話 2
それでも、凌久は冷笑を浮かべたまま言った。「薬を使って俺を騙そうとしたなら、こうなることくらい覚悟しておけ。──痛みもすべて、受け入れろ」
その言葉を聞いた瞬間、詩織のまつ毛が細かく震え、心臓を鋭い刃物で突かれたような激痛が胸を走った。彼女は陰鬱な顔をした男を見上げながら、震える声で訴える。「あのときは、酔ってただけ……違う、私は──ああっ!」
最後の叫びは苦しげに声色を変え、詩織はシーツの端をしがみつくように握りしめた。
やがて、彼女の細い手首が頭上へと押さえつけられ、男の体がゆっくりと沈み込んでいった。
凌久の動きは容赦がなく、痛みに顔をしかめた詩織の体が、 徐々に麻痺し、力なく崩れていく。
激しい痛みは、やがて感覚の麻痺へと変わり──そして彼女は、何もかもを諦めるように動かなくなった。
この瞬間、詩織は思った。──いっそ、死んでしまえたら、どんなに楽だろうか。
男はすべてを終えると、何の言葉もなく詩織の上から身を起こし、床に落ちていたタオルを拾い上げて、再び腰に巻いた。そのとき、冷酷に吐き捨てるように言い放った。「今回はずいぶん賢くなったな。駆け引きのほうが、ただの無抵抗よりずっと面白い」
彼の声は、行為の直後とは思えぬほど荒れていて、同時に強烈な悪意をにじませていた。
シャワーを浴びる音が再び響く。
行為の前も後も──彼はまるで何かを清めるように、水に身を委ねていた。まるで彼女が「汚れたモノ」でもあるかのように。
詩織には、自分が何者なのか分からなくなっていた。彼の欲望を満たすだけのおもちゃなのか?
それとも、桐嶋家の年配者たちを満足させるための、ただの道具にすぎないのか──。
窓は大きく開いていて、冷たい夜風が容赦なく部屋へ吹き込んでいた。
詩織は思わず体を縮め、肩をすくめながら布団をたぐり寄せて身を包んだ。
身体の冷えだけではない。心までもが、氷のように冷え切っていた。吹きすさぶ風が、心の中に空いた深い傷を暴き、さらにえぐっていくようだった。
彼女は、ますます分からなくなっていた。──どうして、八年も想い続けた男が、こんなにも遠くなってしまったのか。
三年前のことが、ふと脳裏をよぎった。あの日、桐嶋家の宴席で彼女は酔いすぎてしまい、目覚めたときには凌久と裸で同じベッドにいた。
驚いて反応する間もなく、兄と桐嶋家の親族たちが部屋へ押し入ってきて、その光景を目の当たりにした。
すでに「既成事実」は作られていた。そしておばあ様んの文江が即座に婚姻を決めた──まるで決められた未来に押し込めるように。
以来、凌久はずっと、彼女が薬を使って自分を罠にかけたと信じている。
以前の詩織は、そんな凌久の態度がどうしても理解できなかった。どれほど長い間、幼馴染だったとしても、たとえ薬を使ったとして──なぜ、ここまで憎まれなければならないのかと。
けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
話 3
──自分は「悪役」なのだ。彼の「真の恋人」との関係を引き裂いた、物語の邪魔者なのだ。
動画の中で微笑む、完璧で優しい恋人・凌久。彼がそんな姿を、自分に見せる日はきっと一生来ない──そう思っただけで、胸が締めつけられた。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。けれど詩織は、泥のように鈍くなった体を引きずるようにして、布団から起き上がり、浴室へと向かった。
冷たいシャワーが、頭の上から容赦なく降り注いでくる。それでも彼女は、ただ黙って立ち尽くしたまま、水がすべてを流してくれることを願っていた。
鏡に映った自分の顔は、まるで死人のように青白く、肌には青紫色の痕がいくつも浮かんでいた。
その瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。
その夜、詩織は深い疲労の中で眠りについた。
夜中には、うつろな夢を見ていた。まだ関係がここまで悪くなっていなかった頃──少年のようだった彼と、無邪気に笑い合っていた記憶。
しかし、眠りは浅く、早朝には目が覚めてしまった。
洗顔を済ませ、普段着に着替えて階下へ降りると、 使用人の山田さんが彼女の姿を見て、すぐに慣れた手つきで朝食を運んできた。
何年も一緒に暮らしてきた山田さんは、詩織の好みを熟知していた。温かく、心のこもった朝食だった。
詩織はゆっくりと、それを口に運んだ。
「奥様…昨夜、どうしてご主人を引き止めなかったのですか? 久しぶりにお戻りになったのに……」 山田さんは、詩織のために本気で残念がっていた。
彼女は桐嶋家の古株であり、二人の幼い頃からその成長を見守ってきた人物でもあった。だからこそ、幼馴染だった二人の関係がここまで崩れたことに、深く胸を痛めていたのだ。
詩織の胸が、一瞬きゅっと縮んだ。
けれど、すぐにそれを押し殺すように、穏やかな笑みを浮かべて答えた。「引き止めたけれど──止まってはくれなかったの」
彼の身体を引き止めても、彼の心までは引き止められない。
凌久の心はもう、ベイサイド・ワンにある。そこには──彼が本当に愛している人がいる。
山田さんは手を止め、少し間を置いてから慎重に言った。「お忙しいのかもしれません。あれだけの大きな会社を経営されていますし…」
山田さんは、桐嶋本邸から送り込まれて三年間、ずっと詩織のそばに仕えていた。誰よりもこの結婚の真実を知る人物だ。
だからこそ、その苦しみに、共感せずにはいられなかった。
詩織は長いまつ毛を静かに瞬かせ、トーストの端を指先でつまむと、ふと鼻の奥がつんと痛んだ。
そう──凌久は確かに忙しい。
でも、それでも時間を作って、あの少女のために広雲寺でお守りを手に入れていた。
祝日ごとに一緒に過ごしていたのも、彼女とだった。
そんな思いが胸を締めつける中、突然、詩織のスマホが鳴った。
山田さんは静かに身を引いた。詩織はスマホを取り上げ、少しかすれた声で電話に出る。
「…佳奈、私、離婚したいの…」