2

電話の向こう側で、黒衣に身を包んだ男は、隙のない気品を纏っていた。

その顔立ちはまるで彫刻のように整い、深い瞳に、わずかな驚きが浮かんだ。

沈黙が続き、松浦苑実はためらいがちに口を開いた。『突然すみません。今の話は、なかったことに……』

『有効だ』 彼女の言葉を遮るような、低く静かな声が響いた。

その一言に、苑実は息をのんだ。

口にしてすぐ、少し後悔していた。

秋葉健人との婚約を解消するのは、もはや当然のこと。

だが、藤原晴樹と結婚するのは、明らかに危険だった。

暗闇の中、苑実の意識は一年前へと沈んでいった。

――あの日も、こんな静かな深夜だった。いつものように病院を出た彼女は、城西の路地裏で、血まみれで倒れている晴樹を見つけたのだ。

助けた時、苑実は彼が何者なのか知らなかった。だから、彼が礼をしたいと言った時、冗談半分で尋ねたのだ。『本当に、何でも?』と。

男が静かに頷くのを見て、つい口が滑った。『じゃあ……私をお嫁にもらってくれる?』

それは、本当にただの、口から滑り出ただけの言葉だった。まさか、晴樹が再び頷くとは思わなかった――。

当時、苑実には亡き母が決めた健人という婚約者がいた。彼女は慌てて、今の言葉は冗談だと打ち消した。

晴樹は彼女に婚約者がいると知ると、それ以上は何も言わず、ただ一言だけ告げた。『その男と結婚したくなくなったら、俺のところへ来い。約束は二年だ』

そう、約束の期限は、まだ切れていない。

電話がどのように切れたのか、苑実の記憶は曖昧だった。

耳の奥に、男のあの言葉だけが残った。『一ヶ月後だ。準備しろ』

誰と結婚するのか?

もちろん、健人ではない。

苑実は暗闇の中、ベッドに深く身を沈めた。鉛のように重い疲労感が全身を包んでいるというのに、意識ばかりが冴えてなかなか寝付けない。 ようやく微睡みかけたその時、枕元の携帯電話が鋭い通知音を立てた。

祖母が入院しているため、苑実は携帯の電源を切ることも、マナーモードにすることもできない。

不意に光った画面が、床に散らばる布の残骸を照らし出した。

長い間見つめた末、やっとそれが今日の健人のスーツ、彼女が心を込めて仕立てた、たった一着だと見分けた。

写真には、松浦綾乃からのメッセージが添えられていた。「ごめんなさい、お姉様。このスーツがお姉様の手作りだなんて知らなくて。ただの服だと思って、汚れていたから切り刻んでしまったの。怒ってないわよね?」

探るような口調の奥に、露骨な優越感がにじんでいた。

苑実が返信しないのを見て、綾乃は追い打ちをかけるようにメッセージを送ってきた。「健人さんも私のこと、少しも責めなかったわ。『たかが服一枚じゃないか、大したことない』って」

このままでは今夜は眠らせてもらえないだろう、と苑実は悟った。指先で、冷たい画面をタップする。 「健人の言う通り。たかが服よ。怒ってない。あなたが満足なら、それでいいわ」

画面を消すと同時に、苑実は綾乃の番号を着信拒否に設定した。

怒りは、もう残っていなかった。嘘ではない。

何しろ、このような嫌がらせは、この二年で数えきれないほど繰り返されてきたのだから。

いちいち腹を立てていたら、今頃とっくに壊れている。

再び目を閉じた苑実だったが、眠りの気配はすっかり遠のいていた。

今の自分を見たら、天にいる母は後悔しているだろうか。

そもそも、綾乃は松浦家の隠し子で、苑実より数ヶ月しか年下ではなかった。

苑実の母、安藤泉は綾乃の存在を知ると、すぐさまその子を国外へ追いやった。 しかし、長年の心労が泉の体を静かに蝕んでいた。

泉が重病で倒れたのを好機と見た父・松浦隆は、杉田圭子と綾乃の母娘を松浦家へと呼び戻したのだ。

継母ができれば、その後の暮らしが楽ではないことを、泉自身が誰よりも知っていた。隆が頼れる男でないことは、誰よりも分かっていた。

だからこそ母は、自分が亡くなる前に、苑実と健人の婚約を急いだ。

泉と健人の母、村上美緒が長年の親友だったからだ。

苑実と健人も幼馴染同然で、その関係性を考えれば、秋葉家に嫁げば娘はきっと幸せになれると、母は信じて疑わなかった。

だが、泉はそこまで考えても、人が変わるということまでは、予想できなかったのだ。

泉は息を引き取る間際、健人の手を握り、苑実を大切にしてくれるかと何度も問いかけた。母と、そして健人の母である美緒の前で、彼は力強く、何度も頷いた。

その誓いは、当時の苑実でさえ、永遠のものだと信じてしまうほど固く、確かだった……。

翌朝、腕を掴む乱暴な力に、苑実は眠りから引きずり出された。

目を開けると、怒りに顔を歪ませた健人が見下ろしていた。

手首に走る痛みに、苑実は荒々しくその手を振り払う。「朝から何のつもり?」

「苑実、母さんに告げ口することしか能がないのか、お前は!」

その言葉に、苑実は静かに眉をひそめた。

あれだけ騒ぎになっているのだ。美緒が知らないはずがない。

母から電話を受けた瞬間、健人は苑実が告げ口したのだと決めつけた。

もはや弁解する気力もなかった。

婚約を解消する決意が、さらに固まった。

苑実が黙っているのを、認めたとでも思ったのだろう。屋敷へ向かう道中、健人は冷たい言葉を吐き続けた。

だが玄関をくぐった瞬間、健人は口を閉ざし、穏やかな顔を作った。

その豹変ぶりを目の当たりにして、隣に立つ苑実は内心で深くため息をついた。なぜ、こんな男の裏の顔に今まで気づけなかったのか。自分の見る目のなさに、呆れ返った。

3

「苑実、辛い思いをさせちゃったわね」 リビングへ通されるなり、秋葉家の当主夫人である村上美緒が駆け寄ってその手を取った。

五十路を過ぎているとは思えない、手入れの行き届いた若々しい顔。

だがその美しい貌には今、心からの憂いの色が浮かんでいた。

この二年、婚約者である秋葉健人が問題を起こすたび、美緒はいつも松浦苑実の味方をしてくれた。

もっとも、それは健人を軽く叱るだけで、結局は可愛い息子を庇うためのもの。どうせ実の息子なのだから。

今も、まさにそうだ。

美緒は苑実への気遣わしげな表情から一転、怒りをたたえた鋭い眼差しで健人を睨んだ。「この馬鹿!さっさと苑実に謝りなさい!」

いつもの苑実なら、きっと『大丈夫です』と微笑んでみせたことだろう。

だが、今日はもう、そんな言葉を口にするのも億劫だった。健人が何か言い訳を口にするより早く、苑実は静かに口を開いた。「おば様、少し頭が痛むものですから、お部屋で休ませていただけますか」

苑実の青白い顔色に、美緒ははっとしたように頷いた。「ええ、もちろんよ。上でゆっくり休んでいなさい。食事の時間になったら、誰かに声をかけさせるから」

苑実は小さく頷くと、そのまま黙って二階へと続く階段を上がっていった。

その背中が階段の向こうに消えるのを見届けると、美緒は不満げに健人へと向き直った。「あんた、一体どういうつもりなの?よりによって、綾乃なんて隠し子と……」

健人:「母さん、綾乃をそんな風に言うのはやめてくれ。彼女だって、正真正銘、松浦のおじさんの娘なんだ。 それに、最初に出会ったのは杉田おばさんと松浦のおじさんの方なんだ」

「あんた……!」 一瞬、目の前が真っ暗になるほどの怒りが込み上げた。

一度深く息を吸い込むことで、かろうじて胸の内に渦巻く激情を抑え込んだ。向き直った時には、すでに冷静だった。 「あなたが綾乃とどうなろうと、私には関係ない。でも、これだけは覚えておきなさい。あなたの婚約者は苑実。そして、秋葉家の若奥様になれるのも、苑実ただ一人なのよ」

この台詞を、美緒が口にするのは初めてではなかった。

健人は、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきた。

だが、今回ばかりは、健人も思わず母を見つめ返した。「母さんがそこまでして苑実を俺に嫁がせたいのは、安藤のおばさんとの約束だからか?それとも……苑実が持っている、あの六割の株のせいか?」

商人は、利を以て動く。

美緒もまた、その例外ではなかった。

当時、二つ返事でこの婚約を承諾したのは、親友との情もあった。だが、それ以上に大きかったのは、苑実の持つ株だった。

松浦グループは泉が一代で築き上げたもの。彼女は早逝したとはいえ、一人娘の苑実に60パーセントもの株を遺していたのだ。

「苑実が松浦グループの株を六割も持っていると分かっているなら、少しは彼女を大事にしなさい。 健人、お母さんはあなたを害するようなことはしないわ。私のすることはすべて、あなたの将来のためなのよ。 苑実を娶って、あなたに何の損があるの。 容姿にしても能力にしても、綾乃のどこが苑実に敵うというの。 これ以上好き勝手を続ければ、苑実はあなたに心底失望するわ。母さんが保証する。あなたはきっと後で後悔することになるのよ」

「もういい、母さん。やめてくれ。俺は苑実と結婚しないなんて、一言も言ってないだろ」 健人はうんざりしたように母の言葉を遮ると、足早に二階へと上がっていった。

二階の自室に戻った苑実は、窓辺の長椅子に深く身を沈め、ただ静かに窓の外の噴水を眺めていた。

傍らのスマートフォンが、不意に短く震えた。

送られてきた写真に、苑実は目を見開いた。

それは、一対の銀の結婚指輪。シンプルで洗練された、まさに苑実が好みとするデザインだった。

「気に入ったか」

藤原晴樹からのメッセージに、苑実は戸惑いながら返信した。「これは……?」

「気に入ったか」 返ってきたのは、同じ問いだった。

苑実は数秒間黙り込み、そして、一言だけ打ち込んだ。「好き」

メッセージを送ったきり、スマートフォンは沈黙した。

その頃、晴樹は送られてきた二文字を見つめ、わずかに口元を緩めていた。

その変化に、隣にいた川崎聡は目を丸くする。「お前が笑うなんて……何かに憑いたんじゃないか?」

親友の茶化すような声に、晴樹の口元の笑みは一瞬で消えた。

あまりの速さに、聡は今の光景は幻だったのではないかとさえ思った。

「安藤大奥様の容態は?」

晴樹の言う安藤大奥様とは、苑実の母方の祖母のことだ。

患者の話となると、聡の表情が引き締まる。「芳しくない。心脈がかなり衰弱している。さすがの俺でも、そう長くはもたせられないだろう」

「このヤブ医者め」

己の医術を疑われて黙っている医者はいない。まして聡は、国際的にも名を知られた天才医師である。

普段の冷静沈着な天才医師も、さすがに顔をしかめた。「なんだと!こっちは医者であって、神様じゃないんだぞ! ……そもそも、安藤大奥様の件で腑に落ちないことがある。治療を俺に依頼したのはお前だろう。なのになぜ、秋葉家からの招待まで受けさせた?」

まるで数千万ごときに目がくらんだかのようだ。

晴樹は聡の問いには答えず、ただ卓上の一枚の図面へと視線を落とした。

それは一対の結婚指輪のデザイン画。先ほど、彼が苑実に送ったものだった。

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捨てられ令嬢は、世界一のスパダリ富豪に強引に娶られる

第2話
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