話 2
あの日の産婦人科での出来事は, まるで悪夢のように私の脳裏に焼き付いている. しかし, あの時, 私は病院を後にすることができなかった. 久史と彩夏が消えた廊下の先に, 私の足は縫い付けられたかのように動けないでいた. 激しい腹痛に耐えながら, 私は彼らを追って, 病院の奥へと足を引きずった.
彼らは, さらに奥の診察室に入っていったようだった. 私は壁伝いに歩き, その診察室のドアの隙間から, 中の様子を覗き込んだ.
久史は, 診察台に横たわる彩夏の隣に立ち, その手を優しく握っていた. 彼の表情は, 先ほど私に向けたものとは全く違う, 心からの安堵と愛情に満ちていた.
医者が彩夏の容体について説明している. 久史は医者の言葉に真剣に耳を傾け, 時折質問を挟んだ. 彼の声は, 心配と緊張で僅かに震えていた.
「赤ちゃんは大丈夫ですか? 」久史の声が, 私の耳に届いた. その声には, 深い愛情と, 失うことへの恐れが滲み出ていた.
彩夏は久史の手を強く握りしめ, 不安そうに彼を見上げていた. 「久史さん... 私, 怖い... . 」
「大丈夫だ. 僕がずっとそばにいるから. 」久史は彼女の頭を優しく撫で, 安心させるように言った. その仕草は, あまりにも自然で, 二人の間にどれほどの時間が流れたのかを物語っていた.
「男の子と女の子, どっちがいいですか? 」彩夏が, 甘えるように久史に尋ねた.
久史は苦笑しながら, 「どっちでもいいさ. 君と僕の子なら, きっと可愛い. 」と答えた. 彼の声は, 柔らかく, まるで子守唄のようだった.
その言葉を聞いた瞬間, 私の目から涙が溢れ出した. 声を出さないように, 口元を強く押さえる. 心臓が, まるでガラスのように砕け散る音を聞いた気がした. もう, これ以上見ていられなかった.
私はその場を離れ, 病院の廊下を足早に去った. 足元の激しい痛みが, 私の心を蝕む痛みと混ざり合う. 家に帰り着く頃には, 体中の力が抜け落ち, 私は床に崩れ落ちた. 胸元が引き裂かれるような痛みと, 息苦しさが私を襲う.
久史との出会いを思い出す. 私たちは7年間, 夫婦だった. その間, 私は彼の隣で, 彼の夢を支え, 彼の成功を共に喜んできた. 私が不妊治療で苦しんでいる時も, 彼はいつも優しく寄り添ってくれた.
「君が辛いなら, 無理しなくていい. 二人だけでも十分幸せだ. 」彼はそう言って, 私の手を握りしめてくれた. あの時の彼の言葉は, 私にとってどれほどの救いだっただろう. 私は実家との縁が薄く, 彼こそが私の世界全てだった. 彼が私を愛してくれるのなら, 他に何もいらない. そう信じていた.
彼が建築家として成功し始めた頃, 仕事の忙しさから不妊治療に付き添えない日が増えた. それでも, 彼は夜遅く帰ってきては, 私の体を気遣い, マッサージをしてくれた. 「僕が支えられなくてごめん」と, 彼はいつも私を抱きしめてくれた. あの時の彼の優しさは, 全て罪悪感からくるものだったのだろうか.
彼に愛されていると信じていた. 私たちの間に子供ができなかったのは, 私の体質の問題だと思い込んでいた. 彼が私を愛してくれているから, 彼は不妊治療の責任を「自分にもある」と言って, 私の両親と口論してまで私を庇ってくれた. あの時の彼の優しさは, 偽りではなかったはずだ.
しかし, 今日の出来事が, 私の過去の全てを塗り替えてしまった. 彼の優しさは, もはや私だけのものではなかった. あの笑顔も, あの眼差しも, あの気遣いも, 全てが, もう一人の女性に向けられていたのだ. 彼の愛は, 私のためだけのものではなかった.
私は, 彼の優しさが, 彼自身の罪悪感を和らげるためのものだったと悟った. 私は愚かだった. あまりにも無邪気だった. そして, あまりにも彼に依存しすぎていた.
夜遅く, 玄関のドアが開く音がした. 久史が帰ってきたのだ. 彼の足音は重く, 疲労と憔悴が滲み出ていた. 彼はリビングに入ってくると, 床に座り込む私を見つけ, その場で立ち尽くした.
「彩音... 」彼の声は, 掠れて震えていた. 彼はゆっくりと私の前まで歩み寄ると, 膝から崩れ落ち, 私の膝に顔を埋めた. 彼の体から, 酒と香水の匂いがした.
吐き気がした. しかし, 私は動かなかった. 心の中で, 私は自分に言い聞かせた. 「ここで心を許してはいけない. もう, 彼に心を奪われてはいけない. 」
「彩夏さんって, 誰? 」私の声は, 驚くほど冷静だった.
久史の体が, 私の膝の上で硬直した. 彼は数秒間, 何も言えなかった. その沈黙が, 私にとっては答えだった.
「僕の... 新しく入ったアシスタントだ. 」彼はようやく口を開いた. 「一度, 事務所で会ったことがあるだろう? 」
私は脳裏に, 数ヶ月前の出来事を思い出した. 新しいインターンとして紹介された, 若くて陽気な女性. その時, 彼女が久史を見つめる視線が, なんだか異常に熱いと感じたのを覚えている. 私はその違和感を, すぐに忘れてしまっていた.
「そういえば, あの時, 久史さんが『佐野っていう新人, なんだかやる気が空回りしてて困るんだ』って愚痴を言ってたわね. 」私は皮肉を込めて言った. 「でも, すぐに彼女のSNSをフォローして, 日々の投稿に『いいね』を押していたわ. 」
久史が, 一瞬, びくりと肩を震わせた.
「ああ, そうだったな. 」彼はバツが悪そうに答えた. 「君は『若くて可愛い子じゃない, お目が高いわね』って冗談を言ってたのに, 僕は『まさか, そんなわけないだろう』って誤魔化して. それから, あなたは彼女の話をしなくなったから, 私はてっきり彼女がクビになったのかと思っていたわ. 」
私の声は, 次第に冷たく, 重くなっていった. 「一体いつからなの? この関係は. 」
久史は顔を上げ, 私の目を見つめた. 「違うんだ, 彩音. 本当に, 一度だけの過ちだったんだ. 僕も酔っていて, つい... . 彼女も, まさか妊娠するなんて思っていなかったんだ. 僕も, すぐに堕胎するように言ったんだが, 彼女は... 」
彼は言葉を詰まらせた. その言葉に, 私は全てを悟った. 彼のこれまでの優しい言葉, 熱心な不妊治療への協力, 全てが, 彼自身の罪悪感を隠すためのものだったのだ. 彼が私に尽くせば尽くすほど, 彼の心の中で, 彩夏への罪悪感と責任感が膨らんでいったのだ.
「堕胎できないって, 言われたのね. 」私の声は, もはや感情を失っていた.
久史は, ゆっくりと, そして絶望的に頷いた. その頷きは, 私の心に, 雷鳴のような衝撃を与えた.
話 3
私は生理的な嫌悪感に襲われ, 久史の膝から顔を上げて洗面所へと駆け込んだ. 胃の中のものが全て逆流してくるような感覚. 便器に顔を近づけ, 何度もえずいた.
久史が私の後を追って洗面所に入ってきた. 彼は私の背中に手を伸ばそうとしたが, 私はその手を強く払いのけた. 彼の顔を睨みつける. その目には, 憎しみと軽蔑が宿っていた.
あの時の彼の言葉が, 耳の奥で反響する. 「君が辛いなら, 無理しなくていい. 」「僕が支えられなくてごめん. 」「僕には君しかいない. 」その言葉の全てが, 今では私の心を切り裂く刃のようだった. 彼が私を気遣うふりをしていた間, 私たちの寝室で, 彼は別の女を抱いていたのだ. 私たちの思い出の全てが, 彼の嘘によって汚されてしまった.
彼の顔に, 恐怖と呆然とした感情が浮かんでいるのが分かった. しかし, 私はもう彼に同情する資格も, 彼の表情を読み解く気力もなかった.
私は洗面所を飛び出し, 寝室へと向かった. 私たちの, いや, 彼と彩夏の思い出の場所になってしまった寝室. 私はクローゼットの奥から, ずっと使っていなかったガーデニング用のハサミを取り出した.
「彩音! 何を... 」久史が私の後を追って寝室に入ってきた.
私は何も答えなかった. ただ, ハサミを振り上げ, 枕カバーを切り裂いた. 中から白い羽毛が舞い上がり, 部屋中に飛び散る. 私は次に, ベッドカバーを切り裂き, カーテンを切り裂き, そして彼のスーツを切り裂いた.
羽毛が舞い, 布が破れる音だけが部屋に響く. 白い羽毛が, まるで雪のように部屋中に積もっていく. しかし, いくら破壊しても, 私の心の怒りは収まらなかった.
「やめろ, 彩音! 」久史が私の腕を掴んだ. 彼は私からハサミを奪い取ろうとしたが, 私は強く抵抗した. その拍子に, ハサミの刃が久史の手に食い込み, 鮮血が白い羽毛の上に飛び散った.
白い羽毛と赤い血. その鮮やかなコントラストが, 私の目に焼き付いた. 私はハサミを床に落とし, 自分の手についた久史の血を見つめた. その瞬間, 私の頭の中が, 嘘のようにクリアになった.
目の前には, 私と久史の結婚写真が飾られていた. 満面の笑みを浮かべた二人の姿.
「離婚しましょう. 」私の声は, 驚くほど冷静で, 感情のこもっていないものだった.
久史は, その言葉に目を見開いた. 血の滲んだ手で, 彼は私を力強く抱きしめた.
「嫌だ! 離婚なんてしない! 彩音, お願いだ, 許してくれ! 彼女とはもう二度と会わない. もう関係を断ち切るから! 以前のように, 二人でやり直そう. 僕には君しかいないんだ! 」
彼は私の背中に顔を埋め, 子供のように泣きじゃくった. 「君がいないと, 僕は生きていけないんだ... ! 」
私は, 冷めた目で彼の震える背中を見つめていた. 彼の言葉は, 嘘ではないのかもしれない. しかし, もう, 何もかもが遅すぎた. あの時の久史は, もうどこにもいなかった. 私の中にあった, 彼への信頼も, 愛も, 全てが死んでしまった. あの頃の私たちには, もう二度と戻れない.
その後数日間, 私たちは奇妙な膠着状態に陥った. 久史は私に対して, 今まで以上に優しく, 気遣うようになった. 私が何かに怒りをぶつけても, 彼はただ微笑んでそれを受け入れた. しかし, 彼のその優しさは, 私にとっては偽りの仮面でしかなかった. 離婚の話を持ち出すと, 彼はすぐに話題を変えたり, 遠回しに「君は僕から離れられないだろう」というような態度を見せたりした.
彼の携帯電話は, 一日に何度も鳴った. 全て, 彩夏からの着信だった. 彼は私の前では決して電話に出ず, 「もう連絡は取らない」と言い張った. しかし, 私は知っていた. 毎晩, 私が寝た後, 彼はリビングでこっそりと電話をかけ, 彩夏を優しい声でなだめていることを.
ある日の夜, 彼の携帯が鳴った時, 私はリビングで彼を見つめて言った. 「出たらどう? 彩夏さんからの電話でしょう? 」
久史は一瞬, 焦ったような顔を見せたが, すぐに表情を取り繕った. 「何でもない. 君の体調の方が大事だ. 」
その時, 私の携帯が鳴り響いた. 画面には「知らない番号」と表示されていた. 久史の顔色が変わる. 彼は私から携帯を奪い取ろうとしたが, 私は彼の手をかわし, 電話に出た. そして, スピーカーフォンにした.
「もしもし? 」私の声が, リビングに響き渡る.
電話の向こうから, 女の嗚咽が聞こえてきた. 彩夏だ.
「彩音さん! お願いです! 久史さんを, 久史さんを返してください! 赤ちゃんが, 赤ちゃんが苦しがってるんです! 」彩夏の叫び声が, リビングに響き渡った.
久史の顔が, 恐怖で引き攣った. 彼は私を, まるで怪物を見るかのような目で見つめた. 私は, ただ冷たい視線で彼を見つめ返した. 私の心には, もはや憎しみさえもなかった. ただ, 深い悲しみが沈殿しているだけだった.
「わかったわ. 会って話しましょう. 」私は電話に向かってそう告げた.
久史の目が, 驚きと戸惑いで大きく見開かれた.