話 1
市役所の入り口に立ち尽くす清水瞳は、目元が痛くなるほど必死に涙を堪えていた。入念に施したメイクでさえ、今の彼女の憔悴しきった顔色を隠しきれていない。
彼女は、自分と同じように苦しげな表情を浮かべる目の前の男に、叶わぬと知りつつも再び懇願した。「ねぇ、もう一度だけ試してみない?私、どんな辛い苦労だって平気だから。お願いよ健太、もう一度だけ……」
男は申し訳なさそうに彼女を胸に抱き寄せると、掠れた声で言った。 「瞳、俺たち約束しただろう……俺を責めないでくれ。俺だって、どうしようもなかったんだ」
鈴木健太の肩に顔を埋めた瞳から、ついに涙が溢れ出した。男の高価なシャツがみるみる濡れていく。彼女は何度も繰り返した。 「もう一度、ねぇ、もう一度だけ……」
男の大きな手が、瞳の背中を慰めるように撫でる。 「君が苦しんでいるのは分かってる。でも、母さんが……瞳、信じてくれ。俺は君を愛してるんだ。これ以上、俺を板挟みにしないでくれ……」
何を言っても無駄だと悟った瞳は、もう感情を抑えきれなかった。人目も憚らず、子供のように声を上げて泣き崩れる。完璧だったメイクが涙でぐちゃぐちゃになることなど、もうどうでもよかった。
遅刻しそうな時でさえ、口紅の色と服のコーディネートが決まるまでは決して家を出なかったあの洗練された彼女の姿は、そこにはなかった。
鈴木家は、二人が結婚したその日から孫の誕生を待ち望んでいた。しかし二年が経っても瞳のお腹に変化はなく、義母の顔色は日増しに険しくなっていったのだ。
病院で診断書を受け取った時、瞳は頭が真っ白になった。それは診断書どころか。彼女の結婚生活に対する、残酷な判決書だった。
『永久不妊』
手続きを終えて市役所から出てきた健太は、陰鬱な表情の瞳を見て言った。 「送っていくよ」
ロビーで待っていた三十分の間に、どうにか涙は止まっていた。だが、酷い鼻声が先刻までの激しい慟哭を物語っている。
彼女は鼻をすすり、力なく手を振った。 「行って」
事態は既に決着がついたのだ。これ以上、言葉を交わしても意味がない。
健太は、今にも倒れそうな彼女の様子を見て、心配そうに肩を支えようとした。「大丈夫か?」
瞳は顔を上げ、逆にふっと笑ってみせた。赤く腫れた目と詰まった鼻声のせいで、その笑顔はあまりにも痛々しく映った。「四年間も愛した男に離婚させられたのよ。よく「大丈夫?」って聞ける?」
痛いところを突かれ、健太は気まずそうに視線を逸らす。 「瞳、ごめん……」
瞳は手を払い、大股でその場を去った。
もう「ごめん」なんて聞きたくない。聞き飽きた。
この男が言うことといえば、「ごめん」か「母さんが、母さんが」のどちらかだけだ。
こんなマザコン男を四年間も愛してきた自分が情けない。 バッグの中には、発行されたばかりの離婚届の受理証明書が入っている。それなのに、心の奥底ではまだ彼への未練を断ち切れずにいた。
道端でタクシーを拾い、遠ざかっていく瞳を見届けてから、健太はマナーモードにしていたスマホを取り出した。画面を点灯させると、「母」からの不在着信が七件も表示されている。
履歴を開く間もなく、待ちきれないとばかりに再び母から電話がかかってきた。
健太は片手で離婚証明書をパラパラとめくりながら、スマホを耳に当てた。 『別れた』
母が何を聞きたいのか分かっていたから、開口一番に答えを告げた。
電話の向こうで、母・鈴木莉子の声が弾んだ。 『あら、それは良かったわ! ずいぶん長引いたけど、あの女も本当にしつこかったんだから!』
健太は珍しく、母に対して苛立ちを露わにした。 『母さん、他に用は?』
用がないなら、どこかで酒でも煽りたい気分だった。
『あるある、大ありよ!桜ちゃんから聞いてないの? 今日の午後二時に飛行機が着くのよ。そのままあの子を家に連れてらっしゃい。加藤さんにあの子の好きなお菓子を用意させて待ってるから』
電話の向こうの莉子にとって、今日はまさに二重の喜び」だった。一つは、目の敵にしていた清水瞳がついに愛息子の元を去ったこと。もう一つは、以前から目をつけていた嫁候補が帰国し、息子との関係が進展しそうだということだ。彼女が新しい嫁になるのも時間の問題だろう。
「……分かった」 健太は書類を助手席のダッシュボードに放り込むと、母の言葉が終わるのも待たずに、乱暴に電話を切った。
瞳は家に帰った。
いや、もう「家」とは呼べない。これから先、あの家の主人が戻ってくることは二度とないのだから。 たとえ、部屋の至る所に彼の痕跡が残っていたとしても。
瞳はごく普通の家庭で育った。大学時代に鈴木健太と恋に落ちた。 商売を手広く営む鈴木家は、平凡な家柄の瞳をあまり快く思っていなかった。とはいえ、彼女が名門大学を卒業し、明るく人懐っこいばかりか容姿端麗で、大手企業では上司の評価も高いことを知るにつけ、その考えにも揺らぎが生じた。
何より、息子の健太が瞳と交際したいという強い意思を崩さず、押し切るように訴えてきた。加えて、あれほどに意志が強く、世渡りも上手そうな彼女なら、将来は家業の役に立つかもしれない——そうした打算もあって、鈴木家は結局、強い反対はしなかったのである。
だが、まさかこの令和の時代に、「跡継ぎ」を産めないという理由だけで返品されることになるとは! 彼女は鈴木家の古臭い因習を憎み、健太の優柔不断さを憎んだ。
しかし、それ以上にどうしようもない未練が胸を締め付けた。すべてを捧げて、四年間愛し抜いた男だったんだ。
寝室に戻った瞳は、布団を頭から被って眠ろうとした。傷ついた心を癒すには、眠るしかなかった。
しかし、布団にはまだ健太の匂いが残っていた。枕にも。 その匂いに包まれていては、とても眠れそうになかった。
彼女は起き上がり、気分転換にベランダへ出た。小さなテーブルの上には灰皿と、半分ほど残ったタバコの箱。健太の置き土産だ。
瞳は一本取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。 自分は、思っていたほど強くないらしい。
ここには彼の幻影が溢れすぎている。 ソファでキスをしたこと、キッチンで並んで料理をしたこと、ベランダで抱き合いながら夜景を眺めたこと。今年の冬は、瞳の実家近くの海で花火をしようと約束もしていた。
タバコが一本燃え尽きる頃には、瞳の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
彼女はその夜のうちに荷物をまとめ、逃げるように家を出た。
どこへ行く?
どこでもいい。彼の影がない場所なら。
駅の切符売り場に立った瞳は、巨大なスクリーンを五分間見上げ、聞いたこともない、けれどやけに遠そうな地名を選んだ。 『南武』
一時間後、彼女は列車に揺られていた。 車内で辞表を書き、親友の青木七海に離婚したことをメッセージで告げると、スマホの電源を切った。
硬い座席に揺られる十時間。列車を降りた時、瞳は全身が錆びついたように軋むのを感じた。凝り固まった手足をほぐしながら、人の波に乗って改札を出る。
駅の外は騒々しく、混沌としていた。 声を張り上げる露店商、強引に客引きをする白タクの運転手たち。
雑然としているが、そこには確かな生活の熱気があった。
彼女は小さなスーツケースを引きずって街を彷徨い、手際よく物件を決めた。 2LDKで家賃は月三万円。破格の安さだ。
南武は地元住民が多く住む小さな田舎町だ。瞳はまず近所を散策し、土地勘を掴むことにした。
大量の日用品を買い込んで部屋に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。疲労困憊だったが、彼女は妥協を許さない性格だ。気力を振り絞って掃除を始めた。そうでもしなければ、今夜寝る場所さえ確保できない。
すべて片付け終えたのは、深夜十二時を回っていた。 瞳は片付けで出た大きなゴミ袋を二つ抱え、階下へと降りた。
収集所のコンテナへゴミを放り込み、ようやく一息ついて戻ろうとしたその時――どこからか、微かな赤ん坊の泣き声が聞こえた。
こんな真夜中に? さすがに不気味すぎる。 まさか、この田舎町には何か「出る」のだろうか? 背筋が寒くなり、瞳は早足でその場を離れようとした。
だが十メートルほど進んだところで、ふと足を止めた。 あの声は、さっきゴミを捨てた場所のすぐ近くから聞こえていた。 空耳じゃない。本物の赤ん坊の泣き声だ。
高等教育を受けてきた彼女は、内心怯えつつも、幽霊の類を信じるようなタイプではなかった。 スマホのライトを点灯させ、恐る恐る声のする方へと近づく。
ゴミ収集コンテナの左側、暗い影の中に、布で包まれた何かが置いてあった。 声はそこから聞こえてくる。 ライトを近づけて覗き込むと、そこには一人の赤ん坊がいた。 顔を真っ赤にして泣いているが、声は弱々しい。どれくらい泣き続けていたのだろう。疲れ果てているようだ。
捨て子だ。
話 2
瞳は慌ててその赤ん坊を抱き上げ、左右を見回した。しかし、人っ子一人いない。
どうしよう? 警察に通報する? 児童養護施設へ連れて行く? それとも病院?
赤ん坊は泣き止まず、お腹が空いているのか口をパクパクさせている。 瞳は手の甲でそっとその頬に触れてみた。 マシュマロのように柔らかく、吸い付くような感触。なんて心地いいのだろう。
瞳の胸に、理由のない愛しさが込み上げた。 自分がどんなに願っても手に入らなかった宝物を、誰かがまるでゴミのように捨てていったのだ。
この子はきっとお腹が空いている。だから泣き止まないのだ。
彼女はおくるみの横に置いてあった小さなボストンバッグを開けた。中には粉ミルクと哺乳瓶、数枚の紙おむつが入っているだけで、他には何もない。誕生日や名前を書いたメモすらなく、親の非情さが窺えた。
赤ん坊が火がついたように泣き出したため、瞳はあれこれ考えるのをやめ、バッグを掴んで赤ん坊を抱き、ひとまず二階の部屋へと駆け上がった。
とにかく、まずはお腹いっぱい飲ませてあげないと。
以前、健太と妊活をしていた頃、瞳は育児書を読み漁っていた。だから突然の育児でも、手足がすくむようなことはなかった。
彼女はまず赤ん坊をソファの真ん中に寝かせ、お湯を沸かし始めた。その間におくるみを解き、服を脱がせて全身をチェックする。
男の子だった。月齢は生後二、三ヶ月といったところか。 全身に傷ひとつなく、肉付きもいい。病気をしているようには見えなかった。
それに、驚くほど顔立ちが整っている。 特にその目は、こぼれ落ちそうなほど大きく真ん丸で、瞳は漆黒の宝石のようだ。今は涙をいっぱいに溜めて、あどけない表情で瞳を見つめている。長く濃い睫毛に涙の粒が光り、桜色の小さな唇がミルクを求めて動いている様は、胸が締め付けられるほど愛らしかった。
その瞳に見つめられた瞬間、瞳の心はとろけてしまった。
着ている服もおくるみも、量販店で売っているようなありふれたもので、身元につながる手がかりは何もない。
瞳は手際よくおむつを替え、ミルクを作った。哺乳瓶の乳首を口に含ませると、赤ん坊は必死に吸い付き、ようやく泣き声が止まった。
瞳は赤ん坊を腕に抱き、ミルクを飲む小さな口元と、安心してゆっくりと閉じていく瞼を見つめた。
その温もりを感じた瞬間、全身に電流が走ったような温かい衝撃が広がった。
子供って、こんなに可愛いものだったんだ。 どうりで鈴木家のあの姑が、血眼になって催促したわけだ。
けれど残念なことだ、自分にはもう母親になる権利がない。
赤ん坊はミルクを飲み干す前に、すやすやと眠ってしまった。きっと泣き疲れたのだろう。お腹が満たされ、温かい腕の中にいることで、心から安心したに違いない。
当初はミルクを飲ませたら警察に届けるつもりだった。 しかし、腕の中で眠るこの小さな、温かい命の塊を見ていると、再び外へ連れ出し、たらい回しにするのが不憫でならなかった。
彼女は赤ん坊を抱いたまま、部屋の中を二周ほど歩き回った。 そして、ある大胆な決意を固めた。
この子を、私が育てる。
エリート街道を歩んできた理知的な瞳にとって、本来ならあり得ない無謀な選択だ。 しかし、子供がいないという理由で家庭を失ったばかりの今、この子が目の前に現れたのは、間違いなく神様がくれた贈り物だと思えた。受け取らない理由がなかった。
もしも……もしもいつか本当の親が名乗り出てきたら、その時は返せばいい。 それまでの間だけでも、母親になる喜びを味わわせてほしい。
翌日、瞳は赤ん坊を連れて家を出て、まずは警察署に届け出た。
南武のような田舎町では、毎年のように捨て子が見つかるため、警察も慣れた対応だった。 警察は瞳と赤ん坊を連れて、地元の児童養護施設へ向かった。
施設は古びた二階建ての建物だった。小綺麗な身なりの瞳が入っていくと、薄汚れた服を着た数人の子供たちが、物欲しそうな、縋るような目で彼女を見つめた。
瞳はかつての大手企業での収入証明書や学歴証明書を提示し、驚くほどスムーズに養子縁組の手続きを進めた。さらに彼女は手際よく、施設に寄付金として一百万円を包んだ。 人手不足と資金難に喘ぐ田舎の施設にとって、身元のしっかりした富裕層の引き取り手は願ってもない話であり、双方にとって喜ばしい結果となった。
引っ越してきて数日、出入りする間に多くの隣人と顔を合わせた。 皆、その赤ん坊を彼女自身の子だと思い込んでいる。 しばらく経っても父親の姿が見えないため、世間話のついでに「旦那さんは?」と聞かれることもあったが、瞳は顔色一つ変えずに答えた。 「離婚したの」
こうして、彼女は毎日母親になれた喜びと充実感に浸り、すべての愛情をその子に注いだ。 離婚による身を切られるような痛みは、慣れない育児の忙しさの中で、いつしか薄らいでいった。
それから、四年後。
「星! どうしてお友達を叩いたの!」 瞳は“お仕置き棒”代わりの細い指し棒を手に、鬼のような形相で部屋の隅に立つ男の子を睨みつけていた。
四歳になった男の子――清水星は壁に背をつけて直立させられているものの、その顔には「納得いかない」と書いてある。 「だって、あいつが僕のおもちゃを奪って壊したんだもん! フン!」
瞳の怒りはさらにヒートアップした。 「おもちゃの一つや二つ、何よ! 壊れたらママがまた買ってあげるじゃない! でも人を叩くのは絶対ダメ! もし大怪我でもさせたら、どう責任取るつもりなの!」 瞳は怒りで肩を震わせ、指し棒を振り上げたが、どうしても本当に叩くことはできなかった。
かつて会社で二十人の部下をマネジメントしていた時より、たった一人の四歳児を育てる方がよっぽど骨が折れる!
成長するにつれ、星はますますワンパクなガキ大将になっていった。 近所の子供たちは全員、彼の手荒い洗礼を受けている。瞳の元には毎日、被害者の親たちからの「苦情」が届くのだが、星には彼なりの言い分があった。
「大輝が優花ちゃんの髪を引っ張ったから、成敗してやったんだ! 正義の鉄槌だよ!」
「海斗が僕のおやつを横取りしたから、あいつの茶碗にツバを吐いてやったのさ!」
「双子の健一と健二が、わざと家の犬をけしかけて皆を泣かせたんだ。だから僕がその犬をゴミ箱に放り込んでやったんだよ。ちゃんと見つかったし問題ないだろ? ドブネズミみたいに汚れてたけど」
瞳は頭を抱えた。 一言注意すれば、十倍の屁理屈が返ってくる。これでは親の方が先に血圧で倒れてしまいそうだ。
近所の子供たちの反応は二極化していた。星を慕う子たちは彼を「ボス」と崇めて金魚の糞のようについて回り、嫌う子たちは結託していじめようとするが、そのたびに星に返り討ちにされていた。
その日、瞳が家で友達の青木七海とネット通話をしていた時のことだ。 突然、階下からおばさんの叫び声が響いた。 「清水さん! ちょっと出てきなさい! あんたんとこのガキ大将がまたやったわよ! 親ならちゃんと躾けなさいよ! できないならアタシがやってやるから!」
瞳はスマホを放り出し、急いで階段を駆け下りた。 そこには服を泥だらけにした星が立っており、隣ではおばさんが、同じく三、四歳くらいの泣きじゃくる男の子を抱きしめてあやしていた。
一目で状況は飲み込めた。またウチの悪ガキが誰かを泣かせたのだ。
瞳は愛想笑いを浮かべて平謝りしながら、道端に落ちていた手頃な小枝を拾い上げた。 形勢不利と見た星は、脱兎のごとく二階へ逃げ出した。
おばさんは腕の中の子をあやしながら、捨て台詞を吐いた。 「父親がいない子だからって大目に見てきたけど、今日という今日は許さないわよ! まったく、親の顔が見てみたいわ!」
瞳は聞こえないふりをして、星を追いかけて二階へ上がった。
この閉鎖的な田舎町において、「離婚」は格好のネタだ。それが子連れとなれば、お茶請けには最高のスパイスになる。
このアパートの美人入居者は、赤ん坊を連れてやってきたかと思えば、毎日派手に着飾って働きもせず、どうやって生活しているのか謎だらけ。
養育費をもらっているにせよ、父親が一度も顔を出さないところを見ると、とっくに捨てられたに違いない――と。
瞳は部屋の隅で立たされながらも、まだふてくされた顔をしている星を見つめた。そろそろ、寧川市に戻る潮時かもしれない。 この野山のような環境で、星はすっかり野生児になってしまった。このまま大都市の学校に入れば、間違いなく浮いてしまうし、孤立するかもしれない。子供の将来にとって良くない影響が出るだろう。
寧川市にはまだマンションが残っている。ただ、健太と暮らしたあの街に、星を連れて帰りたくはなかった。 この二年間、少し知恵がついた星は頻繁に聞いてくるようになった。 『僕のパパはどこ?』
最初は『離婚したの』と答えていた。 だが、星が言うことを聞かず、近所の心ない噂が耳に入るようになると、瞳も腹立ち紛れにこう答えるようになっていた。『死んだわよ!』
話 3
瞳は一度たりとも、元夫の鈴木健太が星の父親だなどと考えたことはなかった。寧川市を離れてからは携帯番号も変え、鈴木家界隈の人間とは一切の連絡を絶っていた。星を、健太の影がちらつく環境に近づけたくなかったからだ。
この数年、彼女は健太の消息をあえて耳に入れないようにしてきた。 きっとあの男は今頃、どこかの誰かと再婚し、念願だった自分の子供を授かって幸せに暮らしていることだろう。
夜、瞳は星を抱き寄せ、ベッドで絵本を読み聞かせた。物語が終わっても、星の目はまだぱっちりと開いたままだ。
瞳は絵本をサイドテーブルに伏せ、布団を肩まで掛け直して命じた。 「ほら、目を閉じて。もう寝なさい」
星は布団の中に鼻先までもぐり込み、少し不満そうに尋ねた。 「ママ、僕、今日本当に間違ってた?」
本当に間違っていたのか? 突き詰めれば、星に非は全くない。彼は物事の道理がよく分かっている子だ。ただ、解決手段が少々強引なだけで、辛抱強く言葉で説得するような悠長なタイプではないのだ。
瞳はいつものように「あなたが悪い」とは言わず、優しく星の頭を撫でた。 「あなたは悪くないわ」
冷静な時の瞳は、極めて理知的な女性だ。この年齢が善悪の判断を学ぶ重要な時期であり、大人が責任を持って正しく導かなければならないことを理解していた。
「じゃあ、どうして皆、僕が悪いみたいな顔をするの? ママまで僕を怒ったじゃないか」 星は納得がいかない様子だ。
「それはね、あなたのやり方が間違っていたからよ。誰かを守ろうとして、別の人を傷つけてしまったでしょう? あなたはまだ小さいから分からないかもしれないけど、世の中ではね、『弱い方が正義』だと思われがちなの。『泣く子には飴があたる』って言うでしょう? 分かる?」
「分かんないよ。ママは分かってるのに、どうして僕を怒鳴ったの?」 星の世界には、「泣いて何かをねだる」という発想は存在しない。拳で解決できることを、なぜ泣いて解決しようとするのか、彼には理解できなかった。
「それはね、あの子たちの親が怒ったからよ。もしママがあなたを叱らなかったら、あの子たちの親があなたを叱ることになるわ。他人は容赦しないから、手酷くやられるかもしれない。だからママが先に叱ったの。でも、ママは本当にあなたを傷つけたりはしなかったでしょう?」 瞳は、星が大人の世界の複雑な建前を理解できるか分からなかったが、誠実に言葉を尽くした。
「間違ったら罰せられるべきだし、正しければ褒められるべきだ。僕はそうあるべきだと思う」 星は真っ直ぐな瞳で母親を見つめた。二人とも、互いに相手を説得しようと必死だった。
瞳の胸に、温かいものが込み上げた。 子供は生まれながらにして無邪気で純粋だ。大人が自分たちすら嫌悪している汚い処世術を、無理に子供へ押し付ける必要などない。 彼女は星の額にキスをした。 「あなたの言う通りね。ごめんなさい、今日、ママが間違ってたわ。これからは、ママが間違ったことをしたら教えてくれる?」
星はようやく得意げな笑みを浮かべ、大人びた顔で重々しく頷いた。 「うん、いいよ!」
翌日、瞳が朝食を作っている間に、星はまた外へ遊びに行ってしまった。
料理が出来上がっても戻ってくる気配がない。 瞳はエプロンを外して階下へ探しに行った。するとアパートの下に数台の高級黒塗り車が停まっており、そこから黒いスーツにネクタイを締めた七、八人の若い男たちが降りてくるところだった。
近所の子供たちがピカピカに磨き上げられた車を取り囲み、羨望の眼差しで見つめている。星もその中にいて、先頭の車から降りてきた一人の若い男をじっと凝視していた。
男はサングラスをかけていたが、車を降りるとそれを外し、背後に控えていた部下が恭しく受け取った。
彼はその場に立ち止まって周囲を見回し、低く古びたアパートを見上げ、最後に目の前の子供たちに視線を落とした。 そして、その鋭い眼光は一点、星の姿に固定された。
瞳は不審に思った。 あの集団の洗練された雰囲気は、この寂れた田舎町にはあまりに不釣り合いだ。明らかに地元の人間ではない。車のナンバーを見ると、なんと遠く離れた寧川市のものだった。
瞳はトラブルに巻き込まれたくなかったし、部屋のドアも開けっ放しだ。 彼女は星に向かって大声を上げた。
「星! ご飯よ、帰ってきなさい!」
かつては人前で笑う時さえ口元を隠していた淑女が、今では一日に十回は叫ばないと息子が帰ってこない。たくましくなったものだ。
星は先頭の男を一瞥し、「はーい」と気のない返事をして瞳の元へ駆け寄った。
二人は手をつないで階段を上っていった。 瞳が手を洗い終えてリビングに戻ると、玄関のドアがノックされた。
「どなたですか?」 瞳は配膳の手を止め、ドアを開けに向かった。
防犯ドアを開けた瞬間、瞳は凍りついた。 目の前に立っていたのは、先ほど階下で男たちの先頭にいた、あの人物だったからだ。
瞳は息を飲んだ。 知人は多いし、以前の仕事柄、多くの富裕層と接してきたが、目の前の男には見覚えがない。
先ほど遠くから見た時は感じなかったが、こうして至近距離に対峙すると、理由のわからない強烈な圧迫感を覚えた。
身長は優に一八五センチを超えているだろう。仕立ての良い高級スーツに包まれた体躯は逞しく、彫りの深い顔立ちに、星のように鋭い瞳。圧倒的なオーラを放つ。
彼は今、無表情で瞳を品定めするように見下ろしている。
「誰?」 瞳はドア枠に手をかけ、警戒心を露わにして立ちはだかった。男を中に入れるつもりはない。
「天草星はどこ?」 男が口を開いた。低く、よく響く声だった。
「どなたです?」 瞳はその名前に聞き覚えがなかった。
「天草星だ」 男は繰り返した。意外にも忍耐強く、一言一言区切って言い直した。 「俺の息子、天草星だ」
瞳の心臓がドクリと跳ねた。 信じたくない、恐ろしい予感が脳裏をよぎる。 だが、彼女は表面上の平静を保った。 「存じません。人違いでしょう」 そう言ってドアを閉めようとした。
男はそれ以上何も言わず、強引にドアを押して中へ入ってきた。 部屋の中をぐるりと見回す。建物は古いが、掃除が行き届いており、至る所に子供が生活している痕跡がある。 男は満足げに頷くと、我が物顔でソファへ向かい、ゆったりと腰を下ろした。
手を洗い終えた星がリビングに出てきた。 ソファに座る見知らぬ男と、ドアのそばで強張ったまま立ち尽くす母親を見て、ただならぬ気配を察知した。
彼の目には、ママはいつも獲物を威嚇する獰猛な鷹のように映っていたが、今はまるで震える小鳥のようだ。
星は男の前に進み出ると、敵意を剥き出しにして尋ねた。 「おじさん、誰?」
精一杯、大人のような口調と態度で対抗しようとする。
男は星を見ると、口元に微かな笑みを浮かべ、手を伸ばして引き寄せようとした。 星はさっと身を引いて避けた。
男は怒ることもなく、まるで自宅のリビングにいるかのようにくつろいで言った。「俺は、お前の父親だ」
瞳は心の奥底で予感していたとはいえ、この男がはっきりと自分と星の関係を口にした瞬間、全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
この日が、本当に来てしまった。
この四年間、彼女は自分の命よりも大切に星を守り続けてきた。いつかまだ愛し足りないうちに、この子が自分の元から奪い去られてしまう日を、ずっと恐れていたのだ。
星は目を細めて男を値踏みするように見つめ、それから青ざめて一言も発しない母親に目をやった。 しばらく沈黙した後、彼は口を開いた。「あんた、死んだんじゃなかったの?」
男はドアのそばで顔面蒼白になっている瞳を一瞥した。 事情はすぐに飲み込めたようだ。 彼は瞳に警告するような冷ややかな微笑を向け、息子に向き直った。「俺はこの通りピンピンしている。お前を家に連れて帰るためにな」
瞳も星も、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
星はまだ四歳だが、幼い頃から聡明な子供だ。 母親の凍りついた表情を見て、悟ってしまった。 この男が言っていることは、たぶん嘘じゃない。