話 1
「パパはいつ帰ってくるの?」
スマートフォンの画面に表示された、娘からの無邪気な音声メッセージ。凛は指を画面の上に浮かせたまま、凍りついた。
休憩室の硬い椅子に深く腰掛け、白衣のポケットからスマートフォンを取り出したばかりだった。画面には、五歳になる娘、詩織の満面の笑みが映っている。公園の滑り台の上で、太陽の光を浴びて目を細めている写真。それだけで、二十四時間勤務の疲労が少しだけ和らぐ気がした。
心臓がきゅっと酸っぱい痛みで締め付けられる。この小さな存在が、今の凛を支える唯一の柱だった。
指で画面をスワイプし、他の写真を見ようとした瞬間、メッセージアプリの通知がポップアップしたのだ。詩織の声。甘えるような、少し舌足らずな発音。
凛は深く息を吸い込み、喉の奥の罪悪感を飲み下してから、音声入力のボタンを押した。
「パパはね、海外に出張中なのもうすぐ帰ってくるから、いい子で待っててね」
声が、自分でも驚くほど乾いていた。指先が氷のように冷たい。
その時だった。
ドアの外の廊下から、けたたましいストレッチャーの車輪の音と、看護師の切羽詰まった叫び声が響いてきた。
「急患です!至急、処置室の準備を!」
凛の思考は中断された。医者としての本能が、身体を突き動かす。スマートフォンを乱暴にポケットに押し込み、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
休憩室のドアを押し開け、廊下に飛び出す。
蛍光灯の光が、白い壁と床に反射して、すべてを青白く照らし出していた。
数歩走ったところで、前方を塞ぐ人だかりに阻まれ、凛は足を止めざるを得なかった。ストレッチャーを囲むようにして、医師や看護師が慌ただしく動いている。
目を凝らし、患者の様子を窺おうとした凛の視界に、ある一点が突き刺さった。
人垣の中に立つ、長身の背中。
濃いグレーの、体に吸い付くような高級なスーツ。
見間違えるはずのない、そのシルエットに、凛の瞳孔が急速に収縮した。
背中が、ゆっくりとこちらを向く。看護師に何かを低い声で指示している。その冷たく、彫刻のように整った横顔。
鷹司暁。
凛の、七年間、法律上の夫だった男。
その瞬間、凛の呼吸が止まった。肺から空気がすべて奪われたような感覚。
視線が、彼の手に引き寄せられる。
暁の大きな手が、ストレッチャーに横たわる女性の手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめている。
ストレッチャーの上の女性が、苦痛に満ちた呻き声を漏らし、顔をこちらに向けた。
長い髪が乱れ、汗で額に張り付いている。その顔を見て、凛の胃がひっくり返るような衝撃に襲われた。
緒方彩萌。
凛の、義理の妹。
「患者は緒方彩萌さん、二十六歳激しい性行為による裂傷からの出血です!」
若い看護師が、当直医に早口で報告する声が、凛の耳に突き刺さった。世界から音が消え、ただその言葉だけが、頭の中で何度も反響する。耳鳴りがひどい。
彩萌の、涙に濡れた瞳が、人々の肩越しに、まっすぐに凛を捉えた。その目の奥に、一瞬だけ、挑発的な、勝利を確信した光が宿るのを、凛は見逃さなかった。
次の瞬間、彩萌は怯えた小動物のように身を縮こませ、暁の腕の中に顔を埋めた。
「暁さん、怖い……ここの人たち、嫌……」
か細い声で、医者の診察を拒むように身を捩る。
暁は即座に反応した。着ていたスーツの上着を脱ぎ、彩萌の体を覆うように、そっとかける。その手つきは、まるで壊れやすいガラス細工に触れるかのように、驚くほど優しかった。
凛は、自分の指の爪が、掌に深く食い込んでいることに気づかなかった。
そして、暁が振り返った。
氷のように冷たい視線が、廊下を滑り、立ち尽くす凛の姿を捉えた。
二人の視線が、空中で激突する。
時間が、凍りついた。
暁の目に、妻に不貞の現場を押さえられた動揺や狼狽の色は、微塵もなかった。
そこにあるのは、ただ純粋な嫌悪。
まるで、視界に入った汚物でも見るような、冷え切った侮蔑の色だった。
廊下の隅で、他の看護師たちがひそひそと囁き合っているのが聞こえた。
「鷹司財閥の若様、婚約者の方に本当に夢中なのね」
「あんなに大事にされて、羨ましいわ」
その一言一句が、見えない平手打ちとなって、凛の頬を打ち据える。
婚約者。
暁は、その誤解を訂正しようともしない。彩萌の身分を、暗黙のうちに肯定している。
凛の唇の端に、乾いた、自嘲的な笑みが浮かんだ。
「鷹司様!これは一体……」
救急科の主任である高田が、額に汗を浮かべながら駆け寄ってきた。財閥の御曹司を前に、見るからに萎縮している。
「高田先生、君が診ろ」
暁が、有無を言わせぬ冷たい声で命じた。
「は、はい!もちろんですとも!」
高田は何度も頷き、そして、ストレッチャーの行く手を阻むように立っている凛に気づいた。
「おい、桐山!そこで何をしている!邪魔だ、どきたまえ!」
高田は、凛の肩を乱暴に押しのけた。
ぐらり、と体が傾き、凛の背中が冷たい壁に強く打ち付けられる。肩甲骨に、鈍い痛みが走った。
暁が、その様子を見下ろしていた。薄い唇が、わずかに開く。
「消えろ」
氷の破片のような、二文字。
凛は、奥歯を強く噛みしめた。反論する言葉は、何一つ浮かんでこなかった。
ただ、黙って体を横にずらし、通路を空ける。俯いた長い睫毛が、瞳に浮かんだ絶望の色を隠していた。
暁が、彩萌の乗ったストレッチャーを庇うようにして、凛の目の前を通り過ぎていく。
彼の体から漂う、使い慣れたコロンの香り。七年間、慣れ親しんだはずのその香りが、今は吐き気を催させた。
すれ違いざま、彩萌がわざとらしく、甘えたような痛みの声を上げた。暁の腕が、さらに強く彼女を抱きしめるのが見えた。
彼らの姿が、VIP病棟へと続く廊下の角に消えていく。
七年間の結婚生活。
それが、徹頭徹尾、壮大な茶番であったことを、凛は思い知らされた。
廊下に、静寂が戻る。
凛は壁に寄りかかったまま、大きく息を吸い、吐いた。酸素が足りない。目の奥が熱くなり、こみ上げてくるものを必死に押しとどめる。
ポケットの中のスマートフォンに、そっと触れた。布越しに感じる、硬い感触。そこに、娘の温もりが宿っているような気がした。
凛の瞳から、灰色の絶望が消え、硬質な光が宿り始める。
ゆっくりと壁から体を離し、踵を返す。
その足取りは、最初は幽鬼のように覚束なかったが、一歩、また一歩と進むうちに、確かなものに変わっていった。
向かう先は、洗面所。
ドアを押し開け、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、血の気の失せた、しかし、瞳の奥に決然とした光を宿した、自分の顔だった。
凛は、鏡の中の自分に向かって、心の中で静かに告げた。
もう、終わらせる時だ、と。
話 2
凛は蛇口を固くひねり、飛び散る水滴をペーパータオルで拭き取った。湿った紙を、まるで憎い何かを捨てるかのように、ゴミ箱に叩きつける。
洗面所のドアを開け、ナースステーションへと続く廊下を歩く。その足取りが立てる微かな風が、やけに冷たく感じられた。
ナースステーションの前まで来ると、同僚の中村美咲が、身を乗り出すようにしてVIP病棟の方を窺っているのが見えた。その顔は、下世話な好奇心で輝いている。
凛の姿に気づくと、中村はすぐに駆け寄ってきた。
「桐山さん、さっき鷹司様を怒らせちゃったの?すごい剣幕だったけど」
声を潜め、興奮を隠しきれない様子で尋ねる。
凛は無表情のまま、デスクの上に散らかったカルテを整理し始めた。プラスチックのファイルが、カチャリと乾いた音を立てる。
「知らない人よ」
冷たく、短く答えた。
その時、VIP病棟のドアが静かに開き、鷹司暁がスマートフォンを片手に姿を現した。その顔は不機嫌そうに歪み、電話の向こうの相手、おそらく秘書だろう、に転院の手続きを指示している。
「……ああ、すぐに手配しろ。ヘリオス・メディカルの特別室だ」
ドアの隙間から、彩萌の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。
「暁さん、ここのベッド、硬くていや……」
途端に、暁の声のトーンが変わる。氷のようだった声が、彩萌をあやすように、わずかに温度を取り戻した。
「ああ、わかっている。すぐに移るから、もう少しだけ我慢しろ」
凛の指が、無意識に強く握りしめられた。持っていたカルテの角が、指の腹に食い込み、深い赤い跡を残す。
「鷹司様って、本当に素敵な人よね。あんな風に愛されてみたいわあ」
隣で中村がうっとりとため息をつく。その言葉が、凛の胃の腑に溜まった鉛を、さらに重くした。吐き気がする。
暁が電話を終え、病室に戻ろうと体を翻した。その視界の端に、ナースステーションに立つ凛の姿が映る。彼の眉が、即座に不快そうに寄せられた。
大股で、迷いなくこちらに歩いてくる。
凛の目の前で立ち止まり、その長身が見下ろす影が、凛の体に落ちた。
「余計なことを嗅ぎ回るな。彩萌の名誉を傷つけるような真似をしたら、どうなるか分かっているな」
脅迫。その目は、まるで汚物でも見るように冷え切っている。
凛はゆっくりと顔を上げた。暁の、氷のような瞳を、まっすぐに見返す。
心の中で、冷たく嗤った。どうせもう終わる関係だ。詩織のことは絶対に知られない。暁は、自分が子供を作れないと固く信じている。その傲慢な思い込みこそが、彼にとって最高の目隠しになる。
凛は、その確信を胸に、唇の端に嘲りの色を浮かべた。そして、自分の指先を軽くこすり合わせながら、二人だけにしか聞こえないような、囁く声で言った。
「鷹司様こそ、ご自分のお体をもう少し気遣われた方がよろしいのではなくて?七年間、妻に指一本触れられなかった方のようには見えませんから」
暁の目が、鋭く光った。彼が何か言い返す前に、好奇心に満ちた中村が顔を近づけてきた。
「え、桐山さん、今なんて?」
凛は、わざとらしく大きなため息をついた。そして、声を潜めたまま、中村だけに聞こえるように答えた。
「なんでもないわ。ただの夫婦喧嘩の延長よ」
だが、中村はその短い言葉だけで、自分の想像力を膨らませたらしい。目を大きく見開き、口元を手で覆った。鷹司暁を見る彼女の視線が、一瞬にして、憧憬から好奇心へと変わった。
「なっ……!」
暁の顔が、みるみるうちに鉄色に変わっていく。額に青筋が浮かび、怒りで肩が震えているのが分かった。彼の手が、凛の腕を掴もうと、素早く伸びてくる。
だが、凛は予測していた。
素早く半歩下がり、彼の接触を避ける。その目に宿るのは、汚いものに触れられたくないという、あからさまな拒絶だった。
「鷹司様、高田主任がお呼びです!」
廊下の向こうから、別の看護師の声が飛んできた。その声が、暁の爆発寸前の怒りを、かろうじて押しとどめた。
暁は、食いしばった歯の間から、獣のような唸り声を漏らした。人差し指で凛を突きつけるように指し示す。
「……覚えておけ」
それだけを言い残し、彼は踵を返して主任の元へと歩き去った。
その背中に向かって、凛は心の中で冷たく笑った。
もう何も、覚えておく必要などない。
凛はナースステーションを離れ、自分の当直室へと向かった。ドアを開け、内側から鍵をかける。カチャリ、という金属音が、外界との隔絶を告げた。
途端に、息が苦しくなる。閉ざされた狭い空間が、凛の奥深くに眠っていた幽閉恐怖症の引き金を引いた。ドアに背中を預け、ずるずると床に座り込む。浅い呼吸を繰り返し、額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭った。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出すと、画面には暁からのメッセージが表示されている。
『今夜は別荘に帰ってくるな。目障りだ』
その無慈悲な文字列。
凛の脳裏に、七年前の新婚の夜が蘇る。
『鷹司の家に、お前が生んだ跡継ぎは必要ない』
そう言い放った彼の目は、今夜と同じ、氷のような色をしていた。
ずっと、分からなかった。なぜ、あれほどまでに子供を拒絶するのか。
今なら分かる。
彼は、彩萌との間に生まれる子供のために、その場所を空けておきたかったのだ。
胃が、鋭い痛みを伴って痙攣した。凛は床にうずくまり、痛みが過ぎ去るのをじっと待つ。どれくらいの時間が経っただろうか。
痛みが波のように引いていくと、凛はゆっくりと立ち上がった。
壁際のロッカーに向かい、自分のハンドバッグを取り出す。
その奥の、内ポケットに隠していた、一通の封筒。
外から、清掃員の女性たちの話し声が聞こえてくる。VIP病棟の片付けをしながら、鷹司様のお相手は本当に幸運だと羨む声。
凛は、その声をBGMのように聞き流しながら、封筒をバッグにしまった。
瞳には、もう迷いの色はなかった。
白衣を脱ぎ、ハンガーにかける。代わりに、クローゼットの奥から、自分のトレンチコートを取り出した。ベルトを、きつく締める。
当直室のドアを開ける。
廊下の突き当たりの窓から、朝の最初の光が差し込んでいる。
凛は、その光に向かって、迷いのない足取りで、まっすぐに歩き出した。
話 3
タクシーのドアが閉まる音で、凛は現実に引き戻された。
「ありがとうございました」
運転手に料金を払い、車を降りる。冷たい秋の風が、トレンチコートの襟元から入り込み、肌を刺した。
目の前には、重厚な門構えの洋館がそびえ立っている。
鷹司家の別荘。
七年間、凛を閉じ込めてきた、豪華な鳥籠。
その建物を見上げる凛の瞳は、氷のように冷え切っていた。
暗証番号を押し、重い鉄の門を開ける。広い玄関には、見慣れたピンク色のハイヒールが、無造作に脱ぎ捨てられていた。緒方彩萌が好んで履く、派手なデザインの靴。その存在が、無言で昨夜の出来事を物語っている。
家政婦の斎藤が、玄関ホールで花瓶の水を替えていた。凛の姿を認めると、面倒くさそうに会釈を一つしただけだった。「奥様」という言葉は、もう何年も前から彼女の口から聞かれなくなっていた。
凛は、使用人のあからさまな侮蔑を意に介さず、広すぎるリビングを横切り、二階の自室へと向かった。
寝室のドアを開ける。
ひやりとした、人の気配のない空気が肌を撫でた。この部屋に、鷹司暁が足を踏み入れたのは、七年間で数えるほどしかない。
凛はまっすぐベッドサイドキャビネットに向かった。テーブルランプを少しずらすと、隠された指紋認証センサーが現れる。親指を当てると、壁の一部が静かにスライドし、小さな金庫が現れた。
中から、一枚の写真を取り出す。
詩織が生後一ヶ月の時の写真。小さな、しわくちゃの顔。その頬を、凛の指が優しくなぞる。この写真だけが、この冷たい家で凛が力を得るための、唯一の源だった。
写真をコートの内ポケットに大切にしまい、今度はハンドバッグから、今朝病院から持ち出したファイルを取り出した。
七年前、鷹司家の先代当主、つまり暁の祖父にサインを強要された、離婚合意書。
その書類の一番下に記された日付。
『本合意は、婚姻届提出日より満七年をもって自動的に発効するものとする』
今日が、その満七年の日だった。
凛の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。
すべては、最初から決められていたことだったのだ。
その時、階下から乱暴に車のエンジンが止められる音が聞こえた。続いて、玄関のドアが叩きつけるように開けられる。
凛は、合意書を手に寝室を出た。二階の吹き抜けから、冷たい怒りの空気をまとって家に入ってくる鷹司暁の姿を見下ろす。
彼は、つけていたネクタイを苛立たしげに引き抜き、ソファに投げつけた。そして顔を上げ、階段の上に立つ凛の姿を捉える。
その目に、あからさまな嫌悪が宿った。
「なぜまだいる。出て行けと言ったはずだ」
凛は無言で階段を降り始めた。ハイヒールの踵が、磨き上げられた木の床を打ち、乾いた音を立てる。一歩一歩が、過去の屈辱を踏みしめていくようだった。
暁の前に立つ。
そして、持っていた離婚合意書を、彼の目の前のローテーブルに、叩きつけるように置いた。
暁は、その表紙を一瞥し、眉をひそめた。また何か、新しい芝居が始まったのかと、その目が語っている。
「七年の期限が来たわ」
凛の声には、何の感情もこもっていなかった。
「最近、役所に離婚届を出しに行く。それで、すべて終わり」
暁は、一瞬、虚を突かれたように固まった。だが、すぐに彼の唇が、冷たい嘲笑の形に歪んだ。
「俺から離れて、お前のような女が生きていけるとでも思っているのか?」
その言葉に、凛は背筋を伸ばした。彼の目を、まっすぐに見返す。
「『鷹司の奥様』。その称号は、私にとって吐き気がするだけよ」
その一言が、暁の逆鱗に触れた。
彼は猛然と立ち上がり、その大きな手が、凛の顎を鷲掴みにした。骨が軋むほどの、強い力。
「俺の忍耐力を試すな」
彼の目が、危険な光を放っている。
「彩萌は今、安静が必要なんだ。お前のくだらない茶番に付き合っている暇はない」
顎に走る激痛に、凛は唇を固く結んだ。娘の存在だけは、この男に知られてはならない。その一心で、痛みに耐える。
凛の、決して屈しない瞳を見て、暁は得体の知れない苛立ちを感じた。舌打ちを一つし、まるで汚いものでも払いのけるかのように、凛の顎から手を離した。
ポケットからハンカチを取り出し、凛に触れた指先を、念入りに拭っている。
その仕草が、凛の心に残っていた最後の一片の未練を、完全に灰に変えた。
ソファによろめいた凛は、立ち上がり、テーブルの上の合意書には目もくれず、二階へと戻っていった。
ベッドの下から、スーツケースを引きずり出す。
中に入れるのは、数枚の着替えと、数冊の医学専門書だけ。この家に、凛の私物と呼べるものは、ほとんどなかった。
ドレッサーの前に立ち、左手の薬指にはめられた、冷たい感触の指輪を外す。
七カラットの、完璧なダイヤモンド。
それを、何の躊躇もなく、ガラスの天板の上に放り投げた。
カシャン、という硬質で、澄んだ音が部屋に響く。
その音は、凛と鷹司家の関係が、完全に断ち切られたことを告げる、終わりの合図だった。
スーツケースのジッパーを閉め、それを引きずって、寝室を出る。
誰もいないリビングを横切り、玄関のドアを開ける。
深まる秋の、冷たい夜気の中に、凛は一人、足を踏み出した。