庭海が「白月光」のために自分を置き去りにしたことを、まだ気にしているとは気づいていなかった。
今の彼女が望むのはただ一つ。彼のカードの限度額を使い切ることだけだった。
伊藤助手:「!」
ボディガード一同:「!」
五人は、驚愕の眼差しで彼女を見つめた。
この人たちの反応は面白いわね、と希は思いながら、カードを片手に買い物を続けた。
桜庭海が一日中病院であの女の世話をしていると思っていた。まさか、彼らが食事をしているときに彼が戻ってくるとは。全身から冷たい気を放ち、その目は刃のように鋭かった
誰もが反応する間もなく、彼は希の腕を掴んで駐車場へと引きずっていく。
その手首を握る力は、異常なほどに強かった。
「ドンッ!」
鈍い音と共に、希は車のボディに叩きつけられた。
全身に走る痛みに、思わず眉を顰める。
――火薬でも食べたのかしら?
彼女が態勢を整えるより早く、問い詰める声が耳元で爆発した。
「なぜ佳苑を傷つけたッ!」桜庭海の全身が、凄まじい怒りに燃えていた。僅かでも理性が残っていなければ、彼は自分の力を制御できなかっただろう。「なぜ車を差し向けて彼女を轢かせた!」
「お前が欲しがった車も、家も、金も、全部やるって約束したはずだ!」
「これ以上、何がそんなに不満なんだ!」
桜庭海は、まるで地獄の底から現れたかのようだった。その身に纏う気は、森然と冷たい。
深く昏い光を宿したその双眸は、見る者を呑み込んでしまいそうなほど鋭く、冷たかった。
「私がいつ彼女を傷つけたと?」罵倒された希は、完全に混乱していた。
「今さら知らないふりか?」桜庭海の声は冷たく響いた。「買い物の時間をわざわざ今日にしたのは、このチャンスを利用して佳苑を車でひき殺させるためだったんだろう?」
「お前も知ってるだろ。俺が彼女と一緒にいるなら、たとえ俺が死んでも彼女に指一本触れさせない」
桜庭海の一言一句が、身も凍るような冷たさを帯びていた。
希は、最初は激しい怒りに襲われた。だが、彼のその言葉を聞いて、かえって冷静になった。
彼女はただ彼を見つめ、声に嘲りを滲ませる。「不貞行為を、そこまで清らかに語れるなんて。桜庭社長、あなたが初めてよ」
「遠坂希ッ!」桜庭海が吼えた。
「頭がおかしいのなら、治すべきだわ」 希は、相手が誰でも、言い出したら容赦しない。「物事を考えるときは頭を使いなさい。私がどうして離婚後の素晴らしい生活を台無しにしてまで、人を雇って彼女をひき殺す必要があるの?私に何の得があるの?」
「何の得だと?」 桜庭海の纏う気配が、ますます危険なものへと変わる。
その様子を見て、希は瞬時に理解した。「……まさか、私があなたを欲しがっているとでも?」
桜庭海は答えなかった。
だが、その表情と態度は、雄弁に語っていた。――そうではないのか、と。
「あなたに何を求めるっていうの?」希は立て続けに問い、その思考はどこまでも明晰だった。「私があなたの『身代わり』だったこと? それとも、あなたのその浮気する度胸? まさか、心の中で他の女を想い続けていることかしら?」
桜庭海:「……」
その言葉が耳に突き刺さるのを感じ、彼は弁解した。「俺は、浮気はしていない」
「精神的な浮気も、立派な不貞行為よ」 希は、一切の情けをかけなかった。
桜庭海は眉を寄せる。「話を逸らすな」
「問題を起こしているのは、あなたの方でしょう」 希は、真っ向から言い返した。
桜庭海は黙った。深渊のような暗い目が彼女を見下ろした。その強い圧迫感は、まるで今日初めて彼女を知ったかのようだった。
希は、これ以上ここで彼と時間を無駄にする気はなかった。濡れ衣を着せられるのは、ごめんだ。「彼女が、私が人を雇って轢かせたと言ったから、あなたはそれを信じているの?」
「そうだ」 桜庭海の怒りは、彼女の率直な視線を受けて徐々に鎮まっていった。だが、全身の冷気は消えない。「彼女は、俺に嘘をついたことなど一度もない。それに、彼女はお前がやったという証拠も持っている」
希は、すっと眉を上げた。
バッグを握る手に力が入った。声に感情がにじんだ。「わかったわ。車に乗りなさい。一緒に病院に行って、彼女に会ってあげる」
その言葉と共に、桜庭海の周りを覆っていた冷気が霧散した。彼女が、これほど協力的だとは、思いもよらなかったのだ。
もし本当に彼女がやったのなら、自ら現場へ赴くはずがない。
一瞬、彼の心に矛盾が生じた。
一瞬、彼の心に矛盾が生じた。あの証拠を、信じるべきか、否か。
「どいて」 自分を塞ぐように立つ彼の身体を睨みつけ、希は冷たく三文字を告げた。
桜庭海は彼女を離した。全身から拒絶の気を放つ女を見ていると、言いようのないいら立ちが湧き上がった。彼はその感情を押し殺し、車のキーを取り出してドアを開けた。