話 1
大学のキャンパス、体育館の中。
青いユニフォームを着た青年が体育館の入口に姿を現した。
青年は片手に麻袋を提げ、もう一方の手に軍手をはめ、腰を屈めてペットボトルを拾い上げ、麻袋に放り込んだ
「毎日バスケの試合があればいいのに。このボトルがあれば、さらに1000円は稼げる。そうすれば月末には、瑛美への誕生日プレゼントにスマホ買えるな」
成宮浩輔は興奮した面持ちで顔を上げ、フロアに散らばるペットボトルに視線を走らせた。
その時、ロッカールームから体格のいい男子学生の一団が現れ、それぞれがユニフォームや汗臭い靴下の詰まった大きな桶を抱え、浩輔の方へ歩いてきた。
「成宮、バスケ部全員のユニフォームだ。一桶200円で洗濯してこい」
先頭に立つ赤髪の男が煙草を咥え、足元に桶を放り投げた。
「同じバスケ部の一年だろ。この俺、広岡大河が気を使ってやってんだ。ほらよ」
大河が合図すると、他の者たちも汗の匂いが染みついたユニフォームや靴下を次々と床に投げ捨てた。
「お前がもっと稼げるように、わざわざチームの連中に一週間分溜めさせといたんだぜ。嗅いでみろよ、いい匂いだろ」
大河は汚れた靴下を一足つまみ上げ、浩輔に向かって投げつけた。
浩輔が避ける間もなく、靴下は彼の顔面に直撃し、鼻をつく酸っぱい悪臭が広がった。
「てめぇ……」
罵声を上げかけた浩輔だったが、ぐっと歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
彼にとって、どんな収入も貴重であり、この機会を逃すわけにはいかなかった。
彼は裕福な家の息子ではなく、貧しい家庭に育った大学生なのだ。
コネも専門技術もない彼は、週末にアルバイトをする以外、学内で他の学生の洗濯やレポート代行を引き受けて収入を得るしかなかった。
そうして少しずつ、大学の学費と生活費を工面してきたのである。
これからも大河たちを頼りに生活費を稼がなければならない。浩輔は心の内で怒りと屈辱を押し殺し、顔から靴下を剥ぎ取って桶に放り込んだ。そして深く息を吸い込むと、広岡に手を差し出して言った。「全部で1000円だ」
大河は財布から千円札とコインを取り出して地面に投げ捨て、軽蔑的な笑みを浮かべた。「ほらよ。これは千百円だ。残りの百円は駄賃だ。ついでに校門で荷物を受け取って、キャプテンの桐生文哉に届けてくれ」
そう言うと、大河はバスケ部の連中を引き連れ、笑いながら去っていった。
浩輔は無表情で金を拾い上げ、拳を握りしめてため息をついた。
(広岡たちはむかつく連中だが、金が稼げるなら、これくらいどうってことない)
彼は手際よく麻袋を担ぐと、大学の外にある廃品回収所へ向かった。ボトルを売り払うと、その足で休む間もなく校門へ走り、 バスケ部のキャプテンである桐生文哉宛ての荷物を受け取って体育館へと届けに向かった。
道中、浩輔は今日稼いだ金を注意深く数え、満足感に浸っていた。先ほどの不快な出来事も、すっかり薄れていた。
もうすぐ恋人へのプレゼント代が貯まる。そう思うと、浩輔は自然と鼻歌を口ずさみ、足取りも軽くなった。
だが、ロッカールームの前に着いた途端、中から女性の喘ぎ声が聞こえ、ドアをノックしようとした浩輔の手が宙で止まった。
(この声、 どこかで聞いたことがある……!?)
ロッカールームから漏れ聞こえる声は大胆で、聞いているだけで顔が赤くなるほどだったが、聞けば聞くほど、浩輔の胸騒ぎは大きくなっていった。
その声は、最近付き合い始めたばかりの彼女、永井瑛美の声に酷似していたのだ。
「桐生さん、左、すごく気持ちいい……右もお願い」
「焦るなって、瑛美ちゃん。今日はセクシーなランジェリーを買ってきたんだ。後でそれを着てもらったら、もっと盛り上がるぜ」
再び声が聞こえた。今度は、先ほどよりもずっとはっきりと。
瑛美ちゃん? 永井瑛美!?
カッと頭に血が上り、浩輔はロッカールームのドアを蹴破った。
目に飛び込んできたのは、生涯忘れることのできない光景だった。
話 2
更衣室。
そこには、グラマラスな恋人、瑛美が、顔を上気させ火照った体で文哉に寄りかかる姿があった。文哉の手は、大胆にも彼女の胸をまさぐっている。
「てめえら!」
浩輔の呼吸が、一気に荒くなった。胸を刺すような痛みと屈辱感が、心を蹂躙する。
情欲に溺れていた二人は、不意に響いた声にはっと我に返り、一斉に入口へと振り返った。
そこにいたのが浩輔だと気づくと、瑛美は一瞬慌てたような顔を見せた。「浩輔、どうしてここにいるの!」
「それはこっちのセリフだ。午後は親友と買い物に行くんじゃなかったのか? なんでこんな所にいるんだ!?」
浩輔は目を真っ赤にして怒鳴った。
瑛美の誕生日プレゼントに新しいスマートフォンを買うため、必死に食費を切り詰め、毎晩12時までバイトに明け暮れていた。その結果が、この裏切りだというのか。到底受け入れられるものではなかった。
瑛美は落ち着きを取り戻すと、恥じるどころか、嘲るように言った。「もうバレたなら隠さないわ。あんたみたいな貧乏人と、本気で付き合いたいとでも思った? 友達との賭けだったのよ。まさか本気にするなんてね!」
「俺は本気だったなのに」浩輔は信じられないといった表情で言った。
「本気だなんて、それが何になるの?それでご飯が食べられるわけ?あんたにスマホを一台ねだっただけで、一ヶ月も待てって言うじゃない。言っておくけど、桐生さんはとっくに最新のヴィトンのバッグもiPhone13も買ってくれたわ」
瑛美は言えば言うほど強気になり、その瞳には侮蔑の色が濃くなっていく。
文哉は千円札を一枚、浩輔の足元に投げ捨てて嘲笑した。「成宮浩輔、お前みたいな貧乏人が、瑛美のベッドに這い上がれるとでも思ったか。その千円で、外で安物の女でも抱いてこいよ」
「桐生文哉、てめえ……!」
目が血走り、もはや我慢の限界を超えた浩輔は、狂った雄牛のように文哉に突進した。
「逆らう気か。身の程知らずが!」文哉は冷たく鼻を鳴らすと、拳一つで浩輔を殴り倒した。
バスケットボール部のキャプテンである彼は身長190センチで、全身が筋肉の塊だ。浩輔も180センチと低くはないが、その屈強な肉体の前ではひよこ同然だった。
床に叩きつけられ、頬に激痛が走る。浩輔が起き上がろうとした、その時。
文哉は、容赦なくその顔を踏みつけた。「この底辺野郎が、俺に手を出そうなんて百年早いんだよ!踏み潰してやる!」
文哉は何度も、何度も顔を踏みつけた。
浩輔の顔はすでに靴跡だらけだったが、それでも怒りの雄叫びを上げ、もがきながら立ち上がろうとする。
文哉は浩輔の背中にどっかりと腰を下ろすと、椅子に置いてあった彼のリュックをひったくり、中から黒のサインペンを取り出した。
そして、浩輔の服の背中に「貧乏人」と書きなぐった。
すべてを終えると、文哉は床に這いつくばる浩輔に唾を吐きかけ、言い放った。「このクズが、よく覚えとけ。次逆らったら、見つけ次第叩きのめしてやるからな!」
そう言って、満足げに瑛美の手を引いて立ち去った。
浩輔が痛みに耐えながら寮に戻ると、汚れた彼の姿を見て、周りの学生たちが指をさしてひそひそと噂した。
心は、瑛美によってずたずたに引き裂かれていた。最も愛した人間にここまでされて、他人の嘲笑などどうでもよかった。彼の心は、完全に死んでいた。
浩輔は汚れた服を脱ぎ、背中の「貧乏人」という文字を洗い流す。
脳裏に、先ほどの光景が何度も蘇る。広岡大河の辛辣な言葉、桐生文哉の陵辱、そして永井瑛美の無情さ。
(どうりで、あの時手さえ繋がせてくれなかったわけだ……。恋人同士の、当たり前のハグすら拒んで。結局、俺が貧乏だから嫌っていただけだったのか)
込み上げる憤りと悲しみに、浩輔は無意識に拳を固く握りしめていた。
話 3
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
ふと、ルームメイトがベッドの下に置いている数本のビールが目に入った。浩輔はそれを掴むと、栓を開け、グラスも使わずに呷り始めた。
一本、また一本と飲み干し、頭が朦朧としてくる。普段、感情を抑えつけていた理性が徐々に失われていくと、ついに彼は堪えきれなくなり、床に座り込んで涙を流し、嗚咽した。
「納得できるか、貧乏人が虐げられて当然だって言うのか!?」
「金、金、金……いつか見てろよ、永井瑛美!必ず後悔させてやる!」
浩輔は目を真っ赤にし、心の鬱憤と怒りをぶつけるように叫び続けた。
叫び疲れると、どっと疲労が押し寄せる。浩輔の意識はますます混濁していった。
突然、スマートフォンの着信音が鳴り響く。
浩輔は無意識にそれを取り、通話ボタンを押した。
「浩輔、もうすぐお前の十九歳の誕生日だな。父さんもこれ以上は隠しておけん。実は、うちはものすごい金持ちなんだ。 ただ、一族の決まりで十九歳までは質素に育てることになっていてな、それで真相を伝えられなかったんだ。 うちの事業は世界中に広がっていて、アフリカに金鉱があるだけじゃなく、中東にも油田が持っている」
電話の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてくる。
浩輔は自嘲気味に笑った。「親父、まだ寝ぼけてるのか?相変わらず大富豪になる夢でも見てるんだろ。昔からアメリカでヘリコプターを買っただの、ベネチアでクルーザーを買っただのって自慢してたけど、こっちは今、学費すら自分で稼がなきゃならない状況なんだぜ。滑稽だと思わないか!?」
電話の向こうの声は一瞬途切れ、ため息をついた。「浩輔、すぐには信じられないのも無理はない。昔、お前のじいちゃんが同じことを言った時、俺も耄碌したのかと罵ったもんだ。 だが、うちは本当に、とんでもない金持ちなんだ。とりあえず小遣いとして20億ほど送っておく」
浩輔は最初、相手の声が父親によく似ていると感じ、懐かしささえ覚えていたが、聞けば聞くほど、何かがおかしい。
スマートフォンの画面をよく見ると、海外からの見知らぬ番号だった。
(クソっ、これ、詐欺の電話じゃねえか!)
「詐欺師のクソ野郎、消え失せろ!」
浩輔は酔いに任せて怒鳴りつけ、荒々しく通話を切った。
今の一喝で、心に残っていたすべての無念と苦痛を吐き出し、体力も気力も使い果たしてしまった。
浩輔は目を閉じ、ベッドの足元に寄りかかったまま眠りに落ちた。
翌朝、浩輔はズキズキと痛む頭を抱えながら目を覚ました。
昨夜、奇妙な夢を見た。父親から電話がかかってきて、自分が御曹司だと言われる夢だ。
「俺もいよいよ貧乏で頭がおかしくなったか。三代続くド貧乏のくせに、金持ちになる夢を見るなんてな」
浩輔は自嘲の笑みを浮かべた。その目には、やりきれない苦さが滲んでいた。スマートフォンを手に取ると、未読のショートメッセージが一件あることに気づいた。
【お客様の口座(末尾666)の 預金残高は2,000,000,071円……】
20億円だと!?
浩輔は信じられない思いで目を大きく見開いた。もう一度、桁を数え直してみる。見間違いではない。銀行口座に、本当に20億円以上もの大金が振り込まれていた。
寮の部屋で、浩輔はネットバンキングにログインし、口座の残高を確認した。
「マジか、マジかマジか……夢じゃないのか? 俺は本当に御曹司だったんだ!」
そう思うと、浩輔は慌ててあの見知らぬ番号に電話をかけ直した。
「親父?」浩輔はおそるおそる呼びかけた。
「ああ、息子よ。酔いは覚めたか。昨日の電話はどうも様子がおかしいと思ったんだ。まあいい。これから中東へ行って新しい油井の採掘作業を視察してくるから、また着いたら話そう」
電話の向こうから、間違いなく父親の声が聞こえた。
二十年以上も共に過ごしてきたのだ。酔いが覚めた今、それが本物の父親であると確信できた。
「親父、冗談だろ!?言ってみろよ、この20億、どうやって手に入れたんだ?」 浩輔は頭が真っ白になり、この事実を到底受け入れられずにいた。