話 1
10年間, 恋人である海斗の夢を支えるため, 私は自分の全てを犠牲にしてきた. 記念日と彼の重要な契約が重なったその日, 私はホテルのロビーで3時間も彼を待ち続けていた.
やっと繋がった電話で告げられたのは, 「別の女がパニック発作を起こした」という身勝手なドタキャン. しかしSNSには, その女と高級スパでくつろぐ彼の姿が投稿されていた.
さらに, 私が彼の為に考案し「古臭い」と一蹴された和菓子が, その女の「オリジナルスイーツ」として世に出ていた. 私の魂は, 彼らにとって都合のいい道具でしかなかったのだ.
私がパンアレルギーであることすら知らない彼. それなのに, 女の仮病にはどこまでも優しい. 私の10年間は, 一体何だったのだろう.
翌朝, 彼が女の元へ駆けつけるのを見送った後, 私は荷物をまとめた. スマホのSIMカードを折り, 彼との過去をゴミ箱に捨てる. これは, 私を失った彼への, 静かな復讐の始まりだ.
第1章
桜田莉穂 POV:
彼の声が電話越しに聞こえた瞬間, 10年間の努力と犠牲が, 音もなく崩れ去るのを感じた.
午後3時.
私はホテルのロビーで, もう3時間も座っていた.
記念日のデートの約束.
そして, 彼がずっと夢見ていた事業提携の契約日.
私の心臓は, 期待と不安で不規則なリズムを刻んでいた.
また, 電話をかけた.
繋がらない.
メッセージを送る.
未読のまま.
もう何回目だろう.
きっと, 20回は超えている.
指が震える.
もう諦めようかと思った, その時だった.
画面に「海斗」の文字が光った.
心臓が跳ね上がった.
「もしもし, 海斗? 」
私の声は, 思ったよりも震えていた.
「莉穂, 何なんだ, こんな時に」
彼から返ってきたのは, 苛立ちに満ちた声だった.
まるで私が, 彼の大事な時間を邪魔したかのように.
「何って…今日の契約のことよ. もう3時間も待ってる」
私は必死に, 平静を装った.
彼はため息をついた.
その音は, 私にとっての10年間の重みを知らない.
「だから, 今日は無理だって言ったろ. 結乃がまたパニック発作を起こして…」
結乃.
その名前を聞くたびに, 私の心は冷たくなる.
私の恋人が, 他の女の看病を理由に, 私との大切な約束を破る.
これって, 何度目だろう.
数えきれない.
「莉穂, わかってくれよ. 彼女は俺が必要なんだ」
彼の声には, 私には向けられることのなかった切羽詰まった響きがあった.
「でも, 今日の契約は…」
私の言葉は途中で遮られた.
「延期だ. それより, お前は少し感情的になりすぎだ. いつもそうやって俺を責める」
彼はそう言って, 電話を切った.
一方的に.
いつもそうだ.
彼の電話を切った音は, 私にとっての絶望の合図だった.
10年.
長い歳月を, 私は彼のために生きてきた.
彼の夢を私の夢とし, 彼の成功を支えることが, 私の喜びだった.
パリでのブランド出店.
和菓子職人としての私の夢は, いつも彼の「古い」という言葉で後回しにされてきた.
「今は俺のビジネスが最優先だろ? 」
彼の言葉は, 常に私を縛り付けた.
彼が, 私のパニック発作を理由に, 私を置いていったのは, これで3回目だ.
いや, もっとあったかもしれない.
私は, 彼にとって何だったのだろう.
都合の良い女?
それとも, ただの古い道具?
メッセージの着信音が鳴った.
彼からだった.
「今夜, 埋め合わせをする. 食事に行こう」
そのメッセージは, まるで, 私が彼の時間をお金で買っているかのように感じさせた.
もう, いらない.
私はスマホをテーブルに置いた.
テーブルの上の小さな水の波紋が, 私の心の中の荒波を映し出しているようだった.
もう, この波に揺られるのはごめんだ.
私は, 立ち上がる.
彼がくれた, この不透明な関係から.
この, 私を窒息させるような空間から.
私はもう, 彼の補佐役でもなければ, 彼の都合の良い恋人でもない.
私は, 私だ.
桜田莉穂だ.
彼が私を失った時, きっと彼は狂ったように私を探すだろう.
そして, 悔やむだろう.
でも.
もう, 私は振り返らない.
決して.
話 2
桜田莉穂 POV:
電話が繋がったのは, その日の夕方だった.
私の知らない番号からだ.
「もしもし」
出ると, 聞き覚えのある甘ったるい声がした.
小沼結乃だった.
「莉穂さん, ごめんなさい. 海斗さん, 私がパニック発作を起こしちゃったから, どうしても離れられなくて…」
彼女の声は震えていた.
でも, その震えの中に, 微かな高揚感が混じっているように感じた.
私の被害妄想だろうか.
「大丈夫よ」
私は, 自分でも驚くほど冷静に答えた.
もう, 感情の揺らぎさえ感じない.
「海斗さん, 本当に心配してくれて…私, こんなに愛されてるんだなって…」
彼女の言葉は, 私への遠回しの挑発だった.
私の心臓が, まるでガラスのように, ひび割れていくのが分かった.
「あのね, 莉穂さん. 私たち, いつかきっと, ちゃんと話せる時が来るから. その時は, 海斗さんも交えて, 仲直りしましょうね」
いつか.
その「いつか」は, きっと永遠に来ない.
私は, その言葉に何も返さなかった.
ただ, 彼女の背後から聞こえる, 高そうなスパの心地よい音楽と, 海斗の笑い声に耳を澄ませた.
ああ, やはり.
パニック発作, ね.
「莉穂, お前, 何を言ってるんだ? そんなに怒ってんのか? 」
突如, 海斗の声が電話口に響いた.
結乃から電話を奪ったのだろう.
彼は, 私が結乃の言葉に傷ついていることを知ってか知らずか, 私を責める言葉を続けた.
「お前は本当に優しいから, 結乃の言葉にまた傷ついたんだろ. お前は少し, 純粋すぎるんだよ」
彼の言葉は, 私を褒めているようで, 実は私を子供扱いしているようだった.
そして, 彼の言葉は続いた.
「結乃は本当に体が弱いんだ. お前みたいに丈夫じゃない」
彼の「お前みたいに丈夫じゃない」という言葉が, 私の耳に刺さった.
私は, 彼が以前, 私の体調が悪い時に言った言葉を思い出す.
「少し休めば治るだろ. 大袈裟だな」
あの時の彼は, 私に冷たかったのに.
結乃には, こんなにも優しい.
「今日の契約のことだけど, また後日, 改めて設定するから. 落ち着いてくれ」
彼はそう言って, 私がまだ怒っていると決めつけていた.
私が本当に怒っているのは, 契約が延期になったことじゃない.
彼が, 私に対して嘘をつき, 私を蔑ろにしたことだ.
もう, 彼の意図がはっきりと理解できた.
彼は, 私を軽んじ, 結乃を選んだのだ.
これは, 彼の間違いではない.
彼の選択だ.
そして, 私には, その選択を受け入れる準備ができている.
私は, 彼の言葉に何も返さなかった.
ただ, 静かに, 通話を終了するボタンを押した.
「莉穂? おい, 莉穂! 」
彼は, 私が冷静であることに驚いたのだろうか.
再び電話をかけてきた.
彼の声は, 先ほどよりも柔らかくなっていた.
「本当にごめん. 俺が悪かった. でも, お前も分かってるだろ, 俺にはお前が必要なんだ」
彼はそう言って, また, 私を甘い言葉で釣ろうとした.
私は, 黙って電話を切った.
視線を上げた先にあるのは, リビングと寝室を隔てる, すりガラスの引き戸だった.
まるで, 私たちの関係そのもののように, お互いの存在は感じられるのに, はっきりと見通すことはできない.
私は, 左手の薬指にはめていた, 彼との記念の指輪に目を落とす.
もう, この指輪は必要ない.
私は, 指輪をそっと引き抜き, 台所のゴミ箱に, 音もなく捨てた.