話 2
「あなたたち、ここで何をしているの?」
その時、聞き慣れた澄んだ柔らかな声が響いた。
雲野美緒はスマホを手に、廊下の突き当たりにあるテラスから扉を押して出てきた。
その目には驚きが浮かんでいたが、表情はいつもと変わらなかった。
篠原航平と白石宏樹は素早く視線を交わし、ともにほっと息をついた。
美緒がどれほど家庭を大切にし、家族を重んじているか、彼らは誰よりもよく知っていた。
もし彼女が今の会話を耳にしていたなら、これほど平然としていられるはずがない。とっくに泣き崩れ、半狂乱になって大騒ぎしているはずだからだ。
航平は薄い唇に笑みを浮かべ、前に出て彼女のバッグを受け取った。
「何でもない。来たなら、どうして中に入らなかった?」
彼は整った美しい顔立ちをしており、深いグレーのオーダーメイドの高級スーツが、すらりとした長身を引き立てていた。その気質は群を抜いていた。
雲舟テクノロジーはこの数年で急成長し、時価総額はすでに2000億を超えている。篠原航平は27歳にもならないうちに、海崎市のテック業界の新鋭として名を連ねていた。
全身から、成功した男だけが持つ目に見えない魅力が漂っていた。
彼はほんの少し身を低くし、少しばかり優しさと思いやりを見せるだけで、大抵の女はイチコロだった。
美緒の両手は氷のように冷たく、かすかに震えていた。航平は明らかにそれに触れていたのに、何ひとつ気づかなかった。
(美緒、こんな偽りの優しさに、いったい何の価値があるというの?)
(――もう、目を覚ましなさい)
美緒は淡く笑った。「電話がかかってきたから、あなたの仕事の邪魔になるかと思って、テラスに出て話していたの」
航平の表情はすっかり緩んだ。
宏樹は険しい顔で説教した。
「専業主婦になったのなら、会社にちょくちょく顔を出すのは控えなさい。たとえ来るにしても、事前に電話してアポイントを取るべきだ。でなければ航平の迷惑になるだろう? 物事の段取りがまるでなっていない。君の姉なら、絶対にこんなことはしない」
もしそれが白石美桜だったなら、彼らにとっては驚きではなく喜びになったのだろう。もちろん、何をしても「気が利いている」と受け取られるのだ。
美緒は皮肉めいた思いを胸に、うなずいた。「おっしゃる通りです」
宏樹は眉をひそめた。以前なら、こう言えば美緒は必ず言い返してくるか、自分が美桜に劣らないことを証明しようとして、わけのわからないことをしたものだった。
今日はどうしてこんなに素直なんだ?
けれど、そう素直に受け流されると、宏樹はかえって暖簾に腕押しのような虚しさを覚え、どこか見下されているような不快感すら抱いた。
きっと、美緒のこの、いつまで経っても場にふさわしくなれない感じが、どうにも鼻につくのだ。宏樹はそう結論づけた。
彼は眉を寄せて言った。「君たち、しばらく実家に顔を出していないだろう。明日、一緒に帰って夕飯を食べなさい。ちょうどうちの両親も相談したいことがあるみたいだし」
航平は言った。「わかりました。美緒を連れて帰ります」
宏樹はそれ以上、美緒に一瞥もくれず、大股で去っていった。
航平は美緒を連れてオフィスに入り、振り向いて彼女を抱きしめた。
「どうして急に来たんだ? うちの奥様は、俺が恋しくなったのか?」
慣れ親しんだシダーの香りが押し寄せてくる。美緒は手を上げて彼の胸を押さえ、目を伏せて、彼の手にあるバッグを見た。
中には、あの妊活前の健康診断票がまだ入っていた。けれど、もう取り出す必要はなかった。
彼女の拒絶を示す身体の反応はあまりにも明らかで、航平は目を伏せて彼女を見つめた。
「何を拗ねているんだ?」
美緒は顔を上げて彼を見た。一瞬、本気で平手打ちをして、その偽りの優しさを粉々に叩き壊してやりたいと思った。
けれど、破れかぶれになっても何も解決しない。
彼女は離婚する。
白石家を離れる。
そして、当時、美桜が人を雇って自分を陥れた証拠を探し出す。
遅すぎたとしても、彼女は自分のために、あるべき筋を通すのだ。
「私は本当に、何もかも美桜に及ばないの?」
航平は一瞬固まった。彼女が気にしていたのは、そのことだったのか。
彼は手を上げ、彼女の額を軽く小突いた。「君は彼女と比べる必要なんてない」
その言葉には、二通りの解釈があった。
君は彼女にまったく及ばない。
君は唯一無二の存在だ。
以前の美緒なら、きっと2つ目の意味として受け取っていただろう。けれど今の彼女には、航平が1つ目の意味で言っているのだと、はっきりわかっていた。
彼女は本当に気づいていなかった。航平が、これほど言葉の使い方に長けていたなんて。
その時、オフィスの扉が形ばかりに二度ノックされ、須藤心結がコーヒーを2杯持って入ってきた。
美緒はその流れで航平の腕から抜け出し、ソファへ向かって腰を下ろした。
心結は1杯のコーヒーを美緒の前のテーブルに置き、もう1杯を持ち上げると、腰をくねらせながら航平の前へ歩いていった。
「篠原社長、コーヒーです」
航平が受け取ると、心結の指が男の手のひらをくすぐるようになぞった。
「須藤秘書、だったかしら?」美緒が不意に口を開いた。
心結の全身がこわばり、航平も白磁のカップの持ち手を握る指に力を込めた。
彼が視線を上げると、美緒はにっこりと笑った。
「フルーツジュースに替えてほしいだけよ。私、妊活のために漢方薬を飲んでいるから、コーヒーはNGなの。……あなたたち、どうして急にそんなに緊張しているの?」
航平は言った。「替えてこい!」
彼の眉目は沈み、冷たさに警告を含んだ視線が心結へ向けられた。
心結は顔を青ざめさせ、唇を噛んだ。「申し訳ありません、奥様。すぐにお替えいたします」
彼女はコーヒーを持ち上げ、慌ただしく出ていった。
美緒はその背中を、何か考え込むように見つめていた。やがて航平の大きな体が、その視界を遮った。
彼女は小さく笑った。「お茶出しすらまともにできないなんて。篠原社長も、いつからインターンに対してこれほど甘くなったのかしら?」
航平の表情が少し緩んだ。
さっきは彼女の様子がおかしいと感じていたが、今見る限り、ただ女同士で嫉妬して張り合っているだけで、何かに気づいたわけではなさそうだった。
彼は身をかがめ、ソファの背もたれに手をついて近づき、からかうような目をした。
「嫉妬しているのか? 支援している学生が実習に来ているだけだ。まだ若くて物を知らないんだ。そんな小娘を相手に本気で気にするのか?」
小娘?
航平は忘れているのだろうか。彼女だって今年、まだ22歳にすぎない。けれど彼女は18歳の頃から彼のそばにいて、彼を助け、彼のために困難を切り開いてきた。
あの頃の雲舟テクノロジーは、まだ10人にも満たない小さなチームだった。
彼女は彼の小さな秘書から始め、つまずきながら成長し、退職前にはすでに1人で仕事を任せられる広報部の責任者になっていた。
ある時、彼女が顧客に難癖をつけられ、隠れて泣いていた時、彼は何と言ったか。
「美緒、お前が早く社会に出ると決めた以上、叩かれる覚悟はしておくべきだ。お前のミスも弱音も、誰も甘やかしてなんてくれない」
笑い話にもならない。彼女は、彼のあの厳しい要求が本当に自分のためであり、自分の成長を促すための愛の鞭だとばかり思い込んでいたのだ。
結局、彼は人を労わることを知らないわけではなかった。ただ、労わる相手が彼女ではなかったというだけの話なのだ。
……
大夏ビルを出た時、美緒はようやく全身の力を抜かれたようになり、力なく道端のベンチに崩れるように腰を下ろした。
彼女は頭を下げ、小さな顔を両手の中に埋めた。
すべての冷静さが退き、悲しみと憎しみが毒液のように、少しずつ彼女の砕けた心をむしばんでいった。
太陽は少しずつ西へ傾き、残照が消えていく。秋風が冷たい雨粒を巻き込んで吹いてきた。
枯れ葉が舞い落ち、行き交う車に踏み潰され、泥の中へ沈んでいく。その様は、彼女が執着してきた愛情と家族への思いのようだった。
どれほど時間が経っただろうか。美緒の震える体は、ようやく少しずつ落ち着いていった。
彼女は顔を上げ、スマホを取り出し、ためらいなく1本の電話をかけた。
相手はすぐに出た。美緒は口を開いたが、何度も声が出なかった。
『美緒か? 聞こえてるよ』
聞き覚えがあるようで、どこか懐かしい、澄んだ温かな声が響いた。
美緒の目頭が熱くなった。『先輩、ごめんなさい。こんな遅くに邪魔して。 聞きたいんだけど、eVTOLプロジェクトの研究、私はまだ研究室への参加を申請できる?』
美緒は息を止めた。頬が熱くなり、少しの自信もなかった。
彼女は15歳でA大学の少年班に入り、かつては航空機設計専攻の天才少女だった。
大学3年の時には、複数センサー融合による障害物回避技術で突破口を開いていた。データ融合アルゴリズムによって、ドローンの障害物回避の正確性と信頼性を高めることができたのだ。
彼女はその技術を火災現場の偵察と監視に応用し、設計したドローンは当時きわめて先進的な捜索救助用ドローンとなり、教授たちを大いに驚嘆させた。
教授は彼女のために特許を申請し、彼女を修士・博士一貫課程に進ませただけでなく、自分の最後の弟子にもした。前途は明るかった。
美緒はその特許を国に寄贈した。あの頃の美緒は、教授が最も誇りに思う学生だった。 彼女はさらに先輩たちとともにアオバフライトを創業し、軽量な空撮を主力に据えた。未来は輝いていた。
けれど4年前、彼女はすべてを顧みず、夢も学業も事業も投げ捨て、教授の期待すらも裏切って、航平のただの秘書に成り下がってしまったのだ。
教授は彼女を諦めなかった。2年前には自ら西城市から海崎市へ飛び、最新設立されたeVTOLプロジェクト研究室に参加するよう彼女を熱心に誘ったが、彼女は再び断った。
けれど今は……。
彼女は後悔していた。本当に、後悔していた。
唇を血がにじみそうなほど噛みしめた時、先輩の熱意に満ちた、少しのわだかまりもない声が聞こえた。
『もちろんだ!言っただろう。君が戻ってくる気になってくれさえすれば、僕たちはいつでも歓迎する!』
『いつ来る? 今すぐ航空券を取るよ。明日だと、さすがに急すぎるかな……』
美緒の心に温かさが戻った。『でも、教授は……』
『ああ、あの爺さんの性格、君だって知ってるだろ? まずはこっちに来て、彼を驚かせてやれ!俺が保証するよ。彼が君を見たら、きっと怒りなんて全部吹き飛ぶ。どうしてもだめなら、君の手料理を1回振る舞ってやればいい。それでもだめなら2回だ』
美緒は涙の中で笑った。『うん。毎日ご飯を作ってもいい!先輩、私、こっちであと一か月くらい、少し片づけなきゃいけないことがあるの。それでもいい?』
『もちろんいい。待ってる』
『先輩、ありがとう!』
電話を切ると、美緒の胸にのしかかっていた巨石が、まるでどこかへ動いたようだった。
一か月――。彼女は離婚してこの街を離れ、彼女自身の輝かしい花道へと歩み出すのだ。
彼女は顔を上げた。目の前は澄み渡っていた。
ちょうどその時、1台の黒いベントレーが少し離れたところを通り過ぎた。
後部座席の窓は半分開いており、若い女が艶めかしい身のこなしで、全身に気品をまとった男の膝の上にまたがり、秋の夜の寂しさの中で激しく口づけを交わしていた。
話 3
もしあの男が窓の外へ一瞥でもくれていれば、自分の妻が道端に座り込み、冷たい雨に打たれながら虚ろな瞳をしている姿が見えたはずだ。
けれど、彼は見なかった。
彼は若い女がもたらす新鮮な刺激に浸りきっていた。自分に妻がいることなど、思い出すはずもなかった。
雲野美緒は、その車が目の前からネオンの中へ消えていくのを見届けると、ベンチから立ち上がった。
彼女はバッグからあの妊活前の健康診断票を取り出し、少しずつ破り捨てると、ゆっくりと近くのゴミ箱へ投げ入れた。
そして身を翻し、反対方向へ歩き出した。
夜はすでに深く、細かな雨も降っていた。
昼間は人であふれるビジネス街も、今はひっそりと寂しげだった。
交差点には1人の老婆がしゃがみ込んでいた。真っ白な髪には街灯の下で雨霧が降りかかり、足元にはたくさんの花が置かれていた。
生きるのは楽じゃない。愛なんて、何の役に立つというのか。
美緒は結婚指輪を外すと、老婆のもとへ歩み寄り、その手を取って、指輪を掌に置き、そっと握らせた。
「雨が降っています。早めにお帰りください」
老婆は反応しなかった。美緒も待たずに、そのまま歩き出した。
2分後、黒いファントムが交差点に停まり、運転席のドアが開いた。
男の磨き上げられた尖った爪先の薄底の革靴が地面に降り立つ。スーツの裾が少し上がり、黒いドレスソックスに包まれた骨ばった足首がのぞいた。
彼は車を降りた。背が高くまっすぐな体で黒い傘を広げ、大股で歩道へ踏み出すと、よろよろと立ち上がった老婆を支えた。その眉間には重い影が差していた。
老婆はすぐに自分から非を認めた。「奏多、怒らないでおくれ。雨が降るなんて思わなかったんだよ。私は体も丈夫だから、少しくらい濡れても何ともないし……」
彼女はコンサートを聴きに行き、その帰り道、運転手がうっかり花売りの女の子を倒してしまったのだ。
運転手がその子を病院へ連れて行き、ここはグループ本社から近かったため、彼女は道端で仕事中毒の孫に迎えに来させることにした。
孫の冷たい顔の前で、老婆の声はだんだん小さくなっていった。何かを思い出したように、彼女は慌てて指輪を差し出した。
「さっき、女の子が勘違いしてね。指輪まで外して私にくれたんだよ。私が反応できないうちに、あの子は行ってしまって!早く、急いで追いかけて返しておやり!」
「あの子だよ」彼女はある方向を指さした。
藤堂奏多が目を向けると、見えたのは細くおぼろげな人影だけだった。彼女はネオンの光と影の中に溶け込んでいた。
「先に車へ」
彼は老婆を車に乗せ、車内の温度を上げ、毛布を広げてやってから、急かされるままドアを閉め、人を追いかけに向かった。
男の歩幅は大きく、遠くにあった人影は少しずつはっきりしていった。
彼女は雨の中を、急ぐでもなく歩いていた。霧がかった青のトレンチコートは雨に濡れ、細い腰はきゅっと締まり、いっそう華奢で儚げに見えた。
その背筋はまっすぐ伸びていて、どこか頑なさを帯びていた。全身の雰囲気は冷ややかで、この騒がしい世界とのあいだに一枚の膜を隔てているようだった。物語を抱えているような気配を残し、彼女は街角へ消えていった。
奏多は歩みを速めた。だが角を曲がると、彼女の姿はもう消えていた。
長い通りはがらんとしており、地面の水たまりには光と影が斑に揺れていた。さっきの姿が本当に存在したのか、思わず疑いたくなるほどだった。
奏多が車に戻ると、老婆はすぐに結果を尋ねた。
「追いつけなかったよ」
「航空会社を統括し、自ら機長として飛行機を操縦しているくせに、どうして女の子1人追いつけないんだい!」
「おばあ様、論理がめちゃくちゃです」
「黙りなさい。本当にがっかりだよ。 言っておくけど、あの子はとても綺麗で、しかも心の優しい子だったんだから!どうしてあと5分早く来なかったのさ。もしかしたら、私に孫嫁ができていたかもしれないのに!」
奏多は言った。「相手は結婚しています」
彼は指輪を老婆へ返した。見たところ、結婚指輪のようだった。
老婆は受け取らず、押し返した。
「結婚しているから何だって言うんだい? 指輪まで外したってことは、もうそういうことじゃないか。 お前はちょうど、その隙に入り込めばいいんだよ」
奏多は長い指で指輪をくるりと回した。ピンクダイヤは薄暗い光の中でもまばゆく輝いていた。
(見知らぬ女の結婚指輪を、自分が持っていてどうするというのか)
だが老婆は、彼を力いっぱい睨みつけていた。
男は折れ、指輪を無造作にセンターコンソールの上へ置いた。
彼は薄い唇に困ったような笑みを浮かべた。横顔にはどこか型破りで奔放な雰囲気があり、気だるげに言った。
「そこまで僕を買ってくださって、本当にありがとうございます」
「私は知らないよ。この指輪は少なく見ても2千万はする。お前があの子を見つけて、ちゃんと返してくるんだよ。わかったね!」
「承知しました、女王陛下」
男はそう答え、センターコンソールの指輪にちらりと目をやった。
(ちっ、面倒だ)
……
美緒はタクシーに乗ってから、2時間前に篠原航平からLINEが届いていたことに気づいた。
「奥さん、今夜は用事があって帰れない。先に寝ていて」
美緒は返信せず、画面を閉じると、そのままLINEのピン留めを外し、「大好きな旦那様」としていた表示名も変えた。
美緒は帰宅した。室内はひんやりと静まり返っていた。疲れきった体を引きずるようにして2階へ上がり、寝室のドアを開けた瞬間、彼女はその場で固まった。
寝室いっぱいに花が飾られ、バラの花びらが足元から大きなベッドの上まで続いていた。
彼女はわざわざ、一番好きなやわらかな淡黄色のシルクの寝具に替えていた。
花びらが一面に散らされ、温かくロマンチックな空間になっていた。
彼女が用意した初夜は、まるで笑い話だった。
美緒はベッドへ駆け寄ると、花びらごとシーツをひっつかみ、力任せに床へぶちまけた。
翌日、彼女は鳴り続けるインターホンの音で目を覚ました。頭は割れるように痛かった。
彼女は階下へ降り、ドアを開けた。
唐沢悠奈が殺気立った顔で外に立っていた。美緒が反応するより先に、彼女は美緒を抱きしめ、歯ぎしりしながら罵った。
「篠原航平のクソ野郎!まだ一番の富豪にもなってないくせに、待ちきれずに自分へ優秀クズ男賞でも授与したわけ? 忘れられない女が別にいるくせに、その身代わりみたいな若い女まで囲って、そのうえ外では愛妻家で家族思いの顔をしてるんだから。純愛男ぶる手口だけは、ほんと完璧ね! いったいどこの下水道のフタが開いてたら、あんな陰湿なドブネズミが這い出してきて、人を不幸にするのよ! 私は残りの人生ずっと、あいつのために祈ってやるわ。一生子どもができない体になりますように。それでも子や孫には恵まれますように――まあ、誰の血を引いてるかは知りませんけど!」
彼女は矢継ぎ早にまくし立て、思いきり罵って気を晴らした。
美緒は彼女をソファへ座らせ、水を一杯注いでやった。
悠奈はごくごくと飲み干した。美緒のやつれた顔と、目の下の青黒い隈を見て、ようやく口を閉じ、バッグから写真の束を取り出した。
「美緒……」
「大丈夫。何がわかったのか、見せて」
美緒はかえって笑みを浮かべ、彼女の手から写真を受け取った。
心の準備はしていた。それでも、その親密な写真を見た瞬間、息が詰まった。
航平は、会社からほど近い香雲ヴィラに須藤心結を囲っていたのだ。
彼は堂々と心結に付き添って買い物をし、2人は手をつないで一緒に家へ帰っていた。
夕暮れの余光の中、心結は両脚を航平の腰に絡め、あられもない格好のまま、よろめきながらヴィラへ入っていった。
心結がSNSの裏垢にアップしていたいくつかの高級ブランドバッグは、航平が美緒に贈ったものと同じ型でさえあった。
心結の最新のSNS投稿では、女の指先にダイヤのブレスレットがかかり、その指は男の胸元に添えられていた。添えられた文章はこうだった。
「彼の愛はダイヤの中に隠れている。彼の心は、手を伸ばせば届くところにある」
美緒の指の関節は白くなり、目が刺すように痛んだ。
まだ未練があるわけではない。ただ、傷ついた心がまだ血を流していて癒えていないだけだった。そして、かつて間違った相手に心を捧げてしまった自分が、ただただ痛ましかった。
(恋愛脳の代償は、やはり高くつくものね)
悠奈は勢いよく写真を奪い返し、目いっぱいの痛ましさを浮かべた。
「あいつとまだ寝てなくて本当によかった。でなきゃ婦人科に検査に行かなきゃならないところだったし、たとえ検査して何もなくても、一生気持ち悪いままだったわよ」
美緒は苦しさの中で冗談めかして言った。「そうね。私、まだ少しは運が残っていたみたい」
彼女は立ち上がって2階へ上がり、しばらくして大きな袋を2つ引きずって降りてくると、悠奈の足元へ置いた。
「全部売って。得たお金で、貧しくても向上心のある高校生や大学生を何人か選んで支援して」
それらはすべて、この数年、航平が美緒に贈ったものだった。
服、バッグ、香水、時計、宝石の類。片づけている時、美緒は気づいた。どれも金さえ出せば適当に買えるものばかりで、心がこもっていたとは到底言えなかった。
以前は、それらすべてが美緒にとって何より大切なものだった。けれど今の彼女は、クズ男本人すら要らないのだ。
(彼がくれたものなど、残しておいてどうするのか。 外に出て、愛人たちと同じ物を持っているところを見せ合うために?)
悠奈と美緒は同じ児童養護施設の出身だった。今、彼女は2人の友人と一緒に小さなスタジオを開いている。
尾行、隠し撮り、不倫現場の押さえ、使い走り、彼女のふり、代理購入、代理販売、推し活代行、犬の散歩代行……。
金さえあれば、どんな仕事でも引き受ける。
悠奈はその大きな袋2つを引き寄せ、指を鳴らした。
「任せて。貧しくても優秀な男子高校生や男子大学生を選び抜いて、あの航平にも『NTR』の屈辱を味わわせてやるわ!」
囲うだの支援するだのは、男だけの特権ではない。
美緒は思わず笑い、首を横に振った。
「それはいい。ただ、物を必要なところへ回せれば十分。それに、苦しい境遇にいる女の子がみんな須藤心結みたいなわけじゃない。 航平が何様だっていうの? 彼が腐っているからって、私まで一緒に腐る必要がある?」
悠奈はため息をつき、心の中で航平の先祖まで百回罵った。
(こんなに素敵な美绪を大切にできなかったのだ。もう二度と、取り戻せるはずがない)
「これからどうするつもり? あのクソ男、今は会社が急成長している真っ最中でしょ。ああいう成り上がりの新興成功者にとって、名誉や信用はものすごく大事なはずよ。愛妻家の人間設定を崩すわけにはいかない。たぶん、簡単には離婚に応じないと思う……」
それに悠奈は、航平の性格には偏執的なところがあり、美緒に対してまったく情がないわけでもない気がしていた。彼女には、この件がそう簡単には済まないように思えた。
……
美緒は1日中外へ出ず、家で自分の荷物をすべて整理した。いつでも出ていけるようにするためだった。
祖母が生前、彼女に小さなアパートを一部屋贈ってくれていた。美緒は離婚手続きを済ませたら、そこへ移るつもりだった。
夕方、彼女がドレッサーの前で身支度をしていると、航平が帰ってきた。白石家へ夕食を食べに行くため、彼女を迎えに来たのだ。
男は彼女の背後に立ち、肩に手を添えると、鏡越しに彼女を見つめた。
「奥さんは本当に綺麗だ」
美緒のまつ毛がかすかに震えた。彼女は振り向き、同じように顔を上げて彼を見つめると、ふいに尋ねた。
「航平、あなたは本当に私を愛してる?」
航平は身をかがめ、美緒を抱きしめようとした。
「急にどうしてそんなことを聞くんだ? このところ俺が忙しすぎて、君と過ごす時間が少なかったからか? 少し落ち着いたら休みを取って、結婚式もハネムーンもやり直そう。君、ずっとプラハへ行きたがっていただろ?」
美緒は体を後ろへ反らし、気づかれないように彼の腕を避けて言った。
「結構よ。愛していないなら、私たちは離婚しましょう。この『篠原夫人』という座に、私もそこまでしがみつく気はないから」
知り合って13年。たとえ愛情がなかったとしても、多少の情くらいは残っているはずだった。
美緒は、彼に正直に話す機会を与えたかった。そして2人に、体面の保てる終わりを与えたかった。
しかし、航平は突然、彼女の顎を強くつかんだ。
男は鋭い眉を寄せ、低い声に荒々しさを含ませた。
「離婚だと? そんなふざけた考えは今すぐ捨てろ。俺、篠原航平の辞書にあるのは『死別』だけだ。『離婚』の2文字など存在しない!」
その「死別」という一言が、美緒の耳元で雷鳴のように炸裂した。
彼女の背筋はぞっと冷え、小さな顔は青ざめた。