話 1
「三百十二番の番号札をお持ちのお客様、三番窓口までお越しください」
無機質なアナウンスが、ざわめきに満ちた区役所のロビーに響き渡る。遠藤静恵は弾かれたように顔を上げた。電光掲示板に表示された「312」の数字が、まるで祝福の光のように見えた。
夫である佐藤健吾の個人資産を管理する信託の手続き。そのために必要な、彼の戸籍謄本を取りに来たのだ。結婚して三年、ようやく佐藤家の資産管理の一部を任される。それは、静恵がこの家の一員として、そして健吾の妻として、完全に認められた証のように思えた。胸の奥から、じわりと温かい誇りが込み上げてくる。
「失礼します」
静恵は、上品な微笑みを浮かべて三番窓口の前に立った。職員の鈴木恵美と名札にある女性が、どうぞ、と手で促す。
「戸籍謄本をいただきたいのですが。夫の情報も記載されたものでお願いします」
身分証明書を差し出しながら、静恵は淀みなく告げた。鈴木はそれを受け取ると、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。カタカタと軽快な音が数秒続いた後、ぴたりと止まる。
鈴木が眉をひそめ、画面を食い入るように見つめている。指が再びキーボードの上を彷徨い、何かを確認するように数回、同じキーを叩いた。
「お客様、申し訳ございません。システムにエラーが表示されるのですが……」
「まあ。同姓同名の方と間違えられているのかもしれませんわね」
静恵は落ち着いて、夫のフルネームと生年月日をはっきりと伝えた。佐藤健吾、昭和六十年十二月二十四日生まれ。クリスマスイブに生まれたことを、彼は少しだけ自慢げに話していた。
しかし、鈴木の表情は晴れない。それどころか、ますます困惑の色を深めている。
「……遠藤様。システムによりますと、お客様は現在、未婚となっております」
「え?」
空気が凍りついた。静恵の耳には、その言葉が遠い国の知らない言語のように響いた。
「ご冗談でしょう?三年前の四月十日に、こちらの区役所に婚姻届を提出いたしました。間違いありませんわ」
あの日のことを、鮮明に覚えている。桜が満開の、穏やかな春の日だった。仕事でどうしても手が離せない静恵に代わって、健吾が「僕が提出しておくよ」と、二人の名前が記された婚姻届を大切そうに受け取ってくれた。
鈴木は申し訳なさそうに首を振り、過去の記録を検索し始めた。そして、静恵に残酷な事実を告げた。
「三年前のその日、遠藤静恵様からの婚姻届が受理された記録は……ございません」
視界がぐにゃりと歪む。立っているのがやっとで、カウンターの縁に思わず手をついた。心臓が氷の塊になったように冷え、全身の血が引いていくのがわかった。
嘘よ。何かの間違いだわ。
「では……佐藤健吾の戸籍を、確認していただけますか」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。個人情報保護の観点から、それはできない、と鈴木は顔を曇らせる。
静恵は必死だった。スマートフォンのロックを解除し、待ち受け画面を見せる。先週撮ったばかりの、結婚三周年を祝うツーショット写真だ。幸せそうに微笑む自分が、ひどく滑稽に見えた。
写真の中の二人の姿に、鈴木は何かを察したのだろう。深くため息をつくと、規則を破ることを決心したように、声を潜めてこう言った。
「……佐藤健吾様は、ご結婚されています。ですが……その、お相手のお名前は、遠藤静恵様では……ありません」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。
静恵はよろめきながら窓口を離れた。周りの人々の声も、役所の喧騒も、何も聞こえない。耳鳴りだけが、頭の中でキーンと鳴り響いている。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
ディスプレイに表示されたのは、見知らぬアカウントからのメッセージ通知。親友である、栗山亜矢からのものだった。彼女は時々、こうしてふざけて別のアカウントから連絡してくることがあった。
「静恵、これ見て!」
メッセージには、動画のリンクが一つだけ添付されていた。
緊張で震える指で、リンクをタップする。数秒の読み込み時間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、画面が明るくなる。
そこに映っていたのは、高級レストランの個室。静恵が、健吾との三周年の記念日のために予約していた、あのレストランだった。
そして、カメラがテーブルの上の二人を捉える。
健吾が、目の前の女性の左手薬指に、ダイヤモンドの指輪をゆっくりとはめているところだった。
その女性の顔を、静恵は見間違えるはずもなかった。
栗山亜矢。
静恵の、たった一人の親友。
呼吸が止まった。
動画の中の亜矢は、はにかみながら健吾の胸に寄り添う。健吾は亜矢の額に優しくキスをし、こう言った。
「亜矢、長かったね。これでやっと、君にちゃんとした名分をあげられる」
二人の手が、固く重なり合う。
その瞬間、巨大な裏切りの塊が胃の底からせり上がってきて、静恵は思わず口元を押さえた。吐き気がする。
胸が苦しくて、息ができない。大きく喘ぐ静恵の姿に、周りの市民が奇異の目を向けるが、もはやそんなことはどうでもよかった。
動画を、もう一度よく見る。
亜矢の手首で、きらりと光るものがあった。
それは、静恵が一年前に失くして、ずっと探していたカルティエのブレスレットだった。
パズルのピースが、一気にはまっていく。
この三年間、亜矢がやたらと佐藤家に遊びに来たこと。健吾が「急な残業だ」と言って、帰りが遅くなる日が頻繁にあったこと。すべてが、この瞬間のために仕組まれた、壮大な嘘だったのだ。
静恵はスマートフォンを握りしめた。指の関節が白くなるほど、強く。
涙が、眼球の縁で必死に堪えられていた。ここで泣いてはいけない。こんな場所で、無様な姿を晒すわけにはいかない。
再び、スマートフォンが震えた。健吾からのメッセージだ。
「ごめん、今夜も急な仕事が入った。夕食は先に食べていて」
画面に表示された偽りの優しさに、静恵の唇から乾いた冷笑が漏れた。
返信はしなかった。
代わりに、静恵は電話帳を開き、ある番号を探し出した。懇意にしている、私立探偵の番号だ。
コール音が二回鳴ったところで、相手が出た。
『……私だ』
努めて冷静に、しかし怒りで震える声を押し殺して、静恵は言った。
『佐藤健吾と、栗山亜矢の法的な関係を、今すぐ調べて。一刻も早く』
電話を切ると、静恵は区役所の天井の、目に痛いほどの白い蛍光灯を見上げた。
今日まで信じてきた人生が、足元からガラガラと音を立てて崩れていく。
佐藤家での三年間。
良き妻、良き嫁であろうと、身を粉にして尽くしてきた日々。
それは結局、ただの無料の家政婦であり、彼らの醜聞を隠すための、都合のいい隠れ蓑でしかなかったのだ。
静恵は深く、深く息を吸った。
そして、バッグから取り出した信託手続きの書類を、何の躊躇もなく、ビリビリと細かく引き裂いた。紙の破片が、まるで散りゆく桜の花びらのように、ゴミ箱の中へと舞い落ちる。
乱れたスカートの裾を直し、乾いた目尻を指で拭う。
鏡に映る自分の瞳は、もはや迷いや悲しみではなく、氷のように冷たい、鋭い光を宿していた。
静恵は背筋を伸ばし、区役所の重いガラスの扉を押し開けた。
東京の街に降り注ぐ、刺すような日差しの中へ。
あの嘘つきたちが待つ、偽りの我が家へ。
静恵は、決然と一歩を踏み出した。
話 2
佐藤家の重厚な鉄の門の前に立った静恵は、自分が三年間、丹精込めて手入れしてきた日本庭園を眺め、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。この美しい景色の一つ一つが、今や醜悪な偽善の象徴にしか見えない。
呼び鈴を鳴らそうとした、その瞬間。
ポケットのスマートフォンが再び震えた。先ほどの探偵からの、緊急のメールだった。
「ご依頼の件、確認が取れました」
添付ファイルを開く指が、かすかに震える。
そこには、佐藤健吾と栗山亜矢がに入籍済みであることを示す、公的な書類のスキャンデータが添付されていた。
さらに、もう一つのファイル。
産婦人科の超音波検査報告書。
栗山亜矢、妊娠十二週。
画面に映し出された小さな黒い影。それが、すべての答えだった。
最近、義母の恵津子が亜矢に対して見せる、あの異常なまでの優しさの理由。先週、家族の会食で、静恵が子供を産めないことを理由に、恵津子から浴びせられた罵詈雑言。すべてが、この小さな命のためだったのだ。
静恵は、門の透かし彫りの隙間から、庭の奥に目をやった。
案の定、恵津子が亜矢の腕を優しく取り、ゆっくりと庭を散策している。
「亜矢さん、お願いだから無理はしないでね。あなたのお腹の子は、佐藤家にとっての宝なのだから」
恵津子の顔には、静恵が一度も向けられたことのない、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
亜矢は、まだほとんど膨らんでいないお腹を、わざとらしく撫でながら、甘えた声で答える。
「お義母様、ご心配なく。必ず、元気な男の子を産んでみせますわ」
静恵は、冷たい鉄の格子を強く握りしめた。指が食い込み、痛みを感じる。
夫だけではない。
この佐藤家全体が、共謀して自分を欺いていたのだ。
自分は、彼らの世間体を守るための、ただの道具だった。
その時、静恵のもう一つのスマートフォンが、静かな音を立てて震えた。仕事用の、暗号化された番号からの着信だった。
静恵は咄嗟に身を翻し、門の脇にある石柱の影に隠れた。ディスプレイには「非通知設定」と表示されている。
『……もしもし』
警戒しながら電話に出ると、受話器の向こうから、低く、重みのある男の声が聞こえてきた。
『遠藤静恵さんかね。金剛ホールディングスの近衛だ』
近衛正弘。日本の経済界を裏で牛耳るとまで言われる、財界の重鎮。その名を知らない者はいなかった。
静恵は息を飲んだ。なぜ、この男が自分に?
「驚くのも無理はない。君のことは、ずっと見ていたよ。佐藤の嫁としてではなく、一人のビジネスパーソンとしての君の才能を、だ」
近衛の情報網の恐ろしさに、背筋が凍る。しかし、静恵は動揺を悟られまいと、努めて冷静に問い返した。
「……ご用件は、何でしょうか」
近衛は、まるで全てを見透かしたように、静かに、しかし衝撃的な言葉を口にした。
『単刀直入に言おう。私の孫、鷹司暁と結婚したまえ。そうすれば、金剛ホールディングスの全てが、君の後ろ盾となる』
鷹司暁。帝都グループを率いる、若きカリスマ。
政略結婚。
あまりに突飛な提案に、静恵の頭は混乱した。しかし、彼女の思考は瞬時にリスクとリターンを計算し始める。
これは、佐藤家を根底から叩き潰すための、最強の武器になるかもしれない。
『考える時間は必要だろう』と近衛は言った。『だが、急いだ方がいい。佐藤家は、君が心血を注いできた新都心プロジェクトの資産を、水面下で君の名義から動かしている。君を、無一文で追い出すつもりだよ』
その言葉に、静恵の瞳に鋭い光が宿った。あのプロジェクトは、自分のすべてだった。それを奪われることだけは、絶対に許せない。
『……証拠は、おありですか』
『フッ』と近衛は短く笑った。『君のプライベートアドレスに、今送った。確認したまえ』
メールを開くと、そこには佐藤家の資産移動を示す、詳細なデータが添付されていた。彼らの陰謀は、静恵の想像をはるかに超えて、周到に進められていたのだ。
静恵は、石柱に背を預けたまま、深く息を吸った。
そして、決意を固めた。
『……お受けいたします。その取引』
電話の向こうで、近衛が満足げに頷く気配がした。
通話を終えた静恵は、数秒間、影の中で目を閉じた。怒り、憎しみ、絶望。渦巻く感情を、心の奥底へと押し込める。
再び庭に目をやると、恵津子と亜矢が、高級なアフタヌーンティーを楽しむために、母屋へと入っていくところだった。
静恵は、ハンドバッグからコンパクトミラーを取り出した。
口紅を塗り直し、髪の乱れを整える。
鏡に映る自分の顔から、全ての感情を消し去る。
そこにいるのは、いつもの、完璧で、非の打ちどころのない、貞淑な妻、遠藤静恵。
その完璧な仮面を被り、静恵は石柱の影から出た。
そして、佐藤家の門の呼び鈴を、指先で、そっと押した。
澄んだチャイムの音が、偽りに満ちた庭園に響き渡る。
屋内の笑い声が、ぴたりと止んだ。
話 3
チャイムを鳴らすと、まもなく家政婦の田中がドアを開け、彼女の突然の帰宅に驚いた。
「しずえさん、出張中のはずなのに、どうして急に戻ってきたの?」
しずえは返事をせず、田中を脇に避けて屋内へ進む。
「奥様!しずえさんが出張から戻られました!」止められない田中は慌てて家の奥へ大声で呼び上げた。
しずえが階段の手前まで来た時、恵津子が丸鶏人参スープを持ってキッチンから慌てて出てきて行く手を塞いだ。
「あなた、どうして……」
「健吾、二階にいるでしょ?」
「いえ、外出しているわ……」
「二階へ探しに行く。」
恵津子の言葉を一切無視し、しずえは階段を上がっていく。
「しずえ、二階へ行ってはいけない!」恵津子は焦って後を追う。
しずえは速足で二階へ上り、二人の寝室へ突入する。同室で密会している二人の言い訳を聞いてやろうと決めていた。
ドアを開けると、クローゼットから出たばかりの健吾が目に入った。
しずえの姿を見た健吾は狼狽し、思わず一歩下がり、何かを隠そうとした。
「しずえ、なぜ……」
「突然帰ってきたのが不思議?」しずえは二三歩近づき眉を上げる。「どうしてみんな同じことを聞くの?私が帰っちゃいけないの?」
健吾は唇を固く結ぶ。「事前に電話してくれればよかったのに。」
しずえは薄く笑う。「サプライズを持ってきただけよ。」
「驚きだけで嬉しさは全然なさそうね。」
健吾は息を吐き、「そんなことない、ずっと会いたかった」と言い、抱き寄せようと近づいた。
静恵は何も気づかないふりをした。満面の笑みを浮かべて健吾に歩み寄り、甘えた声で尋ねる。
「健吾さん、サプライズって何?」
「あ、ああ……。そ、それは、まだ届いてなくて……」
健吾はしどろもどろになりながら、視線を部屋の隅にある巨大なウォークインクローゼットへと何度も泳がせた。
静恵がその視線を追うと、クローゼットの扉が完全には閉まっておらず、その隙間から、見覚えのあるドレスの裾が、ほんの少しだけ覗いていた。
間違いない。亜矢はさっき、別の階段からこっそりこの部屋に忍び込み、今、あのクローゼットの中に隠れている。
静恵の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
さあ、狩りの時間だ。
「そうだわ。今夜のディナーのために、新しいドレスを選ばないと」
静恵はそう言うと、まっすぐにクローゼットへ向かって歩き出した。
「ま、待て!静恵!」
健吾は真っ青な顔で、クローゼットの前に立ちはだかった。
「な、中は散らかっているから!見るな!」
「どうして?健吾さん、何か隠しているの?」
静恵は、わざと傷ついたような表情で健吾を見つめる。
「ち、違う!サプライズのプレゼントが、まだ包装できてなくて……。だから、今は見せられないんだ!」
健吾の額に、脂汗が滲んでいる。
静恵は半信半疑といった様子で一歩下がりながらも、その視線は、扉の隙間で微かに震えるドレスの裾に、釘付けになっていた。
「ふーん。サプライズなら仕方ないわね」
静恵はわざと大きな声で、クローゼットに向かって言った。
「じゃあ、今夜、楽しみにしているわ」
クローゼットの中から、息を呑む、ごくかすかな音が聞こえた。亜矢が、極度の恐怖に苛まれているのが手に取るようにわかる。
静恵はドレッサーの前に座ると、わざと引き出しを何度も開け閉めして、音を立てた。狭く暗い空間に閉じ込められた亜矢の、心理的な苦痛を長引かせるために。
健吾は、まるで針の筵に座っているかのように、落ち着きなく部屋の中をうろついている。
静恵は、鏡越しにその滑稽な姿を眺めながら、ゆっくりと髪を梳かした。
そして、不意に振り返ると、健吾に言った。
「ねえ、健吾さん。喉が渇いたわ。下からお水を一杯、持ってきてくださる?」
健吾は、まるで恩赦を受けた罪人のように、ほっとした表情を浮かべると、一目散に部屋を飛び出していった。
静恵と、クローゼットの中の亜矢。
二人きりの、静かな時間が始まった。