話 2
篠原琴音は一晩中、激しく翻弄された。
うつ伏せにされたり仰向けにされたり、小さな体は何度もひっくり返された。足は震えて力が入らなかったが、顔も知らない夫に逆らう勇気などなかった。
深夜に目が覚めると、隣では男がまだ眠っていた。部屋が少し明るくなっていたので、彼女はこっそりと長谷川悠真の顔を見てみようと思った。
しかし、彼女が視線を向けた瞬間、男もパッと目を開けた。
琴音は驚いて飛び退き、男の足に自分の足が触れてしまった。昨夜の情事を思い出し、顔が瞬く間に真っ赤に染まった。
長谷川彰人も、ようやくこの少女の顔をはっきりと捉えた。
小さく青白い顔は、恐怖と羞恥で不自然な赤みを帯びている。濡れた瞳で、怯えた子鹿のように彼を見つめていた。
篠原栞奈は25歳だったはずだが、この娘はどう見てもそれより幼く見える。
「ここに嫁いできた理由は分かっているはずだ」
彰人は彼女にいくつか話しておきたいことがあり、声をかけた。
すると少女は慌てて口を開いた。「分かっています、悠真様。私……頑張って妊娠しますから」
男の瞳がスッと細くなった。「悠真?」
「は……はい」
彰人のまとう空気が、一瞬で凍りついた。
昨夜の暗闇の中で、すでに違和感はあった。あまりに臆病すぎて、母親から聞いていた「淑やかな栞奈」とは似ても似つかなかったのだ。
ただ、酒が少し回っていたことと、腕の中の体があまりに柔らかかったことで、些細な違和感を気に留めていなかった。
「お前は誰だ」
男は氷のように冷たい声で、威圧的に問い詰めた。
琴音は彼の急変した気迫に震え上がった。「わ……私は琴音です……」
彰人はその名前を繰り返し、冷ややかな声で告げた。
「栞奈ではないのか?篠原家の次女……」
琴音は目に涙を浮かべながら、力なく頷くことしかできなかった。
彼女もようやく異変に気づいたようだった。目の前の男は悠真ではなく、本来なら姉の夫になるはずの彰人なのではないか。
これでおしまいだ……。
彰人の周囲の気圧は、恐ろしいほど低くなった。
琴音は布団にくるまり、こらえきれずに涙をこぼした。「ご……ごめんなさい……」
彰人は、昨夜の彼女の不慣れな反応や、か細いすすり泣き、そして今朝の涙を浮かべた瞳を思い出した。彼女が異常なほど怯えていた理由がようやく繋がった。
姉妹で乗り間違えたのだ!
そして自分も、取り返しのつかない間違いを犯してしまった。
となれば、悠真の方は……。
彰人は眉間を指で押さえ、ベッドの上で丸くなって肩を震わせている少女を深い眼差しで見つめた。
「ここにいろ。俺の許しがあるまで、一歩も外へ出るな」
琴音はビクッと体を震わせ、泣き声を強引に飲み込んだ。赤くなった目と鼻の先が、この上なくいじらしく見えた。
彰人はスマートフォンを手に取り、部屋を出ていくと悠真に電話をかけた。
***
一方、その頃。
悠真は朝から電話の音で叩き起こされた。背中を向けて眠っている女を一瞥してから、スマートフォンを手に取った。
寝起きの悪さから、荒っぽい口調で応じる。『誰だよ!』
その声で栞奈が目を覚ました。
寝返りを打とうとした瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
32歳の男があれほどの体力を持っているなんて。
彼女は無意識に自分の下腹部に手を当てた。3ヶ月もあれば、きっと妊娠できるはずだ。
もし彼の体に問題がなければの話だが。
彰人の子供さえ授かれば、夫の寵愛は得られずとも、長谷川家の夫人としての地位は盤石になる。そうすれば妹を守る力も手に入るはずだ。
たとえ琴音が妊娠できずに実家へ戻されることになっても、彰人に頼んで妹を引き取って養うこともできるだろう。
そんな思考を、男の声が遮った。
『俺、“義姉さん”を抱いちゃったってこと?』
その言葉を聞いた瞬間、栞奈の頭の中が真っ白になった。
悠真は気にする様子もなく、鼻で笑った。『いや、まだ入籍前だし義姉さんじゃねえか。なあ兄貴、今から入れ替えるか? あんた、俺の使い古しでも気にしないだろ?』
電話が切れると、栞奈も布団を引き寄せて起き上がった。
上半身裸のままベッドの背もたれに寄りかかっていた悠真が、隣の女へ視線を向けた。
とんでもないことになった。母親が決めた女なんて興味はなかったが、抱く相手を間違えるというのはあまりに馬鹿げている。
昨夜、この女が全く物怖じせず、むしろ度胸があることに驚いた理由がようやく分かった。
2人は同時に昨夜のことを思い出した。
寝室のドアを開けた時、悠真は母親から「相手はまだ20歳の娘だ」と聞かされていた。
そう言われると、かえって怖がらせてやりたくなるのが彼の性分だ。
20歳の娘など、まだ何も知らない子供だろう。
悠真は薄暗い部屋の中で平然と座っている彼女を見て、からかってやろうと思いついた。
「ここへ連れてこられた理由は分かっているな」
わざと意地悪く尋ねた。
栞奈は2秒ほど沈黙した。彰人は32歳なのだから、酸いも甘いも噛み分けてきた男だろう。今さら恥じらったり、もったいぶったりする必要はないと考えたのだ。
「ヤるんでしょ」
彼女は潔く答えた。
悠真は眉を上げた。ーーずいぶん物分かりのいい娘だ。
彼は小さく笑った。暗闇で顔はよく見えなかったが、そのシルエットが華奢であることは分かった。
「ヤるなら、まずは俺をその気にさせてみろ」
言い終わるか終わらないかのうちに、女は直接彼の膝に乗ってベルトを解き始めた。悠真は目を見開いたが、すぐに面白そうに口角を上げた。これほどギャップがあるとは。
彼は咳払いをした。「まずは自分で脱げよ」
悠真は2秒ほど間を置き、欲望のせいでがっついているように見えないよう、自らの反応を抑え込んだ。
母親が選んだ女は、確かに悪くない。
悠真が身を乗り出し、彼女をベッドに組み敷こうとしたその時、少女の声が耳に届いた。
「待ってください、長谷川様」
女は反対側の枕を掴むと、それを自分の腰の下に敷いた。
栞奈の頭の中は、一刻も早く妊娠することでいっぱいだった。
「30分くらいあれば、いけますか?」
悠真は眉をひそめた。ーー俺を種馬か何かだと思っているのか?
彼は彼女のシャツのボタンを外し、顔を寄せてキスをした。
……
事が終わった後。
「あの……少しの間、こうして抱いていてくれませんか?」
悠真はニヤリとした。やはり若い娘だ、終わった後は甘えたいのだろう。
「頼んでみろよ」と言いかける前に、また彼女の声が聞こえた。「この方が妊娠しやすいって聞いたので……」
彼はひどく不機嫌になった。
そのため彼女の言葉など一切無視し、一晩中安らぎを与えることはなかった。
……
まさか、自分が抱いたのが兄のために用意された女だったとは。
悠真は栞奈を見た。彼女は自分よりもずっと落ち着いているように見えた。
栞奈は布団を整えて胸元を隠すと、冷静な声で沈黙を破った。「つまり、昨夜のことは誤解だったということですね」
悠真は、彼女のその冷徹なまでの冷静さを眺めながら、昨夜自分から跨ってきたり枕を敷いたりしていた姿を思い出し、再び不快感が込み上げてきた。
彼は皮肉っぽく口の端を上げた。「ああ、誤解だな」
栞奈は微かに眉をひそめた。彼の軽薄な口調は気に入らないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「彰人様の方は……何と?」彼女は妹のことと、現在の状況がどうなるのかを何よりも案じていた。
彼女も妹も、絶対にあの家へ送り返されるわけにはいかない。
悠真は、電話越しの兄の冷淡な声を思い出した。この件は間違いなく本邸へ戻って話し合うことになるだろう。
しかし、彼はわざと意地悪く言った。「どうもこうもないさ。このままにするしかないだろ」
栞奈は凍りついた。琴音はあんなに臆病なのに、あんなに腹の底が読めない彰人の手に落ちてしまった。今頃、生きた心地もしていないはずだ。
「ダメよ!」
栞奈は思わず叫んだ。必死な口調で訴える。「琴ちゃんはまだ幼くて、世間知らずなの。彰人様のところに置いておくなんてできないわ!」
「篠原栞奈、長谷川家がこんなスキャンダルを公にすると思うか? それに、兄貴が一度抱いた女を、改めて俺のベッドに送り込むと思うか?」
栞奈の顔からは血の気が引き、爪が手のひらに深く食い込んだ。
悠真の言うことが事実であることは分かっていた。長谷川家がこんな荒唐無稽な話を世間に公表するはずがない。
彼女の瞳から一瞬で光が消えるのを見て、悠真の不快感は少し和らぎ、代わりに言いようのない興奮が湧いてきた。
この冷静さを装っている女の弱点は、ここにあったのだ。
彼は身を乗り出し、彼女の長い髪を一房指に巻きつけた。いつもの無頓着な態度に戻って告げる。「決まったことだ、諦めろ」
「兄貴みたいな氷男の相手をするより、俺の方がずっとマシだろ。子供が欲しいんだろ?」
彼は彼女の耳元に顔を寄せ、熱い吐息とともに低い声で囁いた。「少なくとも俺なら、枕のことなんて気にしなくて済むようにしてやるよ」
しかし、栞奈の心は半分冷え切っていた。
琴音はどうなってしまうのか。自分はどうなってもいいが、彰人は長谷川家の長男だ。琴音が相手をしなければならないのはあの男だけでなく、長谷川家の両親もなんだから……。
話 3
篠原琴音はベッドの上で1人膝を抱え、 かすかに体を震わせていた。
こんな大事なことを台無しにしてしまい、長谷川家の人々を怒らせてしまった。長谷川家は彼女と姉はどんな目に遭わされるんだろう。
昨日、姉もあの長谷川悠真に乱暴されたのだろうか。
もし長谷川家が怒って、彼女と姉を実家に送り返したらどうしよう。
琴音は心配のあまり眉をひそめ、小さな顔には焦りと不安が浮かんでいた。赤い跡だらけの体をベッドに縮こまらせる姿は、とても痛々しかった。
彰人がちょうど寝室に戻ってきた。こんな馬鹿げた事態は、彼自身も望んでいたわけではない。
ベッドの方へ目をやると、少女が呆然と座り込み、病気のように激しく震えているのが見えた。
昨夜、自分が歯止めを利かせられなかったことを思い出し、彼は彼女のもとへ歩み寄った。
「どこか具合でも悪いのか」
琴音は息を呑み、無意識に首を横に振った。喉がつかえて、すぐには声が出なかった。
彰人は彼女を一瞥し、淡々と言った。「起きてしまったことは仕方ない。まずは問題を解決するしかない。この件は両親に報告する」
「君の姉は絶対に長谷川家に嫁ぐ必要がある。だが、君については……」
「もし嫌なら、まとまったお金を渡して篠原家へ送り返してもいい……」
彼は若い娘を無理やりどうこうするつもりはなかった。そもそも篠原栞奈は縁起直しの意味合いもあって嫁いできたし、彼自身も身を固める年齢だった。
だが、琴音はついでだった。もし昨日、人が入れ替わっていると気づいていたら、彼は絶対に触れていなかった。
だが、彰人が言い終わる前に、少女は条件反射のように口を開いた。「嫌……帰りたくありません!」
もし帰れば、またあの老人のもとへ嫁がされる。
琴音は必死にすがるように言った。「帰りたくないんです、お願いします……言うことはなんでも聞きます、なんでもします ……私……早く妊娠もしますから……」
少女はベッドの上で膝立ちになり、髪を乱し、ひどく狼狽した様子だった。布団をきつく握りしめるその姿は、未来の夫に向き合う態度とは到底思えなかった。
彰人は数秒間、彼女を見つめた。
昨夜は彼自身も、一時的な衝動で彼女を長時間抱き潰すことになるとは思っていなかった。
彼女の体は彼と相性が良かった。だが、彼女はまだ幼すぎた。彼としては、問題に対処できないような娘を妻にはしたくなかった。
彼が求めているのは、家の面倒事を切り盛りしてくれる妻だ。目の前の少女は、厄介事を増やすだけだった。
「長谷川家の妻として、人付き合いは基本中の基本だ。君の姉にはできるが、君にできるのか」
琴音は動きを止めた。彼女は他人と話す時でさえ、おどおどして声が小さくなってしまう。
姉のようになりたいとは思っていた。しかし、幼い頃から言葉を間違えれば叩かれ、叩かれればさらに話せなくなっていった。
姉が一生守ってくれるわけではない。
「長谷川さん、私、学びます。一生懸命頑張りますから……」
「どうして俺が教えると思っているんだ」
彰人がそう言い放つと、少女の表情が明らかに暗く沈むのが見えた。まるで雨に濡れ、身を隠す場所を失った小動物のようで、彼はなぜか胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。
わざと意地悪を言ったわけではなく、単に事実を述べただけだ。
長谷川悠真に嫁ぐのであれば、母親も彼女にそこまで高い要求はしないだろう。だが、彼に嫁ぐとなれば話は全く違ってくる。
長谷川家は一般的な家庭よりも環境が複雑だ。おどおどした少女に、どうやって人々と渡り合うかを一から教える忍耐力は、彼には確かに持ち合わせていなかった。
「この件は長谷川本邸に戻って両親に話す必要がある。服は人に持ってこさせた。もし両親の前でもそんな態度のままなら、長谷川家に嫁ぐ可能性はゼロだと思え」
彼ははっきりとは否定しなかった。。昨夜、彼女の体を奪ってしまったのは事実であり、こんなアクシデントは誰も望んでいなかったのだから。
男はそう言い残し、部屋を出て行った。
琴音はベッドの上で呆然と座り込んでいた。もし彰人の両親が同意してくれたら、彼女にもまだチャンスがあるのだろうか。
そう思うと、彼女は急いでベッドから起き上がった。
ドアが開き、外から1人の中年女性が入ってきた。琴音は無意識にベッドに引っ込もうとした。体の跡も恥ずかしかった。
だが、先ほどの彰人の言葉を思い出し……。
彼女は深呼吸をし、布団を掴んで大事な部分を隠しながら言った。「置……」
声を出そうとしたが、喉が嗄れていて、かすれたような音になった。
彼女は頑張って少しでも大きな声を出そうとした。
「そこに置いてください。自分で取りますから」
女性が出て行った後、琴音は慌てて服を取りに行こうとしたが、股の力が抜け、そのまま床に倒れ込んでしまった。
琴音は鼻の奥がツンとしたが、痛みを気にする暇もなく急いで立ち上がり、服を身に着けた。服は予想外にピッタリだった。
洗面台で顔を洗い、姿見の前に立つ。鏡の中の自分の顔色は相変わらず蒼白だったが、仕立ての良い白いワンピースのおかげで、少しはおとなしく従順に見え、辛うじて長谷川家の妻らしい姿になっていた。
彼女は鏡に向かって微笑む練習をしたが、どう見てもぎこちなく、無理をしているようにしか見えなかった。
その時、寝室のドアがノックされ、外から彰人の感情の読めない声が聞こえた。「準備はできたか」
琴音の心臓が激しく波打った。最後に鏡に映る、必死に平静を保とうとしている自分をもう1度見て、歩いて行きドアを開けた。
ドアの外に立つ彰人は、すでにシワ1つないダークスーツに着替えており、冷ややかで落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
彼は淡々と視線を走らせた。彼女の目には相変わらず怯えの色があったが、少なくとも身だしなみは整っており、立ち姿も必死に正そうとしていた。
「行くぞ」
琴音は足元がおぼつかなかったが、無理をして男の足取りについていった。
***
長谷川本邸。
琴音が彰人に続いて中に入ると、すでに姉が到着しているのに気づいた。
姉は別の若い男の隣に座っていた。その男は彰人と6、7割ほど顔立ちが似ていた。
彼女がそちらを見ると、栞奈もちょうどこちらを見ており、その目には心配の色が溢れていた。
悠真は、琴音の襟元の下にある薄いキスマークをいち早く見つけた。
彼は突然笑い声を上げた。沈黙した空気の中ではひどく唐突だったが、本人は全く気にしていない様子だった。
「兄さん、俺に返しに来たわけ??」
悠真は近づいてきて琴音を観察し、それから彰人のそばに寄った。
端正な顔立ちをしているのに、琴音はこの男の性格が最悪だと感じた。
「兄さん、この子がお気に召さないなら、2人とも俺にちょうだいよ」
彰人が冷ややかな視線を送ると、悠真は2秒ほど黙ってから言い返した。「くれないなら別にいいよ。兄さんのお下がりなんて、こっちから願い下げだし」
長谷川太郎は、この軽薄な次男を見て、そばにあった杖でコツコツと床を叩いた。
「これ以上ふざけた口を利いたら、その脚をへし折るぞ」
全員が席に着いた後、長谷川澄江が口を開いた。「昨日は一体どういうことだったの」
彼女の視線が、栞奈と琴音の上を通り過ぎた。
栞奈が先に答えようとしたが、澄江は一瞥してそれを制した。「妹に話させなさい」
琴音は無意識に立ち上がった。唾を飲み込み、震えを隠すために少し声を張った。
「申し訳ありません、長谷川夫人。昨日は私が車のナンバーを間違えて記憶していました。1234が彰人様の車だと思い込み、別の車に乗ってしまったんです」
彼女が言い終わると、リビングは静寂に包まれた。
澄江の鋭い視線が、琴音の蒼白な顔を値踏みするように見つめていた。
この娘はおどおどしているが、嘘はついていないし、責任逃れもしていない。
「勘違いしたと?」
澄江の淡々とした口調には、目に見えないプレッシャーが満ちていた。「こんな重要なことを、勘違いの一言で済ませるつもり?」