2

藤沢真悠穂 POV:

大河が家に戻ってくると, 彼の隣には見慣れた顔があった. 石岡心結. 彼と同じ部署の, 若くて美しい秘書. 彼女は私より十歳も若い, 二十五歳だった. 私はこの会社の副社長兼CFOを務め, 大河は社長. 心結は, 私たち夫妻の直属の部下だ. 私と大河の結婚は, 社内では公にされていなかった. 彼はいつも, 私との出勤時間をずらし, オフィスでは私たちに何も関わりがないかのように振る舞った.

「藤沢さん, お久しぶりです. 」心結は, 私をまるで会社の同僚のように, しかしその口元にはわずかな嘲笑を浮かべながら挨拶した. 彼女の声には, どこか挑発的な響きがあった.

彼女は私の腕を掴んだ. その指先が, まるで探るかのように私の皮膚に触れる. 「藤沢さんは, 本村社長とどういうご関係で? 」彼女はそう言って, 笑みを深くした.

私は, 一瞬, 真実を告げようか迷った. しかし, その躊躇する私の口を塞ぐように, 大河が素早く口を開いた. 「真悠穂はただの会社の同僚だよ. 君と違って, 彼女は結婚にも子供にも興味がない. 仕事ばかりの, つまらない女なんだ. 」彼の声は冷たく, 私を蔑むような響きがあった.

彼の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 全身が凍りつき, その場に立ち尽くした. 私は反論しようと口を開いたが, 彼は冷酷に私の言葉を遮った. 「何を言っても無駄だ. 君のいる場所はここじゃない. 」

私は絶望に打ちひしがれ, 首を振った. 最後の希望が, 音を立てて砕け散るのを感じた. 心結は「同僚」という言葉を聞くと, 嬉しそうに顔を輝かせた. 彼女は遠慮なく大河の隣に座り, 彼の頬にキスをした.

大河は一瞬固まったが, すぐに私の方を盗み見た. 私が俯いているのを見て, 彼はホッと安堵の息を漏らした. そして, 心結に優しく促した. 「さあ, 美味しい料理が冷めないうちに食べよう. 」

「ねえ, 大河さん. この前, 停電で真っ暗になった夜, 本当に怖かったのよ. 」心結は甘えた声で言った.

「そうか. それは大変だったな. 僕が一緒にいればよかったな. 」大河は心結の言葉に, 私には見せたことのない優しい声で応じた.

「でも, これもサプライズだったのよ. だって, いつもは忙しい大河さんが, あの日は早く帰ってきてくれたんだもの. 」心結は楽しそうに話し, 二人はまるで周りに誰もいないかのように親密に触れ合った.

私は驚きを隠せなかった. 二人の関係は, 私が想像していた以上に深く進んでいる. 大河が心結のために料理を取り分け, 優しく語りかける姿を見て, 私は確信した. テーブルに並ぶ料理は, 全て心結の好む辛いものばかりだった. 彼が早く帰宅し, 夕食を準備した真の理由が, ようやく理解できた.

私の記念日は, 彼らにとって, ただの邪魔な存在だったのだ. 私は, この愛のない記念日の脇役でしかなかった. 胸が重く, 息苦しさを感じた.

私は静かに立ち上がった. もうこれ以上, ここにいる必要はない.

「私, これで失礼します. 」私の声は, 私自身が驚くほど穏やかだった.

「え, 藤沢さん, お食事は? 」心結はわざとらしく尋ねた.

「結構です. ごゆっくりどうぞ. 」私は礼儀正しく断った.

「まさか, 私が送っていきましょうか? 」心結は, 私の惨めな姿を嘲笑うかのように言った.

「いや, 心結, 君はここにいなさい. 」大河は心結を制し, 私に向かって冷たく言い放った. 「真悠穂は道を知っているから大丈夫だ. 」

彼の言葉は, 私を突き放すようだった. 私が家を出る時, 彼は後を追うことも, 引き止めることもなかった. 私は夜風に吹かれながら, ぼんやりと立ち尽くした. この場所は, もう私の居場所ではない. まもなく, この家から, 私の痕跡は完全に消えるだろう.

3

藤沢真悠穂 POV:

細い雨が降りしきり, 涼しい風が木の葉を揺らして, サラサラと音を立てていた. 私の心は, もう揺らぐことはなかった. 昨夜の出来事が, 私を決定的にした.

迷うことなく, 弁護士に電話をかけた. 「すぐにでも, 離婚手続きを終えたいんです. 」私の声は, 自分でも驚くほど冷静だった.

弁護士事務所に向かう足取りは, かつてないほど軽かった. 私には明確な目的があった. 扉を開けると, そこは以前訪れた時と同じ, 静かで落ち着いた空間だった.

「今日中に, 離婚協議書を完成させることは可能でしょうか? 」私は切羽詰まった声で尋ねた.

弁護士は眉をひそめ, 記録を確かめた. 彼は少し考え, 「協議書は半分ほど作成済みです. 今日, 残業すれば完成させられるでしょう」と言った.

「何か, 急ぐ理由でも? 」弁護士が尋ねた.

私は微笑みを浮かべ, 正直に答えた. 「ええ. 一刻も早く, この苦しみから解放されたいんです. 」

その日は深夜まで弁護士事務所に滞在した. そして, ついに, 一冊の黒いファイルを手にした. それは, 離婚協議書だった. 事務所を出ると, 私の眉間には深い皺が刻まれていた. どうすれば彼に署名させることができるだろうか. 簡単なことではないとわかっていた.

その時, 携帯電話が震えた. 画面には「大河」の文字.

「どこにいるんだ? 今から迎えに行くよ. 」彼の声は, 昨夜とは打って変わって優しかった.

私は一瞬迷ったが, 彼の言葉に甘えることにした. 私は彼に, 弁護士事務所の近くにあるカフェのアドレスを伝えた. この機会に, 全てを打ち明けるつもりだった.

しかし, 時がどれだけ経っても, 彼は現れなかった. 不安になり, 携帯電話を手に取ったその時, SNSの通知が目に入った. それは心結の投稿だった.

「停電で真っ暗な夜, 大河さんが一緒にいてくれて心強い! 最高のサプライズ! 」

写真には, キャンドルの灯りが揺れる中, 心結の指と, そこに添えられた大河の手が写っていた. 彼の薬指には, 私との結婚指輪が輝いていた. 私は静かに画面を見つめた後, 乾いた笑みを浮かべた. 彼が来なかった理由が, これで完全に理解できた.

私は心結の投稿に「いいね」を押し, そのまま家へと歩き始めた. 家に帰ると, 疲れ果ててベッドに横になった.

深夜になって, ガチャリとドアの開く音がした. 大河が帰ってきたのだ. 彼は自然に私の腰に腕を回し, 私の首筋にキスをした. 「真悠穂, 寂しかったよ. 愛してる. 」彼の甘い囁きは, 私にはもう届かなかった.

彼の体から, 心結の香水の匂いがした. 私は思わず, くしゃみをした. その瞬間, 強い嫌悪感が私の心を支配した.

「疲れているの. 今日はもう寝たいわ. 」私は彼の腕をそっと押し退けた.

「どうしたんだ? 具合が悪いのか? 病院に行くか? 」彼は驚いた顔で私を見た. そして, 私がくしゃみをしたことに気づくと, 一瞬, 罪悪感に苛まれたような表情を浮かべた.

「ああ, ごめん. 昨夜, 君を迎えに行けなくて本当に悪かった. 急な仕事が入ってしまってな. 」彼は上辺だけの謝罪を口にした.

私はもう何も言わず, 目をつむり, 小さく首を横に振った. 彼は決して, 私に真実を語ることはなかった. そして, 私はもう, 彼に真実を求めることもないだろう. 離婚協議書を秘密裏に準備したことに対するわずかな罪悪感は, この瞬間, 完全に消え去った.

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結婚記念日の裏切りと離婚届

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