話 1
夫の篠原航平が女性と親密な様子でホテルに出入りしていた――友人からそんな話を聞かされても、美緒は「見間違いじゃない?」と笑って受け流すだけだった。
あの航平が浮気など、あり得るはずがない。
2人は幼馴染であり、13年もの歳月を共に歩んできたのだ。その絆は、何よりも深く揺るぎないものだった。
先月の美緒の誕生日にも、彼は海崎市で最も大きな屋外ビジョンを貸し切って華々しく祝い、街中に向けて彼女への愛を誓ってくれたばかりなのだ。
さらには、2人は今、本格的に妊活を始めたばかりなのだ。
今日、やっと妊娠可能と診断が下りたその足で、一番にこの喜びを分かち合おうと、美緒は航平のオフィスへ向かった。
最上階にあるオフィスへ直通するエレベーターを降りた途端、1人の人影に遮られた。
「どうやってここまできたんですか? アポイントのない方は、通すわけにはいきません!」
目の前に立つ女性は、鮮やかな黄色のワンピースに身を包んでいた。愛らしく整った顔立ちだが、なぜか見覚えがある気がしてならない。
彼女は両腕を広げて美緒の前に立ちはだかり、その顔にはどこか小生意気で勝ち気な色が滲んでいた。
「須藤さん、こちらは社長の奥様です。早く奥様に謝りなさい」
社長秘書の長谷川誠が急ぎ足でやってきて彼女を引き離した。その女性は一瞬驚いた後、唇を噛みながら顔を上げた。
「雲野社長、申し訳ありません。私は須藤心結と申します。篠原社長に学費を支援していただいている学生で、今は社長のお傍でインターンをさせていただく機会をいただき、大変感謝しております。 先ほどは来客の連絡を受けておりませんでしたので、規定通りお止めしてしまいました。どうかご理解ください」
無垢を装ったその瞳の奥には、チクリと刺すような言葉の棘が潜んでいた。
美緒は言葉を返すことなく、すっと目を伏せた。その視線は心結の手に落ちていた。
「綺麗な色のネイルね」
微細なラメが煌めくモランディ・ブルー。それは昨日、航平の右手の小指の爪にこびりついていた、あの見覚えのある残色と寸分違わぬものだった。
昨晩、2人でキッチンに立っていた際、それを見つけた美緒が尋ねると、航平は「仕事中にインクがついた」と事もなげに笑っていた。当時の彼女は、彼の言葉を少しも疑わなかった。
心結は慌てて両手を後ろに隠し、どこか気まずそうに顔を背けた。
その時、美緒の目に飛び込んできたのは、彼女の耳の後ろの白い首筋に刻まれた深いキスマークだった。縁には微かな歯形の痕まで残っている。
4年の交際と2年の結婚生活――航平の、秘められた歪な性癖を誰よりも熟知しているのは美緒だった。
情欲が最高潮に達したとき、彼は決まって耳の後ろへ執拗に顔を埋め、息を荒くしてこう飢えたように呟くのだ。
「なあ、いつになったら俺を受け入れてくれる? 狂いそうなほどお前が欲しいのに、我慢しすぎて全身が痛いんだ……」
数年前の凄惨な事件で子宮に深刻な重傷を負い、心身ともに酷く衰弱していた美緒は、そう簡単には孕まぬ体になっていた。
おまけに航平は避妊具に対する極度のアレルギーを抱えており、多忙な生活も相まって、結婚から2年が経つ今も、2人は本当の意味での最後の一線を越えずにいたのだ。
彼が欲望を必死に抑えて冷水シャワーを浴びに行くたび、美緒は申し訳なさと感動、そして甘い幸福感に胸を震わせてきたのである。
だからこそ、航平から子供を作ろうと提案され、仕事を辞めて家で療養に専念するよう勧められた時、美緒は何の迷いもなくそれを受け入れたのだ。
この半年間、彼女は言われるがまま苦い漢方薬を飲み続けてきたが、その心は常に甘い期待で満たされていた。
今夜は、2人にとって本当の意味での初夜になるはずだった。美緒は気恥ずかしさを堪え、普段なら決して選ばないような勝負下着までまで用意していたのだ。
だが、今になってようやくわかった。航平は本当に私を大切にし、辛抱強く待ってくれていたわけではなかった。とっくの昔から外で欲求を満たしていたのだ。
友人の忠告を笑い飛ばした自分への嘲笑。盲目的に信じ切っていた愛。それらすべてが、今や容赦のない無残な平手打ちとなって美緒のプライドを打ち砕く。彼女は全身の血が凍りついたかのように、その場に縫い付けられていた。
「奥様、社長は白石様とオフィスで打ち合わせ中です。どうぞお入りください」
我に返ると、長谷川が不満げな心結を連れて、すでにその場を離れていた。
美緒は一歩、また一歩と社長室へと歩を進めた。
オフィスのドアを押し開けた時、隙間から話し声が漏れ聞こえてきた。
「身代わりで遊ぶのは勝手だが、身近に置くなんて大胆すぎる。美緒にバレて、家の中がめちゃくちゃにならないようにしろよ」
それは、二番目の兄である白石宏樹の声だった。
雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ち尽くし、全身が冷たくなっていく。
航平の浮気を、まさか実の兄までもが知っていたとは。
「兄さん、心配いりませんよ。美緒は僕を心から信じきっていますから。 あれだけ俺を愛していて、聞き分けもいい。俺から離れられるなんて考えられない。家庭が崩壊するなんてありえませんよ。 それに、家で妊活に専念していますから、他のことに構っている余裕なんてないはずです」
航平の低く落ち着いた声は、相変わらず心地よく響く。その言葉には絶対的な自信が満ち溢れていた。
だがその響きは、今や幾重にも毒を塗った針となり、ドアを突き抜けて美緒の心臓を容赦なく刺していく。
「それもそうだな。あの時、美桜が送り込んだチンピラのせいで、美緒は二度も刺され、子宮を失いかけた。あの当時、海崎市であいつが子供を授かる体ではなくなったと知らない者はいなかったからな」
「お前が付きっきりで看病し、膝を折ってプロポーズし、海外旅行へ連れ出してあいつを絶望のどん底から引き戻してくれなければ――俺たちが美桜の犯行の証拠を隠滅し、海外へ逃がす時間を稼ぐことなど到底できなかったからな」
「もしあの件で美桜が刑務所に入ることになっていたら、あの子の人生はめちゃくちゃになっていたはずだ。 お前の美桜への想いも、大したものだ」
「だが、美桜はプライドが高い。自分の目に砂が入るのを許せない性格だ。美緒のような扱いやすい女とは違う。自分に似せた身代わりを作ったと知れば、黙っていないだろう」
「単なる遊びですよ。美桜が帰国したら、あの子とは手を切ります」
「お前が分かっているなら、それでいい」
ドアノブを掴む美緒の手は、抑えようもなく震えていた。足元から這い上がってくるような寒気が、全身を支配していく。
まるで鉄の手に心臓を鷲掴みにされ、容赦なく握り潰されたかのような衝撃に、彼女は息を詰まらせた。あまりの激痛と絶望に、背中を丸めてその場に蹲ることしかできなかった。
美緒は白石家の正真正銘の令嬢でありながら、17歳になってようやく家族に探し出された。
どれほど聞き分けのいい娘を演じ、家族の機嫌を伺っても、両親も兄たちも、養女の美桜ばかりを溺愛していた。
ただ唯一、祖母だけが美緒を心から慈しんでくれた。
18歳の誕生日のことだ。祖母は白石家に伝わるブレスレットを美緒に贈った。それに嫉妬した美桜は大声で泣き喚き、結局、両親は彼女をなだめるためだけに、10億円の豪邸を買い与えて埋め合わせをした。
だが、それから間もなくのことだった。夜道を帰宅していた美緒は、数人のチンピラに絡まれてしまう。
暗い路地へと引きずり込まれ、必死に抵抗したものの、容赦なく二度も刃物で刺された。
血まみれになった彼女を見ると、チンピラたちは怯えて逃げ去った。美緒は血の跡を残しながら、助けを求めて必死に路地を這い出した。
病院に運び込まれた時には、子宮を失いかけるほどの重体だった。
当時、この事件は社会問題として大きく報道され、世間を騒がせた。
「聞いた?白石家の探し出された令嬢、レイプされた上に子宮もダメになって、摘出することになったんだって!」
「うそ、じゃあ子供が産めない体になったってこと? もともと育ちが悪くて、何から何まであの養女に敵わなかったのに、それじゃあ一生嫁にも行けないし、白石家のお荷物ね」
「一体、何人の男に弄ばれたのかしら? 私だったら、とっくに自殺してるわ」
心ない噂と嘲笑が、洪水のように美緒を襲った。
そんな人生で最も暗い時期に、美緒の傍に寄り添い、献身的に支えてくれたのが幼馴染の航平だった。
誰もが彼女を指さす中、彼は街中の凄まじい逆風を跳ね除け、彼女に愛を告白した。
そればかりか、彼は盛大なセレモニーまで用意し、18歳になったばかりの彼女にプロポーズしたのだ。
彼女を旅行に連れ出し、その優しさで傷ついた心を癒していった。
幼い頃に溺れた時も、助けてくれたのは航平だった。あの日から、彼女はずっと彼の後ろを追いかけてきたのである。
もともと彼に密かな恋心を抱いていた美緒は、その深い慈しみに夢心地のまま溺れていった。白石家の猛反対を押し切り、当時まだ何者でもなかった彼と共に歩むことを決意したのだ。
共に起業し、狭い地下室で暮らす日々も、どんなに辛くても苦しくても怖くなかった。2年後、2人は約束通り入籍した。結婚してからも彼は変わらず優しく、恋人時代のような睦まじい日々の中で妊活を始めたはずだった。
すべてが、あまりに完璧だった。美緒にとって航平は人生を照らす光であり、自分を救い出してくれる美しい夢――過酷な運命に対する神様からの贈り物だと信じて疑わなかったのだ。
まさか思いもしなかった。航平が本当に愛していたのは、あの美桜だったなんて。
どうりで心結を初めて見た時、見覚えがあると思ったわけだ。彼女の容姿と雰囲気は、美桜のあの儚げで無垢な様子に驚くほどよく似ていたのだから。
航平が愛を囁き、プロポーズし、結婚まで決めたのは、すべては美桜の犯した罪を隠し、彼女を守るためだったのだ!
(はっ、大した純愛だこと)
(じゃあ、この私は一体何だというの?)
(彼らの偉大な愛の物語の、生贄?)
(あの大切な妹を守り抜くための、ただの犠牲?)
(こんなにも美しい夢を見せてくれたことに、感謝でもすべきなのかしら?)
「誰だ?」
ドアの向こうから、低く冷たい声が響いた。
デスクに座っていた航平が、その深い眼差しでわずかに開いたドアを一瞥すると、勢いよく立ち上がった。
彼は長い脚を力強く踏み出し、人を寄せ付けない殺気を纏ってドアへと歩み寄る。重厚な両開きのドアを乱暴に開け放ち、鋭い視線を外へと向けた。
だが、そこには誰もいない。
静まり返る廊下があるだけだった。
航平が訝しげに眉をひそめていると、長谷川が足早に近づいてきた。
「今、誰かここに来たか?」航平が威圧的な視線を向ける。
長谷川は動揺を隠しながらも、慌てて恭しく答えた。
「社長、奥様がお見えになりました。 先ほど須藤さんと鉢合わせして、少しご機嫌を損ねられたご様子でしたが……。奥様にお会いにならなかったのですか?」
「美緒が来ていたのか?」宏樹も歩み寄り、その表情に緊張が走る。
航平は眉をきつく寄せた。その瞬間、何故か得体の知れない胸騒ぎが彼を襲い、冷ややかな眼差しを長谷川に突きつける。
「すぐに監視カメラの映像を確認しろ」
話 2
「あなたたち、ここで何をしているの?」
その時、聞き慣れた澄んだ柔らかな声が響いた。
雲野美緒はスマホを手に、廊下の突き当たりにあるテラスから扉を押して出てきた。
その目には驚きが浮かんでいたが、表情はいつもと変わらなかった。
篠原航平と白石宏樹は素早く視線を交わし、ともにほっと息をついた。
美緒がどれほど家庭を大切にし、家族を重んじているか、彼らは誰よりもよく知っていた。
もし彼女が今の会話を耳にしていたなら、これほど平然としていられるはずがない。とっくに泣き崩れ、半狂乱になって大騒ぎしているはずだからだ。
航平は薄い唇に笑みを浮かべ、前に出て彼女のバッグを受け取った。
「何でもない。来たなら、どうして中に入らなかった?」
彼は整った美しい顔立ちをしており、深いグレーのオーダーメイドの高級スーツが、すらりとした長身を引き立てていた。その気質は群を抜いていた。
雲舟テクノロジーはこの数年で急成長し、時価総額はすでに2000億を超えている。篠原航平は27歳にもならないうちに、海崎市のテック業界の新鋭として名を連ねていた。
全身から、成功した男だけが持つ目に見えない魅力が漂っていた。
彼はほんの少し身を低くし、少しばかり優しさと思いやりを見せるだけで、大抵の女はイチコロだった。
美緒の両手は氷のように冷たく、かすかに震えていた。航平は明らかにそれに触れていたのに、何ひとつ気づかなかった。
(美緒、こんな偽りの優しさに、いったい何の価値があるというの?)
(――もう、目を覚ましなさい)
美緒は淡く笑った。「電話がかかってきたから、あなたの仕事の邪魔になるかと思って、テラスに出て話していたの」
航平の表情はすっかり緩んだ。
宏樹は険しい顔で説教した。
「専業主婦になったのなら、会社にちょくちょく顔を出すのは控えなさい。たとえ来るにしても、事前に電話してアポイントを取るべきだ。でなければ航平の迷惑になるだろう? 物事の段取りがまるでなっていない。君の姉なら、絶対にこんなことはしない」
もしそれが白石美桜だったなら、彼らにとっては驚きではなく喜びになったのだろう。もちろん、何をしても「気が利いている」と受け取られるのだ。
美緒は皮肉めいた思いを胸に、うなずいた。「おっしゃる通りです」
宏樹は眉をひそめた。以前なら、こう言えば美緒は必ず言い返してくるか、自分が美桜に劣らないことを証明しようとして、わけのわからないことをしたものだった。
今日はどうしてこんなに素直なんだ?
けれど、そう素直に受け流されると、宏樹はかえって暖簾に腕押しのような虚しさを覚え、どこか見下されているような不快感すら抱いた。
きっと、美緒のこの、いつまで経っても場にふさわしくなれない感じが、どうにも鼻につくのだ。宏樹はそう結論づけた。
彼は眉を寄せて言った。「君たち、しばらく実家に顔を出していないだろう。明日、一緒に帰って夕飯を食べなさい。ちょうどうちの両親も相談したいことがあるみたいだし」
航平は言った。「わかりました。美緒を連れて帰ります」
宏樹はそれ以上、美緒に一瞥もくれず、大股で去っていった。
航平は美緒を連れてオフィスに入り、振り向いて彼女を抱きしめた。
「どうして急に来たんだ? うちの奥様は、俺が恋しくなったのか?」
慣れ親しんだシダーの香りが押し寄せてくる。美緒は手を上げて彼の胸を押さえ、目を伏せて、彼の手にあるバッグを見た。
中には、あの妊活前の健康診断票がまだ入っていた。けれど、もう取り出す必要はなかった。
彼女の拒絶を示す身体の反応はあまりにも明らかで、航平は目を伏せて彼女を見つめた。
「何を拗ねているんだ?」
美緒は顔を上げて彼を見た。一瞬、本気で平手打ちをして、その偽りの優しさを粉々に叩き壊してやりたいと思った。
けれど、破れかぶれになっても何も解決しない。
彼女は離婚する。
白石家を離れる。
そして、当時、美桜が人を雇って自分を陥れた証拠を探し出す。
遅すぎたとしても、彼女は自分のために、あるべき筋を通すのだ。
「私は本当に、何もかも美桜に及ばないの?」
航平は一瞬固まった。彼女が気にしていたのは、そのことだったのか。
彼は手を上げ、彼女の額を軽く小突いた。「君は彼女と比べる必要なんてない」
その言葉には、二通りの解釈があった。
君は彼女にまったく及ばない。
君は唯一無二の存在だ。
以前の美緒なら、きっと2つ目の意味として受け取っていただろう。けれど今の彼女には、航平が1つ目の意味で言っているのだと、はっきりわかっていた。
彼女は本当に気づいていなかった。航平が、これほど言葉の使い方に長けていたなんて。
その時、オフィスの扉が形ばかりに二度ノックされ、須藤心結がコーヒーを2杯持って入ってきた。
美緒はその流れで航平の腕から抜け出し、ソファへ向かって腰を下ろした。
心結は1杯のコーヒーを美緒の前のテーブルに置き、もう1杯を持ち上げると、腰をくねらせながら航平の前へ歩いていった。
「篠原社長、コーヒーです」
航平が受け取ると、心結の指が男の手のひらをくすぐるようになぞった。
「須藤秘書、だったかしら?」美緒が不意に口を開いた。
心結の全身がこわばり、航平も白磁のカップの持ち手を握る指に力を込めた。
彼が視線を上げると、美緒はにっこりと笑った。
「フルーツジュースに替えてほしいだけよ。私、妊活のために漢方薬を飲んでいるから、コーヒーはNGなの。……あなたたち、どうして急にそんなに緊張しているの?」
航平は言った。「替えてこい!」
彼の眉目は沈み、冷たさに警告を含んだ視線が心結へ向けられた。
心結は顔を青ざめさせ、唇を噛んだ。「申し訳ありません、奥様。すぐにお替えいたします」
彼女はコーヒーを持ち上げ、慌ただしく出ていった。
美緒はその背中を、何か考え込むように見つめていた。やがて航平の大きな体が、その視界を遮った。
彼女は小さく笑った。「お茶出しすらまともにできないなんて。篠原社長も、いつからインターンに対してこれほど甘くなったのかしら?」
航平の表情が少し緩んだ。
さっきは彼女の様子がおかしいと感じていたが、今見る限り、ただ女同士で嫉妬して張り合っているだけで、何かに気づいたわけではなさそうだった。
彼は身をかがめ、ソファの背もたれに手をついて近づき、からかうような目をした。
「嫉妬しているのか? 支援している学生が実習に来ているだけだ。まだ若くて物を知らないんだ。そんな小娘を相手に本気で気にするのか?」
小娘?
航平は忘れているのだろうか。彼女だって今年、まだ22歳にすぎない。けれど彼女は18歳の頃から彼のそばにいて、彼を助け、彼のために困難を切り開いてきた。
あの頃の雲舟テクノロジーは、まだ10人にも満たない小さなチームだった。
彼女は彼の小さな秘書から始め、つまずきながら成長し、退職前にはすでに1人で仕事を任せられる広報部の責任者になっていた。
ある時、彼女が顧客に難癖をつけられ、隠れて泣いていた時、彼は何と言ったか。
「美緒、お前が早く社会に出ると決めた以上、叩かれる覚悟はしておくべきだ。お前のミスも弱音も、誰も甘やかしてなんてくれない」
笑い話にもならない。彼女は、彼のあの厳しい要求が本当に自分のためであり、自分の成長を促すための愛の鞭だとばかり思い込んでいたのだ。
結局、彼は人を労わることを知らないわけではなかった。ただ、労わる相手が彼女ではなかったというだけの話なのだ。
……
大夏ビルを出た時、美緒はようやく全身の力を抜かれたようになり、力なく道端のベンチに崩れるように腰を下ろした。
彼女は頭を下げ、小さな顔を両手の中に埋めた。
すべての冷静さが退き、悲しみと憎しみが毒液のように、少しずつ彼女の砕けた心をむしばんでいった。
太陽は少しずつ西へ傾き、残照が消えていく。秋風が冷たい雨粒を巻き込んで吹いてきた。
枯れ葉が舞い落ち、行き交う車に踏み潰され、泥の中へ沈んでいく。その様は、彼女が執着してきた愛情と家族への思いのようだった。
どれほど時間が経っただろうか。美緒の震える体は、ようやく少しずつ落ち着いていった。
彼女は顔を上げ、スマホを取り出し、ためらいなく1本の電話をかけた。
相手はすぐに出た。美緒は口を開いたが、何度も声が出なかった。
『美緒か? 聞こえてるよ』
聞き覚えがあるようで、どこか懐かしい、澄んだ温かな声が響いた。
美緒の目頭が熱くなった。『先輩、ごめんなさい。こんな遅くに邪魔して。 聞きたいんだけど、eVTOLプロジェクトの研究、私はまだ研究室への参加を申請できる?』
美緒は息を止めた。頬が熱くなり、少しの自信もなかった。
彼女は15歳でA大学の少年班に入り、かつては航空機設計専攻の天才少女だった。
大学3年の時には、複数センサー融合による障害物回避技術で突破口を開いていた。データ融合アルゴリズムによって、ドローンの障害物回避の正確性と信頼性を高めることができたのだ。
彼女はその技術を火災現場の偵察と監視に応用し、設計したドローンは当時きわめて先進的な捜索救助用ドローンとなり、教授たちを大いに驚嘆させた。
教授は彼女のために特許を申請し、彼女を修士・博士一貫課程に進ませただけでなく、自分の最後の弟子にもした。前途は明るかった。
美緒はその特許を国に寄贈した。あの頃の美緒は、教授が最も誇りに思う学生だった。 彼女はさらに先輩たちとともにアオバフライトを創業し、軽量な空撮を主力に据えた。未来は輝いていた。
けれど4年前、彼女はすべてを顧みず、夢も学業も事業も投げ捨て、教授の期待すらも裏切って、航平のただの秘書に成り下がってしまったのだ。
教授は彼女を諦めなかった。2年前には自ら西城市から海崎市へ飛び、最新設立されたeVTOLプロジェクト研究室に参加するよう彼女を熱心に誘ったが、彼女は再び断った。
けれど今は……。
彼女は後悔していた。本当に、後悔していた。
唇を血がにじみそうなほど噛みしめた時、先輩の熱意に満ちた、少しのわだかまりもない声が聞こえた。
『もちろんだ!言っただろう。君が戻ってくる気になってくれさえすれば、僕たちはいつでも歓迎する!』
『いつ来る? 今すぐ航空券を取るよ。明日だと、さすがに急すぎるかな……』
美緒の心に温かさが戻った。『でも、教授は……』
『ああ、あの爺さんの性格、君だって知ってるだろ? まずはこっちに来て、彼を驚かせてやれ!俺が保証するよ。彼が君を見たら、きっと怒りなんて全部吹き飛ぶ。どうしてもだめなら、君の手料理を1回振る舞ってやればいい。それでもだめなら2回だ』
美緒は涙の中で笑った。『うん。毎日ご飯を作ってもいい!先輩、私、こっちであと一か月くらい、少し片づけなきゃいけないことがあるの。それでもいい?』
『もちろんいい。待ってる』
『先輩、ありがとう!』
電話を切ると、美緒の胸にのしかかっていた巨石が、まるでどこかへ動いたようだった。
一か月――。彼女は離婚してこの街を離れ、彼女自身の輝かしい花道へと歩み出すのだ。
彼女は顔を上げた。目の前は澄み渡っていた。
ちょうどその時、1台の黒いベントレーが少し離れたところを通り過ぎた。
後部座席の窓は半分開いており、若い女が艶めかしい身のこなしで、全身に気品をまとった男の膝の上にまたがり、秋の夜の寂しさの中で激しく口づけを交わしていた。
話 3
もしあの男が窓の外へ一瞥でもくれていれば、自分の妻が道端に座り込み、冷たい雨に打たれながら虚ろな瞳をしている姿が見えたはずだ。
けれど、彼は見なかった。
彼は若い女がもたらす新鮮な刺激に浸りきっていた。自分に妻がいることなど、思い出すはずもなかった。
雲野美緒は、その車が目の前からネオンの中へ消えていくのを見届けると、ベンチから立ち上がった。
彼女はバッグからあの妊活前の健康診断票を取り出し、少しずつ破り捨てると、ゆっくりと近くのゴミ箱へ投げ入れた。
そして身を翻し、反対方向へ歩き出した。
夜はすでに深く、細かな雨も降っていた。
昼間は人であふれるビジネス街も、今はひっそりと寂しげだった。
交差点には1人の老婆がしゃがみ込んでいた。真っ白な髪には街灯の下で雨霧が降りかかり、足元にはたくさんの花が置かれていた。
生きるのは楽じゃない。愛なんて、何の役に立つというのか。
美緒は結婚指輪を外すと、老婆のもとへ歩み寄り、その手を取って、指輪を掌に置き、そっと握らせた。
「雨が降っています。早めにお帰りください」
老婆は反応しなかった。美緒も待たずに、そのまま歩き出した。
2分後、黒いファントムが交差点に停まり、運転席のドアが開いた。
男の磨き上げられた尖った爪先の薄底の革靴が地面に降り立つ。スーツの裾が少し上がり、黒いドレスソックスに包まれた骨ばった足首がのぞいた。
彼は車を降りた。背が高くまっすぐな体で黒い傘を広げ、大股で歩道へ踏み出すと、よろよろと立ち上がった老婆を支えた。その眉間には重い影が差していた。
老婆はすぐに自分から非を認めた。「奏多、怒らないでおくれ。雨が降るなんて思わなかったんだよ。私は体も丈夫だから、少しくらい濡れても何ともないし……」
彼女はコンサートを聴きに行き、その帰り道、運転手がうっかり花売りの女の子を倒してしまったのだ。
運転手がその子を病院へ連れて行き、ここはグループ本社から近かったため、彼女は道端で仕事中毒の孫に迎えに来させることにした。
孫の冷たい顔の前で、老婆の声はだんだん小さくなっていった。何かを思い出したように、彼女は慌てて指輪を差し出した。
「さっき、女の子が勘違いしてね。指輪まで外して私にくれたんだよ。私が反応できないうちに、あの子は行ってしまって!早く、急いで追いかけて返しておやり!」
「あの子だよ」彼女はある方向を指さした。
藤堂奏多が目を向けると、見えたのは細くおぼろげな人影だけだった。彼女はネオンの光と影の中に溶け込んでいた。
「先に車へ」
彼は老婆を車に乗せ、車内の温度を上げ、毛布を広げてやってから、急かされるままドアを閉め、人を追いかけに向かった。
男の歩幅は大きく、遠くにあった人影は少しずつはっきりしていった。
彼女は雨の中を、急ぐでもなく歩いていた。霧がかった青のトレンチコートは雨に濡れ、細い腰はきゅっと締まり、いっそう華奢で儚げに見えた。
その背筋はまっすぐ伸びていて、どこか頑なさを帯びていた。全身の雰囲気は冷ややかで、この騒がしい世界とのあいだに一枚の膜を隔てているようだった。物語を抱えているような気配を残し、彼女は街角へ消えていった。
奏多は歩みを速めた。だが角を曲がると、彼女の姿はもう消えていた。
長い通りはがらんとしており、地面の水たまりには光と影が斑に揺れていた。さっきの姿が本当に存在したのか、思わず疑いたくなるほどだった。
奏多が車に戻ると、老婆はすぐに結果を尋ねた。
「追いつけなかったよ」
「航空会社を統括し、自ら機長として飛行機を操縦しているくせに、どうして女の子1人追いつけないんだい!」
「おばあ様、論理がめちゃくちゃです」
「黙りなさい。本当にがっかりだよ。 言っておくけど、あの子はとても綺麗で、しかも心の優しい子だったんだから!どうしてあと5分早く来なかったのさ。もしかしたら、私に孫嫁ができていたかもしれないのに!」
奏多は言った。「相手は結婚しています」
彼は指輪を老婆へ返した。見たところ、結婚指輪のようだった。
老婆は受け取らず、押し返した。
「結婚しているから何だって言うんだい? 指輪まで外したってことは、もうそういうことじゃないか。 お前はちょうど、その隙に入り込めばいいんだよ」
奏多は長い指で指輪をくるりと回した。ピンクダイヤは薄暗い光の中でもまばゆく輝いていた。
(見知らぬ女の結婚指輪を、自分が持っていてどうするというのか)
だが老婆は、彼を力いっぱい睨みつけていた。
男は折れ、指輪を無造作にセンターコンソールの上へ置いた。
彼は薄い唇に困ったような笑みを浮かべた。横顔にはどこか型破りで奔放な雰囲気があり、気だるげに言った。
「そこまで僕を買ってくださって、本当にありがとうございます」
「私は知らないよ。この指輪は少なく見ても2千万はする。お前があの子を見つけて、ちゃんと返してくるんだよ。わかったね!」
「承知しました、女王陛下」
男はそう答え、センターコンソールの指輪にちらりと目をやった。
(ちっ、面倒だ)
……
美緒はタクシーに乗ってから、2時間前に篠原航平からLINEが届いていたことに気づいた。
「奥さん、今夜は用事があって帰れない。先に寝ていて」
美緒は返信せず、画面を閉じると、そのままLINEのピン留めを外し、「大好きな旦那様」としていた表示名も変えた。
美緒は帰宅した。室内はひんやりと静まり返っていた。疲れきった体を引きずるようにして2階へ上がり、寝室のドアを開けた瞬間、彼女はその場で固まった。
寝室いっぱいに花が飾られ、バラの花びらが足元から大きなベッドの上まで続いていた。
彼女はわざわざ、一番好きなやわらかな淡黄色のシルクの寝具に替えていた。
花びらが一面に散らされ、温かくロマンチックな空間になっていた。
彼女が用意した初夜は、まるで笑い話だった。
美緒はベッドへ駆け寄ると、花びらごとシーツをひっつかみ、力任せに床へぶちまけた。
翌日、彼女は鳴り続けるインターホンの音で目を覚ました。頭は割れるように痛かった。
彼女は階下へ降り、ドアを開けた。
唐沢悠奈が殺気立った顔で外に立っていた。美緒が反応するより先に、彼女は美緒を抱きしめ、歯ぎしりしながら罵った。
「篠原航平のクソ野郎!まだ一番の富豪にもなってないくせに、待ちきれずに自分へ優秀クズ男賞でも授与したわけ? 忘れられない女が別にいるくせに、その身代わりみたいな若い女まで囲って、そのうえ外では愛妻家で家族思いの顔をしてるんだから。純愛男ぶる手口だけは、ほんと完璧ね! いったいどこの下水道のフタが開いてたら、あんな陰湿なドブネズミが這い出してきて、人を不幸にするのよ! 私は残りの人生ずっと、あいつのために祈ってやるわ。一生子どもができない体になりますように。それでも子や孫には恵まれますように――まあ、誰の血を引いてるかは知りませんけど!」
彼女は矢継ぎ早にまくし立て、思いきり罵って気を晴らした。
美緒は彼女をソファへ座らせ、水を一杯注いでやった。
悠奈はごくごくと飲み干した。美緒のやつれた顔と、目の下の青黒い隈を見て、ようやく口を閉じ、バッグから写真の束を取り出した。
「美緒……」
「大丈夫。何がわかったのか、見せて」
美緒はかえって笑みを浮かべ、彼女の手から写真を受け取った。
心の準備はしていた。それでも、その親密な写真を見た瞬間、息が詰まった。
航平は、会社からほど近い香雲ヴィラに須藤心結を囲っていたのだ。
彼は堂々と心結に付き添って買い物をし、2人は手をつないで一緒に家へ帰っていた。
夕暮れの余光の中、心結は両脚を航平の腰に絡め、あられもない格好のまま、よろめきながらヴィラへ入っていった。
心結がSNSの裏垢にアップしていたいくつかの高級ブランドバッグは、航平が美緒に贈ったものと同じ型でさえあった。
心結の最新のSNS投稿では、女の指先にダイヤのブレスレットがかかり、その指は男の胸元に添えられていた。添えられた文章はこうだった。
「彼の愛はダイヤの中に隠れている。彼の心は、手を伸ばせば届くところにある」
美緒の指の関節は白くなり、目が刺すように痛んだ。
まだ未練があるわけではない。ただ、傷ついた心がまだ血を流していて癒えていないだけだった。そして、かつて間違った相手に心を捧げてしまった自分が、ただただ痛ましかった。
(恋愛脳の代償は、やはり高くつくものね)
悠奈は勢いよく写真を奪い返し、目いっぱいの痛ましさを浮かべた。
「あいつとまだ寝てなくて本当によかった。でなきゃ婦人科に検査に行かなきゃならないところだったし、たとえ検査して何もなくても、一生気持ち悪いままだったわよ」
美緒は苦しさの中で冗談めかして言った。「そうね。私、まだ少しは運が残っていたみたい」
彼女は立ち上がって2階へ上がり、しばらくして大きな袋を2つ引きずって降りてくると、悠奈の足元へ置いた。
「全部売って。得たお金で、貧しくても向上心のある高校生や大学生を何人か選んで支援して」
それらはすべて、この数年、航平が美緒に贈ったものだった。
服、バッグ、香水、時計、宝石の類。片づけている時、美緒は気づいた。どれも金さえ出せば適当に買えるものばかりで、心がこもっていたとは到底言えなかった。
以前は、それらすべてが美緒にとって何より大切なものだった。けれど今の彼女は、クズ男本人すら要らないのだ。
(彼がくれたものなど、残しておいてどうするのか。 外に出て、愛人たちと同じ物を持っているところを見せ合うために?)
悠奈と美緒は同じ児童養護施設の出身だった。今、彼女は2人の友人と一緒に小さなスタジオを開いている。
尾行、隠し撮り、不倫現場の押さえ、使い走り、彼女のふり、代理購入、代理販売、推し活代行、犬の散歩代行……。
金さえあれば、どんな仕事でも引き受ける。
悠奈はその大きな袋2つを引き寄せ、指を鳴らした。
「任せて。貧しくても優秀な男子高校生や男子大学生を選び抜いて、あの航平にも『NTR』の屈辱を味わわせてやるわ!」
囲うだの支援するだのは、男だけの特権ではない。
美緒は思わず笑い、首を横に振った。
「それはいい。ただ、物を必要なところへ回せれば十分。それに、苦しい境遇にいる女の子がみんな須藤心結みたいなわけじゃない。 航平が何様だっていうの? 彼が腐っているからって、私まで一緒に腐る必要がある?」
悠奈はため息をつき、心の中で航平の先祖まで百回罵った。
(こんなに素敵な美绪を大切にできなかったのだ。もう二度と、取り戻せるはずがない)
「これからどうするつもり? あのクソ男、今は会社が急成長している真っ最中でしょ。ああいう成り上がりの新興成功者にとって、名誉や信用はものすごく大事なはずよ。愛妻家の人間設定を崩すわけにはいかない。たぶん、簡単には離婚に応じないと思う……」
それに悠奈は、航平の性格には偏執的なところがあり、美緒に対してまったく情がないわけでもない気がしていた。彼女には、この件がそう簡単には済まないように思えた。
……
美緒は1日中外へ出ず、家で自分の荷物をすべて整理した。いつでも出ていけるようにするためだった。
祖母が生前、彼女に小さなアパートを一部屋贈ってくれていた。美緒は離婚手続きを済ませたら、そこへ移るつもりだった。
夕方、彼女がドレッサーの前で身支度をしていると、航平が帰ってきた。白石家へ夕食を食べに行くため、彼女を迎えに来たのだ。
男は彼女の背後に立ち、肩に手を添えると、鏡越しに彼女を見つめた。
「奥さんは本当に綺麗だ」
美緒のまつ毛がかすかに震えた。彼女は振り向き、同じように顔を上げて彼を見つめると、ふいに尋ねた。
「航平、あなたは本当に私を愛してる?」
航平は身をかがめ、美緒を抱きしめようとした。
「急にどうしてそんなことを聞くんだ? このところ俺が忙しすぎて、君と過ごす時間が少なかったからか? 少し落ち着いたら休みを取って、結婚式もハネムーンもやり直そう。君、ずっとプラハへ行きたがっていただろ?」
美緒は体を後ろへ反らし、気づかれないように彼の腕を避けて言った。
「結構よ。愛していないなら、私たちは離婚しましょう。この『篠原夫人』という座に、私もそこまでしがみつく気はないから」
知り合って13年。たとえ愛情がなかったとしても、多少の情くらいは残っているはずだった。
美緒は、彼に正直に話す機会を与えたかった。そして2人に、体面の保てる終わりを与えたかった。
しかし、航平は突然、彼女の顎を強くつかんだ。
男は鋭い眉を寄せ、低い声に荒々しさを含ませた。
「離婚だと? そんなふざけた考えは今すぐ捨てろ。俺、篠原航平の辞書にあるのは『死別』だけだ。『離婚』の2文字など存在しない!」
その「死別」という一言が、美緒の耳元で雷鳴のように炸裂した。
彼女の背筋はぞっと冷え、小さな顔は青ざめた。