話 2
凛は蛇口を固くひねり、飛び散る水滴をペーパータオルで拭き取った。湿った紙を、まるで憎い何かを捨てるかのように、ゴミ箱に叩きつける。
洗面所のドアを開け、ナースステーションへと続く廊下を歩く。その足取りが立てる微かな風が、やけに冷たく感じられた。
ナースステーションの前まで来ると、同僚の中村美咲が、身を乗り出すようにしてVIP病棟の方を窺っているのが見えた。その顔は、下世話な好奇心で輝いている。
凛の姿に気づくと、中村はすぐに駆け寄ってきた。
「桐山さん、さっき鷹司様を怒らせちゃったの?すごい剣幕だったけど」
声を潜め、興奮を隠しきれない様子で尋ねる。
凛は無表情のまま、デスクの上に散らかったカルテを整理し始めた。プラスチックのファイルが、カチャリと乾いた音を立てる。
「知らない人よ」
冷たく、短く答えた。
その時、VIP病棟のドアが静かに開き、鷹司暁がスマートフォンを片手に姿を現した。その顔は不機嫌そうに歪み、電話の向こうの相手、おそらく秘書だろう、に転院の手続きを指示している。
「……ああ、すぐに手配しろ。ヘリオス・メディカルの特別室だ」
ドアの隙間から、彩萌の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。
「暁さん、ここのベッド、硬くていや……」
途端に、暁の声のトーンが変わる。氷のようだった声が、彩萌をあやすように、わずかに温度を取り戻した。
「ああ、わかっている。すぐに移るから、もう少しだけ我慢しろ」
凛の指が、無意識に強く握りしめられた。持っていたカルテの角が、指の腹に食い込み、深い赤い跡を残す。
「鷹司様って、本当に素敵な人よね。あんな風に愛されてみたいわあ」
隣で中村がうっとりとため息をつく。その言葉が、凛の胃の腑に溜まった鉛を、さらに重くした。吐き気がする。
暁が電話を終え、病室に戻ろうと体を翻した。その視界の端に、ナースステーションに立つ凛の姿が映る。彼の眉が、即座に不快そうに寄せられた。
大股で、迷いなくこちらに歩いてくる。
凛の目の前で立ち止まり、その長身が見下ろす影が、凛の体に落ちた。
「余計なことを嗅ぎ回るな。彩萌の名誉を傷つけるような真似をしたら、どうなるか分かっているな」
脅迫。その目は、まるで汚物でも見るように冷え切っている。
凛はゆっくりと顔を上げた。暁の、氷のような瞳を、まっすぐに見返す。
心の中で、冷たく嗤った。どうせもう終わる関係だ。詩織のことは絶対に知られない。暁は、自分が子供を作れないと固く信じている。その傲慢な思い込みこそが、彼にとって最高の目隠しになる。
凛は、その確信を胸に、唇の端に嘲りの色を浮かべた。そして、自分の指先を軽くこすり合わせながら、二人だけにしか聞こえないような、囁く声で言った。
「鷹司様こそ、ご自分のお体をもう少し気遣われた方がよろしいのではなくて?七年間、妻に指一本触れられなかった方のようには見えませんから」
暁の目が、鋭く光った。彼が何か言い返す前に、好奇心に満ちた中村が顔を近づけてきた。
「え、桐山さん、今なんて?」
凛は、わざとらしく大きなため息をついた。そして、声を潜めたまま、中村だけに聞こえるように答えた。
「なんでもないわ。ただの夫婦喧嘩の延長よ」
だが、中村はその短い言葉だけで、自分の想像力を膨らませたらしい。目を大きく見開き、口元を手で覆った。鷹司暁を見る彼女の視線が、一瞬にして、憧憬から好奇心へと変わった。
「なっ……!」
暁の顔が、みるみるうちに鉄色に変わっていく。額に青筋が浮かび、怒りで肩が震えているのが分かった。彼の手が、凛の腕を掴もうと、素早く伸びてくる。
だが、凛は予測していた。
素早く半歩下がり、彼の接触を避ける。その目に宿るのは、汚いものに触れられたくないという、あからさまな拒絶だった。
「鷹司様、高田主任がお呼びです!」
廊下の向こうから、別の看護師の声が飛んできた。その声が、暁の爆発寸前の怒りを、かろうじて押しとどめた。
暁は、食いしばった歯の間から、獣のような唸り声を漏らした。人差し指で凛を突きつけるように指し示す。
「……覚えておけ」
それだけを言い残し、彼は踵を返して主任の元へと歩き去った。
その背中に向かって、凛は心の中で冷たく笑った。
もう何も、覚えておく必要などない。
凛はナースステーションを離れ、自分の当直室へと向かった。ドアを開け、内側から鍵をかける。カチャリ、という金属音が、外界との隔絶を告げた。
途端に、息が苦しくなる。閉ざされた狭い空間が、凛の奥深くに眠っていた幽閉恐怖症の引き金を引いた。ドアに背中を預け、ずるずると床に座り込む。浅い呼吸を繰り返し、額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭った。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出すと、画面には暁からのメッセージが表示されている。
『今夜は別荘に帰ってくるな。目障りだ』
その無慈悲な文字列。
凛の脳裏に、七年前の新婚の夜が蘇る。
『鷹司の家に、お前が生んだ跡継ぎは必要ない』
そう言い放った彼の目は、今夜と同じ、氷のような色をしていた。
ずっと、分からなかった。なぜ、あれほどまでに子供を拒絶するのか。
今なら分かる。
彼は、彩萌との間に生まれる子供のために、その場所を空けておきたかったのだ。
胃が、鋭い痛みを伴って痙攣した。凛は床にうずくまり、痛みが過ぎ去るのをじっと待つ。どれくらいの時間が経っただろうか。
痛みが波のように引いていくと、凛はゆっくりと立ち上がった。
壁際のロッカーに向かい、自分のハンドバッグを取り出す。
その奥の、内ポケットに隠していた、一通の封筒。
外から、清掃員の女性たちの話し声が聞こえてくる。VIP病棟の片付けをしながら、鷹司様のお相手は本当に幸運だと羨む声。
凛は、その声をBGMのように聞き流しながら、封筒をバッグにしまった。
瞳には、もう迷いの色はなかった。
白衣を脱ぎ、ハンガーにかける。代わりに、クローゼットの奥から、自分のトレンチコートを取り出した。ベルトを、きつく締める。
当直室のドアを開ける。
廊下の突き当たりの窓から、朝の最初の光が差し込んでいる。
凛は、その光に向かって、迷いのない足取りで、まっすぐに歩き出した。
話 3
タクシーのドアが閉まる音で、凛は現実に引き戻された。
「ありがとうございました」
運転手に料金を払い、車を降りる。冷たい秋の風が、トレンチコートの襟元から入り込み、肌を刺した。
目の前には、重厚な門構えの洋館がそびえ立っている。
鷹司家の別荘。
七年間、凛を閉じ込めてきた、豪華な鳥籠。
その建物を見上げる凛の瞳は、氷のように冷え切っていた。
暗証番号を押し、重い鉄の門を開ける。広い玄関には、見慣れたピンク色のハイヒールが、無造作に脱ぎ捨てられていた。緒方彩萌が好んで履く、派手なデザインの靴。その存在が、無言で昨夜の出来事を物語っている。
家政婦の斎藤が、玄関ホールで花瓶の水を替えていた。凛の姿を認めると、面倒くさそうに会釈を一つしただけだった。「奥様」という言葉は、もう何年も前から彼女の口から聞かれなくなっていた。
凛は、使用人のあからさまな侮蔑を意に介さず、広すぎるリビングを横切り、二階の自室へと向かった。
寝室のドアを開ける。
ひやりとした、人の気配のない空気が肌を撫でた。この部屋に、鷹司暁が足を踏み入れたのは、七年間で数えるほどしかない。
凛はまっすぐベッドサイドキャビネットに向かった。テーブルランプを少しずらすと、隠された指紋認証センサーが現れる。親指を当てると、壁の一部が静かにスライドし、小さな金庫が現れた。
中から、一枚の写真を取り出す。
詩織が生後一ヶ月の時の写真。小さな、しわくちゃの顔。その頬を、凛の指が優しくなぞる。この写真だけが、この冷たい家で凛が力を得るための、唯一の源だった。
写真をコートの内ポケットに大切にしまい、今度はハンドバッグから、今朝病院から持ち出したファイルを取り出した。
七年前、鷹司家の先代当主、つまり暁の祖父にサインを強要された、離婚合意書。
その書類の一番下に記された日付。
『本合意は、婚姻届提出日より満七年をもって自動的に発効するものとする』
今日が、その満七年の日だった。
凛の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。
すべては、最初から決められていたことだったのだ。
その時、階下から乱暴に車のエンジンが止められる音が聞こえた。続いて、玄関のドアが叩きつけるように開けられる。
凛は、合意書を手に寝室を出た。二階の吹き抜けから、冷たい怒りの空気をまとって家に入ってくる鷹司暁の姿を見下ろす。
彼は、つけていたネクタイを苛立たしげに引き抜き、ソファに投げつけた。そして顔を上げ、階段の上に立つ凛の姿を捉える。
その目に、あからさまな嫌悪が宿った。
「なぜまだいる。出て行けと言ったはずだ」
凛は無言で階段を降り始めた。ハイヒールの踵が、磨き上げられた木の床を打ち、乾いた音を立てる。一歩一歩が、過去の屈辱を踏みしめていくようだった。
暁の前に立つ。
そして、持っていた離婚合意書を、彼の目の前のローテーブルに、叩きつけるように置いた。
暁は、その表紙を一瞥し、眉をひそめた。また何か、新しい芝居が始まったのかと、その目が語っている。
「七年の期限が来たわ」
凛の声には、何の感情もこもっていなかった。
「最近、役所に離婚届を出しに行く。それで、すべて終わり」
暁は、一瞬、虚を突かれたように固まった。だが、すぐに彼の唇が、冷たい嘲笑の形に歪んだ。
「俺から離れて、お前のような女が生きていけるとでも思っているのか?」
その言葉に、凛は背筋を伸ばした。彼の目を、まっすぐに見返す。
「『鷹司の奥様』。その称号は、私にとって吐き気がするだけよ」
その一言が、暁の逆鱗に触れた。
彼は猛然と立ち上がり、その大きな手が、凛の顎を鷲掴みにした。骨が軋むほどの、強い力。
「俺の忍耐力を試すな」
彼の目が、危険な光を放っている。
「彩萌は今、安静が必要なんだ。お前のくだらない茶番に付き合っている暇はない」
顎に走る激痛に、凛は唇を固く結んだ。娘の存在だけは、この男に知られてはならない。その一心で、痛みに耐える。
凛の、決して屈しない瞳を見て、暁は得体の知れない苛立ちを感じた。舌打ちを一つし、まるで汚いものでも払いのけるかのように、凛の顎から手を離した。
ポケットからハンカチを取り出し、凛に触れた指先を、念入りに拭っている。
その仕草が、凛の心に残っていた最後の一片の未練を、完全に灰に変えた。
ソファによろめいた凛は、立ち上がり、テーブルの上の合意書には目もくれず、二階へと戻っていった。
ベッドの下から、スーツケースを引きずり出す。
中に入れるのは、数枚の着替えと、数冊の医学専門書だけ。この家に、凛の私物と呼べるものは、ほとんどなかった。
ドレッサーの前に立ち、左手の薬指にはめられた、冷たい感触の指輪を外す。
七カラットの、完璧なダイヤモンド。
それを、何の躊躇もなく、ガラスの天板の上に放り投げた。
カシャン、という硬質で、澄んだ音が部屋に響く。
その音は、凛と鷹司家の関係が、完全に断ち切られたことを告げる、終わりの合図だった。
スーツケースのジッパーを閉め、それを引きずって、寝室を出る。
誰もいないリビングを横切り、玄関のドアを開ける。
深まる秋の、冷たい夜気の中に、凛は一人、足を踏み出した。