話 2
杉野佳栄 POV:
ドアを開けると, 秀喜と聖実が驚いた顔で私を見た. 二人の間に広がる気まずい沈黙が, 私の心をさらに冷え込ませる.
「なんでここにいるんだ? 俺を尾行したのか? 」
秀喜の声には, 明らかな苛立ちが混じっていた.
私は何も言わず, ただ携帯の画面を彼に見せた. そこには, 彼からの「助けてくれ」というメッセージがはっきりと残っている.
「あっ, それ, 私が送ったんです! 」
聖実が甲高い声で言い訳する. 彼女の表情には, 一瞬の動揺と, すぐに取り繕った笑顔が浮かんでいた.
秀喜の表情が, その言葉で和らぐのを私は見逃さなかった. 彼は私を疑い, 聖実を信じる. それが, 今の私たちの関係のすべてを物語っていた. しかし私の心は, もう波立つことはなかった. 彼の偏見も, 聖実の演技も, もはや私を傷つけることはない.
「佳栄, 違うんだ. 聖実はただ, 俺を心配して... 」
秀喜が言い訳を始めようとするが, 私は彼を遮った. 手に持っていた二日酔い対策の薬と, 胃に優しいお粥を差し出す.
「これ, どうぞ」
秀喜は酒を飲んでいて運転できないため, 結局, 私は彼を自宅まで送っていくことになった. 道中, 彼は私の隣を歩きながら, しきりに言い訳を続けた.
横断歩道を渡ろうとした時, 秀喜が突然私の腕を掴んで引き戻した. 間一髪で, 猛スピードで通り過ぎる車を避ける.
「おい, 危ないだろう! 何をしてるんだ! 」
彼は私を叱りつけた. その瞬間, 私はかつての彼を思い出した. かつて, 彼は本当に私を心配してくれていた. 私の安全を第一に考えてくれていた.
しかし, 今は違う. 彼の腕を振り払い, 私は一歩距離を取った. 私たちの間には, もう埋められない溝がある.
翌日, 秀喜が私のデスクの前に現れた.
「佳栄, 送っていくよ」
彼の言葉に, 私は戸惑いを覚えた. 昨日, あれだけ冷たく突き放したくせに.
「いや, 大丈夫です」
私は断ろうとしたが, 彼は強引だった.
「どうせ遅刻するだろう. 乗っていけ」
私はため息をつき, 助手席に乗り込んだ. 車内には, 聖実のものらしきヘアピンや, 可愛らしいクマのキーホルダーが無造作に置かれている.
「聖実の物か? 」
私の問いに, 秀喜は慌てて言い訳を始めた.
「ああ, 彼女はまだ子供だからな. すぐに物を散らかすんだ」
子供. 彼のその言葉に, 私は心の中で冷笑した.
彼はいつも, 聖実を「子供」と呼んで甘やかしていた. 以前, 彼は私のSNSに, 聖実と二人で写っている写真を投稿していた. 聖実が私の膝の上に座り, 満面の笑みを浮かべている写真だった. あの時も, 彼は「聖実はまだ子供だから」と言って, 私を傷つけた.
私は後部座席に移り, 窓の外を眺めた.
「佳栄, これ, 朝食だ. お前が好きなサンドイッチと, ホットコーヒー」
彼は私に食べ物を差し出した. その気遣いに, 私は皮肉を感じた.
彼の車の中には, 聖実のために用意された可愛らしいお菓子の箱があった. 私がサンドイッチを一口食べるたびに, その箱が私の視界に入る.
私は思い出した. 以前, 私が体調を崩して食欲がない時, 彼が私に言った言葉を.
「俺は忙しいんだ. 自分で何とかしろ」
彼は, 私には手を差し伸べなかった. しかし, 聖実には, まるで過保護な父親のように世話を焼いていた.
愛とそうでないものの違いは, こんなにも明確なのだ.
私は会社に着くと, すぐに仕事に取り掛かった. 辞職は決めている. しかし, このプロジェクトだけは, 私が責任を持って最後までやり遂げなければならない. それが, 私のプロとしてのプライドだった.
私は疲労困憊で, デスクでインスタントコーヒーを淹れていた. その時, たくさんのケーキが運ばれてきた.
「佳栄さん, タカザワさんが聖実さんのためにケーキ買ってきてくれたんですよ! 」
同僚の声が, 私の耳に届く. 私はケーキの箱に書かれた「西野聖実様」の文字を見た. その瞬間, 私の心は, 冷たい氷で覆われたかのように凍りついた.
話 3
杉野佳栄 POV:
「タカザワさん, 奥さんいるのに, 聖実さんと仲良しだね」
「そうそう, 最近じゃ, ほとんど聖実さんのことしか見てないんじゃない? 」
同僚たちのひそひそ話が, 私の耳に届く. 私はケーキの箱に書かれた「西野聖実様」の文字を改めて確認した. そのケーキは, 聖実がいつも好んで食べる, 季節限定のフルーツタルトだ.
私はそのタルトが大嫌いだった. 幼い頃から, 特定のフルーツにアレルギーがあったからだ. 秀喜は, そのことをよく知っていたはずなのに.
私は, 私たちの出会いを思い出した. 秀喜は, 私の才能を見抜き, 私をチーフデザイナーとして迎え入れてくれた. 彼はいつも, 私の仕事に理解を示し, 私を励ましてくれた.
ある日, 私が残業で遅くなった時, 彼は私のデスクに温かい夕食を置いていった.
「佳栄, 無理するな. お前が倒れたら, 俺も困るから」
その夜, 私が風邪を引いた時, 彼は薬と温かいスープを私に届けてくれた. 薬は, 私が嫌いな苦い味を隠すために, チョコレートに混ぜられていた.
「佳栄は, 俺の最高のパートナーだ」
彼はいつも, そう言ってくれた. 同僚たちも, 私たちの恋を応援してくれていた. 私たちは, 誰もが羨むような, 完璧なカップルだった.
しかし, 彼の情熱は, もう私には向けられていない. 彼の目は, もう私を映していない. 彼の優しさは, もう私には向けられていない.
私は, 仕事に没頭した. 考えている暇などない. ただ, 目の前のデザインに集中するだけだ. 数日間の連続残業で, 私の体は悲鳴を上げていた.
その日の夜, 秀喜が私のデスクの前に突然現れた.
「佳栄, まだ残ってるのか? 」
彼の声には, いつもの冷たさに加えて, どこか探るような響きがあった.
私は彼が何の用で来たのか, いぶかしんだ. 嫌な予感がした.
「高沢社長, 何か御用でしょうか? 」
私は, 彼を苗字で呼んだ. もはや, 夫としての情など残っていない.
「あのプロジェクト, 聖実に任せることにした」
彼の言葉に, 私の心はまた一つ, 深く傷ついた. しかし, 同時に, 私はこの展開を予期していた.
「聖実はまだ経験が浅い. だから, 俺が彼女をサポートしてやらなければならないんだ」
彼はそう言って, 聖実を庇った. 私がこのプロジェクトにどれだけの労力と時間を費やしてきたか, 彼は全く理解していないようだった. あるいは, 理解しようとさえしていないのかもしれない.
「分かりました」
私の声は, 驚くほど冷静だった. もはや, 腹を立てる気力さえ残っていなかった.
これで, 私は会社に借りはない. 辞表を出す時が来た.
秀喜は, 私のあっけない返事に拍子抜けしたようだった. 彼は戸惑った表情で, 小さな箱を私に差し出した.
「これ, お前に. この前, お前が欲しがっていたブランドのネックレスだ」
私はその箱を見た. 秀喜は, 私の欲しいものを知っているかのように振る舞うが, 彼の心は, もう私から離れていた.
「遅すぎます」
私は, 彼の言葉を遮った. 彼が私に与えようとしているものは, もはや私には必要ない. 彼の優しさは, もはや私を喜ばせることはない.
彼はいつも, 私を飴と鞭で操ろうとした. 与えるふりをして, さらに深く私を縛りつける.
秀喜は, 私が納得したとでも思ったのだろうか. 彼は一方的に話を進めた.
「離婚届は撤回しよう. 来月, お前が行きたがっていたハワイにでも行こうか」
私は, 彼の言葉に耳を傾けながら, 携帯を手に取った. SNSのタイムラインには, 聖実が投稿した写真が流れていた.
そこには, 私が欲しがっていたのと同じブランドのネックレスを身につけ, 満面の笑みを浮かべる聖実が写っている. そして, そのネックレスは, どう見ても購入特典のノベルティだった.
彼は, 私へのプレゼントを選ぶことさえ, 面倒がっていたのだ. 彼の心の中には, もう私のかけらも残っていない.