話 2
松原百合紗 POV:
秀夫が去ってから, 数日が過ぎた. 彼は, 一度も私に連絡してこなかった. 私は, ただ虚ろな目で天井を見つめていた. 私の体は, 一歩も動くことができなかった.
喉が渇き, 胃が痛み始めた. 私は, ようやく重い体を起こし, キッチンに向かった. 冷蔵庫を開けると, 中には何も入っていなかった. 秀夫は, 私に何も残さずに去っていったのだ.
「まさか, こんなことまで... 」
私は, 自嘲気味に笑った. 彼が私に何も残さなかったことよりも, 私が彼に, まだ期待していたことに, 心底がっかりした. 私は, インスタントラーメンの残りを温めて, 口に運んだ. 味もない, ただの塩辛い液体だった.
その時, 玄関のドアが開く音がした. 秀夫が帰ってきたのだ. しかし, 彼の顔には, 疲労の色が濃く出ていた. 彼は私を一瞥もせず, ソファに座り込んだ.
「夕食は? 」
彼の声は, 覇気がなかった. 私は, 彼を見て, 心の中で冷たい笑みを浮かべた. 彼は, 私がいなければ, 何もできない人間なのだ.
「用意できませんでした. 」
私は, 淡々と答えた. 彼の顔が, 一瞬にして凍りついた. 彼は, 私を睨みつけるように見つめた.
「どういうことだ? 俺のために, 何も用意しないのか? 」
彼の声は, 怒りに震えていた. 私は, 彼の言葉に, 何も感じなかった. 私の心は, もう完全に冷え切っていた.
「私の体調が悪くて, 何も作る気になれませんでした. 」
私は, 正直に答えた. 私の体は, まだ痛みで軋んでいた.
「また, お前のその病気のせいか. 本当に, お前は厄介な人間だな. 」
彼は私の言葉を, またしても嘲笑した. 彼の言葉は, 私の心を深く傷つけた. 私は彼に, 私の苦しみを理解してほしいと願っていた. しかし, 彼の心には, 心歌穂のことしか映っていなかった.
「お前は, 俺の妻だろう! 俺のために尽くすのが, お前の役目ではないのか! ? 」
彼はソファから立ち上がり, 私に詰め寄ってきた. 彼の顔は, 怒りで歪んでいた.
「私は, あなたの召使いではありません. 」
私の声は, 冷たく響いた. 彼の目は, 私を軽蔑しているかのように見下していた.
「何を生意気なことを言っているんだ! お前のような人間は, 俺がいなければ生きていけないだろう! 」
彼は私の腕を掴み, 強く揺さぶった. 私の体は, 彼の力に抗うことができなかった.
「私が生きていけないのは, あなたのせいよ. 」
私は, 彼の言葉を遮るように, そう言った. 彼の顔が, 一瞬にして凍りついた.
「何を言っているんだ? 」
彼の声は, 低い唸り声のようだった.
「あなたが, 私から全てを奪ったからよ. 私のヴァイオリンも, 私の夢も, 私の希望も. そして, 私の愛も. 」
私の声は, 震えていた. しかし, その言葉は, 私の心からの叫びでもあった.
「俺が, お前から奪っただと? お前は, 自分の意思でヴァイオリンを捨てたのだろう! 俺は, お前を尊重しただけだ! 」
彼は私の言葉を嘲笑した. その顔には, 一切の慈悲もなかった.
「私が, どれほどあなたを愛していたか, 分かっているの? あなたの成功を信じ, あなたの夢を叶えるために, 私は自分の全てを犠牲にした. なのに, あなたは, 私を道具としか見ていなかった. 」
私の目から, 熱い涙が溢れ出した. 私は彼の言葉を聞きながら, まるで自分が, 彼の憎しみの対象であるかのように感じた.
「何を今更, そんなことを言っているんだ. 俺は, お前を愛していた. だが, お前は俺を裏切った. 心歌穂を助けようとしない, 冷血な人間だ. 」
彼の言葉は, 私の心を深くえぐった. 彼は, 私を愛していたと. しかし, その愛は, 心歌穂への裏切りによって, 消え去ったと.
「私の体は, もう限界なのよ! 骨髄提供は, 私の命を危険に晒す行為なの! なぜ, あなたは, それを理解してくれないの! ? 」
私は, 心の奥底に押し込めていた痛みを, ようやく口に出した. 私の体は, 希少な血液疾患を抱えている. 骨髄提供は, 私の命を危険に晒す行為だった.
「お前の命など, どうでもいい! 心歌穂の命が, 何よりも大切なのだ! 」
彼は私の言葉を遮り, さらに激しく私を責め立てた. 彼の目は, 私を嫌悪しているかのように見下していた.
「うっ... 」
下腹部に, 再び激しい痛みが走った. 私は思わず, 呻き声を上げた. 私は, 彼の言葉を聞きながら, まるで自分が, 彼の憎しみの対象であるかのように感じた.
「また, 芝居か? 本当に, お前は嘘つきな人間だな. 」
彼は私の苦しみを, またしても嘲笑した. 彼の言葉は, 私の心を深く傷つけた. 私は彼に, 私の存在を否定されているようだった.
「もう... 何も, 話したくない... 」
私は, か細い声で答えた. 私の体は, 痛みと絶望で, もはや動くことができなかった.
「俺は, 心歌穂のところへ行く. お前のような冷血な人間と一緒にいるより, ずっとマシだ. 」
彼は私の肩を突き放し, 背を向けた. 彼の足音は, 私の心をさらに引き裂くように, 遠ざかっていった. 私はその場に立ち尽くし, ただ彼の去っていく後ろ姿を見送ることしかできなかった. 彼の言葉は, 私の心に深く突き刺さり, 私の全てを破壊した. 私の体は, 痛みと絶望で, もはや動くことができなかった. 私の心は, 彼の言葉によって, 完全に砕け散った.
私は, 虚ろな目で, そう呟いた. 私の頬を, 熱い涙が伝った. 私は彼の言葉を何度も心の中で反芻した. 私の全てを捧げた愛は, 彼にとってただの道具でしかなかったのだ. 彼の言葉は, 私の心を深く傷つけ, 私の存在を否定した. 私は彼に, 私を愛してほしいと願っていた. しかし, 彼の心には, 私への愛は微塵もなかった.
「うっ... 」
下腹部に, 再び激しい痛みが走った. 私は思わず, 呻き声を上げた. 足元に, 温かいものが流れ出すのを感じた. 私は震える手で, スカートの裾をめくった. そこには, 赤黒い血が滲んでいた. 私の目から, さらに熱い涙が溢れ出した.
私は, その場に崩れ落ちた. 私の頬には, 血と涙が混じり合っていた. 私の心は, 絶望の淵に沈んでいた. 私は, この子を, 自らの手で葬ろうとしていた. しかし, この子は, 私にまで見捨てられようとしているのか.
「違う... 違うわ! これは, 私が選んだ道なのよ! 」
私は, 自分自身に言い聞かせるように, そう叫んだ. 私の声は, 震えていた. しかし, その決意は, 揺るがなかった. 私はこの子を, 自らの手で葬る. それが, 私の復讐なのだ.
私は, かすかに残る意識の中で, 冷たい笑みを浮かべた.
「秀夫... 心歌穂... あなたたちが最も欲しがるものを, 私が奪い去る. それが, 私からの最高の復讐よ. 」
私の心には, 冷たい復讐の炎が燃え上がっていた. 私は, 這うようにしてバスルームに向かった. 鏡に映る私の顔は, 血と涙でぐちゃぐちゃだった. その顔には, もはや私が知っている「松原百合紗」の面影はなかった. ただ, 憎悪と決意に満ちた, 見知らぬ女の顔があった.
「私は変わる. もう, 誰の道具にもならない. 」
私は, 鏡の中の自分に語りかけるように言った. その声は, 力強く, そして冷たかった.
話 3
松原百合紗 POV:
秀夫が去り, 一人になった病室で, 私はベッドに横たわっていた. 冷たいシーツが, 私の肌に触れるたびに, 全身の痛みが蘇る. 視界がぼやけ, 熱いものが頬を伝っていく. 私は, もう泣くことさえできないほど, 乾ききっていた.
私の頭の中には, 彼との出会いが鮮明に蘇ってきた. 初めてオーケストラの練習場で秀夫を見た日のこと. 彼は, 舞台の中央で, まるで光を放つかのようにタクトを振っていた. その集中力と情熱に, 私は一瞬で心を奪われた.
彼が, 私のヴァイオリンの音色に気づいてくれた日のこと. まだ駆け出しの指揮者だった彼が, 私の演奏を聴いて, 深く感動してくれた. 彼は, 私の才能を誰よりも高く評価し, 私を「日本の宝」だとさえ言ってくれた.
あの頃の彼は, 優しくて, 情熱的で, 私の全てだった. 私が風邪を引けば, 夜通し看病してくれた. 私が落ち込んでいれば, 私の好きな曲を弾いてくれた. 私がヴァイオリンを弾いていて, 弦が切れて指を怪我した時, 彼は自分の服を破って, 私の指を包んでくれた. その時, 彼は言った. 「百合紗, 君の指はヴァイオリンのためにあるんだ. 大切にしないと. 」彼の言葉は, 私の心を深く温めた. 私は彼に, 心から愛されていると信じていた. そして, 私も彼を, 心から愛していた.
私は彼のために, 自分の全てを捧げた. 彼のキャリアを支えるために, 私は自分のヴァイオリン活動を休止した. 希少な血液疾患を抱える私が, 彼の子を身ごもった時, 彼は私を抱きしめ, 「ありがとう, 百合紗. 君がくれた最高の贈り物だ」と言ってくれた. あの時の彼の笑顔は, 偽りではなかったはずだ.
だが, あの笑顔は, いつから歪んでいったのだろう. あの優しい眼差しは, いつから私を道具としか見なくなったのだろう. 私の愛は, いつから彼の支配欲にすり替わったのだろう.
「秀夫... 」
私の唇から, か細い声が漏れた. しかし, その声は, もう彼への愛情を宿してはいなかった. ただ, 深い絶望と, 冷たい憎悪がそこに宿っていた. 私は, 彼が私から全てを奪い去ったことに気づいた. 私の人生を, 私の希望を, そして私の未来を. 彼は, 私の全てを破壊したのだ.
その時, 病室のドアが静かに開いた. 秀夫が, 私のベッドサイドに立っていた. 彼の右手には, 温かいスープの入ったカップが握られていた.
「百合紗, 何か食べられるか? 」
彼の声は, あの頃の優しい響きを取り戻していた. 私は, 彼の言葉に, 一瞬だけ心が揺らいだ. しかし, その甘い言葉は, もはや私には届かなかった.
「... 結構です. 」
私は, 目を閉じたまま答えた. 彼の優しさは, 私には毒でしかなかった.
「頼む, 少しでいいから食べてくれ. 赤ちゃんのためにも... 」
彼の言葉に, 「赤ちゃん」という単語が混じっていた. 私の心臓が, 締め付けられるように痛んだ. 彼は, この子の存在を, 心歌穂の治療のための道具としか見ていない.
「食べたら, 骨髄提供について, 前向きに考えてくれるか? 」
彼の言葉は, 私の予想通りだった. 彼の優しさは, いつも取引と引き換えだった. 彼の瞳は, 私に向かって, 懇願するように見つめていた. しかし, その瞳の奥には, 冷たい計算が隠されているのが見えた.
「... 」
私は, 何も答えなかった. 私の心は, 完全に凍りついていた.
彼の右手が, 微かに震えているのが見えた. 彼は, 私への言葉を, 必死に探しているようだった. しかし, その震える手は, 私にはもはや届かない.
「百合紗... 頼む. 心歌穂には, お前の助けが必要なんだ. 」
彼の声は, 懇願するように響いた. しかし, その懇願は, 私をさらに絶望の淵に突き落とした.
「私には, 関係ないわ. 」
私は, 冷たく答えた. 彼の顔が, 一瞬にして凍りついた.
「何を言っているんだ? 心歌穂は, お前の妹だろう? 」
彼の声は, 信じられないという響きを帯びていた.
「妹だから何? 私を傷つけてきた人間を, 私が助ける義理はないわ. 」
私の言葉は, 鋭い刃のように彼に突き刺さった. 彼の顔が, みるみるうちに青ざめていく.
「百合紗... 」
彼の唇から, か細い声が漏れた. しかし, その声は, もう私には届かない.
私の頭の中には, 幼い頃の記憶が蘇ってきた.
私がヴァイオリンの練習に励む傍らで, 心歌穂はいつも私を邪魔した. 私が両親に褒められれば, 彼女は私を突き飛ばし, 私のヴァイオリンを壊した. 両親は, 病弱な心歌穂を溺愛し, 私には常に「お姉ちゃんなんだから, 我慢しなさい」と言い聞かせた. 私の才能は, 彼女の嫉妬の対象でしかなかった. 家族の中で, 私はいつも孤独だった.
私は, 家を出て, ダンススクールに通って, ヴァイオリンを弾くことを選んだ. 私は, 自分の才能を磨き, 両親に認められたいと願っていた. しかし, 心歌穂は, 私の夢を嘲笑した.
「所詮, お前は私の代わりだ. 両親は, お前を愛していない. お前は, ただの道具でしかない. 」
彼女の言葉は, 私の心を深く傷つけた. 私は彼女に, 私の存在を肯定してほしいと願っていた. しかし, 彼女の心には, 私への憎悪と嫉妬しかなかった.
そして, 秀夫との出会い. 彼もまた, 私を道具としてしか見ていなかったのだ. 私の人生は, いつも誰かの道具として利用されてきた.
「もう, うんざりよ. 」
私は, 心の中でそう呟いた. 私の頬を, 熱い涙が伝った. 私は, 彼の言葉を聞きながら, まるで自分が, 彼の憎しみの対象であるかのように感じた.
「秀夫, あなたは, 私から全てを奪った. 私の人生を, 私の希望を, そして私の愛を. あなたは, 私の全てを破壊したのだ. 」
私の声は, 冷たく響いた. 彼の顔が, 一瞬にして凍りついた.
「何を言っているんだ? 」
彼の声は, 低い唸り声のようだった.
「私は, もうあなたの妻ではない. そして, 私は, もう誰の道具にもならない. 」
私の言葉は, 鋭い刃のように彼に突き刺さった. 彼の顔が, みるみるうちに青ざめていく.
「百合紗... 」
彼の唇から, か細い声が漏れた. しかし, その声は, もう私には届かない.
私の心には, 冷たい復讐の炎が燃え上がっていた. 私は, 彼が私から全てを奪い去ったことに気づいた. 私の人生を, 私の希望を, そして私の未来を. 彼は, 私の全てを破壊したのだ.
私は, 彼の顔を見て, 冷たい笑みを浮かべた.
「秀夫, あなたは, この子の存在を, 心歌穂の治療のための道具としか見ていない. だから, 私は, この子を, あなたから奪い去る. それが, 私からの最高の復讐よ. 」
私の言葉は, 彼の心を深くえぐった. 彼の顔は, 絶望の色に染まっていた. 私は, 彼の苦しむ顔を見て, 心の中で冷たい笑みを浮かべた.
私には, もう何も失うものはない. 全てを奪われた私に残されたのは, 冷たい復讐心だけだった.