1

長年の不妊治療が実り, 夫を驚かせようと妊娠の事実を隠していたのが仇となった.

産婦人科で鉢合わせたのは, 愛人の膨らんだお腹を愛おしそうに撫でる夫の姿だった.

「彩音さんが私を突き飛ばした! 」

愛人の狂言を鵜呑みにした夫は, 弁解しようとする私を力任せに突き飛ばした.

その衝撃で, 私は彼に伝えるはずだった我が子を, 彼自身の手によって殺されたのだ.

激痛に悶える私を一瞥もせず, 彼は「君には失望した」と言い捨て, 愛人を抱きかかえて去っていった.

彼が守ったのは愛人の嘘, 彼が殺したのは待望の実子.

私は血の海の中で, 彼への愛を完全に断ち切った.

誰もいない家に戻り, 離婚届と, 愛人の自作自演を捉えた監視カメラの映像をテーブルに残して, 私は姿を消した.

5年後, 全てを失い, 真実を知って発狂寸前の彼が私の前に現れた.

「許してくれ」と足元にすがりつく彼を, 私はゴミを見るような冷たい目で見下ろした.

第1章

妊娠検査薬の青い線を見た瞬間, 私の心臓は喜びで爆発した. 何年もの間, 毎月訪れる失望に打ちのめされ, 体外受精の痛みと希望の狭間で擦り切れてきた心が, ようやく報われた. 久史にこれを伝えたら, どんな顔をするだろう. きっと, 彼も私と同じくらい喜んでくれるはずだ. 彼を驚かせようと, 私はまだ妊娠の事実を告げていなかった.

産婦人科の待合室は, 幸せな妊婦たちと, その横に寄り添う夫たちの姿で溢れていた. 私もその一人になるのだ. そんなことを考えながら, ふと視線を上げた時, 私の世界の全てが凍りついた.

久史がそこにいた.

彼が, 私の夫である広瀬久史が, 知らない若い女性の隣に座っていた. 彼女の膨らんだお腹に, 彼は優しく手を添えていた. その手のひらの動き, 指先の愛おしむような仕草, そして彼女を見つめる瞳. それは, 私が何年も久史から向けられてきた, 愛情そのものだった. いや, もしかしたら, それ以上の.

私の喉がカラカラに乾き, 呼吸が止まった. 周囲の幸福なざわめきが, 突然遠い幻のように聞こえる. 心臓が, まるで誰かに鷲掴みにされたかのように, 激しい痛みを訴え始めた. 目の前の光景が, 現実なのか, それとも悪夢なのか判別できない.

久史は彼女の耳元で何かを囁き, 彼女は満面の笑みで彼を見上げた. その笑顔は, 純粋で, 無邪気で, そして何よりも, 私の久史に甘えているように見えた.

私は, 私たちの結婚生活で一度も見たことのない, 久史の甘い表情を目撃していた.

突然, 久史の視線が私の方向に向いた. 彼の瞳が私を捉え, その瞬間, 彼の顔から血の気が引いた. 笑顔は消え失せ, 表情は凍りつき, まるで時間が止まったかのようだった. その隣では, 久史の異変に気づいた若い女性が, 不安そうに彼を見上げている. 彼女の視線が, 久史の視線の先, つまり私へと向かう. 彼女の目が見開かれ, 唇が震えた.

「彩音... 」久史の声が, 掠れるように私の耳に届いた.

彼は急いで立ち上がり, 若い女性の肩を軽く叩いた. 何かを耳元で囁くと, 彼女は一瞬, 不満そうな顔を見せたが, すぐに頷いて立ち去った. 久史は, まるで何もなかったかのように, 私に向かって足を踏み出した.

「どうしてここに? 」彼の声は平静を装っていたが, その目の奥には明らかな動揺が揺れていた.

私は彼の言葉に答えることができなかった. ただ, その場に立ち尽くすことしかできない. 彼が私の腕に触れようと手を伸ばしたが, 私は反射的にその手を払いのけた. 彼の指先が, 私の肌に触れる前に宙を裂いた.

「あれは, 誰なの? 」私の声は, まるで他人のもののように震えていた. 感情が喉元までせり上がってきて, 息をするのも苦しかった.

久史は視線を逸らし, 曖昧に言葉を濁した. 「一度だけの過ちだったんだ. 君を愛しているのは, 僕には君しかいないのは, 本当だ. 」

彼は私を力強く抱きしめた. 彼の腕の中で, 私は何も感じなかった. ただ, 冷たい空気が私を包み込んでいるようだった. 彼の言葉が, 耳の奥で響く空虚な音にしか聞こえない.

「子供は? 」私は彼の胸に顔を埋めたまま, 掠れた声で尋ねた. 心の中では, 彼が否定してくれることを, ただひたすらに願っていた. 信じられない, と叫んで欲しかった.

久史の体が, 私の腕の中で僅かに強張ったのが分かった. 沈黙が, 重く長く続く.

「... ああ. 」彼は, まるで絞り出すように, その一言を漏らした.

その瞬間, 私の体は拒絶反応を起こした. 彼の腕の中から抜け出し, その場にうずくまる. 生理的な吐き気が込み上げ, 胃液が逆流するような感覚.

「彩音さんを押し倒した! 」

その声に顔を上げると, 先ほどの若い女性が廊下の向こうで, お腹を抱えて倒れ込んでいた. 彼女の叫び声が, 病院の静寂を切り裂く. 久史の顔が, 驚きと焦燥で歪んだ.

「彩夏! 」久史は私を振り切り, 彼女の元へと駆け寄った. 彼は彼女を抱き上げ, 私に怒りの視線を向けた.

「君は, 一体何を考えているんだ! 」彼の声が, 私を責めるように響く.

その言葉に, 私の頭の中で何かが切れた. 私は立ち上がり, 久史に向かって一歩踏み出した. 彼の腕の中にいる彩夏が, 私を挑発するように見つめている. 私が何かを言う前に, 久史が私を突き飛ばした.

私の体はバランスを失い, 後ろに倒れ込んだ. 背中に走る激しい衝撃. そして, お腹に鈍い痛みが走った. 自分でデザインした, 特注家具の角に, 腹部を強打したのだ.

「うっ... 」私は呻き声を上げ, お腹を抱えた. 激痛が, 私の意識を白く染め上げていく.

久史は一瞬, 私の倒れた姿に目を見張った. その顔には, 驚きと後悔の色が浮かんでいた. しかし, 彩夏が苦しそうな声を上げると, 彼の目は再び彩夏へと向かった.

「彩夏, 大丈夫か. すぐ医者を呼ぶ. 」彼は彩夏を抱き上げたまま, 私を置き去りにして立ち去ろうとした.

「久史... 」私の声は, もはや蚊の鳴くような音だった.

彼は一瞬だけ振り返った. その瞳には, 申し訳なさそうな色が宿っていたが, すぐに消え失せた.

「後で説明する. ちゃんと話すから. 」彼はそう言い残し, 彩夏を抱きかかえて, 私の視界から消えていった.

彼の背中が完全に消えた後, 私は痛みに呻きながら, かすかに笑った. もう二度と「私たち」にはなれない. あの背中が, 私の世界から永遠に去っていくことを, 私は確信していた.

2

あの日の産婦人科での出来事は, まるで悪夢のように私の脳裏に焼き付いている. しかし, あの時, 私は病院を後にすることができなかった. 久史と彩夏が消えた廊下の先に, 私の足は縫い付けられたかのように動けないでいた. 激しい腹痛に耐えながら, 私は彼らを追って, 病院の奥へと足を引きずった.

彼らは, さらに奥の診察室に入っていったようだった. 私は壁伝いに歩き, その診察室のドアの隙間から, 中の様子を覗き込んだ.

久史は, 診察台に横たわる彩夏の隣に立ち, その手を優しく握っていた. 彼の表情は, 先ほど私に向けたものとは全く違う, 心からの安堵と愛情に満ちていた.

医者が彩夏の容体について説明している. 久史は医者の言葉に真剣に耳を傾け, 時折質問を挟んだ. 彼の声は, 心配と緊張で僅かに震えていた.

「赤ちゃんは大丈夫ですか? 」久史の声が, 私の耳に届いた. その声には, 深い愛情と, 失うことへの恐れが滲み出ていた.

彩夏は久史の手を強く握りしめ, 不安そうに彼を見上げていた. 「久史さん... 私, 怖い... . 」

「大丈夫だ. 僕がずっとそばにいるから. 」久史は彼女の頭を優しく撫で, 安心させるように言った. その仕草は, あまりにも自然で, 二人の間にどれほどの時間が流れたのかを物語っていた.

「男の子と女の子, どっちがいいですか? 」彩夏が, 甘えるように久史に尋ねた.

久史は苦笑しながら, 「どっちでもいいさ. 君と僕の子なら, きっと可愛い. 」と答えた. 彼の声は, 柔らかく, まるで子守唄のようだった.

その言葉を聞いた瞬間, 私の目から涙が溢れ出した. 声を出さないように, 口元を強く押さえる. 心臓が, まるでガラスのように砕け散る音を聞いた気がした. もう, これ以上見ていられなかった.

私はその場を離れ, 病院の廊下を足早に去った. 足元の激しい痛みが, 私の心を蝕む痛みと混ざり合う. 家に帰り着く頃には, 体中の力が抜け落ち, 私は床に崩れ落ちた. 胸元が引き裂かれるような痛みと, 息苦しさが私を襲う.

久史との出会いを思い出す. 私たちは7年間, 夫婦だった. その間, 私は彼の隣で, 彼の夢を支え, 彼の成功を共に喜んできた. 私が不妊治療で苦しんでいる時も, 彼はいつも優しく寄り添ってくれた.

「君が辛いなら, 無理しなくていい. 二人だけでも十分幸せだ. 」彼はそう言って, 私の手を握りしめてくれた. あの時の彼の言葉は, 私にとってどれほどの救いだっただろう. 私は実家との縁が薄く, 彼こそが私の世界全てだった. 彼が私を愛してくれるのなら, 他に何もいらない. そう信じていた.

彼が建築家として成功し始めた頃, 仕事の忙しさから不妊治療に付き添えない日が増えた. それでも, 彼は夜遅く帰ってきては, 私の体を気遣い, マッサージをしてくれた. 「僕が支えられなくてごめん」と, 彼はいつも私を抱きしめてくれた. あの時の彼の優しさは, 全て罪悪感からくるものだったのだろうか.

彼に愛されていると信じていた. 私たちの間に子供ができなかったのは, 私の体質の問題だと思い込んでいた. 彼が私を愛してくれているから, 彼は不妊治療の責任を「自分にもある」と言って, 私の両親と口論してまで私を庇ってくれた. あの時の彼の優しさは, 偽りではなかったはずだ.

しかし, 今日の出来事が, 私の過去の全てを塗り替えてしまった. 彼の優しさは, もはや私だけのものではなかった. あの笑顔も, あの眼差しも, あの気遣いも, 全てが, もう一人の女性に向けられていたのだ. 彼の愛は, 私のためだけのものではなかった.

私は, 彼の優しさが, 彼自身の罪悪感を和らげるためのものだったと悟った. 私は愚かだった. あまりにも無邪気だった. そして, あまりにも彼に依存しすぎていた.

夜遅く, 玄関のドアが開く音がした. 久史が帰ってきたのだ. 彼の足音は重く, 疲労と憔悴が滲み出ていた. 彼はリビングに入ってくると, 床に座り込む私を見つけ, その場で立ち尽くした.

「彩音... 」彼の声は, 掠れて震えていた. 彼はゆっくりと私の前まで歩み寄ると, 膝から崩れ落ち, 私の膝に顔を埋めた. 彼の体から, 酒と香水の匂いがした.

吐き気がした. しかし, 私は動かなかった. 心の中で, 私は自分に言い聞かせた. 「ここで心を許してはいけない. もう, 彼に心を奪われてはいけない. 」

「彩夏さんって, 誰? 」私の声は, 驚くほど冷静だった.

久史の体が, 私の膝の上で硬直した. 彼は数秒間, 何も言えなかった. その沈黙が, 私にとっては答えだった.

「僕の... 新しく入ったアシスタントだ. 」彼はようやく口を開いた. 「一度, 事務所で会ったことがあるだろう? 」

私は脳裏に, 数ヶ月前の出来事を思い出した. 新しいインターンとして紹介された, 若くて陽気な女性. その時, 彼女が久史を見つめる視線が, なんだか異常に熱いと感じたのを覚えている. 私はその違和感を, すぐに忘れてしまっていた.

「そういえば, あの時, 久史さんが『佐野っていう新人, なんだかやる気が空回りしてて困るんだ』って愚痴を言ってたわね. 」私は皮肉を込めて言った. 「でも, すぐに彼女のSNSをフォローして, 日々の投稿に『いいね』を押していたわ. 」

久史が, 一瞬, びくりと肩を震わせた.

「ああ, そうだったな. 」彼はバツが悪そうに答えた. 「君は『若くて可愛い子じゃない, お目が高いわね』って冗談を言ってたのに, 僕は『まさか, そんなわけないだろう』って誤魔化して. それから, あなたは彼女の話をしなくなったから, 私はてっきり彼女がクビになったのかと思っていたわ. 」

私の声は, 次第に冷たく, 重くなっていった. 「一体いつからなの? この関係は. 」

久史は顔を上げ, 私の目を見つめた. 「違うんだ, 彩音. 本当に, 一度だけの過ちだったんだ. 僕も酔っていて, つい... . 彼女も, まさか妊娠するなんて思っていなかったんだ. 僕も, すぐに堕胎するように言ったんだが, 彼女は... 」

彼は言葉を詰まらせた. その言葉に, 私は全てを悟った. 彼のこれまでの優しい言葉, 熱心な不妊治療への協力, 全てが, 彼自身の罪悪感を隠すためのものだったのだ. 彼が私に尽くせば尽くすほど, 彼の心の中で, 彩夏への罪悪感と責任感が膨らんでいったのだ.

「堕胎できないって, 言われたのね. 」私の声は, もはや感情を失っていた.

久史は, ゆっくりと, そして絶望的に頷いた. その頷きは, 私の心に, 雷鳴のような衝撃を与えた.

3

私は生理的な嫌悪感に襲われ, 久史の膝から顔を上げて洗面所へと駆け込んだ. 胃の中のものが全て逆流してくるような感覚. 便器に顔を近づけ, 何度もえずいた.

久史が私の後を追って洗面所に入ってきた. 彼は私の背中に手を伸ばそうとしたが, 私はその手を強く払いのけた. 彼の顔を睨みつける. その目には, 憎しみと軽蔑が宿っていた.

あの時の彼の言葉が, 耳の奥で反響する. 「君が辛いなら, 無理しなくていい. 」「僕が支えられなくてごめん. 」「僕には君しかいない. 」その言葉の全てが, 今では私の心を切り裂く刃のようだった. 彼が私を気遣うふりをしていた間, 私たちの寝室で, 彼は別の女を抱いていたのだ. 私たちの思い出の全てが, 彼の嘘によって汚されてしまった.

彼の顔に, 恐怖と呆然とした感情が浮かんでいるのが分かった. しかし, 私はもう彼に同情する資格も, 彼の表情を読み解く気力もなかった.

私は洗面所を飛び出し, 寝室へと向かった. 私たちの, いや, 彼と彩夏の思い出の場所になってしまった寝室. 私はクローゼットの奥から, ずっと使っていなかったガーデニング用のハサミを取り出した.

「彩音! 何を... 」久史が私の後を追って寝室に入ってきた.

私は何も答えなかった. ただ, ハサミを振り上げ, 枕カバーを切り裂いた. 中から白い羽毛が舞い上がり, 部屋中に飛び散る. 私は次に, ベッドカバーを切り裂き, カーテンを切り裂き, そして彼のスーツを切り裂いた.

羽毛が舞い, 布が破れる音だけが部屋に響く. 白い羽毛が, まるで雪のように部屋中に積もっていく. しかし, いくら破壊しても, 私の心の怒りは収まらなかった.

「やめろ, 彩音! 」久史が私の腕を掴んだ. 彼は私からハサミを奪い取ろうとしたが, 私は強く抵抗した. その拍子に, ハサミの刃が久史の手に食い込み, 鮮血が白い羽毛の上に飛び散った.

白い羽毛と赤い血. その鮮やかなコントラストが, 私の目に焼き付いた. 私はハサミを床に落とし, 自分の手についた久史の血を見つめた. その瞬間, 私の頭の中が, 嘘のようにクリアになった.

目の前には, 私と久史の結婚写真が飾られていた. 満面の笑みを浮かべた二人の姿.

「離婚しましょう. 」私の声は, 驚くほど冷静で, 感情のこもっていないものだった.

久史は, その言葉に目を見開いた. 血の滲んだ手で, 彼は私を力強く抱きしめた.

「嫌だ! 離婚なんてしない! 彩音, お願いだ, 許してくれ! 彼女とはもう二度と会わない. もう関係を断ち切るから! 以前のように, 二人でやり直そう. 僕には君しかいないんだ! 」

彼は私の背中に顔を埋め, 子供のように泣きじゃくった. 「君がいないと, 僕は生きていけないんだ... ! 」

私は, 冷めた目で彼の震える背中を見つめていた. 彼の言葉は, 嘘ではないのかもしれない. しかし, もう, 何もかもが遅すぎた. あの時の久史は, もうどこにもいなかった. 私の中にあった, 彼への信頼も, 愛も, 全てが死んでしまった. あの頃の私たちには, もう二度と戻れない.

その後数日間, 私たちは奇妙な膠着状態に陥った. 久史は私に対して, 今まで以上に優しく, 気遣うようになった. 私が何かに怒りをぶつけても, 彼はただ微笑んでそれを受け入れた. しかし, 彼のその優しさは, 私にとっては偽りの仮面でしかなかった. 離婚の話を持ち出すと, 彼はすぐに話題を変えたり, 遠回しに「君は僕から離れられないだろう」というような態度を見せたりした.

彼の携帯電話は, 一日に何度も鳴った. 全て, 彩夏からの着信だった. 彼は私の前では決して電話に出ず, 「もう連絡は取らない」と言い張った. しかし, 私は知っていた. 毎晩, 私が寝た後, 彼はリビングでこっそりと電話をかけ, 彩夏を優しい声でなだめていることを.

ある日の夜, 彼の携帯が鳴った時, 私はリビングで彼を見つめて言った. 「出たらどう? 彩夏さんからの電話でしょう? 」

久史は一瞬, 焦ったような顔を見せたが, すぐに表情を取り繕った. 「何でもない. 君の体調の方が大事だ. 」

その時, 私の携帯が鳴り響いた. 画面には「知らない番号」と表示されていた. 久史の顔色が変わる. 彼は私から携帯を奪い取ろうとしたが, 私は彼の手をかわし, 電話に出た. そして, スピーカーフォンにした.

「もしもし? 」私の声が, リビングに響き渡る.

電話の向こうから, 女の嗚咽が聞こえてきた. 彩夏だ.

「彩音さん! お願いです! 久史さんを, 久史さんを返してください! 赤ちゃんが, 赤ちゃんが苦しがってるんです! 」彩夏の叫び声が, リビングに響き渡った.

久史の顔が, 恐怖で引き攣った. 彼は私を, まるで怪物を見るかのような目で見つめた. 私は, ただ冷たい視線で彼を見つめ返した. 私の心には, もはや憎しみさえもなかった. ただ, 深い悲しみが沈殿しているだけだった.

「わかったわ. 会って話しましょう. 」私は電話に向かってそう告げた.

久史の目が, 驚きと戸惑いで大きく見開かれた.

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不妊治療の果て、裏切りの産婦人科

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