話 1
結婚記念日, 私は弁護士事務所にいた. 夫は今夜も, 秘書の女と私の家で笑い合っている.
5年間の結婚生活, 彼は会社で私との関係を隠し続け, 私の存在はまるで彼の重荷であるかのように扱われた.
「真悠穂は仕事ばかりの, つまらない女なんだ」彼のその一言で, 私の心は完全に折れた.
もう何も期待しない. 私は冷静に, 復讐の計画を立て始めた.
夫の自惚れと秘書への盲目的な愛情を利用し, 彼が気づかぬうちに離婚協議書にサインさせる.
これは, 私の5年間を無駄にした男への, 静かで完璧な復讐劇の始まりだった.
第1章
藤沢真悠穂 POV:
「私は離婚します. 」私の声は, 弁護士の静かなオフィスに響き渡った. 今日, 結婚記念日に, 私はこの場所にいた. 五年間という月日が, まるで薄い霧のように感じられる. その霧の向こうで, 夫は今夜も別の女と笑い合っているのだろうか.
昨日, 家に戻ると, 玄関から漏れる笑い声が私を迎え入れた. その声は, 私の心臓を冷たい手で掴むように締め付けた. 私の家なのに, まるで部外者のような感覚に陥った. 彼が会社で私たちの結婚を隠し続けてきたことを知っていたから, 余計にその疎外感が募った.
以前は彼と真剣に話し合いたかった. どうすれば私たちの関係を修復できるのか, 夜遅くまで考えていたこともある. しかし, 彼の目の前で, 秘書の石岡心結が「大河さん, 今日の夕食は何にしますか? 」と尋ね, 彼が「ああ, 心結, 君も家で食べるといい. 何でも好きなものを注文してくれ」と答えるのを聞いた時, 私の心は完全に折れた. もう何も期待する意味はないと, その瞬間, 悟ったのだ.
この五年間, 私は彼の献身的な妻であろうと努めてきた. しかし, 結局のところ, 離婚こそが, この空虚な関係を終わらせる唯一の答えだという結論に達した. 私は弁護士に焦る気持ちを伝えた. 「離婚協議書をできるだけ早く作成してください. 一刻も早くこの関係を終わらせたいんです. 」私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった.
家の中からは, 変わらず楽しそうな笑い声が聞こえてくる. 外の夜風よりも, 私の心の方がずっと冷え切っていた. ここは私の家のはずなのに, もう私には居場所がない.
弁護士からは「一度, 直接お会いして詳しくお話しましょう」という電話の提案があった. しかし, 私はその必要性を感じていなかった. 家に帰ると, ダイニングテーブルには様々な料理が並んでいた. 四川料理特有の, 唐辛子の強い香りが鼻をついた.
大河は私が辛いものが苦手なことを知っているはずだ. いや, むしろ, 私が唐辛子アレルギーであることを知っていたはずだ. テーブルに並んだ料理のほとんどは, 私が食べられないものばかりだった. 過去五年間, 私が彼の健康を気遣い, 薄味の和食を作ってきたことは, もう遠い記憶の中にしかないのだろうか.
「真悠穂, 遅かったな. ほら, 君のために辛くないスープも用意したぞ. 」彼はそう言って, 唯一辛くないはずのスープを私の前に押しやった. その声には, わずかな配慮と, それ以上の面倒くささが滲み出ていた.
「今日は会社で会議が長引いてな. 取引先の接待もあって, こんな時間になってしまった. 君も知っているだろう, このプロジェクトがどれほど重要か. 会社のためには, 僕がもっと頑張らなければならないんだ. 」彼は自分の忙しさを強調し, 会社の重要性を語った. まるで, 私の存在が彼の重荷であるかのように.
彼の言葉を聞きながら, 私は確信した. 彼の心は, もう私のものではない. 彼の冷酷な態度に, 私は衝撃を受けた. その瞬間, 彼の携帯電話が鳴った. 画面に表示された心結の名前を見た彼は, 一瞬で顔を綻ばせた.
「ああ, 心結か. どうした? 」彼は柔らかい声で話し始めた. そして, 電話を切ると私に向き直り, 何でもないことのように告げた. 「心結が泊まりに来ることになった. 君は気にしなくていい. 」私は苦笑した. もう何も変わらない. 変えられない.
「そういえば, 君, 何か話したいことがあったんじゃなかったか? 」彼は突然, 思い出したように尋ねた. 私は一瞬躊躇したが, これが最後のチャンスだと自分に言い聞かせた.
「ええ, 今日は私たちの結婚記念日でしょう? せっかくだから, 二人でゆっくり過ごしたかったわ. 」私の声は震えていた. 彼が眉をひそめ, 明らかに不機嫌そうな顔をした.
「記念日? そんなこと, 今更どうでもいいだろう. 君はいつもそうやって, 僕の忙しさを理解しようとしない. 会社のことをもっと考えてくれ! 」彼は荒々しい言葉で私を責め立てた.
私は何も言い返せず, 黙ってスープをすすった. 熱い液体が喉を通り, 目頭が熱くなった. 涙がスープの中に落ちていく. しかし, 私は顔を上げなかった. これ以上, 彼に弱い姿を見せたくはなかった.
涙を必死に堪え, 私は平静を取り戻した. そして, 静かに, しかしはっきりと彼に告げた. 「大河, 私と離婚して. 」彼はスマートフォンに夢中で, 私の言葉が聞こえていないようだった.
「何だ? また何か言ったのか? 」彼は顔を上げずに, 不機嫌そうに尋ねた. 私はもう一度, 同じ言葉を繰り返す気力もなかった.
彼は立ち上がり, 足早に部屋を出て行った. その背中を, 私はただ黙って見送った. 彼の姿が完全に消えた後, 私は震える手で弁護士にメッセージを送った. 「すぐにでも, 離婚手続きを進めてください. 」
もう, 彼の行動に口出しすることはないだろう. 彼の女性関係にも, 彼の人生にも. 私の五年間の結婚生活は, 何の思い出も残さず, ただ過ぎ去っていった. もう, 彼を待つ必要はない. 私は, もう待たない.
話 2
藤沢真悠穂 POV:
大河が家に戻ってくると, 彼の隣には見慣れた顔があった. 石岡心結. 彼と同じ部署の, 若くて美しい秘書. 彼女は私より十歳も若い, 二十五歳だった. 私はこの会社の副社長兼CFOを務め, 大河は社長. 心結は, 私たち夫妻の直属の部下だ. 私と大河の結婚は, 社内では公にされていなかった. 彼はいつも, 私との出勤時間をずらし, オフィスでは私たちに何も関わりがないかのように振る舞った.
「藤沢さん, お久しぶりです. 」心結は, 私をまるで会社の同僚のように, しかしその口元にはわずかな嘲笑を浮かべながら挨拶した. 彼女の声には, どこか挑発的な響きがあった.
彼女は私の腕を掴んだ. その指先が, まるで探るかのように私の皮膚に触れる. 「藤沢さんは, 本村社長とどういうご関係で? 」彼女はそう言って, 笑みを深くした.
私は, 一瞬, 真実を告げようか迷った. しかし, その躊躇する私の口を塞ぐように, 大河が素早く口を開いた. 「真悠穂はただの会社の同僚だよ. 君と違って, 彼女は結婚にも子供にも興味がない. 仕事ばかりの, つまらない女なんだ. 」彼の声は冷たく, 私を蔑むような響きがあった.
彼の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 全身が凍りつき, その場に立ち尽くした. 私は反論しようと口を開いたが, 彼は冷酷に私の言葉を遮った. 「何を言っても無駄だ. 君のいる場所はここじゃない. 」
私は絶望に打ちひしがれ, 首を振った. 最後の希望が, 音を立てて砕け散るのを感じた. 心結は「同僚」という言葉を聞くと, 嬉しそうに顔を輝かせた. 彼女は遠慮なく大河の隣に座り, 彼の頬にキスをした.
大河は一瞬固まったが, すぐに私の方を盗み見た. 私が俯いているのを見て, 彼はホッと安堵の息を漏らした. そして, 心結に優しく促した. 「さあ, 美味しい料理が冷めないうちに食べよう. 」
「ねえ, 大河さん. この前, 停電で真っ暗になった夜, 本当に怖かったのよ. 」心結は甘えた声で言った.
「そうか. それは大変だったな. 僕が一緒にいればよかったな. 」大河は心結の言葉に, 私には見せたことのない優しい声で応じた.
「でも, これもサプライズだったのよ. だって, いつもは忙しい大河さんが, あの日は早く帰ってきてくれたんだもの. 」心結は楽しそうに話し, 二人はまるで周りに誰もいないかのように親密に触れ合った.
私は驚きを隠せなかった. 二人の関係は, 私が想像していた以上に深く進んでいる. 大河が心結のために料理を取り分け, 優しく語りかける姿を見て, 私は確信した. テーブルに並ぶ料理は, 全て心結の好む辛いものばかりだった. 彼が早く帰宅し, 夕食を準備した真の理由が, ようやく理解できた.
私の記念日は, 彼らにとって, ただの邪魔な存在だったのだ. 私は, この愛のない記念日の脇役でしかなかった. 胸が重く, 息苦しさを感じた.
私は静かに立ち上がった. もうこれ以上, ここにいる必要はない.
「私, これで失礼します. 」私の声は, 私自身が驚くほど穏やかだった.
「え, 藤沢さん, お食事は? 」心結はわざとらしく尋ねた.
「結構です. ごゆっくりどうぞ. 」私は礼儀正しく断った.
「まさか, 私が送っていきましょうか? 」心結は, 私の惨めな姿を嘲笑うかのように言った.
「いや, 心結, 君はここにいなさい. 」大河は心結を制し, 私に向かって冷たく言い放った. 「真悠穂は道を知っているから大丈夫だ. 」
彼の言葉は, 私を突き放すようだった. 私が家を出る時, 彼は後を追うことも, 引き止めることもなかった. 私は夜風に吹かれながら, ぼんやりと立ち尽くした. この場所は, もう私の居場所ではない. まもなく, この家から, 私の痕跡は完全に消えるだろう.
話 3
藤沢真悠穂 POV:
細い雨が降りしきり, 涼しい風が木の葉を揺らして, サラサラと音を立てていた. 私の心は, もう揺らぐことはなかった. 昨夜の出来事が, 私を決定的にした.
迷うことなく, 弁護士に電話をかけた. 「すぐにでも, 離婚手続きを終えたいんです. 」私の声は, 自分でも驚くほど冷静だった.
弁護士事務所に向かう足取りは, かつてないほど軽かった. 私には明確な目的があった. 扉を開けると, そこは以前訪れた時と同じ, 静かで落ち着いた空間だった.
「今日中に, 離婚協議書を完成させることは可能でしょうか? 」私は切羽詰まった声で尋ねた.
弁護士は眉をひそめ, 記録を確かめた. 彼は少し考え, 「協議書は半分ほど作成済みです. 今日, 残業すれば完成させられるでしょう」と言った.
「何か, 急ぐ理由でも? 」弁護士が尋ねた.
私は微笑みを浮かべ, 正直に答えた. 「ええ. 一刻も早く, この苦しみから解放されたいんです. 」
その日は深夜まで弁護士事務所に滞在した. そして, ついに, 一冊の黒いファイルを手にした. それは, 離婚協議書だった. 事務所を出ると, 私の眉間には深い皺が刻まれていた. どうすれば彼に署名させることができるだろうか. 簡単なことではないとわかっていた.
その時, 携帯電話が震えた. 画面には「大河」の文字.
「どこにいるんだ? 今から迎えに行くよ. 」彼の声は, 昨夜とは打って変わって優しかった.
私は一瞬迷ったが, 彼の言葉に甘えることにした. 私は彼に, 弁護士事務所の近くにあるカフェのアドレスを伝えた. この機会に, 全てを打ち明けるつもりだった.
しかし, 時がどれだけ経っても, 彼は現れなかった. 不安になり, 携帯電話を手に取ったその時, SNSの通知が目に入った. それは心結の投稿だった.
「停電で真っ暗な夜, 大河さんが一緒にいてくれて心強い! 最高のサプライズ! 」
写真には, キャンドルの灯りが揺れる中, 心結の指と, そこに添えられた大河の手が写っていた. 彼の薬指には, 私との結婚指輪が輝いていた. 私は静かに画面を見つめた後, 乾いた笑みを浮かべた. 彼が来なかった理由が, これで完全に理解できた.
私は心結の投稿に「いいね」を押し, そのまま家へと歩き始めた. 家に帰ると, 疲れ果ててベッドに横になった.
深夜になって, ガチャリとドアの開く音がした. 大河が帰ってきたのだ. 彼は自然に私の腰に腕を回し, 私の首筋にキスをした. 「真悠穂, 寂しかったよ. 愛してる. 」彼の甘い囁きは, 私にはもう届かなかった.
彼の体から, 心結の香水の匂いがした. 私は思わず, くしゃみをした. その瞬間, 強い嫌悪感が私の心を支配した.
「疲れているの. 今日はもう寝たいわ. 」私は彼の腕をそっと押し退けた.
「どうしたんだ? 具合が悪いのか? 病院に行くか? 」彼は驚いた顔で私を見た. そして, 私がくしゃみをしたことに気づくと, 一瞬, 罪悪感に苛まれたような表情を浮かべた.
「ああ, ごめん. 昨夜, 君を迎えに行けなくて本当に悪かった. 急な仕事が入ってしまってな. 」彼は上辺だけの謝罪を口にした.
私はもう何も言わず, 目をつむり, 小さく首を横に振った. 彼は決して, 私に真実を語ることはなかった. そして, 私はもう, 彼に真実を求めることもないだろう. 離婚協議書を秘密裏に準備したことに対するわずかな罪悪感は, この瞬間, 完全に消え去った.