話 1
「紗雪、詩鈴みたいな無愛想な子より、君はずっと優しい」
斉藤景吾は鼻であしらうように笑った。「あの間抜けは今頃、俺のためにあのヴィンテージワインを探して、まだ馬鹿正直に酒屋を駆けずり回ってるはずだ」
彼は女の耳元で続ける。「だが、その酒ならとっくに俺が手に入れた。さっきお前と交わした固めの杯が、まさにそれだよ」
「もう、景吾さんったら、本当に意地悪ね」
……
男女の笑い声は、無数の鋭い棘となって古川詩鈴の心臓を無慈悲に突き刺した。
彼女は、自分と斉藤景吾の新婚部屋になるはずのドアの前に、静かに立っていた。指先が、少し開いたドアの隙間に触れていた。
だが、彼女はドアを押し開けもせず、叫び声を上げて中に飛び込み、その醜悪な現実を暴くこともしなかった。
中に入ったところで何になろう?彼女には何も見えない。中のありさまが彼女の目に映ることはない。ただ、傷つくのは心だけ。
そう――彼女は盲目であり、そして今この瞬間、紛れもない「愚か者」だったのだから。
一年前、彼女は『幽魂香』の調合レシピを求めて山を下りた際、何者かに追われていた調香の名門、斉藤家の後継者・景吾を命がけで救い、その代償として両目の光を失った。
景吾は彼女の前に跪き、こう誓ったのだ。「一生をかけて君に償う。君の手足となり、片時も離れず守り抜く」と。
当時19歳で恋を知らなかった詩鈴は、その言葉を信じ、景吾に心を奪われた。
あの事故の瞬間が、彼女が景吾の顔を見た最初で最後の記憶となった。
苦労して大金をはたき、ようやく手に入れた赤ワインのボトルを握りしめ、詩鈴はゆっくりと背を向けた。白杖を突き、その場を去ろうとする。
しかし、聞き慣れたあの声が再び鼓膜を揺らした。「紗雪、俺が本当に結婚したいのはお前だけだ。明日、あんな盲目の女と式なんて挙げたくない」
景吾の冷酷な声が続く。「以前はあの犬並みの嗅覚が俺の香水事業に役立つと思って、親父の言いつけ通りあの役立たずを置いてやったが……そうでなければ、とっくに追い出している。それに、あいつはお前の家から田舎の孤児院に捨てられた隠し子だろう? 生まれつき不吉な女だ。古川家の正統な令嬢である君とは比べものにならない。この俺に釣り合うはずがないんだ」
彼はさらに残酷な事実を口にした。「そうだ。松岡家の悪ガキとの賭けに負けてな。借金のカタに、あいつをあちらに預けてきたよ」
詩鈴の清純な顔から、血の気が引いていく。
虚ろな瞳は巨大な闇の網に覆われ、一筋の希望の光さえ差し込まない。
(……ふっ)心の中で、乾いた笑いが漏れた。
(見る目がなかったのは、この両目だけじゃなかったってことね、詩鈴)
これが、心から愛し、嫁ぎたいと願った男の正体か。獣と何の違いがあるというのか。
白杖を頼りに、手探りで階段を降りる。
この屋敷に住んで一年。一階から二階までの階段の数も、家具の配置も、すべて記憶している。
景吾は彼女が怪我をしないよう、屋敷中の鋭利な角をすべてクッション材で覆ってくれていた。その細やかな気遣いと優しさが、彼女を深い愛の沼へと沈めていったのだ。
一歩一歩、ゆっくりと進んでいた足が何かに引っかかり、詩鈴は体勢を崩した。
とっさに白杖で体を支え、転倒だけは免れる。
彼女は腰をかがめ、手探りであたりを探りながら、足に引っかかったものを拾い上げた。
指先に触れたのは、面積の極端に少ない布切れ。レース素材に、真珠があしらわれている。
詩鈴は瞬時に理解した。これはいわゆる「特別用の下着」だ。
脳裏に再び、今の瞬間もベッドの上で寄り添う男女の姿が浮かび上がる。
胃の底から強烈な吐き気がこみ上げてきた。
彼女はあの汚らわしいゴミを投げ捨てると、足早に階段を降りた。
リビングに戻ると、詩鈴はワインオープナーとグラスを探り当てた。
デキャンタージュなどする気にもなれず、そのままグラスに注ぐ。
(見る目のなかった自分に、乾杯)
喉を流れるワインは、普段の芳醇さとは裏腹に、焼けるように苦く感じられた。
それから間もなく、玄関から足音が聞こえてきた。
使用人たちが恭しく出迎える声で、詩鈴は来客が誰かを悟った。
景吾の母親、未来の姑である斉藤芙由理だ。
わざわざ足を運んだのは、特注のウェディングドレスを届けに来たからだろう。
高級なサテンのドレスをまとった芙由理は、二人の取り巻きを連れてリビングに入ってきた。
そこで彼女が目にしたのは、明日の儀式で使うはずのワインを一人で飲んでいる詩鈴の姿だった。「ちょっと! そのワインは景吾が苦労して手に入れた最高級品よ! それを勝手に開けるなんて……明日の夜、あなたたちは何を飲むつもり? 全く、盲目の嫁をもらうと気苦労が絶えないわね!」
詩鈴は気のない様子でグラスを揺らすと、薄く唇の端を吊り上げた。「どうせ私が飲むものです。今飲もうが後で飲もうが、大した違いはありませんわ。お義母様がそんなに青筋を立てて怒るのは、もしかしてこのワインが飲みたかったから? まだ残っていますけれど、一杯いかが?」
言いながら、詩鈴は半分ほど残ったボトルを無造作に突き出した。漆黒の長い髪が肩にかかり、光のない瞳は虚ろだが、その顔立ちは冷ややかなほどに美しかった。
芙由理は怒りで言葉を詰まらせた。「あなた、ね……」
普段は従順で大人しい人形のような娘が、今日はどうしてこうも口が回るのか。
明日は結婚式だ。やるべきことは山積みで、この土壇場で波風を立てたくない。芙由理は苛立ちを飲み込み、後ろに控えていたデザイナーに合図を送った。「これはあなたのためにあつらえたウェディングドレスよ。普段よりワンサイズ小さく作らせたわ。着られなくなったら困るから、今夜から明日は何も食べないことね。当日は大勢のメディアが生中継に入るのよ。斉藤家の顔に泥を塗るような真似だけはしないでちょうだい」
話 2
斉藤家は、北瑛市で百年の歴史を誇る名家だ。父親である斉藤重樹はメンツを何より重んじ、一人息子である景吾の結婚式とあっては、市内最大級の規模で盛大に行うよう厳命していた。
妻の芙由理が、万事にわたって自ら陣頭指揮を執っているのもそのためだ。
しかし、彼女が本来、嫁として心に決めていたのは、古川家の長女、古川紗雪だった。才色兼備の紗雪こそが、息子に相応しい完璧な相手だと信じて疑わなかったからだ。
だが重樹が「恩返し」に固執し、景吾に古川詩鈴を娶るよう命じた。それが、芙由理が詩鈴を憎む決定的な理由となった。
芙由理は常々、詩鈴のことを「どこからともなく湧いて出た泥棒猫」と罵っていた。
「若奥様の衣装、これどう見てもピンクのブライズメイド用ドレスですよね? 全然ウェディングドレスに見えない」
「奥様も人が悪い わ。わざと恥をかかせようとしてるのが見え見えですもの、アハハ……」
「どうせメクラだもの。ウェディングドレスかどうかなんて見分けがつくはずもないわ。 明日もそのまま着て出て、笑いものになればいいのよ」
使用人たちのひそひそ話はかすかだったが、詩鈴は耳を澄ませ、すべてを聞き逃さなかった。
彼女は生まれつき聴覚が人並み外れて鋭く、失明してからはそれがさらに研ぎ澄まされていたのだ。
詩鈴は目の前に置かれた「婚礼衣装」を指先でなぞりながら、心の中で冷ややかに嘲笑った。
階段の踊り場から、カツカツという足音が近づいてくる。
胸元をはだけたシャツ姿の景吾と、乱れた髪にスリップドレス一枚の紗雪が、同時に姿を現した。
詩鈴がこれほど早く戻っていると思わなかった景吾は、その端正で涼やかな顔に一瞬、露骨な嫌悪の色を浮かべた。
状況を察した芙由理はすぐに使用人たちを全員下がらせ、明日の計画を台無しにしないよう、紗雪を裏口から帰させるよう息子に目配せした。
景吾は紗雪の腰を抱き寄せ、額に口づけを落とすと耳元で囁く。
「明日になったら、俺は完全にお前のものだ。いい子だから、今は先に帰ってて」
紗雪は忍び足で裏口から抜け出した。
詩鈴はうつむいたまま、かすかな笑みを浮かべた。
景吾の足音も、この部屋に何人の人間がいるのかも、彼女には手に取るようにわかる。
残念なのは、彼ら一家の今の醜悪な表情を、この目で見られないことだけだ。
芙由理はドレスを残し、二言三言言い捨てて本邸へ戻っていった。
詩鈴はソファに静かに座っていた。いつも通り穏やかで、まるで感情を持たない美しいビスクドールのようだ。
景吾はほっと胸を撫で下ろした。この様子なら上の階での出来事に気づいていないだろう。
身なりを整えて隣に座り、詩鈴の氷のように冷たい手を握る。「酒は買えたか?」
詩鈴はそっと手を引き抜き、淡々と答えた。「ええ。でも喉が渇いて、我慢できずに飲んでしまったの」
景吾はテーブルの上のグラスと半分空いたボトルを一瞥した。眉間に複雑な色が走ったが、すぐに消える。「構わないさ。君が楽しければ、いくら飲んでもいいんだよ」
詩鈴は口元を緩めた。「景吾は、本当に私に“優しい”のね」
景吾は笑みを浮かべ、この上なく優しく彼女を抱き寄せた。「馬鹿だな。君は俺の妻になるんだ。君に優しくしなくて、誰にするんだ?」
彼の腕の中に抱かれながら、詩鈴は別の女のきつい香水の匂いに頭痛を覚えた。
三秒後。
詩鈴は彼を押しのけた。
(汚い、本当に汚らわしい!)
彼はわかっている。
彼女もわかっている。
これが、別れの抱擁だと。
「明日の朝一番で、婚姻届を出しに行こうか」と景吾が言う。
詩鈴は微笑んで頷いた。「ええ、わかったわ」
「いい子だ」 景吾は彼女の艶やかな黒髪を撫でて立ち上がると、瞬時に無表情に戻った。
彼は知っている。詩鈴は従順で、決して逆らわない。明日、彼女は大人しく罠にかかるだろう。
だが、彼は彼女のその面白みのない朴訥さに、心底うんざりしていた。
翌日、区役所。
空は厚い雲に覆われ、ロビーは大勢のカップルでごった返していた。
詩鈴は白いワンピースを纏い、待合のベンチに静かに座っている。
景吾が自ら並んで整理券を取りに行った。
係員は情報を登録する際、彼にいくつか基本的なことを尋ねた。
カウンターにもたれかかり、景吾が職員と談笑している。
詩鈴は耳を澄ませ、その会話を拾い上げた。「新郎は私じゃありませんよ。“松岡峻一”です。新婦はこの古川詩鈴。私は彼女の兄で、付き添いです。彼女は目が見えないから、サポートが必要でしてね……」
それ以上聞く必要はなかった。
白杖を握る手に、じわりと力がこもる。
彼女は記憶を辿り、その名を探った。「松岡峻一」
北瑛市で悪名高い放蕩御曹司。松岡家の唯一の跡取りだが、父親は国境守備軍のトップで長年不在のため、野放しにされてきた。
幼くして母を亡くし、性格は歪み、冷酷非道。悪事の限りを尽くす、誰もが顔をしかめる札付きの「極悪二世」だ。
だが、神は彼に、息をのむほど妖しい美貌を与えていた。
重要なのは、松岡家が香水の都全体の経済を牛耳っており、松岡峻一自身も香水工房を所有しているという点だ。
斉藤家で一年かけて見つからなかった「あの物」が、もしかしたら松岡家にはあるかもしれない。
その時だ。
役所の前の通りに、轟音が響いた。
一色のハイパーカーが整列し、銀のケーニグセグを中心にピタリと距離を保ちながら民政局前に停車。入り口は車体の壁で水も漏らさぬほど封鎖された。
極限の傲慢さ、極限の派手さだ。
ドアが一斉に開き、数十人の訓練された黒服の男たちが降り立った。一糸乱れぬ動きで整列し、威圧的な人の壁を作る。
続いて、ケーニグセグのドアが跳ね上がる。黒のスラックスに包まれた長い脚が伸び、薄底の革靴が地面を捉えた。
衆人の注目の中、長身の男が姿を現した。
仕立ての良い黒のシルクシャツ。ボタンを二つ開け、引き締まった蒼白い胸元を晒したその姿は、野性味に溢れている。
朝の微光が、その妖しくも危険な美貌を照らす。深い瞳に不敵な笑みを浮かべ、軽やかにロビーへと歩み入る。全身から、慵懒でありながらも圧倒的な気配が放たれている。
闊歩するその姿は、攻撃的な気品に満ちている。
どう見ても、結婚の手続きに来た新郎には見えない。まるで――ここを破壊しに来た「喧嘩師」そのものだった。
話 3
背後から、付き人の栗原陸が小走りで追いついてきた。「若様、もう少しゆっくり歩いてくださいよ! ところで、相手がどこのご令嬢かご存知なんですか? 万が一、人違いだったらどうするんです?」
松岡峻一はロビーの中央で足を止め、わずかに眉を寄せた。その表情からは、怒っているのか楽しんでいるのか読み取れない。
彼はゆっくりと周囲を見回した。
鋭い視線が、最前列のベンチに座り、白杖を握りしめている一人の少女に釘付けになる。
艶やかな黒髪、白い清楚なワンピース。大人しく従順そうで、それでいて目を引くほどに美しい。
自分のような、飼いならし用のない野獣とは対極の存在だ。
二人の距離は、わずか3メートル足らず。
峻一は面白そうに、じっくりと彼女を品定めした。
(哀れなもんだな)
(婚約者に売られても知らない盲目の小娘)
時間通りに、しかもあんな派手なパフォーマンスで現れた峻一を見て、斉藤景吾は血相を変えて飛んできた。峻一の腕を掴み、強引に隅へと引っ張っていく。「おい! 誰がこんな派手な真似をしろと言った!? 俺の計画をぶち壊したら、タダじゃおかねえぞ」
峻一は鼻で笑い、軽く肩をすくめた。「俺は昔から派手好きなんでね。それに今日は俺の結婚式だぞ? 車十数台ぐらいどうってことないだろう。 文句があるなら取引は中止だ、いつでも帰るぜ」
景吾は顔色を変えた。 彼に心変わりされては困る。「わかった、わかったから! これから写真撮影と署名だ。その間、お前は一切口を開くな。いいな、絶対に喋るなよ」
斉藤家と松岡家は、長年にわたる商売敵だ。二家だけで北瑛市の経済の大半を握っている。
峻一は家への反発心が強く、28歳になっても結婚しない彼に、家からは激しい圧力がかかっていた。
「盲目の嫁」を連れて帰れば、あの頭の固いじいさんを逆上させるかもしれない。
一方、景吾にとっては、古川詩鈴という「厄介者」を厄介払いできる上に、松岡家の顔に泥を塗れる。まさに一石二鳥だ。
双方が一瞬で結んだ協定は、その歪んだ利害が見事に一致した結果だった。
何も知らぬふうを装い、静かに座っている詩鈴のもとへ、景吾が歩み寄る。「さあ、行くぞ。入籍用写真を撮る」彼は詩鈴の腕を取り、強引に立たせた。
カメラマンの指示に従い、詩鈴は椅子に座った。
その隣に、一人の男が腰を下ろす。
男の肩の位置は、彼女よりもずっと高い。そして、その体からは独特の、冷たく乾いた木の香りが漂ってきた。
詩鈴はうつむき、かすかに微笑んだ。
(……これは景吾じゃない)
彼はこんなに背が高くないし、こんな香りはしない。
峻一は横目で、隣の華奢な女を観察した。彼女は俯いてクスクスと笑っている。赤い唇が弧を描くと、頬に浮かぶ2つのえくぼがひどく魅惑的だ。
峻一は一瞬、その笑顔に見惚れてしまった。
すぐに我に返り、自嘲気味に笑う。
(本当に馬鹿な女だ。 売られたことにも気づかず、一人でニヤニヤしてやがる)
「はい、新郎新婦さん、もう少し寄って! 笑ってくださいねー!」 カメラマンが声を張り上げる。
詩鈴は顔を上げた。レンズがどこにあるのか見えないため、ただ虚空をまっすぐに見つめ、口角をわずかに上げて「完璧な花嫁」の表情を作った。
隣の男は彼女の空気に感化されたのか、無意識に背筋を伸ばした。開けていたシャツのボタンを留め、居住まいを正すと、わずかに彼女の方へと体を傾けた。
少し離れた場所でその光景を見ていた景吾は、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
不快な、酸っぱい感情がこみ上げる。
撮影が終わり、3人は手続きの窓口へ向かった。
カウンターに3人が並んで座る。
窓口の職員は、思わず吹き出しそうになった。
(3人で婚姻届なんて光景は、そうそうお目にかかれないな)
マイナンバーカードを受け取って手続きを進め、職員は署名用の書類を二人の前に差し出した。
景吾は詩鈴の手を取り、署名欄へと導いた。「ここに名前を書くんだ。それから、ここもな」
詩鈴はペンを握りしめ、深く息を吸い込んだ。
(筆を落としたら、後悔なし!)
(ここにサインをすれば、もう私は彼の所有物ではなくなる)
(これからの人生、私たちは他人であり、敵同士だ)
隣では、峻一が豪快にペンを走らせていた。署名を終えるとペンを放り投げ、横目で景吾と詩鈴の様子を窺う。
(宿敵の婚約者を、俺が娶るぜ)
(なんて刺激的で、愉快な展開だな)
景吾は、詩鈴が何かに気づいて拒否するのではないかと気が気ではなかった。
詩鈴の手を強く押さえつけ、焦燥を滲ませて急かす。「さあ書くんだ。これを書けば手続きは終わりだ。そうしたら家に連れて帰ってやるから」
詩鈴は「ふっ」と笑い声を漏らすと、もはや迷うことなくペンを走らせた。
(さようなら)
決別の意志を込めて、彼女は署名欄に自分の名前を書き記した。
公印が押された赤い手帳――婚姻届の控えが発行される。
景吾は狂喜し、詩鈴の手からその1冊をひったくると、大切そうにスーツの内ポケットにしまった。「1冊は君が持っていろ。もう1冊は俺が預かる。車を回してくるから、ここで待ってな」そう言うと、小走りに去っていった。
詩鈴の隣に立っていた峻一は、片手をポケットに突っ込み、自分と詩鈴の婚姻届受理証明書を持って嬉々として走り去る景吾の背中を見送っていた。
こらえきれず、声を出して笑ってしまう。
(傑作だな……)
(あれは俺の証明書だぞ?あいつはなんであんなに大事そうに抱えてるんだ?)
笑い収めると、視線は隣の小柄で静かな女に戻った。
彼女は一人ぼんやりと立ち尽くし、白杖を握りしめている。その従順な横顔には、どこか捨てられた子犬のような、守ってやりたくなる孤独が漂っていた。
松岡峻一は、自他共に認める冷酷非道な男だ。
だが、この盲目で愚かな「妻」を前にして、不覚にも魔が差した。ほんの少しの憐憫が芽生えてしまったのだ。
斉藤景吾とは「今日の披露宴が終わるまで、詩鈴には秘密にする」という約束をしていた。
(あと数時間か…正体ばらさずに、ただ黙ってなきゃいけねぇのか)
(だが……俺は誰だ?)
(北瑛市で法もルールも無視して暴れ回る、“松岡家の極悪御曹司”だぞ)
(俺の約束なんて、ハナから信用する方が馬鹿なのさ)
「コホン」 峻一はわざとらしく咳払いをし、彼女に声をかけた。「おい。……俺が誰だか、わかるか?」