話 1
「水無瀬時雨、いつまで芝居を続けるつもりだ?」
「お前、本当に俺と結婚する気あんのかよ」
「謝らねえなら、俺は一生お前を娶らねえからな」
その声が耳に入り、時雨は割れるような頭痛に顔をしかめながら、どうにか重いまぶたを持ち上げた。
声のするほうへ視線を向けると、ベッドのそばに池田寂が立っていた。
眉間に深く皺を寄せ、苛立ちを隠そうともせずにこちらを見下ろしている。その腕の中には、いかにもか弱げな新城瑞希が寄り添っていた。
しばらくして、時雨はようやく状況を理解した。
――死んでいなかったのか。
数時間前、時雨は瑞希と一緒に交通事故に巻き込まれた。咄嗟に、婚約者である寂へ助けを求めた。けれど彼が選んだのは、時雨ではなく瑞希だった。
水無瀬家の使用人の娘――新城瑞希。
トラックの運転手は必死にブレーキを踏み込んだ。車体は、間一髪のところで止まった。
しかし、時雨は車の下敷きになり、重いバンパーが脚にのしかかる。グシャリ、と骨の砕ける鈍い感触が走った。
あまりの痛みに全身から冷や汗が噴き出し、時雨は荒く息をしながら、車体の隙間から外を見た。そこには、瑞希を抱きかかえた寂がいた。
彼はひどく焦った顔で、瑞希に怪我がないか何度も確かめていた。
だが実際のところ、瑞希は足を少し捻り、肌をわずかに擦りむいただけだった。
「救急車……早く、救急車を……」時雨は残った力を振り絞って声を上げた。
けれど、誰も彼女を見ようとしなかった。
やがて救急車がサイレンを鳴らして到着し、隊員がストレッチャーを運び出した。
寂は瑞希を守るように救急車へ乗せると、すべての医療スタッフに自分たちへついてくるよう強引に命じた。
そして、時雨だけがトラックの下に置き去りにされた。
もし通りすがりの親切な人が通報してくれなかったら。もし警察と消防が駆けつけ、車の下から引きずり出してくれなかったら。時雨はあの道端で、とっくに失血死していたはずだった。
病室のベッドに横たわったまま、時雨は目の前にいる生きた二人を見つめた。胸の奥が、ゆっくりと冷え切っていく。
父が事故で亡くなったあと、母は時雨がひとりぼっちにならないようにと、児童養護施設から相原徇、陸川崇、そして池田寂の三人を引き取った。三人は水無瀬家へ迎えられ、実の息子同然に育てられた。そして、いずれそのうちの一人が時雨の婚約者となり、彼女とともに水無瀬家の全財産を継ぐ――そう決められていた。
本当に、笑えてしまう。
正式な婚約者であり、水無瀬家の本物の令嬢であるはずの自分は、彼らの目には、使用人の娘一人にも及ばない存在なのだ。
寂は、時雨がいつまでも何も言わず、ただ昏く沈んだ瞳でじっと自分を見つめていることに、名状しがたい苛立ちを覚えた。
いつもなら、彼が少し冷たい顔をしただけで、時雨は慌てて彼の袖を掴み、泣きながら自分の非を認める。
なのに、今日はどうしてこんなに静かなのか。
事故のせいで、呆けているのか?
たかが交通事故だ。トラックだって、本当に彼女を轢き潰したわけではない。そこまで大事になるはずがない。
「おい、時雨。まだ芝居を続けるつもりかよ」 寂は声を荒げた。 「もう目ぇ覚めてんだろ! とっとと瑞希に謝れよ! 」
瑞希は、時雨の呆然とした様子を見て、内心ほくそ笑んでいた。
いっそ頭でも打って、二度とまともに戻らなければいい。そうなれば、水無瀬家のすべては自分のものになる。
瑞希は寂の腕に寄りかかり、わざと体重を預けると、甘えるように声を漏らした。「寂さん、痛い……足が、すごく痛いの……。 私が代わりに怪我をしていればよかったのに。そうしたら、今ベッドに苦しんでいるのは時雨さんじゃ…… 」
さっきまで苛立っていた寂の表情は、瑞希の柔らかな声を聞いた途端、すぐに和らいだ。彼は目を伏せ、彼女を慰めるように優しく言った。「瑞希、お前は本当に優しすぎる」
そして次の瞬間、その矛先は再び時雨へ向けられた。「そもそも、こいつが無理やりお前を呼び出さなければ、こんな事故に遭うこともなかった。 結局、全部こいつの性根が腐っているせいだ!」
顔を上げた寂の瞳には、また露骨な嫌悪が浮かんでいた。 「徇兄さんと崇兄さんが出張から戻ったら、お前が瑞希を危うく殺しかけたって知って、絶対にただじゃ済まないからな! 」
相原徇。
陸川崇。
その二つの名前が耳に届いた瞬間、時雨の胸の奥で燻っていた最後の火種までもが、完全に消えた。
幼い頃の時雨は、三人の後ろをついて回り、甘えた声で「お兄ちゃん」と呼ぶのが大好きだった。
父は早くに亡くなり、母は会社のことで忙しかった。だからあの頃、三人の兄のような存在が、時雨にとっては世界のすべてだった。
すべてが変わったのは、三年前のことだ。
時雨は高い芸術の才能を認められ、恩師の推薦で海外の芸術学院へ進学した。そして三年後、胸いっぱいの期待を抱いて帰国した彼女を待っていたのは、すっかり様変わりしてしまった水無瀬家だった。
使用人の娘である新城瑞希が、いつの間にか家中の寵愛を一身に集める存在になっていた。
兄たちはもう、時雨に笑いかけてくれなかった。長旅で疲れていないかと気遣ってくれることもなかった。その代わり、何かにつけて瑞希に譲れと彼女に言った。
この数ヶ月に至っては、瑞希を守るためなら、彼らは時雨の命さえ平気で踏みにじった。
瑞希が白血病と診断され、輸血が必要になった時。
三人は、時雨を病院の採血椅子に押さえつけた。医師が「これ以上の採血は危険です。ショック症状を起こす」と止めたにもかかわらず、彼らは無理やり八百ミリリットルもの血を抜き取らせた。
時雨が採血室で意識を失って倒れている間、彼らは瑞希の病床を囲み、心配そうに声をかけ続けていた。
大雨の日には、瑞希が一度咳をしただけで。
彼らは慌てて瑞希を家へ送り届けようとし、ずぶ濡れの時雨が車のシートを汚すことを嫌がって、そのまま車から降ろした。人気のない郊外の道に。激しい雨の中、たった一人で。
そのせいで時雨は三日間高熱を出し、あと少しで肺炎になるところだった。
半月前のこともある。
瑞希がこっそりマンゴーを食べ、アレルギーを起こして発疹を出した。 けれど彼らは理由も聞かず、時雨がわざと料理にマンゴーの果汁を混ぜたのだと決めつけた。
罰だと言って、彼らは時雨を裏庭の犬小屋に閉じ込めた。中には、正気を失ったように暴れる犬が一匹いた。
もし老いた使用人が真夜中に気づいてくれなければ、時雨はあの犬に喉を噛みちぎられていたかもしれない。
過去の出来事が、ひとつひとつ脳裏をよぎっていく。
時雨はゆっくりと目を閉じた。
心の底から、自分自身が憎かった。どうしてあの時、母がこの三人の恩知らずを引き取ることに同意してしまったのだろう。
彼らがそこまで瑞希を眼の中に入れても痛くないほど可愛がるなら、望みどおりにしてやろう。
「出て行って」
話 2
池田寂は、呆気に取られた。
聞き間違えたのかもしれない。いや、そもそも時雨の口からそんな言葉が出るなど、考えもしなかったのだ。
「はっ、やっぱり何ともないんじゃないか!」寂は冷笑を浮かべ、一歩前へ出ると、水無瀬時雨の顔を指差した。「死んだふりまでして、ずいぶん手の込んだ芝居だな」
時雨は、ただ静かに彼を見つめていた。
頭には分厚いガーゼが巻かれ、そこからはうっすらと血が滲んでいる。
左脚はギプスで固められ、高く吊られていた。 体には心電図モニターのコードが繋がれ、鼻には酸素チューブが差し込まれている。
それでも寂は、彼女が大した怪我でもないのに大袈裟に構えている——と、本気で思っているらしい。
この男は、心が見えないだけではない。目まで、救いようがないほど節穴だった。
傍らにいた新城瑞希は、見計らったように涙を二粒こぼし、寂の袖をそっと引いた。「時雨さん、全部私が悪いんです……。私が時雨さんを怒らせるようなことをしたから……。 それなら、私が土下座して謝ります……」
そう言って、瑞希は本当にその場に膝をつこうとした。
寂はすぐさま彼女の腰を抱き止め、自分の胸元へ引き寄せた。その顔には、痛々しいほどの執着が浮かんでいる。 そして、吐き捨てるように続けた。「こいつに、そんな価値があるか!」
寂は時雨へ顔を向け、怒りを露わにして声を荒げた。「水無瀬時雨。これが最後の警告だ」
「今すぐ瑞希に謝れ。さもなければ、俺は絶対にお前と結婚しない!」
病室が、しんと静まり返った。
聞こえるのは、心電図モニターが刻む規則正しい音だけ。ピッ――ピッ――。
寂は顎をわずかに上げたまま、時雨がいつものように泣き崩れ、必死に許しを乞うのを待っていた。
今までだって、そうだった。婚約破棄をちらつかせれば、時雨はたちまち怯え、残っていた尊厳さえ投げ捨てて、彼に縋りついてきた。
時雨は天井を見つめたまま、ゆっくりと息をした。
「いいわ」
「……何だと?」寂の声が跳ね上がった。
幼い頃からずっと彼らの後を追いかけ、まるで心臓ごと差し出すように、彼らを大切にしてきた時雨が。その時雨が、今日に限って、こんなにもあっさり承諾した。
「お前、嫁がないつもりか?」
「ええ。もう嫁がない」
寂はその場で固まった。彼の腕の中にいた瑞希の体も、こわばった。
時雨は病床に仰向けになり、真っ白な天井を見つめていた。
胸の奥で動いているはずの心臓は、もうとっくに、この三人に何度も抉られて、空っぽになっていた。
無理やり血を抜かれたこと。犬小屋に閉じ込められたこと。そして今回の事故で、トラックの前に突き出されたこと。
いったい何度、命を差し出せば足りるというのだろう。
これからの人生は、ただ自分のために生きたい。
ようやく我に返った寂は、苛立たしげに髪をかき上げ、時雨の鼻先を指差した。「そういう芝居はやめろ! 俺に意地を張ってるだけだろ。じゃあ、徇兄さんと崇兄さんはどうなんだ?」
「お前、高熱でうなされていた時、二人の名前を呼びながら、嫁ぎたいって言ってたじゃないか。 今さら何をいい子ぶってるんだ」
「言ったでしょう。嫁がないって」
時雨は目を閉じた。もう、彼を視界に入れることさえ汚らわしかった。
この三人の頭の中には、瑞希のことしかない。誰が嫁いだところで、結局は都合のいい生贄にされるだけだ。
寂がさらに怒鳴ろうとした、その時。病室のドアが押し開けられた。
当直の看護師が治療用のトレーを手に入ってきて、眉をひそめた。 「何を騒いでるんですか!ここは重症病棟ですよ。騒ぎたいなら外でやってください!」
瑞希はすぐさま目を潤ませ、か弱い声を出した。「看護師さん……私も患者なんです。足がすごく痛くて……」
「足をひねっただけで患者ぶるんですか?」 看護師は呆れたように白い目を向けながら、手早く時雨の点滴を交換した。「その程度の擦り傷なら、とっくに退院できますよ。重症病棟の前に居座って、何をしているんですか」
それから、淡々と続けた。「脳外科は三階です。出口を出て左。どうぞお引き取りください」
瑞希は言葉に詰まり、顔を真っ赤にして、目に涙を溜めた。
寂の顔は見る見るうちに青ざめ、やがて怒りで強張った。彼は瑞希の手を引き、病室の外へ向かう。「いいだろう、水無瀬時雨。その気なら、一生そこで寝てろ」
「瑞希に土下座して謝るまで、俺たちが迎えに来ると思うな!」
半月後。
水無瀬家の車が、入院棟の下に停まっていた。
時雨の脚のギプスはまだ外れていない。彼女は車椅子に座り、長年水無瀬家に仕えている運転手、北村忠に押されて外へ向かった。
ロビーを出た途端、車のドアの前に立ちはだかる寂と瑞希の姿が目に入った。
瑞希は指先をもじもじと絡め、怯えたような顔でこちらを見た。「時雨さん、ごめんなさい……」
「寂さん、時雨さんも今日退院するって知らなかったみたいで。車の席が足りないから、先に私を送ってくれるって……」
寂は腕を組み、車椅子に座る時雨を見下ろした。その口調には、まるで施しでも与えるような傲慢さが滲んでいる。「少しは懲りただろう」 「水無瀬時雨。お前がいつ瑞希に頭を下げて謝るか。その時になったら、改めて迎えを寄越してやる」
時雨は、車椅子の肘掛けにそっと指を置いた。
三年前、胸を弾ませて帰国した。やっと家族と再会できると思っていた。けれど待っていたのは、自分の居場所がすっかり他人に奪われた水無瀬家だった。
本物の水無瀬家のお嬢様であるはずの時雨は、いつの間にか誰からも疎まれる悪女扱い。その一方で、使用人の娘である瑞希は、三人の御曹司に手のひらの上の姫のように大切にされている。
運転手の北村はそばに立ち、困り果てたように手を揉み合わせていた。
今日は命じられて、お嬢様である時雨を迎えに来た。それなのに、池田家の若様と新城のお嬢様が、どうしても車を使うと言い張っている。
以前の時雨なら、彼らの機嫌を取るために、自分から身を引いていた。車を譲り、ひとりでタクシーを拾って帰っていたはずだ。
北村が動かないのを見て、寂は苛立たしげに眉をひそめた。「何をぐずぐずしてる。早く車を出せ。 瑞希は帰って薬を飲まなきゃならないんだ」
北村はうつむき、小さな声で言った。「ですが……お嬢様がまだ……」
「あいつは勝手に待たせておけばいい!」寂は声を荒げた。 「水無瀬時雨、いつまでくだらない真似をするつもりだ? 瑞希まで巻き込んで、こんなところで日差しに晒す気か?」
時雨はゆっくりと目を上げた。寂の向こうに立つ北村へ視線を向けた。
「北村さん、車に乗せて」
北村は慌てて前に出て、車椅子を車のドアのそばまで押すと、慎重に時雨を後部座席に乗せ、体を支えた。
「お嬢様、出発してもよろしいですか? 」北村は彼女を落ち着かせると、運転席に戻ろうとした。
時雨は、すでに隣に座っている寂と瑞希へ目を向けた。
「待って」
話 3
「待てだと? 水無瀬時雨、いい加減にしろよ! 」池田寂は声を荒げた。
時雨は革張りのシートに身を預けたまま、寂の後ろにいる新城瑞希へ視線を向けた。
瑞希は寂の服の裾をぎゅっと握り、彼の背に隠れるように小さく身を縮めている。
水無瀬家は、寂たち三人を引き取り、何一つ不自由のない暮らしを与えた。
海外へ留学させ、会社の株まで与えた。それもすべて、水無瀬家に残されたただ一人の血筋――時雨を、彼らに守ってもらうためだった。
それなのに今、三人は水無瀬家から与えられた資産を、ことごとく瑞希につぎ込んでいる。
ただの使用人の娘である瑞希に。
身の回りのものすべてが、水無瀬家の令嬢と同じ格式で整えられ、外出には運転手付きの車が用意される。それどころか、本物の令嬢である時雨が、彼女のために席を譲らされることさえある。
時雨は視線を戻し、寂を見た。「ええ。待つに決まってるでしょう」
寂は手をかざして瑞希を日差しから庇いながら、苛立たしげに言った。「お前を乗せてやっただけでも感謝しろ。 まだ文句があるのか?」
時雨は何も答えず、窓の操作ボタンを押した。 ガラスが音もなく上がり、窓枠にかけられていた寂の腕を挟んだ。 「っ……!」寂は痛みに顔を歪め、慌てて腕を引っ込めた。
時雨は淡々と言った。「まだ、降りていない人がいるでしょう」 それから運転席へ目を向けた。「北村さん。この二人を降ろして」
北村はすぐにシートベルトを外し、車を降りて後部座席へ回った。
そして寂の腕を掴むと、そのまま外へ引きずり出す。 不意を突かれた寂は数歩よろめき、そばの植え込みの柵に体をぶつけた。
瑞希が短い悲鳴を上げ、慌てて寂を支えようとする。けれど足元のハイヒールがぐらつき、そのまま地面にへたり込んだ。
北村はそれには目もくれず、反対側のドアを開けると、後部座席に置かれていた瑞希のブランドバッグを取り出した。
そして、それを彼女の足元へ放り投げた。ドアを閉め、素早く運転席へ戻った。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。エンジンが唸り、マフラーから青白い排ガスが勢いよく噴き出す。それは、ちょうど寂の顔にまともにかかった。
池田寂は手で煙を払いながら、何度か咳き込んだ。 遠ざかっていく車のテールランプを見つめ、悔しさに歯を食いしばった。
今日の時雨は、いったいどうしたというのだ。
いつもなら、彼が少し眉をひそめただけで、時雨は息を潜めるように大人しくなった。
それなのに今日は、運転手に命じて自分を車から引きずり降ろさせるなど。 まさか、こんな見え透いた駆け引きで、自分の気を引けるとでも思っているのか。
瑞希は足首をさすりながら、寂を見上げた。「寂さん……お姉さま、 私のこと怒ってますよね…… 」
寂は瑞希の赤く潤んだ目を見下ろし、腰をかがめて彼女を支え起こした。「怒るだって?あいつにそんな度胸あるもんか 」 彼は慰めるように言いながら、袖についた埃を払った。
「今はただ拗ねているだけだ。二、三日もすれば、自分から縋ってくる」そう言って、瑞希の手を引いた。
ここは山の中腹にある私立病院だ。タクシーなど、まず捕まらない。二人は麓まで歩いて下りる羽目になった。
しかも、水無瀬家の屋敷があるこの先の山腹の住宅地は、外部車両の乗り入れが禁じられている。つまり、麓に着いたところで、そこからさらに長い坂道を歩かなければならないということだった。
水無瀬邸。
時雨は玄関先で車椅子に座り、休んでいた。やがて視界の端に、 見るからに無残な二つの影が、ようやく坂道を上がってくるのが映った。
寂のシャツは汗で濡れ、背中にぴったりと張りついている。
瑞希はもっとひどかった。片手にはヒールの折れたハイヒールをぶら下げ、裸足で舗装道路の上を歩いている。一歩進むたびに、痛みで顔を歪めた。
「水無瀬時雨、お前には情けというものがないのか!」 玄関へ着くより先に、寂の非難めいた声が飛んできた。
彼は大股で階段を上がり、時雨の前に立ちはだかる。その体が、彼女の目の前に差していた陽光を遮った。
「情け? 」 時雨は顔を上げ、静かに彼を見た。「この車は水無瀬家のもの。私は水無瀬家の唯一の後継者」 淡々とした声で、彼女は続けた。「自分の家の車で家に帰るのに、誰に対して心を問われる必要があるの?」
寂は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに瑞希を自分の前へ引き寄せると、擦りむけて血の滲んだ彼女の足先を指さした。「見ろ。瑞希はお前のせいで、こんなにひどい目に遭ったんだぞ。よくも平気な顔でここに座ってられるな」
「お前がコンペに出すつもりだったデザイン画を出せ。瑞希への埋め合わせとして渡すんだ」 「それさえすれば、今日のことは水に流してやる」
時雨は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになった。
「どうして私が渡さなきゃいけないの?」
寂の体が、ぴたりと固まった。
どうして。その一言を、時雨はこれまで一度も口にしたことがなかった。
寂の記憶の中の時雨は、彼が何かを欲しがれば、たとえどんなに大切なものでも、ためらわず差し出す女だった。
「それは……その……」
寂はしばらく言葉を探した末、ようやく絞り出すように言った。「お前が本気で俺たちのことを大事に思ってるなら、それくらい当然だろ」
時雨には、なぜ彼らがここまで瑞希に入れ込むのか、 その理由が痛いほど分かっていた。
七年前。三人が成人したばかりの頃、彼らは半年近くかけて、新城母娘の行方を捜し出した。
当時、時雨はまだ十五歳だった。兄たちが良いことをしているのだと信じて、彼女も甲斐甲斐しくあちこちへ走り、情報を集める手伝いをした。
新城和代は、寂たち三人が施設にいた頃の保育士だった。ある時、電気設備の故障で孤児院から火が出た。和代は炎の中へ飛び込み、三人を抱えて助け出したという。
その代償として、彼女の両手には今も消えない火傷の痕が残っている。その恩を、三人は十数年ものあいだ忘れなかった。そしてようやく新城母娘を見つけ出すと、彼女たちを水無瀬家へ迎え入れた。生活のすべてを水無瀬家の基準で面倒を見た。そのうえ、恩返しという責務まで、当然のように時雨一人に背負わせた。
確かに、 和代は彼らを救った。けれど、彼らを育て上げたのは水無瀬家だ。海外へ留学させ、贅沢な生活を与え、会社の株まで目の前に差し出したのも、水無瀬家だった。
時雨はずっと、彼らならその二つを分けて考えられると思っていた。
けれど今になって分かった。彼らは、まったく分かっていなかったのだ。
――いや。分かろうとしていないだけなのかもしれない。
「いやよ」
寂はその場に立ち尽くし、目の前の時雨を見つめた。まるで、見知らぬ女を見ているようだった。胸の奥で、名状しがたい苛立ちがますます膨れ上がっていく。
水無瀬時雨は、本当に変わってしまったらしい。