話 1
「いやー、大騒ぎの結婚式だね。聞いた? 長谷川弁護士の幼馴染が、ホテルの屋上で自殺騒ぎを起こしてるって!」
ドアの外から漏れるひそひそ話に、橘明音の心はずきりと痛んだ。
これが、桜井静香による99回目の自殺未遂だ。
もう慣れっこだと思っていた。
けれど、今日は違う。
今日は、明音と長谷川冬樹の結婚式なのだ。
静香がこうして騒げば、自分がまた一歩引かなければならないことを、明音は理解していた。
冬樹と付き合って五年、静香もまた五年間、騒ぎ続けてきた。
そのたびに、冬樹は真っ先に彼女の元へ駆けつけ、なだめてきたのだ。
この恋において、自分こそ日陰者の浮気相手なのではないかと錯覚するほどに。
だが前回、自分を置いて静香の元へ向かった際、冬樹は約束してくれた。「これが最後だ」と。
明音は彼の「最後」という言葉を信じ、今日の結婚式を迎えた。
『死にたいなら勝手に死なせろ!俺に電話して何になる?』
明音はハッとして顔を上げた。バルコニーのドアは完全に閉まっておらず、冬樹の低く冷淡な声が隙間から漏れ聞こえてくる――。
『飛び降りるだと? できないだろうな!彼女が今まで何度自殺騒ぎを起こしたと思ってる? 一度でも血を見たことがあったか?』
最後に、冬樹は声を潜めて何か指示を出したが、あまりに小声だったため、明音には聞き取れなかった。
通話を終えた冬樹が振り返ると、ちょうど明音と目が合った。
明音の心臓が早鐘を打つ。今回、彼は静香のところに行かなかった……。
つまり、彼、嘘ついてなかったんだ?
本当に、これが最後なのか?
「何そんなに見てるんだ? もうすぐ式が始まる。準備はいいか?」冬樹の顔には何の感情も浮かんでいない。
それでも、明音は嬉しかった。
彼女は知っている。冬樹という男は、生まれつき感情が欠落しており、他人に共感することが難しい質だということを。
青春時代の淡い恋心から始まり、心からの愛を捧げるに至った今、明音はようやくその思いが実を結んだと感じていた。
彼にとって、自分は特別な存在のはずだ。
そうでなければ、結婚なんて承諾するわけがない。
明音は花のような笑顔を浮かべ、彼の腕に身を寄せ、「冬樹、私たちやっと結婚できるんだね……」と感慨深げに言った。
冬樹は相変わらず無表情のまま、「ああ、わかってる」とだけ答えた。
控室のドアが開く――。
「さあ、新郎新婦の入場です!」 司会者のよく通る声が、瞬時に会場の空気を掌握した。
明音は幸せいっぱいの表情で、冬樹の腕を組み、ステージへと歩き出した。
「皆様、盛大な拍手を……」
言葉の途中、唐突に冬樹の携帯電話が鳴り響いた。
司会者の顔に気まずさが走り、会場からはどっと笑い声が上がる。
明音の笑顔が凍りついた。その着信音は、彼女にとって悪夢のような音――静香専用の着信音だったからだ。
冬樹は懐から携帯を取り出し、電話に出た。『もしもし、また何かあったのか?』
司会者は慌てて場を取り繕い、再び雰囲気を盛り上げようとする――。 長年司会をしていて、こんな事態に遭遇するのは初めてだろう。
だが、彼が口を開くより先に、冬樹の声が響いた。
『すぐに行く』
冬樹はその一言を残し、大股でステージを降りていった。
一瞬にして、会場全体が騒然となる。
「行かないで……」明音はウェディングドレスの裾を持ち上げて追いかけ、すがるような表情で訴えた。「最後だって言ったじゃない」
冬樹はわずかに眉を寄せ、冷徹に損得を計算しているかのようだった。
数秒後、彼は冷静に説明した。「静香が本当に飛び降りたらしい。行って確認しなきゃならない。お前は客の相手をしててくれ、すぐ戻る」
「冬樹!」明音は彼の手首を掴み、離さなかった。「もし行くなら、私はもう結婚しない!」
冬樹は無造作に彼女の手を振りほどいた。「なら、後悔するなよ」
明音の心は粉々に砕け、涙が不意にこぼれ落ちた。
その涙を見て、冬樹の心臓がわずかに震えた。しかし彼は、これも明音の妥協のサインだと解釈した。
いつものように。
彼女は自分を見捨てられないはずだ。
明音がいかに自分を好いているか、冬樹は知っていた。箱入りのお嬢様でありながら、家族と絶縁してまで宮都で働く自分についてきたのだ。
何があっても、彼女は常に自分の味方だった。
彼女の最大の願いは、彼と結婚することだ。
それに、以前静香が何度も騒ぎを起こしたときも、彼女が尻拭いをしてくれた。
だが今回、「結婚しない」と脅してくるとは、よほど追い詰められているのだろう。
とはいえ、静香のほうは本当に緊急事態だ。
明音のわがままに付き合っている暇はない。
冬樹は反射的に何か言おうと唇を動かしたが、ポケットの携帯が再び震えたため、電話に出ながらきびすを返し、外へと走り去っていった。
一瞬、招待客一同はポカンと顔を見合わせた。
これ……どういう状況だ?
新郎が逃げた?
混乱が広がる中、明音は涙を拭い、気力を振り絞って振り返ると、呆然と立ち尽くす司会者からマイクを奪い取った。「皆様、申し訳ありません。本日の結婚式は中止とさせていただきます……」
会場は一瞬にしてざわめきに包まれた。
だが、明音にはもうどうでもよかった。
今日という日を境に、自分が宮都最大の笑い者になることはわかっていた。
誰もが知っているのだ。明音が冬樹に惚れ込み、数多のエリートたちを蹴って、貧しい彼を選んで共に苦労を重ねてきたことを。ようやく苦労が報われたと思った矢先、結婚式当日に捨てられたことを。
明音がホテルを出たところ、入り口は野次馬で埋め尽くされていた。
少し離れた場所で、静香はすでに救助マットから降ろされ、冬樹に抱きかかえられていた。彼女もウェディングドレスを着ており、目を真っ赤にして泣いている。
「冬樹、どうして私を一人にしたの? ずっと一緒にいるって約束したじゃない」
「無茶するな」冬樹はわずかに眉をひそめたが、その顔には相変わらず表情がなかった。
静香はいきなり彼の顔を両手で包み込み、その漆黒の瞳を覗き込んだ。「やだ!」
その行動を見て、明音は咄嗟に冬樹が怒ると思った。
かつて明音も、若かりし頃に彼の顔を包み込み、見つめたことがあった。だが彼は、冷ややかな目で彼女を見下し、こう言ったのだ。「俺の顔に触られるのは好きじゃない」
その声は氷のように冷たく、瞳には一片の感情もなかった。
しかし今、冬樹は拒絶する素振りすら見せず、 静香が彼の整った顔を揉みくちゃにするのを許し、最後には彼女を泣き笑いさせた。
明音はこれまで、冬樹の感情欠落は誰に対しても等しく冷淡なのだと思っていた。けれど今この瞬間、静香を抱きかかえて救急車へ向かう彼を見て、自分がどれほど滑稽なピエロだったかを思い知らされた。
来る日も来る日も、いつか自分の想いが冬樹の凍った心を溶かし、彼が自分を愛してくれる日が来ると信じていた。そして、その涼やかで美しい瞳が、自分への愛おしさと甘やかさで満たされる日を心に描いていた。
だが結果は――。
現実は残酷にも、彼女の頬を張り飛ばした。
なるほど、冬樹にも感情はあったのだ。ただ、それは自分に向けられたものではなかった。
明音は笑いながら、涙を流した。
この五年間。
(私は一体何だったの?)
(明音、あんたって本当に単純で、笑っちゃうくらい馬鹿だわ。)
この五年間は、ただの長い夢だったのだ。
夢が砕けた今。
もう、目を覚まさなきゃ。
明音は控室に戻り、ウェディングドレスを脱ぎ捨て、私服に着替えた。
結婚式のドタキャン騒動の余波はまだ激しく、明音が法律事務所に戻ると、噂話をしていた同僚たちの声がピタリと止んだ。
だが、明音は気にしなかった。昔から図太かったのだ。法学部の秀才だった冬樹を追いかけ回していた学生時代、すでに全校生徒の笑い者だったのだから。
ただひたすらに猪突猛進し、ようやく頭を打って血を流したことで、彼女は悟ったのだ。冬樹は本当に自分のことを好きではないのだと。
明音は自分のデスクに戻り、パソコンから退職願をプリントアウトした。署名を済ませると、それを冬樹のオフィスのデスクに置いた。
置いた瞬間、携帯が震えた。
冬樹からの電話だ。
『結婚式を中止にしたと聞いたぞ? なぜ事前に相談しなかった? 事務所の評判にどれだけ悪影響があるか分かっているのか?』
『中止にしなくてどうしろって言うの?』 明音は冷ややかな声で反論した。『大勢の招待客に、あなたが悲劇のヒロインを助けて戻ってくるのを待っていろとでも?』
冬樹は数秒沈黙した。明音が口答えするとは予想していなかったようだ。
付き合い始めた頃から、明音は太陽のように彼を照らし、常に活力に満ち、笑顔を絶やさなかった。
彼に怒りをぶつけたことなど一度もなかったのだ。
『俺が悪かった』 冬樹はどこまでも理知的で冷静だった。『配慮が足りなかった』
明音は自嘲気味に笑った。当時の自分は本当に怖いもの知らずだった。なぜ、生まれつき感情のない人間が自分を愛してくれるなどと思い込んだのだろう?
明音はデスクの上の退職願を一瞥して言った。『冬樹、私の辞しょ……』
言葉が終わらないうちに、受話器の向こうから甘ったるい声が割り込んできた。『冬樹、腰が痛いの。早く揉んでよぉ』
『今取り込み中だ。また後で話そう』
電話はすぐに切れ、無機質な切断音が響いた。
話 2
明音は深く息を吸い込み、胸の奥から込み上げる酸っぱい感情を無理やり押し殺し、窓の外に顔を向けた。
ガラスの向こうには、燦々と降り注ぐ陽光と、絶え間なく流れる車の波。広大な宮都の街並みが一望できた。
ふと、思い出す。今や宮都でその名を知らぬ者はいない冬明法律事務所も、最初はたったひとつの小さなオフィスから始まったことを。
それも、彼女が自分名義の唯一のマンションを売り払い、その金で冬樹のために借りた場所だった。
今では、このフロアすべてが冬樹のものだ。
あのオフィスを借りた日も、今日のような晴天だったと覚えている。
「事務所の名前、冬明にするのはどう?」
「名前なんて何でもいい」 冬樹は表情一つ変えずに言った。「お前が決めてくれ」
明音は嬉しくて彼に飛びついたが、容赦なく頬をつねられ、その腕から引き剥がされた。「人に抱きつかれるのは好きじゃない」
それでも明音は能天気に笑い、懲りずにまた彼の胸に頭を突っ込んだ。「私は抱きつきたいの!」
かつて彼女は、豪快に笑って冬樹に告げた。「私があなたを宮都で一番の弁護士にしてみせる」と。
冬樹は「どうでもいい」と言った。彼にとっては、明音が楽しそうにしていることが何より大事だと。
彼女は約束を守った。
だが、彼は嘘をついた。
……
明音の私物は多かった。
半日かけても片付けが終わらないほどに。
創業から今日まで、彼女はずっと冬樹の背後に立ち、事務所の運営や事後処理を一手に引き受けてきた。
会社の名義は冬樹だが、ここには彼女の血と汗が染み込んでいる。
従業員たちは明音が荷造りする姿を見て、顔を見合わせるばかりで、誰も声をかけようとしなかった。
結婚式での騒動は、当然彼らの耳にも入っている。
ただ、ボスの冬樹が相手である以上、クビになりたくない彼らは陰口を叩くことすら憚った。
ようやくすべての荷物をまとめ終え、引越し業者を呼ぼうとしたその時、スマホが鳴り響いた。
着信画面には、冬樹の母親の名前。
明音は唇を引き結び、通話ボタンを押した。
『もしもし、橘さんですか?』聞こえてきたのは、家政婦の焦った声だった。
『長谷川先生に電話が繋がらないんです。お母様が急に発作を起こして病院に運ばれました。今すぐ来てもらえませんか?』
『わかった、すぐ行く』
明音が病院に駆けつけると、田中梅子はすでにベッドの上で、家政婦が剥いたリンゴを平気な顔で食べていた。
明音が入ってくるなり、梅子の蒼白な顔に焦りと怒りの色が浮かぶ。彼女はすぐさま顔をしかめ、説教を始めた。「明音、冬樹と一体どうなってるの? 結婚っていう大事なことを、こんなふうに台無しにして。 当日にキャンセルだなんて、世間に知られたらどれだけ恥ずかしいと思ってるの!」
明音の額には細かい汗が滲んでいたが、梅子に人を叱る元気があるのを見て少し安堵した。おそらく、結婚式中止の知らせを聞いて、怒りのあまり一時的に具合が悪くなっただけだろう。
「おばさん、まずは落ち着いて」
「落ち着いてなんていられるわけないでしょ!」 梅子は眉を吊り上げる。早口でまくし立てたせいか、胸が大きく波打っていた。「冬樹は頑固で、思いついたら一直線な子よ。明音、どうしてあなたが止めてあげなかったの?あの子にこんな勝手な真似をさせて」
明音は深く息を吐き、忍耐強く説明した。「私たちが式を挙げようとしていた時、静香さんが飛び降りようとしたの」
「なんですって?」梅子は驚愕し、顔色を変えた。「静香ちゃんは?無事なの?」
「無事よ。冬樹が病院に連れて行ったから」
梅子は胸を撫で下ろした。「ああ、びっくりした……無事でよかったわ」
事情を知ってようやく安心したのか、梅子は明音に対し、式のキャンセルに伴う事後処理をしっかりやるように、そして冬樹に迷惑をかけないようにと何度も念を押した。
ひとしきり騒いで体力を使い果たしたのか、彼女はすぐに眠りに落ちた。
「橘さん、わざわざすみませんでした。あとは私が見てますから、お仕事に戻ってください」家政婦が申し訳なさそうに言った。
明音はベッドで熟睡する梅子を一瞥した。「今後、おばさんのことで私に電話しないで。私は……」
言いかけた言葉を遮るように、家政婦が慌ててフォローを入れる。「橘さん、怒らないでくださいね。奥様がああ言ったのも悪気があるわけじゃないんです。そういう性格ですし、桜井さんのことは小さい頃から見てきましたから、どうしても身内贔屓になっちゃうだけで……本当は橘さんのことも大好きなんですから」
明音の口元に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。家政婦の目から見ても、梅子が静香の方を気に入っているのは明らかだった。
「おばさんに対して怒ってなんかないわ。ただ、私と冬樹さんはもう別れたの。だから彼のことはもう私には関係ない。これからは冬樹さんに電話して」
明音はきびすを返した。家政婦が呆然としているのを気にする余裕もなかった。
だが、顔を上げた瞬間、廊下の少し先に立っている冬樹と静香が目に入った。
冬樹と視線がぶつかる。その優れた容貌は、何度見ても完璧だと認めざるを得ない。
そう。
この顔じゃなかったら、自分もあそこまでのめり込むことはなかっただろう……。
「なんでまだネットの騒ぎを処理してないんだ?俺のところにまで電話がかかってきてるぞ」 冬樹は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。
明音の胸に苦いものが広がる。――冬樹は、本当に自分のことが好きじゃなかったんだ。
彼が求めていたのは、尻拭いをしてくれる使用人でしかなかった。
それなのに自分は、それを愛情の証だと勘違いして、尻尾を振ってついて回っていたのだ。
でも、二人の間には確かに美しい思い出もあったはずだ。
一つひとつが明音にとっての宝物であり、今まで盲目的に突き進んでこられた理由だった。
けれど今――それも終わらせる時が来た。
「明音お姉ちゃん、今日はごめんなさい。私、冬樹とお姉ちゃんの結婚式を壊しちゃって……本当に反省してます」
隣にいた静香が、まるで台本を読み上げるような誠意のない口調で謝罪を口にした。そしてそのまま冬樹の腕に絡みつき、猫なで声で甘える。「ね、冬樹。私、ちゃんと謝ったよ?もう怒らないで……」
「ああ」 冬樹は無表情に頷いた。
静香の顔にパッと笑みが咲き、勝ち誇ったような視線を明音に投げかける。
明音は冷ややかな目でそれを見ていた。
こういう安っぽい芝居は、静香の常套手段だ。
以前なら、間違いなく真っ向からやり返していただろう。
だが今は、そんな気力さえ残っていなかった。
明音は視線を外し、歩き出した。「まだ会社の荷物が片付いてないから、帰るわ」
しかし、すれ違いざまに手首を掴まれた。
振り返ると、冬樹の漆黒の瞳が彼女を捉えていた。
「話があ……」
彼が言いかけたその時、横にいた静香が突然、ふらりと冬樹の方へ倒れ込んだ。
冬樹は素早く彼女を抱き留め、緊張した面持ちになる。「どうした?」
「私……すごくめまいがして……久しぶりに輸血しなきゃいけないかも……」
「輸血」という単語を聞いた瞬間、明音の体が条件反射的に強張った。
静香は先天性の造血障害を患っており、定期的な輸血が必要だった。しかも、彼女の血液型は極めて稀なRhマイナス型。
そして明音もまた、同じRhマイナスだった。
若くて世間知らずだった頃、初めて静香への輸血を頼まれた時、明音は彼女を冬樹の従妹だと思い込み、自ら進んで引き受けた。
その後は、ただ冬樹に喜んでもらいたくて続けてきた。
あの頃の自分は本当に愚かだった。好きな人が大切にしている相手を、自分も同じように大切にしなければならないと信じ込み、何度血を抜かれたか数えきれないほどだ。
冬樹は当然のように振り返った。「明音、準備してくれ。静香に輸血する」
しかしその瞬間、明音はどうしようもなく笑いたくなった。
冬樹が自分と付き合っていたのは、単に使用人が欲しかっただけでなく、静香のために「都合のいい移動式血液パック」を確保しておきたかっただけなのではないか。
「嫌よ」彼女はきっぱりと拒絶した。
冬樹は眉をひそめる。「静香の病状は特殊なんだ。今すぐ輸血しないと死ぬかもしれないんだぞ」
「じゃあ、死ねばいい」
話 3
冬樹は思わず呆気にとられた。
明音の口から、これほど冷酷な言葉が出るとは思ってもみなかったのだ。彼女はいつだって、彼に対して従順だったから。
彼女が極度の注射嫌いだということは知っている。針を刺されるたびにひどく震え、落ち着くまでに長い時間がかかるほどだ。
それでも彼女は冬樹のために、何度も静香への輸血に応じてくれた。
冬樹は迷いを見せ、明音に視線を向けた。「じゃあ……」
「明音お姉ちゃん……」彼が言いかけた言葉を遮るように、静香が口を開く。言葉よりも先に、涙がこぼれ落ちていた。「それ……どういう意味?私に死ねって呪ってるの?」
明音は冷ややかな目で彼女を見下ろした。この女の悪意と執着、そして演技力は、まさにアカデミー賞ものだ。毎回、冬樹は見事に騙されている。
いや……騙されたがっているのかもしれない。
明音は口元を歪めて笑った。「誰が輸血しようと勝手だけど、私はもう二度とごめんだわ」
静香は冬樹の腕にすがりつき、これ以上ないほど悔しげな声を上げる。「冬樹、見てよ。あんな言い方、ひどい。私がICUにいるお母さんみたいになればいいって思ってるんだわ!そうすれば満足なんでしょ?」
静香の母は五年前、冬樹を庇ってトラックにはねられ、今も植物状態のままICUに眠っている。
その負い目があるからこそ、冬樹は静香を特別扱いしてきた。
静香もそれを理解していて、事あるごとに母親の話を持ち出し、彼をコントロールするのだ。
そして冬樹も、毎回それを許してきた。
だが今回は、いつもと少し違った。母親の話が出た瞬間、冬樹の眉がぴくりと動いたのだ。
彼は決して忘れていない。五年前、暴走するトラックから自分を突き飛ばし、代わりにタイヤの下敷きになった桜井麻子の姿を。広がる鮮血を……。
しかし、明音は……。
彼が長く沈黙しているのを見て、明音の胸にわずかな希望が芽生えた。
一度でいい。
冬樹が自分の味方をしてくれればいい。
そうすれば、これまでの数年間の献身も報われる気がした。
彼は明音が嫌いなのではなく、今はまだ余裕がないだけなのだと、信じたかった。
「明音、あと一回だけ静香に輸血してやってくれないか? これが最後だと約束する!」冬樹が顔を上げ、漆黒の瞳で明音を見つめる。
湧き上がった淡い期待は、一瞬で凍りついた。
明音は力なく笑う。――私って、本当にバカ。
まだ彼に期待なんてしていたなんて。
(結局、彼が天秤にかけた時、 切り捨てられるのはいつだって私なのだ。)
静香は密かに安堵のため息をつき、勝ち誇った視線を明音に向けた。「明音お姉ちゃん、今回も悪いけどお願いね。本当にありがとう!」
明音は横目で彼女を一瞥した。
――冬樹は本当に、彼女には優しいのね。
以前は、冬樹も少しずつ人を愛することを学んでいるのだと、自惚れていた。
だが今、彼はその冷徹さをもって証明した。一生、明音のことなど好きにはならないと。
明音は視線を戻し、淡々と冬樹に告げた。「言ったはずよ。私は彼女に血を与えるつもりはない」
冬樹が眉をひそめる。明音の瞳があまりに冷たく、心がざわついたからだ。
初めて出会った時、彼女は夏の太陽よりも眩しい笑顔を見せていたはずだ。
いつから、彼女は笑わなくなったのだろう?
「どうしよう? 明音お姉ちゃんがくれないと、私、死んじゃう!」静香はパニックになったように叫んだ。「冬樹、お母さんとの約束を守るって言ったじゃない……」
冬樹の声は冷たいが、必死さが滲んでいる。「今すぐ他のドナーを探す。お前を死なせはしない!」
静香は目を見開き、信じられないという顔で冬樹を見た。「見つからなかったらどうするの!? 明音お姉ちゃんの血なら適合するし、拒絶反応もないのよ!どうしてわざわざ他の人を探すの?」
冬樹は答えなかった。
静香の目に涙が溢れる。「わかった、もういい!冬樹が助けてくれないなら、梅子おばさんに言いつけてやる!」
そう叫んで病室へ走り去り、 すぐに梅子を連れて戻ってきた。
眠りから覚めたばかりの梅子は、まだ顔に疲労の色が濃く残っている。
静香に何を吹き込まれたのか、梅子は咎めるような視線を明音に向けた。
「冬樹、静香ちゃんをいじめちゃダメでしょ。あの子のお母さんは、あなたの命の恩人なのよ?明音に少し血を分けてもらうだけじゃない。今までだって平気だったんだから、大したことないわ。 このままだと静香ちゃんが死んじゃうのよ!」
冬樹は唇を引き結ぶ。「母さん、すぐに代わりを探すって言ってるだろ。血液バンクにも在庫はある。明音から抜く必要はない」
「梅子おばさん、聞いてよ。冬樹ったら明音お姉ちゃんばっかり庇って、私のことなんてどうでもいいのよ!」静香はここぞとばかりに明音を巻き込んだ。
梅子は困ったように眉を寄せた。だが、冬樹が無表情のまま冷ややかなオーラを放っているのを見て、息子の頑固さを思い出したようだ。彼が一度決めたら、誰にも止められない。
仕方なく、彼女は矛先を明音に変えた。「ねえ、明音さん。静香ちゃんに血を分けてあげてくれない? おばさんからもお願い。この通りよ」
明音は乾いた笑いをもらした。
やっぱり、こうなる。
静香がワガママを言うたびに、譲歩させられるのはいつも自分だ。
そして未来の義母である梅子も、毎回決まって明音に我慢を強いる。
それもそうか。
(最初から、私が勝手に追いかけ回した恋だったのだから。)
梅子と初めて会ったのは、五年前の冬休みだった。
当時、明音は大学に入学したばかりだった。
ある晩、大学に戻るのが遅くなり、酔っ払ったチンピラに路地裏へ引きずり込まれたことがあった。絶体絶命のピンチを救ってくれたのは、背の高いすらっとした男の子だった。顔は見えなかったが、チンピラのナイフで胸を切りつけられたことだけは覚えている。
その後、退院した明音は、冬樹の体にあの時の傷跡を見つけた。
もともと彼に一目惚れしていたのだが、命の恩人だと知って、その想いはさらに燃え上がった。
たとえ彼がどれだけ冷淡でも、追いかける情熱は止まらなかった。
当時は法学部のマドンナと呼ばれていたにもかかわらず、プライドをかなぐり捨てて彼を追いかけ回し、夢中になっていたのだ。
その後の冬休み。ひと月という長い休みに耐えきれず、家族に内緒で彼の田舎へ向かう電車の切符を買い、会いに行った。
都会育ちで裕福な家庭に生まれた明音は、苦労というものをほとんど知らずに生きてきた。
道を尋ねながら、ようやく冬樹を見つけた時、彼は地面に力任せに押さえつけられていた。
「お前ってやつは、どうして言うことを聞かねえんだ!山には狼が出るって言っただろ。鈴木お婆ちゃんも噛まれたんだぞ? 今山に入ったら、死にに行くようなもんだ!」
「お前の母親も多分、狼に遭っちまったんだ。警察には通報したから、来るのを待ってから山に入ろう。早まるな」
村人たちが口々に叫ぶ。
冬樹は地面に押さえつけられ、顔は泥だらけ、体中草まみれだった。
それでも彼は、じっと山の方を睨みつけていた。表情こそ変えていないが、その瞳は狂気に駆られた野獣のようだった。
「その人を離して!」明音は真っ直ぐに駆け寄ると、どこからそんな力が湧いてきたのか、冬樹を押さえつけていた二人の男を突き飛ばした。
「どこの娘っ子だ? 邪魔すんじゃねえ! 俺たちはあいつのためを思ってやってるんだ。もうすぐ日が暮れる。今山に入ったら、狼の餌食だぞ!」
冬樹は黙って地面に座り込み、長い指を強く握りしめていたが、相変わらず一言も発しない。
「こんなに人がいるじゃない!まだ日が暮れてないうちに、みんなで手分けして探してよ。ここで突っ立って何もしないより、ずっとマシでしょ!」
村人たちは顔を見合わせ、誰も声を上げない。
もし本当に狼に出くわしたら、命に関わるからだ。
「手伝わないなら、邪魔しないで!」明音は冬樹の手を掴んだ。「行こう。私と一緒に、おばさんを探しに行こう!」
冬樹は座り込んだまま、彼女を見上げた。
「行くよ!」 明音は強引に彼を立たせ、手を引いて山へと歩き出した。
その時、あたりはすでに闇に包まれ始めていた。
「冬樹さん、心配しないで。私が絶対に、おばさんを見つけるから!」 明音は深呼吸をして、薄暗く危険な前方をじっと見据えた。自分を奮い立たせようとしていたが、恐怖で心臓は口から飛び出しそうなほど激しく打っていた。
「おばさんが見つかったら、一緒に格闘技やテコンドーを習いに行こう。そうすれば、もう誰にもあなたのやりたいことを邪魔させない!」
さっき、泥まみれで地面にねじ伏せられていた冬樹の姿が、明音の脳裏に焼き付いていた。
いつも孤高で優秀な彼に、これほど無力で絶望的な瞬間があるなんて、思いもしなかった。
あんな姿、二度と見たくない。
彼はいつだって輝いていて、誰もが憧れる存在であるべきなのだ。
神様は、まだ二人を見捨てていなかったらしい。
完全に日が暮れる寸前、運良く梅子を見つけることができた。彼女は出血多量で、意識を失いかけていた。
狼に襲われたわけではなかった。転倒した拍子に木の枝がふくらはぎに刺さり、大量に出血していたのだ。
冬樹はすぐに彼女を背負い、山を降りた。
あの時、梅子は何度も何度も感謝してくれた。「冬樹、こんないい子を泣かせちゃ駄目だよ」と、繰り返し言っていたのを覚えている。
だが、今となっては――。
時は流れ、 人も変わってしまった。
今、目の前にいる梅子は、他の女に輸血してやってくれと、自分に懇願しているのだ。