話 2
友子の意識は現実に引き戻された。目の前にいるのは彼女の夫、伊藤友征だった。
その男はいつも通り、尊大な態度を崩さない。彼の目に映る彼女への視線には、冷淡さと退屈さしかなかった。
唯一、違和感を覚えたのは——その唇に残る、妙に艶めかしい傷跡。
誰かとキスでもしたの?そんなに激しかったわけ?
思わず、今までに感じたことのない嫌悪感が湧き上がり、柴田友子はスマホを閉じて、視線を伏せたまま淡々と言った。「別に…」
それだけ告げて、中へ入ろうとした。
だが伊藤友征が眉をひそめ、彼女の手首を強く掴んだ。「友子…その態度は何なんだ?」
彼はめったに家に戻らない——
いつもなら、彼の姿を見ただけで、跳ねるほど喜んでいたくせに。今日はなんだか元気ないな顔をしてる?
友子は、掴まれた手を振り払おうともせず、ただ静かに彼を見つめた。「私、ずっとこんな感じだったじゃない。 おとなしくて、素直で、文句も言わずに家のことを全部やって…あなたが気持ちよく働けるように、快適に過ごせるように、何から何まで支えてきた」
そこまで言って、彼女はふと口を閉ざした。そして唇の端をわずかに持ち上げ、皮肉げに微笑む。「あなた、こういう私が一番好きだったでしょ。外で思う存分、愛人と燃え上がるには都合がいいものね」
伊藤友征の目が、ふっと陰を落とした。
——こんなこと、隠せるはずもない。そもそも、隠す気もなかったのだろう。彼は手を離し、低い声で言った。「今日は…その話をしに帰ってきたんだ」
柴田友子は、彼に掴まれていた手首をそっとさすった。
それは未練などではない。ただ、汚れた何かを拭い取るような仕草だった。
「彼女との関係、そろそろ公にするつもり?」
その一言で、伊藤友征の表情が一気に険しくなった。「…彼女のこと、調べたのか?」
思わず漏れた焦り混じりの声。その様子があまりに滑稽で、柴田友子はふっと笑みをこぼした。「調べる必要なんてある? 昨夜、あなたが2億も出して彼女を喜ばせたって話…誰だって分かるわ」
伊藤友征は、黙って彼女を見つめた。
この女の声は、相変わらず静かで淡々としている。まるで他人事のように、感情の波一つない——いつもと、何も変わらない。
だが、伊藤友征の胸の奥に、なぜか鋭く突き刺さるものがあった。
真っ白な肌に、どこか乱れた美しさが滲んでいる。けれど——琉璃のように澄んだその瞳には、一片の感情も浮かんでいない。
いつもなら、自分しか映っていなかったはずの瞳なのに。
その微かな苛立ちを無理やり押し込め、彼はさらに酷な言葉を投げつけた。「…彼女、妊娠してる。不安定な時期なんだ。ちょっとしたプレゼントで、機嫌を取ってただけさ」
その瞬間、柴田友子の拳が、反射的にぎゅっと握り締められた。
——妊娠?
じゃあ……この2年間、彼女が夜ごとに待ち続けたあの暗い時間を、伊藤友征は、他の女とベッドで汗だくになってたというわけか
友子の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。その様子を見て、伊藤友征はようやく満足げに口元を歪めた。「俺が君を抱かなかったのは、そうしたくなかったんじゃない。君が退屈すぎるだけだ。誰が水みたいな女を好むっていうんだぜ」
その一言は、心の奥を容赦なく突き刺した。
——彼女は、夫婦の営みを拒んだことなど一度もなかった。ただ、自分から誘わなかっただけ。それが、そんなにも罪だったの?色気が足りないというだけで、こんな仕打ちを受けるほどに。
柴田友子は静かにうなずいた。
「ちょうどいいわ。離婚しましょう。彼女にも正式な立場を与えられるじゃない」
その「離婚」の二文字に、伊藤友征のまぶたがぴくりと動いた。
彼は冷たく笑った。「またその手か?駆け引きのつもり? この二年、君が俺に気に入られたくて、どれだけ子どもじみた手を使ってきたか…君が飽きなくても、俺はとっくにうんざりだよ」
話すほどに、彼の声には軽蔑がにじんでくる。「そんなに俺のこと好きだったくせに、本当に離れられるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、柴田友子は思わず吹き出した。
…惜しい?離れられない?
彼が起業に失敗し、人生のどん底に落ちたあの頃――差し伸べたのは、彼女だった。貯金をすべて差し出し、一緒に苦境を乗り越えた。
その恩返しとして、彼は結婚という形を選んだ。
結婚してからの二年間、彼女は一言の不満も漏らさず、黙々と彼を支え続けた。表に立たせ、後ろから支える役を買って出て、ついには彼が嵐半市にしっかりと根を張り、頭角を現すまでに至った。
けれど彼女が最後に手にしたのは――他の女を妊娠させたという、残酷な現実だった。
本気の想いを踏みにじられて泥にされた今、それでもまだ愛し続けるなんて――それは、ただの愚かさだ。
柴田友子は淡々と言った。「離婚届、あなたが用意して。条件は何でも飲むわ」
そう言い残し、彼女は迷いなく扉を押して中へと入っていった。
伊藤友征はその背中を見つめながら、怒りのあまり笑い声を漏らした。
…続けろ
せいぜいどこまで続けられるか見ものだな。
……
伊藤友征は勢いよくドアを叩きつけて出ていくと、その足で情人・新鹿花月の元を訪ねた。
「そんなにうまくいったの?」彼が離婚すると聞いて、新鹿花月は思わず鼻で笑った。「あなたが言ってたほど、彼女って手強くないんじゃない?」
伊藤友征は新鹿花月を腕に抱き寄せながら、冷笑を浮かべた。「友子は相当な策士だ。口では離婚に同意したけど、本気かどうか…まだ俺を弄んでるだけかもしれない」
新鹿花月は彼の膝に腰を下ろし、甘えるようにその首に腕を回した。艶やかな眼差しで見上げながら、囁くように言った。「大丈夫よ、友征。たとえ彼女が今さら気が変わったって…もう遅いわ」
伊藤友征は、その言葉にわずかに眉をひそめた。「…どういう意味だ?」
話 3
新鹿花月の目に、かすかな陰りが射した。
あのことを口にするほど愚かではない。だから、彼女は適当に言い訳をこしらえてごまかした。「結婚してからの2年間、彼女は名前を伏せて家庭に入ってた。あんたとは差がつきすぎたのよ。もしあんたがもっと強引な手を打ってたら、彼女に反論する余地なんてなかったんじゃない?」
伊藤友征は唇をきゅっと結んだ。
あの2年間、柴田友子は確かに彼に多くの助力を惜しまなかった。心を込めて、身を削るようにして彼を愛していた。
だが──単なる愛だけでは、何の意味ないんだ
彼は這いあげて、ここまでたどり着いて
ようやく手に入れた今の地位を、どうにか守り抜くには、権力者の後ろ盾が必要だった。
新鹿家のお嬢様という肩書きは、柴田友子の愛なんかより、はるかに価値があった。
そんなことを考えていると、艶やかな紅い唇がふいに近づいてきた。「友征、やっと地獄から抜け出せたわね。お祝い、しない?」
伊藤友征は伏し目がちに彼女を見下ろしながら、なぜか脳裏に柴田友子の冷ややかな顔がよぎった。
──家を出てから、もうこんなに時間が経っているのに。彼女は一度も、帰ってこいと電話を寄越してこない。
以前なら、彼がほんの少し様子を違えただけで、彼女はすぐに取り乱していたのに──
胸の奥に、言いようのない苛立ちが込み上げる。彼は思わず彼女を突き放した。「君、今は妊娠中だろ。もう少し自重しろ」
新鹿花月は、どこまでも抜け目のない女だった。
彼の気がどこか上の空なのを、新鹿花月はあっさり見抜いた。「どうしたの、友征。まさか…離婚したくない?」
彼はすぐさま否定する。「まさか、そんなわけないだろ」
「でも、なんだか顔が晴れないじゃない」
伊藤友征は、彼女をなだめるように言った。「親父の病状が悪化して、もう長くないかもしれない。久野斯年が急いで帰国したんだ。たぶん家の継承の件で動いてる。どう対処するか、俺も今考えてるところだ」
新鹿花月はふと目を見張った。「久野斯年…? 伊藤家の正妻が産んだ息子ってやつ? だって、もう『伊藤』の苗字じゃないんでしょ。そんな奴に、あんたと家督を争う資格なんてある?」
伊藤友征の瞳に、薄い翳りが落ちた。
口ではそう言えても──結局のところ、自分こそが“私生児”なのだ。
この何年も、心血を注いでここまでのし上がってきたのは、伊藤家で認められるためだけじゃない。
それ以上に──同じ血を引く、あの異母兄・久野斯年を押さえつけたかった。
どうあっても──彼は勝たなければならなかった。
一方その頃、友子はぐっすり眠ったまま、気づけば外はもうすっかり夜になっていた。目を覚ましたはずなのに、体は余計に重だるい。
夢の中、彼女は見知らぬ男に何度も何度も奪われていた。
薬のせいか、それとも──あの男の腕前があまりに巧みだったのか。
今こうして目覚めても、まだ身体の芯がふわふわしていて──柴田友子は、思わず頬を赤らめた。
友人からの電話を受けたときも、柴田友子はまだ心身ともにふわついたままだった。
電話の向こうで、咲耶衣夢がすぐに異変を察する。「ちょっと、声が妙に色っぽいんだけど?何、あのクズ男と一発ヤって水に流したってわけ?」
柴田友子は軽く咳払いしながら、たしなめるように言った。「縁起でもないこと言わないで」
咲耶衣夢は、けたけたと笑い声を上げた。
「そうだ友子、あんたの血液検査の結果、もう出たよ。検出された薬の成分、私の知り合いに渡しておいた。コネの広い人だから、もしかしたら購入者の情報がつかめるかも」
柴田友子は気を取り直して、声に力を込めた。「ありがとう、衣夢」
「本当に感謝してるなら、あのクソ男に未練タラタラになるのはやめて。離婚したんだから、これからはちゃんと仕事に集中しなさいよ」
そのまっすぐな言葉に、柴田友子の胸はじんわりと温かくなった。彼女は目を伏せ、小さく答えた。「…うん、わかってる」
よくよく思い返してみれば──自分が伊藤友征を好きだった理由のほとんどは、感謝の気持ちからだった。
特別な家庭に生まれ、周囲の期待に押し潰されそうな日々。抑圧された子ども時代、ずっとそばで支えてくれたのが彼だった。励まし、寄り添ってくれた存在。
その寄り添いから、やがて曖昧な情が芽生え──それを恋だと、彼女は勘違いしたのだ。
「愛に飢えてることにも、誰かにすがらないことにも慣れちゃったから…だから執着なんてしないの」 柴田友子はスマホを見つめながら、ぽつりと呟いた。「この2年はね、あの頃、伊藤友征がくれた優しさの、ただの返礼だったって思うことにしたの」
咲耶衣夢の脳裏に、過去の風景がちらついた。確かに――あの頃の伊藤友征は、本気で彼女を想っていた。
けれど、真心なんてものは、一瞬で色褪せる。
「友子…本当に、忘れられたんだ本当に忘れられたらいいんだけど」
柴田友子の鼻先がつんと熱くなった。彼女は慌てて目元を手で覆い、涙をこらえた。
そのときになって、ようやく気がついた。薬指が、空っぽになっている。
しばらく呆然としたあと——
指輪が、なくなっていた。
あれほど大事にしていたのに、一日と一晩が過ぎて、やっと失くしたことに気づいたのだ。
きゅっと締めつけられていた胸の奥が、ふっと力を抜いたように緩んでいく。友子は小さく呟いた。「…うん、本当に、手放せた」
……
指輪がなくなったことは、すぐに伊藤友征の耳にも入った。
彼は用事で一度戻ってきたとき、柴田友子の指がすっかり何もつけていないのに気づき、思わず尋ねた。「俺たちの結婚指輪は?」