1

父の会社を救うため, 私は5年間の契約結婚を受け入れた. 心を病んだ建築家の夫と, 彼の幼い息子の「母親」になることが私の役目だった.

しかし, 夫の心は, かつて彼を裏切った元恋人に囚われたまま. 彼女が私たちの家に戻ってきてから, 私の居場所は完全に奪われた.

愛情を注いできた息子は私を拒絶し, 夫は私をただの家政婦として扱った.

そして事故の日, 暴走する車を前に, 夫は元恋人と息子だけを庇い, 私を見捨てたのだ.

地面に倒れ, 遠ざかる三人の背中を見つめながら, 私は悟った. 私の5年間の献身は, 彼らにとって何の価値もなかったのだと.

契約終了の書類にサインをしながら, 私は静かに誓った.

「もう二度と, 彼らに関わるものか」

第1章

芽世 POV:

「契約が終了した今, 私にはもうここにいる理由がありません. 」私はそう言って, 目の前の男性の顔を見上げた. 彼の瞳は, 私が彼の妻として生きてきたこの五年間, 一度として私を映すことのなかった湖のように, ただ虚ろだった.

「理由? 」星野弘樹は, 私の言葉をまるで理解できないかのように, 眉をひそめた. 彼の声はいつも通り冷たく, 感情の起伏がなかった. 彼は私が何を言っているのか, 本当に分かっていないようだった.

「ええ, 理由です. 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと平静だった. 心臓は鼓動しているはずなのに, まるで遠い場所で鳴っている他人の心臓の音を聞いているようだった. 「私たちは, ただの契約関係だったでしょう? 」

彼は何も言わなかった. 沈黙が, 私たちの間に横たわる深い溝をさらに広げた. この五年間の全てが, この沈黙の中に凝縮されているように感じられた. 私たちが夫婦と呼ぶ関係は, 最初から形だけのものだった. 私の父が経営する町工場が倒産寸前で, 父自身も病に倒れた時, 目の前に現れたのが彼の父, 星野建設の会長, 星野巌だった. 彼は, 私の人生と引き換えに, 父の工場と治療費を救うという契約を提示した. その契約とは, 星野弘樹という, 精神的に病んだ若手建築家の「カウンセラー兼家政婦」として, 彼の息子・陽の母親代わりとして, そして彼の妻として, 三年間を過ごすというものだった. 三年間, しかし, 実際には五年が過ぎていた.

彼の心は, ずっと別の女性に囚われていた. 早見美奈, 彼の大学時代からの恋人. 彼女は彼のデザインを盗み, その才能を踏みにじり, 彼を深い人間不信に陥らせた張本人だ. それでも, 彼の目は常に彼女を追っていた. そして, その美奈が数年前に彼の前に再び現れてから, 私の居場所は完全に奪われた. 陽の母親として, 彼の妻として, 弘樹の隣に立つ人間として, 私の存在は, ただの影になった. 美奈がこの家に戻ってきてからは, 私がどれだけ弘樹や陽のために尽くしても, それは当然のことのように扱われ, まるで空気のようだった. 私の尊厳は, 音もなく踏みにじられていった.

私がこの家に来てからの五年. 弘樹への献身, 陽への深い愛情. それらはすべて, 彼の無関心と, 美奈という元恋人の悪意によって, 無残に否定されてきた. 五年間, 私はこの関係に真実の愛を見出そうと, もがいてきた. しかし, 結局は, 私は彼にとってただの都合のいい存在に過ぎなかったのだ.

「契約は, あと数日で満了するだろう. 」弘樹は, まるで他人事のようにそう言った. 彼の言葉は, 私にとっては救いの言葉だった.

私は机の上に置かれた書類に手を伸ばした. それは, 契約の最終確認書だった. ペンを握り, 躊躇なく, 自分の名前を走り書きする. サインが, 私の人生の新たな始まりを告げるかのように, 鮮やかに紙の上に刻まれた.

書類を弘樹に押し付けるように差し出し, 私は立ち上がった. 彼の虚ろな瞳は, 私のその行動を追うことさえしなかった. 私はただ, この場所から, この牢獄のような家から, 一刻も早く立ち去りたかった.

玄関のドアを開け, 外に出た瞬間, 冷たい風が私の頬を撫でた. 自由の風だ. しかし, その風は同時に, 私の胸の奥に, まだ残っていた微かな希望の残骸をも吹き飛ばしていった.

その日の午後, 私のスマートフォンに一枚の写真が届いた. それは, 弘樹と美奈, そして陽が, 楽しそうに笑っている写真だった. 三人の顔は幸福に満ち溢れていて, まるで本物の家族のようだった. 陽は, 私が誕生日にプレゼントした, お気に入りのクマの絵が描かれたTシャツを着ていた. それは, 私が心を込めてデザインし, 手縫いで作ったものだ. そのTシャツを着た陽が, 美奈の腕の中に収まっている. その光景は, 誰が見ても, 美奈が陽の母親だと錯覚するだろう. 私の心は, 凍り付いた.

写真の弘樹の隣には, 美奈が寄り添っていた. 彼女は, 彼の腕に手を絡ませ, まるで彼が自分のものだと主張するかのように, 挑発的な笑みを浮かべていた. 私の存在は, 完全に, そして無残に, この写真から消し去られていた.

私は, この契約結婚を思い出す. それは, ちょうど五年前の春のことだった. 私は美大でデザインの勉強に打ち込んでいた. 将来は, 自分のデザインで世界を驚かせたいと, 夢見ていた. しかし, 父が経営する町工場が経営危機に陥り, 父自身も重い病に倒れた. 多額の借金, 治療費. 私の夢は, 一瞬にして打ち砕かれた. そんな絶望の淵にいた私に, 救いの手を差し伸べたのが, 星野建設の会長, 星野巌だった.

彼は, 私に「契約」を持ちかけた. 彼の息子である弘樹は, 若くして才能ある建築家だったが, 大学時代の恋人・早見美奈にデザインのアイデアを盗まれ, キャリアと心を深く傷つけられていた. それ以来, 彼は人間不信に陥り, 精神的に病んでしまっていた. 巌会長は, 私に弘樹の「心の再生」を求めた. そのために, 私を彼の妻として迎え, 幼い息子・陽の母親代わりとして, 三年間を星野家で過ごすことを求めた. その見返りは, 父の工場の再建資金と, 父の治療費だった. 私は, 家族を救うために, その契約を受け入れるしかなかった.

弘樹は, 私の存在をまるで認識していないかのように, 私に何の感情も示さなかった. 彼の目は常に虚ろで, 私を見ようとしなかった. 私は彼に献身的に尽くし, 陽にも惜しみない愛情を注いだ. 弘樹の心の傷を癒し, 彼の人間不信を解き放つことが私の使命だと信じていたからだ.

しかし, 弘樹の無関心は, 私が想像する以上に根深く, そして冷たいものだった. 彼は私の存在を「カウンセラー兼家政婦」としてしか見ていなかった. 私の献身は, 彼にとってただの「契約履行」であり, 何の感情も伴わない「サービス」に過ぎなかったのだ.

ある夜, 弘樹が泥酔して帰宅したことがあった. 彼はその夜, 私を「美奈」と呼び, 私に抱きついた. そして, 子供が欲しいと言った. 私は, その言葉に一瞬, 希望を抱いた. 彼が, 私の中に, 美奈の面影ではなく, 私自身を見出してくれたのではないかと. 彼の目が, 私を映してくれたのではないかと. その夜, 私たちは初めて結ばれた.

しかし, その希望はすぐに打ち砕かれた. 後日, 私は弘樹が酔った勢いで, 自分の心に美奈以外の女性を刻みつけるために, 私を利用しようとしたことを知らされた. その事実を知った時, 私の心は, まるでナイフでえぐられたかのように痛んだ. 私はただの道具だったのだ.

それでも, 陽が生まれた時, 弘樹の態度は少しだけ軟化したように見えた. 彼は陽を抱き上げ, その小さな命を愛おしそうに見つめていた. 私は, この子の存在が, 私たちの関係を変えるかもしれないと, 淡い期待を抱いた. この契約が, 本物の家族へと変わるかもしれないと.

しかし, その期待も長くは続かなかった. 数年前, 早見美奈が再び弘樹の前に現れた. 彼女は業界での成功を背景に, 堂々と弘樹に接近した. そして, あっという間に, 弘樹の隣の席を奪い返した. メディアは, 弘樹と美奈の「世紀のカップル復活」を大々的に報じた. 「星野建設の御曹司, 元恋人と電撃復縁! 」という見出しが, 私の目と心を焼き尽くした.

私がこの家に来てからというもの, 弘樹は私を公の場に連れて行くことを決してしなかった. 私たちはただの契約夫婦であり, 彼の「妻」として認められることはなかった. しかし, 美奈に対しては違った. 彼は美奈を, あらゆる場所に連れて行った. 二人が仲睦まじく寄り添う姿が, 毎日のように雑誌やテレビを賑わせた. 私の存在は, まるで最初からなかったかのように, 人々の記憶から消し去られていった.

陽もまた, 美奈に懐いていった. 陽は幼く, 母親を知らずに育った. 彼にとって, 美奈は「父親が笑顔を見せる女性」であり, 「父親が愛する女性」だった. 陽は, 父親を喜ばせたい一心で, 美奈にべったりと寄り添うようになった. 私がどれだけ陽に愛情を注いでも, どれだけ彼の世話を焼いても, 陽の心は, 美奈へと傾いていった. 私が彼のために作った食事は, 美奈が来た日から「美味しくない」と言われるようになった. 私が彼を寝かしつけると, 美奈の声が聞こえると彼はすぐに目を覚まし, 美奈の元へと駆け寄っていった.

弘樹は, 美奈と陽の楽しそうな姿を, 嬉しそうに写真に収め, SNSに投稿するようになった. 彼が私と陽の写真を撮ることは, 決してなかった. 彼のスマートフォンのギャラリーは, 美奈と陽の笑顔で溢れていた. それらの写真を見るたび, 私の心は, ガラスのように砕け散る音を立てた. それでも, 私は笑顔でいようと努めた. それが, 私の契約だったからだ.

しかし, 私はもう分かっていた. 弘樹は, 決して私を愛することはない. そして, 陽もまた, 私を「母親」として見ることはないだろう. 私は, この契約関係の中で, 彼らが与えてくれるはずのない愛を, 必死に求めていたのだ. それは, 愚かな行為だった.

私は, 自分の人生を取り戻すことを決意した. あの頃, 美大で学んでいたデザインの夢を, 再び追いかけることを決めた. 私は, 過去の自分を憐れむのはもうやめだ. 私は, あの頃の情熱を取り戻すのだ.

私はすぐに, 海外の出版社にメールを送った. そして, 数日後には航空券を予約した. この家を離れる準備は, 着々と進んでいた.

その日の夜, 私は車を運転して家に帰った. しかし, 私のいつもの駐車スペースには, 見慣れない高級車が止まっていた. それは, 美奈の車だった. 私の心臓が, 嫌な予感を察して, 大きく脈打った.

2

芽世 POV:

美奈の車が私の駐車スペースを塞いでいることに, 私は一瞬, ため息をつきそうになった. しかし, 私は感情を表に出さないように努めた. もうすぐ, この悪夢のような日々から解放されるのだ.

私は仕方なく手前の空いているスペースに車を停め, 降りた. 美奈は, 家の玄関ポーチに立って, 私を待っていたかのように微笑んでいる. その笑顔は, かつて弘樹の隣で私に向けられた, あの挑発的な笑みと全く同じだった.

「あら, 芽世さん. おかえりなさい. 」彼女の声は, 蜜のように甘く, しかしその裏には毒が隠されていることを, 私は知っていた. 「ずいぶん遅かったわね. 弘樹さんも陽くんも, 心配していたわよ. 」

心配? 彼女の言葉に, 私の唇の端がわずかに引き上がる. 弘樹が私を心配するなど, この五年間で一度としてなかった.

「お構いなく. 」私は冷たく言い放ち, 美奈の横を通り過ぎようとした. 彼女の香水の匂いが, 私の鼻孔を刺激する. 嫌悪感が込み上げた.

しかし, 美奈は私の腕を掴んだ. その指は, まるで蛇のように私の腕に絡みつき, 力を込めてきた.

「ちょっと待ちなさいよ, 芽世さん. 」美奈の声に, 甘い調子は消え失せていた. 「私, あなたに言いたいことがあるのよ. 」

私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 彼女は, 一体何を企んでいるのか.

「何を, ですか. 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと震えていた.

その瞬間, 玄関のドアが開き, 弘樹が顔を出した. 彼の目は, 美奈の腕を掴む私の手元に注がれている.

「美奈, どうしたんだ? 」弘樹の声は, 明らかに心配の色を帯びていた.

美奈は, 弘樹の声を聞くと, 突然顔を歪ませ, 腕を掴む私の手を振り払った. そして, まるで私が暴力を振るったかのように, 腕をさすりながら弘樹に寄り添った.

「弘樹さん…芽世さんが, 私に…」美奈の声は, か細く震えていた.

私は, 呆れてものも言えなかった. この女は, 一体どこまで芝居がかったことをするのか.

「芽世, 一体何をしているんだ! 」弘樹の声が, 私を責めるように響いた. 彼の目は, 私を疑いの目で見ていた.

「パパ! ママ, 美奈おばちゃんをいじめてる! 」その声は, 陽だった. 陽は弘樹の後ろから顔を出し, 私を指差して叫んだ. 彼の目には, 私への憎悪が宿っていた.

陽の言葉に, 私の心臓がギュッと締め付けられた. この一年間, 私は陽にどれだけの愛情を注いできたことか. 彼の誕生日には, 彼が喜ぶ顔が見たくて, 夜遅くまでかけて手作りのプレゼントを用意した. 彼が熱を出した夜には, 一晩中彼のそばに寄り添い, 看病した. しかし, 彼の目に映る私は, ただの「いじめっ子」でしかなかったのだ.

弘樹は, 陽の言葉を鵜呑みにしたようだった. 彼の目は, 私を軽蔑するように見下ろしていた.

「芽世, 美奈と陽に何かしたのか? 」弘樹の声は, 冷たく, そして鋭かった.

私は, 何も言えなかった. 私の胸は, 苦しくて, 息をするのも辛かった.

「パパ! 美奈おばちゃん, 可哀想だよ! 」陽は, 美奈のスカートの裾を掴み, 上目遣いで弘樹に訴えた.

弘樹は, 陽の頭を優しく撫で, 美奈の肩を抱き寄せた. 彼の顔には, 陽と美奈を心配する色が浮かんでいた. その光景は, まるで私という異物を排除するかのように, 私を切り離していた.

「大丈夫だよ, 陽. 美奈も, もう大丈夫だ. 」弘樹はそう言って, 美奈と陽を抱きしめた. その抱擁は, 私には向けられることのなかった, 温かいものだった.

「それより, 弘樹さん, 陽くん. 今日は美奈が泊まることになったのよ. 」美奈は, わざとらしく明るい声でそう言った. 彼女の視線が, 一瞬私に向けられ, 勝ち誇ったような笑みを浮かべた.

私の心臓は, さらに深く沈んだ. この女は, 私にどこまで屈辱を与えれば気が済むのか.

「ええ, そうなんだ. 」弘樹は, 私の顔を見ることもなく, 美奈にそう答えた. 「美奈, しばらくここに滞在するんだ. 陽も, 美奈がいてくれて嬉しいだろう? 」

陽は, 弘樹の言葉に満面の笑みを浮かべた.

「うん! 美奈おばちゃん, 大好き! 」陽はそう言って, 美奈の首に抱きついた.

その光景は, 私の目には, まるで毒々しい絵画のように映った. 私は, この五年間, この家で陽のために尽くしてきた. しかし, 陽の心は, 私がどれだけ努力しても, 私のものにはならなかったのだ.

「…そうですか. 」私は, 感情のこもらない声でそう答えた.

弘樹は, 私のその平静な態度に, 少しばかり驚いたようだった. 彼の虚ろな瞳が, 初めて私をじっと見つめた. しかし, それはすぐに美奈へと戻された.

「弘樹さん, ちょっと気分が悪いわ…」美奈は, 突然顔を青ざめさせ, 弘樹に寄り添った. その演技は, あまりにもわざとらしく, 私には見え見えだった.

「大丈夫か, 美奈! 」弘樹は焦ったように美奈の肩を抱き, 心配そうに顔を覗き込んだ.

「陽くん, 大丈夫だよ. 美奈おばちゃん, ちょっと疲れているだけだから, 休ませてあげようね. 」美奈は, 陽にそう言って, 優しく微笑む.

「美奈おばちゃん, 行かないで! 陽, 美奈おばちゃんが大好きだよ! 」陽は, 美奈の服の裾を掴み, 泣きそうな声で訴えた.

「大丈夫だよ, 陽. 美奈は, もうこの家族の一員だからね. 」弘樹は, 陽の頭を優しく撫で, 美奈の顔を見つめた. その目は, 美奈を深く愛しているかのように, 優しさに満ち溢れていた.

弘樹と陽は, 美奈を抱きかかえるようにして, 家の中へと入っていった. 私は, ただその場に立ち尽くしていた. まるで, 私だけがこの家の外に閉じ込められたかのように.

弘樹が振り返り, 私に言った.

「芽世, 美奈の荷物を部屋に運んでおいてくれないか. 」彼の声は, 私に命令するような響きを帯びていた.

私の唇の端が, わずかに引き上がる. この五年間, 私はこの家の家政婦として, 彼の妻として, 献身的に尽くしてきた. しかし, 彼にとって私は, ただの召使いに過ぎないのだ.

「早見さんの荷物を, ですか. 」私は, わざとらしく美奈の苗字を付け加え, 皮肉たっぷりにそう尋ねた. 「早見さんは, ご自分の荷物も運べないほど, お体が弱いのでしょうか. 」

弘樹の顔に, 驚きの表情が浮かんだ. 彼は, 私がこんな言葉を口にするとは思っていなかったのだろう. 彼が私にこんな質問をしたこと自体, 私がいつも従順だったからに過ぎない.

「芽世, 何を言っているんだ. 美奈は体調が悪いんだ. それに…」弘樹の声には, 苛立ちが混じっていた.

「わたくしにお尋ねになることも, ないでしょう. 」私は, 彼の言葉を遮るように言い放った. 「お手伝いさんに頼めば良いのではありませんか? 」

弘樹は, 私の言葉に固まった. 彼の虚ろな瞳が, わずかに揺れていた. 彼は, 私が突然, 彼に逆らうとは思っていなかったのだろう.

「分かった. お手伝いさんに頼む. 」弘樹はそう言って, 背を向けた. しかし, 彼はすぐに立ち止まり, 再び私の方を向いた. 彼の顔には, まだ困惑の色が残っていた.

「芽世, 君…」

「承知いたしました. 」私は, 彼の言葉を遮るように言い放ち, 美奈の荷物が置かれた車の後部座席へと向かった. 私の心は, この瞬間, 完全に凍り付いたような感覚だった. もはや, どんな言葉も, どんな態度も, 私の心を揺るがすことはないだろう.

私が美奈の荷物を抱え, リビングへと戻ると, 陽が美奈の隣に座って, 満面の笑みを浮かべているのが見えた. 陽の手には, 私が彼にプレゼントした, お気に入りのクマのぬいぐるみが握られていた. しかし, そのぬいぐるみは, 今は美奈の膝の上に置かれている. そして, 陽は, そのぬいぐるみを美奈に差し出していた.

「美奈おばちゃん, これ, 陽の大事なぬいぐるみだよ! 美奈おばちゃんにあげる! 」陽は, 無邪気な笑顔でそう言った.

美奈は, 陽の言葉に驚いたように目を丸くしている. しかし, その目には, すぐに喜びの色が浮かんだ.

「まあ, 陽くん! ありがとう, 嬉しいわ! 」美奈はそう言って, ぬいぐるみを抱きしめた.

その光景は, 私の胸を深く抉った. そのぬいぐるみは, 私が陽のために, 徹夜して作ったものだ. 陽が生まれた時, 初めて彼に贈った, たった一つのプレゼントだった. 陽は, そのぬいぐるみを, いつも肌身離さず持っていた. それが, 今, 美奈の手に渡っている.

私の目に, 涙が滲んだ. しかし, 私はそれを誰にも見せまいと, 必死に堪えた.

「陽! 」弘樹の声が, 厳しく響いた. 弘樹は, その光景を見ていたようだった. 彼の目は, 陽に向けられていた.

「どうして, そんな大事なぬいぐるみを美奈にやるんだ. 」弘樹の声には, 戸惑いが混じっていた.

陽は, 弘樹の言葉に首を傾げた.

「だって, 美奈おばちゃんが一番大事だからだよ! パパが, 美奈おばちゃんのこと, 一番大事にしているから! 」陽は, そう言って, 弘樹を見上げた.

弘樹は, 陽の言葉に何も言えなかった. 彼の顔には, 複雑な感情が浮かんでいた.

「陽くん, そんなこと言っちゃダメよ. 」美奈は, わざとらしく陽を諭すような口調で言った. 「芽世さんが, 悲しむわ. 」

私の心は, 冷え切っていた. 悲しむ? 私が? もう, 悲しむ感情すら残っていない.

「大丈夫ですよ, 美奈さん. 」私は, 感情のこもらない声でそう言った. 「陽には, もう必要ないものなのでしょう. 捨ててしまっても構いません. 」

私の言葉に, 弘樹と美奈, そして陽の三人は, 一斉に私の方を向いた. 彼らの目には, 驚きと困惑の色が浮かんでいた. しかし, 私は彼らの視線を気にすることなく, リビングを後にした.

私の胸は, 苦しくて, 息をするのも辛かった. しかし, もうすぐだ. もうすぐ, この苦しみから解放される. 私は, 心の中で, 自由へのカウントダウンを始めていた.

3

芽世 POV:

朝早く, 私はベッドから抜け出した. 弘樹とは, もう何年も前から別々の寝室を使っている. 彼が美奈を連れて帰ってきてからは, それがより明確になった. 彼は美奈と一つの部屋で過ごし, 私は別の部屋で一人きりだった. 弘樹は潔癖症で, 私に触れることを嫌がった. 私が彼の服に触れることさえも, 嫌悪感を露わにした.

洗面所で顔を洗い, 身支度を整える. 鏡に映る自分の顔は, 疲れていたが, 以前のような絶望の色は消え失せていた. 私は, もうこの家を出るのだ. その事実が, 私に新たな光を与えていた.

私は家を出て, 中山博治の弁護士事務所へと向かった. 博治先輩は, 大学時代の私の先輩で, 私が最も信頼している人物の一人だ. 彼には, 私の契約結婚のことも打ち明けていた.

「芽世, こんな朝早くにどうしたんだ? 」博治先輩は, 私を見て少し驚いたようだった. しかし, 彼の顔には, いつもの優しい笑顔が浮かんでいた.

「ごめんなさい, 先輩. 急に. 」私はそう言って, 頭を下げた.

「いいんだ. 君が来てくれるのは嬉しいよ. 」彼はそう言って, 私をソファへと案内した. 「で, 何かあったのか? もしかして…契約がもうすぐ終わるから, 心細くなったとか? 」

私は, 博治先輩の言葉に苦笑した. 彼は, 私がこの契約結婚をどれだけ苦痛に思っていたかを知っている.

「心細くはありません. 」私はきっぱりと答えた. 「むしろ, 清々しています. 」

博治先輩は, 私の言葉に安心したように微笑んだ.

「それは良かった. あの契約は, 君にとってあまりにも酷なものだったからな. 」彼はそう言って, コーヒーを淹れてくれた.

「先輩, お願いがあるんです. 」私は, 博治先輩に真剣な眼差しを向けた.

「何だい? 」

「あの契約を, 完全に終わらせたいんです. 」私はそう言って, 博治先輩の顔を見つめた.

博治先輩は, 私の言葉に一瞬, 驚いたような顔をした. しかし, すぐに私の意図を察したようだった.

「…離婚届, かい? 」彼の声には, 僅かな戸惑いが混じっていた.

私は, 何も言わなかった. ただ, 深く頷いた.

博治先輩は, 私の顔をじっと見つめた. 彼の目は, 私の心の奥底を見透かすかのように, 優しい光を放っていた. 私の心に, 深い悲しみが込み上げてくる. しかし, もう, この感情に囚われてはいられない.

「分かった. 君の意思を尊重する. 」博治先輩はそう言って, パソコンに向かった. 「他に, 何か必要なものはないか? 」

「ありません. 」私はきっぱりと答えた. 「ただ, 二度と彼らと関わることのないように, 完璧に, 終わらせたいんです. 」

博治先輩は, 私の言葉に何も言わず, ただ黙々と書類を作成していった. 彼の指がキーボードを叩く音が, 静かな事務所に響き渡る.

数分後, 博治先輩は私に書類を差し出した. それは, 離婚届と, いくつかの法的な書類だった. 私は, 震える手でそれを受け取った.

「これは, 君が本当に望むことなんだな? 」博治先輩は, もう一度私に確認するように尋ねた.

「はい. 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと力強かった.

私は書類を受け取ると, すぐに立ち上がった. 一刻も早く, この場所から立ち去りたかった.

「芽世, 無理はするなよ. 」博治先輩は, 私の背中に優しく声をかけた. 「何かあったら, いつでも連絡してくれ. 」

「ありがとうございます, 先輩. 」私はそう言って, 事務所のドアを開けた.

「君には, 必ず幸せが訪れるさ. 」博治先輩の声が, 私の背中を追いかけてきた.

私はその言葉に, わずかに口元を緩めた. 幸せ. 私には, まだそんなものが訪れるのだろうか.

深夜, 私は星野家へと戻った. リビングには誰もいなかった. 私が夜食として用意しておいたサンドイッチは, 手付かずのままテーブルの上に置かれていた. 美奈が来てからというもの, 弘樹と陽は, 私が作った食事には一切手をつけなくなった. 私の存在は, この家の中で, 完全に消え失せていた.

私は, 冷たくなったサンドイッチを電子レンジで温め直した. 温かいサンドイッチを口に運びながら, 私は弘樹に電話をかけた. 彼の寝室のドアを直接叩くことは, 彼に許されていなかった. 彼のプライバシーは, 私よりも優先されるべきものなのだ.

「弘樹さん, 朝食の準備ができました. 」私は, 弘樹の電話が繋がると, そう伝えた.

しかし, 電話の向こうから聞こえてきたのは, 弘樹の声ではなかった. それは, 美奈の声だった.

「あら, 芽世さん. どうしたの? 」美奈の声は, 寝起き特有の甘ったるい響きを帯びていた. 「弘樹さんは, まだ寝ているわよ. 」

私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 美奈は, 弘樹の寝室にいる. そして, 彼女の声は, まるで彼女が弘樹の妻であるかのように, 私に語りかけていた.

「美奈さん, どうして弘樹さんの寝室に…」私は, 自分の声が震えていることに気づいた.

美奈は, 私の言葉に, 嘲るように笑った.

「あら, 忘れたの? 昨日の夜, 弘樹さん, 私にここに泊まってほしいって言ったのよ. 陽くんも, 美奈おばちゃんと一緒に寝たいって, 聞かなかったんだから. 」美奈の声には, 勝ち誇ったような響きがあった.

私の顔から, 血の気が引いていく. 私は, 何も言えなかった.

その時, 電話の向こうから, 弘樹の声が聞こえてきた.

「誰だ, 朝から騒がしい. 」弘樹の声は, 不機嫌そうだった.

「弘樹さん, 美奈おばちゃんが電話してるよ! 」陽の声が, 弘樹の声に重なるように, 電話の向こうから聞こえてきた.

私の手に持っていたスマートフォンが, 震え始めた. 私は, 目の前の現実を, 受け止めることができなかった.

「弘樹さん…」私は, か細い声でそう言った.

「ああ, 芽世か. 」弘樹の声は, まだ不機嫌そうだった. 「何か用か? 」

「朝食の準備ができました. 」私は, そう言って, 電話を切った.

私の心は, 完全に砕け散っていた. 弘樹は, 美奈と陽と, 同じベッドで寝ていたのだ. 私という妻がありながら, 彼は美奈を自分の寝室に招き入れ, そして陽もそこにいた.

私は, 弘樹の寝室のドアの前に立ち尽くした. 私の目には, 涙が溢れていた. 弘樹の寝室から漏れ聞こえる, 美奈と陽の楽しそうな笑い声が, 私の胸を深く抉った.

私は, 自分がどれだけ愚かだったのかを思い知らされた. 彼らは, 最初から私を「家族」として見てなどいなかったのだ. 私は, ただの契約上の妻. 彼らの都合の良い道具に過ぎなかった.

私は, もう, 彼らに何の期待も抱かない. 私は, ただ, この契約が終わり, この家から解放されることを願うだけだ.

「もうすぐだ. 」私は, 心の中で, そう呟いた.

しばらくして, 弘樹と美奈, そして陽がリビングへと降りてきた. 彼らの顔には, 幸福な寝起きの表情が浮かんでいた. しかし, 私の心は, 冷え切っていた.

「わあ, 美味しそう! 」陽は, テーブルに並べられた朝食を見て, 目を輝かせた.

弘樹は, 私の顔を見ることもなく, テーブルに着いた. 美奈は, 弘樹の隣に座り, 陽の頭を優しく撫でている.

「陽, 今日の朝食はサンドイッチだよ. 」私は, そう言って, 陽にサンドイッチを差し出した.

陽は, 私の差し出したサンドイッチを一瞥し, 顔をしかめた.

「陽, サンドイッチは嫌だ! 美奈おばちゃんが作ってくれたオムライスがいい! 」陽は, そう言って, 美奈の方を向いた.

美奈は, 陽の言葉に満面の笑みを浮かべた.

「あら, 陽くん. 美奈おばちゃん, オムライスは作ってあげられなくてごめんね. 」美奈はそう言って, 陽の頭を優しく撫でた.

「陽, 我儘を言うな. サンドイッチでも食べられるだろう. 」弘樹は, 陽にそう言った. しかし, その声は, 陽を咎めるというよりも, 諭すような響きだった.

「嫌だ! 陽, オムライスがいい! 美奈おばちゃんのオムライスがいい! 」陽は, そう言って, テーブルを叩いた.

美奈は, 陽の言葉に, 困ったような顔をして弘樹を見上げた.

「弘樹さん, 陽くんがこんなにオムライスを食べたいって言っているわ. 作ってあげられないかしら? 」美奈は, 弘樹に甘えるような声でそう言った.

弘樹は, 美奈の言葉に, わずかに眉をひそめた. しかし, すぐに美奈の方を向いた.

「芽世, 陽にオムライスを作ってやってくれないか. 」弘樹の声は, 私に命令するような響きを帯びていた.

私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 私がどれだけ陽のために尽くしても, 私の料理は嫌がられ, 美奈の言葉一つで, 彼は私に命令する.

「嫌です. 」私は, きっぱりと言い放った.

弘樹の顔に, 驚きの表情が浮かんだ. 彼は, 私が彼の命令を拒否するとは思っていなかったのだろう.

「何を言っているんだ. 陽が食べたいと言っているだろう. 」弘樹の声には, 苛立ちが混じっていた.

「陽が食べたいのなら, 美奈さんが作ってあげれば良いのではありませんか. 」私は, 冷ややかな声でそう言った. 「美奈さんは, 弘樹さんにとって, そして陽にとって, 最も大切な人なのでしょう? 」

弘樹は, 私の言葉に何も言えなかった. 彼の虚ろな瞳が, 大きく揺れていた.

「それとも, ご自分で作ったらどうですか. 」私はそう言って, 弘樹と美奈の顔を交互に見た. 「いらないなら, 捨ててしまえばいい. 私はもう, あなたたちのために料理を作る気はありません. 」

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契約妻は捨てられた

第1話
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