話 2
自室に戻った優花は、背後でぴしゃりと音を立てて鍵をかけた。
広々とした寝室は、しんと静まり返っている。部屋の中央に置かれたキングサイズのベッド。この三年間、健斗が一度として触れることのなかった、氷のように冷たいベッドだ。
優花はベッドに視線をやると、唇の端を歪めて、極度に自嘲的な笑みを浮かべた。
何を期待していたのだろう。
いつか、彼が振り向いてくれるかもしれないと。この献身が、報われる日が来るかもしれないと。
なんて、愚かな。
彼女はふらふらと窓際まで歩くと、ポケットからスマートフォンを取り出した。迷いはなかった。震える指で、登録された名前の中から一つを選ぶ。
「加藤 凛」
コール音が数回鳴った後、凛の快活な声が聞こえた。
『優花?どうしたの、こんな時間に』
「……凛。お願いがあるの」
優花の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「離婚協議書を、作ってほしい」
電話の向こうで、凛が息を呑む音が聞こえた。
『……本気?何があったのよ、あの五十嵐健斗と』
「全部よ。全部、もう終わらせるの」
優花は、波一つない声で、健斗がずっと彼の義姉である彩音を愛していたという、吐き気のするような真実を、淡々と語った。三年間の偽りの結婚生活。その全てを。
目を閉じると、いくつもの夜が蘇る。高熱にうなされ、広いベッドの片隅で一人、身体を丸めていた夜。健斗はいつも、書斎に籠っていた。一度だけ、助けを求めたことがある。だが、彼は冷たく言い放った。「医者を呼んだ。俺は仕事がある」。
あの時の絶望を、忘れたことはない。
健斗は、彼女に触れない理由を、こう説明した。
「俺たちは、互いを尊重し合う、神聖なパートナーであるべきだ。肉欲に溺れるような関係は、この結婚に相応しくない」
その言葉を、優花は信じていた。信じようとしていた。
今となっては、その偽善に満ちた嘘が、毒を塗られた刃のように、彼女の心をめちゃくちゃに切り刻んでいた。
「……わかったわ。すぐに取り掛かる」
凛の声が、優花を現実へと引き戻す。
「でも、証拠は?あの男が素直に判を押すとは思えない」
「証拠なら、ある」
優花はそう言うと、寝室の隣にある小さな書斎へと向かった。合鍵を使って、机の一番下の引き出しの、さらに奥にある隠し場所を開ける。
中には、一枚の写真があった。
一年前、書斎を掃除している時に偶然見つけてしまった、彩音のポートレート。その裏には、健斗の力強い筆跡で、こう書かれていた。
『この身体も、この顔も、いつか必ず俺のものに』
優花は、汚物でも見るかのような目つきでその写真を手に取ると、ためらうことなくシュレッダーにかけた。
ガガガガッ、と耳障りな音が部屋に響く。電話の向こうの凛にも、その音は聞こえただろう。
『……優花?』
「大丈夫。これで、一つ目のゴミは片付いた」
凛は、全てを察したようだった。
『わかった。今夜中に草案を作って、明日、私が直接五十嵐家まで届けるわ』
「お願い」
ありがとう、と小さく呟いて、電話を切る。
ふう、と長い息を吐き出した。三年間、ずっと首を絞めつけていた見えない縄が、少しだけ緩んだ気がした。
その時、ドアの向こうから、健斗のひそひそ声が聞こえてきた。
「彩音さん、薬は飲んだかい?何か食べたいものは?」
甘く、蕩けるような優しい声。
優花は、ドアを隔てて、その声を聞いていた。瞳の奥に、血の色にも似た、冷たい光が宿る。
彼女はゆっくりと化粧台に向かうと、無名指にはめられた指輪に手をかけた。五十嵐家の主母の証である、鳩の血の色をした大粒のルビーの指輪。
何の感慨もなく、それを引き抜く。そして、まるでガラクタでも捨てるかのように、化粧台の隅、埃の溜まった場所に、ぽいと投げ捨てた。
鏡に映る自分を見る。忍耐と諦めの中で、いつの間にか光を失ってしまった、憔悴した顔。
冷たい水で、何度も顔を洗う。受けた屈辱は、千倍にして返さなければならない。そう、心に誓った。
階下から、使用人たちが彩音の荷物を運び込む、騒がしい音が聞こえてくる。優花は意にも介さず、パソコンの前に座り、慣れた手つきでパスワードを入力した。
画面に表示されたのは、五十嵐グループの内部会計システム。
優花は、この三年間の、五十嵐家の資産の流れを示す明細書を、次々と閲覧し、ダウンロードしていく。離婚するだけでは、生ぬるい。この男には、経済的にも大打撃を与えなければ、気が済まなかった。
コン、コン。
突然、控えめなノックの音がした。
優花は咄嗟にショートカットキーを押し、画面を一瞬でオンラインのショッピングサイトに切り替えた。
「……どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、健斗だった。手には、温かいミルクの入ったカップを持っている。
「眠れないかと思って」
そう言って、彼は優花の机にカップを置いた。その時、彼の視線が、優花の指に留まる。
「……指輪は?」
眉間に、わずかに皺が寄った。
「ああ、手を洗う時に、傷つけたくなくて。外しましたの」
優花は、顔色一つ変えずに嘘をついた。
健斗はそれ以上追及せず、代わりに、説教じみた口調で言った。
「優花。彩音さんのことを、お前も支えてやってほしい。彼女は、本当に辛い思いをしているんだ」
優花は、長い睫毛を伏せ、いつものように、従順に頷いてみせた。
その時、机の上のスマートフォンが、微かに光った。凛からのメッセージだ。『草案、完了』。
優花は、ミルクのカップを手に取るふりをしながら、口元に浮かんだ冷たい笑みを隠した。
「わかっていますわ、健斗さん。彩音さんのことは、私にお任せください」
健斗は、その言葉に満足したように頷くと、すぐに踵を返した。一刻も早く、愛する女の元へ戻りたいのだろう。
その背中を、優花は冷たい目で見送った。
この男の優しさは、全て、あの偽りの救世主のためだけのもの。
ドアが閉まる音がした、その瞬間。
優花は、ためらうことなく、まだ温かいミルクを、洗面台の排水溝へと全て流し捨てた。
話 3
翌日の午後、加藤凛は予告通り、五十嵐家を訪れた。
シャープなラインのパンツスーツに身を包んだ彼女は、まるで戦場に赴く弁護士そのものだった。
「これよ」
応接室で、凛は分厚い牛革の封筒を優花に手渡した。中には、離婚協議書と、いくつかの不動産の譲渡契約書が巧妙に混ぜ込まれている。
「ありがとう、凛」
優花が封筒を受け取り、中身を確認しようとした、その時だった。
二階の廊下から、びりびり、と紙を引き裂くような、甲高い音が響き渡った。
優花の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
彼女は封筒をテーブルに置くと、弾かれたように応接室を飛び出し、階段を駆け上がった。
廊下の突き当たり。そこに、拓海がいた。
そして、その小さな手の中で、無残にも引き裂かれていたのは。
「……あ……」
優花の両親の、たった一枚だけ残された、古い写真だった。
幼い頃に実の両親を亡くし、鷹司家へ養女に出された優花にとって、それは過去と自分を繋ぐ、かけがえのない唯一の品だった。永井という姓は、養子に出される前の、彼女の血筋を示す、最後の名残だ。
色褪せた写真の中で、優しく微笑む父と母。その顔が、無慈悲に引き裂かれ、床に散らばっている。
ぶつり、と、優花の頭の中で何かが切れる音がした。
視界が、赤く染まる。
彼女は数歩で拓海との距離を詰めると、その小さな身体の襟首を、鷲掴みにした。
「……ッ!」
拓海を、床から数センチ、宙に浮かせ、そのまま壁に押し付ける。
「きゃああああ!」
拓海の甲高い悲鳴が、屋敷中に響き渡った。
「何をしている!」
書斎から飛び出してきた健斗が、その光景を見て、怒りの形相で叫んだ。彼は、優花と拓海の間に割って入ると、力任せに優花を突き飛ばした。
「ぐっ……!」
優花の背中が、硬い壁に強かに打ち付けられる。骨が砕けるような激痛が走り、一瞬、呼吸ができなくなった。
健斗は、恐怖で泣きじゃくる拓海を背後にかばい、鬼のような形相で優花を睨みつけた。
「父親を亡くしたばかりの子供に、手を上げるだと?お前は、鬼か!」
優花は、壁に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。背中の痛みよりも、心の痛みのほうが、ずっと激しい。
彼女は、健斗を、冷え切った目で見つめ返した。
「……私の両親の遺影を、あなたの甥が破り捨てました」
「……なんだと?」
「弁償していただきます」
その氷のような瞳に、健斗は一瞬、たじろいだ。だが、彼はすぐに虚勢を張る。
「子供のやったことだ!大げさに騒ぐな!」
「弁償して、いただきます」
優花は、一歩も引かなかった。
健斗は、この面倒な事態を早く収束させたいのか、苛立ったように舌打ちをした。
「……わかった。何が望みだ。金か?土地か?」
その時だった。
「きゃっ……!」
階下から、彩音のか細い悲鳴が聞こえた。
「健斗さん……!めまいが……!」
その声を聞いた瞬間、健斗の意識は、完全に階下の彩音へと奪われた。
「彩音さん!」
彼は焦燥に駆られたように、その場で足踏みをする。早く行きたい。でも、目の前の優花が邪魔だ。
その一瞬の隙を、優花は見逃さなかった。
彼女は、先ほど凛から受け取った封筒を手に取ると、健斗の目の前に突き出した。
「この家の近くにある、別荘。あれを、慰謝料として譲渡していただきます。ここに、サインを」
優花は、離婚協議書が挟まれた書類の束を、素早くめくり、最後の署名欄だけが見えるようにして、健斗に差し出した。
「……ちっ、わかった!」
健斗の頭の中は、もはや彩音のことでいっぱいだった。彼は、優花が差し出した書類の内容など、一瞥もせずに、ペンをひったくった。
そして、龍が舞うような、乱暴な筆致で、そこに自分の名前を書き殴った。
「これでいいだろう!」
優花は、健斗がペンを置いた瞬間、まるで獲物を奪い取るかのように、素早くその書類を引き戻した。
その時、健斗の足元に隠れていた拓海が、憎々しげに優花のスネを思い切り蹴りつけた。
鈍い痛みが走る。だが、優花は表情一つ変えなかった。ただ、着物の裾についた埃を、無表情に手で払っただけだ。まるで、虫にでも触られたかのように。
健斗はサイン済みの書類を抱きしめる優花を一瞥すると、すぐに踵を返し、彩音の元へと階段を駆け下りていった。
優花はその背中を冷たく見送った。
彩音への盲目的な執着。それこそが、彼の最大の弱点。
優花は、その弱点を、正確に突いたのだ。
彼女はサイン済みの書類を胸に抱きしめ、自分の部屋へと戻ると、すぐに鍵をかけた。そして、その致命的な離婚協議書を、金庫の奥深くへとしまい込んだ。
この瞬間から、彼女はもう、被害者ではない。
自らの手で運命を切り開く、狩人だ。
優花は再び階下へと降りた。リビングのソファでは、健斗が心配そうに彩音の額に手を当てている。
その横を通り過ぎ、まだ得意げな顔をしている拓海の前に立った。
そして、にっこりと微笑みかけ、優しい声で囁いた。
「今度は気をつけてね、拓海くん」
拓海はその笑顔を見て、一瞬で顔を強張らせた。
健斗は、彩音に夢中で、優花の言葉には全く気づいていない。その光景が、ひどく滑稽に見えた。
凛が、心配そうに優花のそばに寄り、その冷たい手を握りしめた。
「優花……」
「大丈夫」
優花の瞳が、わずかに潤む。だが、彼女は決して涙をこぼさなかった。
「あの写真の代償よ。まずは、利息だけ、払ってもらったわ」
凛は力強く頷いた。
窓の外の空が、どんよりと曇り始める。優花は凛を玄関まで見送ると、振り返って、この豪華絢爛な牢獄を見据えた。
その瞳には、復讐の炎が、静かに燃え上がっていた。
ソファから、彩音が虚ろな、しかし挑発的な視線を向けてくる。優花は、完璧な淑女の微笑みを返し、優雅に一人掛けのソファに腰を下ろした。
彩音は、試すように、近くにあった高価なボーンチャイナのティーカップを、わざとらしく床に落とした。
ガチャン、と耳障りな音が響く。
優花は眉一つ動かさなかった。ただ、静かに、近くにいた使用人に命じる。
「……ゴミが落ちていますわ。片付けてちょうだい」