1

江都、市立病院のVIP病室。

ベッドに横たわる松浦苑実は、タブレットに映る動画を嘲るような眼差しで見つめていた。

彼女は高熱で入院しているというのに、名ばかりの婚約者は別の女とホテルで密会している。

動画の背景はホテルの廊下で、照明はやや薄暗かった。

それでも、苑実は一目で分かった。 秋葉健人の腕に抱かれている女が、異母妹の松浦綾乃であると。

タブレットの電源を落とし、苑実は病室に入ってきた人物に視線を向け、淡々とした表情で言った。 「もし私が刺青を入れなかったら?」

苑実の反応に、光は少しも驚かなかった。 もし自分が今、苑実の立場だったら、到底受け入れられないだろう。

婚約者が別の女と密会したことを、婚約者に隠蔽させるなどという話があるだろうか。

秋葉グループはまさに上昇気流に乗っている重要な時期にある。 健人はその跡取りであり、このタイミングでこのような動画を撮られたことは、すでに秋葉グループの株価に影響を及ぼしていた。

この件を鎮静化させる最も簡単な方法は、松浦苑実という正真正銘の婚約者を表舞台に出すことだった。

動画に映る綾乃は顔こそ映っていなかったが、腰の刺青は露わになっていた。

その刺青は、健人の名前の頭文字だった。

健人のアシスタントである光が病院に来たのは、健人の意向を伝えるためだった。 苑実に、綾乃と全く同じ刺青を腰に入れるよう命じるために。

そうすれば、ネット上の動画はすぐに鎮静化されるだろう。

光は苑実を同情的な眼差しで見たが、それでも低い声で口を開いた。 「松浦さん、これは秋葉社長のご意向です。 もしご協力いただけないとなると、おばあ様の来週の治療が、少し難しくなるかもしれませんので……」

光はそれ以上言葉を続けなかったが、苑実には彼の言いたいことが分かった。

いや、健人の言いたいことだった。

彼は、彼女の祖母を人質に取っているのだ。

祖母は毎週一度の治療を必要としていた。 江都中を探しても、天才医師の川崎聡以外に治療できる者はいなかった。

苑実は、健人がどうやって聡を説得したのか知らなかった。

だが、健人が祖母を人質に取った以上、彼女に抵抗する術はなかった。

数分後、苑実はベッドにうつ伏せになった。

傍らに座っていた刺青師は、すでに必要な道具を準備していた。

苑実は特殊な体質で、刺青師が用意した麻酔薬は全く効かなかった。

刺青が終わる頃には、苑実の病衣は汗でびっしょりになり、元々血の気のなかった顔は紙のように白くなっていた。

「松浦さん、失礼します」

ベッドの上の人物にそう告げると、光は前に進み出て、苑実の腰に彫られたばかりの模様を写真に収めた。

向こうからの返信を受け取ると、光は安堵のため息をついた。

傍らの刺青師に視線を送り、合図を送ると、刺青師はすぐに病室を後にした。

「松浦さん、どうぞごゆっくりお休みください。 夜には運転手が迎えに来ます」

そう言い終えると、ベッドの上の人物が何か反応するのを待つことなく、光は音もなく病室を去った。

ドアが閉まる音を聞いて、苑実はようやく目を開けた。

腰の奥から突き刺すような痛みが走る。 苑実は重い体を引きずり、傍らの浴室へと入った。

綾乃と瓜二つの刺青を見て、苑実の眼差しの嘲りはさらに深まり、胸の奥が重く沈んだ。

午後7時、苑実は光に付き添われ、秋葉グループの記者会見に姿を現した。

健人はすでに到着していた。

男は際立った容姿を持ち、背筋を伸ばした立ち姿は、純手縫いの黒いスーツをまとい、いっそう気品に満ちて見えた。

男が身につけているスーツに視線を落とした時、苑実の瞳に暗い光が宿った。

このスーツは、彼女が2年前、一ヶ月もの心血を注ぎ、デザインから完成まで、昼夜を問わず、自らの手で縫い上げたものだった。

健人がこの服を受け取った時の喜びようを、彼女はまだ覚えていた。

だが、わずか二年で、服は同じでも、着る人間はもはやあの頃の彼ではなかった。

「松浦さん、秋葉社長の婚約者として、昨夜の秋葉社長と刺青の美女との密会について、どのようにお考えですか?」

「見て見ぬふりをされるおつもりですか、それとも……」

記者の言葉は、目の前の光景に驚愕して途切れた。

健人が苑実の腰に手を回し、同時に彼女の上着の裾を意図的にめくり上げたのだ。

動画と全く同じ刺青が、瞬く間にカメラの前に晒された。

男の指先は冷たく、触れられた場所がひどく不快で、苑実は身の毛がよだつ思いだった。 顔を上げた時、苑実は彼の首筋にキス痕があるのさえ見てしまった。

胃酸がこみ上げてくる。 苑実は唇を固く噛みしめ、その吐き気を必死に抑え込んだ。

「寧々、昨夜の件について、記者の方々に説明してあげてくれ」

話す時の男の口調は優しかったが、その眼差しは明らかに嘲弄に満ちていた。

苑実は苛立ちで胸がいっぱいだったが、祖母のことを思い、深く息を吸い込んだ。

彼女はゆっくりと笑みを浮かべた。 「記者の皆様、誤解です。 昨夜、秋葉社長と一緒にいたのは、この私です」

「ネットで流れているゴシップ動画は、全くの誤解に過ぎません」

「なんだ、ただの勘違いだったんですね。 松浦さんと秋葉社長の仲はとても安定しているようですし、これは近いうちに良い知らせが聞けそうですね!」

記者の言葉を裏付けるかのように、健人は親密そうに苑実を抱き寄せ、その目元は優しさに満ちていた。

ポケットの中の携帯電話が鳴り、「綾乃」という文字が画面に表示されると、健人はすぐに苑実から手を離した。

幸い、記者たちはすでに去っていた。 そうでなければ、また新たなスキャンダルが生まれるところだった。

遠く離れていても、苑実には綾乃の弱々しく、傷ついたような声と、健人が低く優しくなだめる声が聞こえてきた。

苑実は光が手配した車を断り、一人で市中心部のマンションへと帰った。

暗闇の中、苑実は掃き出し窓のそばのソファに、長い間座っていた。

窓の外に広がる街の灯を眺めながら、彼女は一連の数字をダイヤルした。

電話は三度鳴り、相手は出たものの、なかなか声が聞こえてこない。

耳元に低い呼吸音がなければ、苑実は電話が切れたのかと思っただろう。

死のような静寂の中、苑実は意を決して口を開いた。 「あなたが私に約束してくれた条件、まだ有効ですか?」

2

第2章 取引 電話の向こう、黒衣の男は気品に満ち、その顔は彫刻のように端正だった。

その深い瞳に、今はわずかな驚きの色が浮かんでいる。

松浦苑実はしばらく待っても返事がなく、思わず口を開いた。 「失礼しました。 今の話はなかったことに……」

「有効だ」

彼女の言葉が終わる前に、男の低く落ち着いた声が響いた。

今度は、苑実が驚く番だった。

正直なところ、口に出してから少し後悔していた。

秋葉健人との婚約を解消するのはいい。

だが、藤原晴樹と結婚するというのは、火遊びに等しい。

暗闇の中、苑実の思考は一年前へと遡った。

あの日も深夜だった。 彼女はいつものように病院を後にしたが、城西の路地で瀕死の晴樹に出くわした。

助けた時、苑実は彼の身分を知らなかった。 だから、彼が礼をしたいと申し出た時、彼女は冗談で「何でもいいの?」と尋ねた。

男が頷くと、彼女は「私を嫁にもらってくれる?」と口にした。

当時の苑実は、ただの気まぐれだった。 だが、晴樹はまさかの頷きを見せた。

その時、苑実はすでに健人と婚約していた。 それは母が亡くなる前に決めたことだった。 彼女は慌てて、冗談だったと弁解した。

晴樹は彼女に婚約者がいることを知ると、それ以上は何も言わず、ただ一言だけ告げた。 「もし君がいつか結婚したくなくなったら、俺と結婚すればいい。 この条件の有効期限は、二年だ」

そう、有効期限はまだ切れていない!

電話がどうやって切れたのか、苑実には分からなかった。

ただ、男の「一ヶ月後に結婚の準備をしろ」という言葉だけが、耳に残っていた。

誰と結婚するのか?

当然、健人ではない。

苑実は暗闇の中、ベッドに横になった。 全身の疲労にもかかわらず、なかなか眠りにつけない。 ようやく眠りに落ちそうになった時、携帯電話がメッセージの通知音を立て続けに鳴らした。

祖母が入院しているため、苑実は携帯電話の電源を切ったり、マナーモードにしたりすることは決してなかった。

画面が明るくなると、苑実の目に飛び込んできたのは、床に散らばった破片の写真だった。

よく見ると、それは今日、健人が着ていたスーツだと分かった。 彼女が心を込めて仕立てた、あのスーツだ。

写真に添えられていたのは、松浦綾乃からのメッセージだった。「ごめんなさい、お姉ちゃん。 このスーツが、お姉ちゃんが健人さんのために手作りしたものだなんて知らなかったの。 ただの服だと思って、汚れていたから切っちゃった。 怒ってないよね?」

綾乃の探るような口調には、得意げな色がにじんでいた。

苑実が返事をしないのを見て、綾乃はさらにメッセージを送ってきた。 「健人さんは、僕を責めてないって。 ただの服だから、大したことないって」

苑実は、もし返事をしなければ、今夜は眠らせてもらえないだろうと分かっていた。そこで、一言だけ返信した。

「健人さんの言う通りよ。 ただの服だもの。 怒ってないわ。 あなたが楽しければ、それでいい」

画面を消すついでに、苑実は綾乃の番号をブラックリストに登録した。

苑実は嘘をついていなかった。 本当に怒ってはいなかった。

何しろ、この二年間で、こんなことは数えきれないほどあったのだ。

いちいち怒っていたら、とっくに気が狂っていただろう!

再び横になった苑実だったが、どうしても眠りにつくことができなかった。

今の自分を見たら、母はあの世で後悔しているだろうか。

綾乃は松浦家の私生児で、苑実より数ヶ月年下だった。

苑実の母、安藤泉は綾乃の存在を知ると、彼女を海外へ送った。 しかし、長年の苦労と奮闘が、泉の体を蝕んでいた。

そのため、泉が重病に陥った年、松浦隆は杉田圭子と綾乃の母娘を松浦家へ迎え入れた。

泉も、継母のいる生活が楽ではないことを知っていた。 ましてや、隆はもともとろくでもない男だ。

このような状況で、泉は苑実と健人の結婚を決めた。

泉と健人の母、村上美緒が長年の親友だったからだ。

苑実と健人は共に育ったようなもので、さらに美緒との関係もあって、泉は苑実が秋葉家に嫁げば、きっと幸せになれると信じていた。

だが、泉は、人は変わるということを、思いもよらなかった。

泉は亡くなる前、 健人に苑実を大切にしてくれるかと尋ねた。 彼女と美緒の前で、健人は固く誓った。

その誓いは、 苑実でさえ信じてしまうほど、 力強いものだった。

早朝、苑実は強い力で引き起こされて目を覚ました。

目を開けると、怒りに満ちた健人の顔が目の前にあった。

手首の痛みに、苑実は健人を力強く振り払った。 「朝っぱらから、何なのよ?」

「苑実、君は告げ口して、俺の母さんを引っ張り出すことしかできないのか?」

その言葉に、苑実は眉をひそめた。

動画がネットで大騒ぎになっているのだ。 美緒が見ていないはずがない。

健人は美緒から電話を受けると、真っ先に苑実が告げ口したのだと思った。

こんなことについて、苑実は説明する気力さえ無駄にしたくなかった。

ただ、婚約を解消するという決意が、さらに固くなっただけだ。

苑実の沈黙を、健人は肯定と受け取った。 道中、彼は数えきれないほどの冷たい言葉を浴びせた。

だが、秋葉家の屋敷の門をくぐった瞬間、健人はその態度をぴたりとやめた。

彼が瞬時に態度を変えるのを見て、傍らに立つ苑実は思わず白目を剥いた。 自分も見る目がなかったものだ。 こんな表裏のある偽善者だとは、見抜けなかったなんて。

3

「苑実、辛い思いをさせてごめんなさいね」

松浦苑実が秋葉家のリビングに足を踏み入れた途端、手を村上美緒に握られた。

美緒は五十代半ばだが、手入れが行き届いているため、四十代前半にしか見えない。

その手入れの行き届いた顔には、今、心からの痛みが浮かんでいた。

美緒は苑実に対して、これまでずっと悪くはなかった。 この二年間、秋葉健人が何か問題を起こすたびに、美緒は彼女の味方をしてくれた。

だが、その味方というのも、所詮は健人を軽く責める程度のことだった。 何しろ、健人は実の息子なのだから。

今もまた、そうだった。

美緒は言葉を終えるや否や、怒りに満ちた目で健人を睨みつけた。 「このろくでなしが、早く苑実に謝りなさい」

いつもの苑実なら、これまでと同じように「大丈夫です」と口にしていたはずだ。

だが今日、彼女はふと嫌気がさした。 そして、健人が口を開くのを待たず、苑実が先に言った。 「叔母さん、少し頭が痛いので、先に休ませていただきます」

苑実の顔色が青白いのを見て、美緒は慌てて頷いた。 「ええ、休んでいなさい。 食事の時に人を呼ぶから」

頷き、苑実はそのまま二階へと上がっていった。

苑実の姿が階段の向こうに消えると、美緒は不満げに健人を見た。 「一体どういう了見なの。 よりによって松浦綾乃のような私生児と一緒になるなんて」

「母さん、綾乃のことをそんな風に言わないでくれ。 彼女だって江口おじさんの実の娘だ。 それに、そもそも杉田おばさんと松浦のおじさんが出会ったのは、綾乃が生まれる前なんだ」

「あなた……!」

健人の言葉に、美緒は怒りで目の前が真っ暗になった。

深く息を吸い込み、胸の奥で燃え盛る怒りの炎をどうにか抑え込んだ。

再び健人を見た時、美緒の表情はすでに冷静さを取り戻していた。 「あなたと松浦綾乃の間のくだらない痴話沙汰はどうでもいい。 ただ一つ覚えておきなさい。 あなたの婚約者は苑実であり、松浦家の若奥様になれるのも、苑実だけだ」

この言葉を、美緒が口にするのは初めてではなかった。

健人は、もう何度となく聞かされてきた。

だが、今回ばかりは、健人は思わず母親に問いかけた。 「母さん、どうしても苑実を俺に嫁がせたいのは、安藤のおばさんとの約束だからか?それとも……苑実が持っている、あの六割の株のせいか?」

商人は利を重んじる。

美緒も例外ではなかった。

あの時、この婚約を二つ返事で承諾したのは、確かに親友との情もあった。それ以上に、苑実が持つ株が目当てだったのは明らかだった。

松浦グループは泉が一代で築き上げたもの。彼女は早逝したとはいえ、一人娘の苑実に60パーセントもの株を遺していたのだ。

「苑実が松浦グループの株を60パーセント持っていると分かっているなら、もっと彼女に優しくしなさい。 健人、母さんがあなたを不幸にするわけがない。 私がしていることは、すべてあなたのためなのよ」

「苑実を娶って、損はないわ。 容姿にしても、能力にしても、松浦綾乃のどこが苑実に勝っているというの。 これ以上好き勝手な真似を続ければ、苑実があなたに愛想を尽かしてしまう。 母さんが保証するわ、あなたはきっと後悔する。 あなた……」

「もういい、母さん。 やめてくれ。 俺は苑実を娶らないなんて一言も言ってない」

健人は心底うんざりした様子で美緒の言葉を遮り、そのまま二階へと上がっていった。

二階の部屋では、苑実が窓際のソファに身を預け、静かに窓の外の噴水を眺めていた。

傍らに置いていたスマートフォンが、不意に震えた。

送られてきたメッセージを見て、苑実の目に驚きの色が浮かんだ。

それは、シンプルなデザインながらも上品な銀色の結婚指輪の画像だった。 まさに、苑実が好むスタイルだった。

「好きか?」

藤原晴樹からのメッセージを見て、苑実は慌てて返信した。 「これは?」

「好きか?」

相手は、ただ先ほどの質問を繰り返すだけだった。

苑実は数秒黙り込み、二文字を打ち込んだ。 「好き」

メッセージを送った後、スマートフォンはそれきり沈黙した。

電話の向こうの苑実は知る由もなかったが、電話の向こうの男は、その二文字を見て、口元にわずかな弧を描いていた。

その様子に、男の傍らにいた川崎聡は目を丸くした。 「お前が笑うなんて、まさか悪霊にでも取り憑かれたか?」

友人のからかいを聞き、晴樹の口元から笑みが瞬時に消えた。

その素早さに、聡は今のが幻だったのではないかとさえ思った。

「安藤大奥様の容態はどうだ?」

晴樹が言う「安藤大奥様」とは、苑実の祖母のことだった。

自分の患者の話になると、聡の表情は真剣なものに変わった。 「相変わらずだ。 大奥様は心臓の機能が衰えていて、私でも長生きさせるのは難しいだろう」

「名声に胡坐をかいているな」

自分の医術を疑われて、我慢できる医者はいない。 ましてや聡は、国際的に有名な天才医師だ。

普段の冷静沈着な天才医師も、さすがに顔をしかめた。「なんだと!こっちは医者であって、神様じゃないんだぞ!

「安藤大奥様と言えば、一つ分からないことがある。 治療を頼んだのはお前なのに、どうして秋葉家の招待を受けるよう言ったんだ?」

まるで、この天才医師が数億円に目がくらんだ守銭奴であるかのように。

晴樹は聡の質問には答えず、テーブルの上の図面を見つめていた。

それは、一対の結婚指輪の図面だった。 まさに、彼が先ほど苑実に送ったものと同じデザインだった。

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婚約破棄された直後、世界一の大富豪に結婚届を出させられた

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