話 2
ガチャリ, と鍵の回る音が響いた.
その音は, 私にとって拷問の始まりを告げる合図のようなものだった.
私はソファに座り, 瞑目したまま動かなかった.
ドアが開き, 浩之と光翔の声が聞こえる.
彼らは上機嫌で, いつも通りの「完璧な家族」を演じている.
「直世, ただいま! 」
「ママ, ただいまー! 」
浩之の甘ったるい声と, 光翔の無邪気な声.
私にはその一つ一つが, 耳障りな雑音として響いた.
彼らが私に近づいてくる.
浩之が私の肩に手を置いた瞬間, 私は思わず身を固くした.
しかし, そんな私の微かな反応に, 彼は気づくはずもない.
いや, 気づかないふりをしているだけだろう.
「疲れてるのか? 今日も一日, 家のことありがとうな」
その言葉の裏に隠された欺瞞が, 私には痛いほど分かった.
彼は私を「良い妻」として扱い, 自分を「良い夫」と錯覚させたいだけだ.
私の心は氷のように冷え切っていた.
こんな茶番に, もう付き合う気はなかった.
「ええ, 少し」
私は感情のこもらない声で答えた.
光翔が私の膝に駆け寄ってくる.
その小さな手が, 私の服の裾を引っ張った.
「ママ, これ見て! 」
私は用意しておいた小さな箱を, 光翔に渡した.
彼が今日一日, 私にまとわりつくのを避けるための, ささやかな策略.
「開けていいけど, 今じゃないわ. パパと一緒の時まで我慢してね」
彼の顔が輝く.
無邪気な笑顔.
しかし, その奥に隠されたもう一つの顔を, 私は知っている.
「やったー! ママ, ありがとう! 」
彼の心の声が, また私の脳裏に響いた.
私は何も知らないふりをして, 光翔の頭を優しく撫でた.
その手のひらから伝わるのは, 小さな裏切り者の熱.
浩之は満足げに光翔の頭を撫で, 箱を彼から受け取った.
「直世, ありがとうな. 光翔も喜んでる」
その時, 浩之のスマートフォンの通知音が鳴った.
軽快なメロディ.
彼は一瞬, 私の方をちらりと見た.
そして, すぐに取り繕うように笑顔を貼り付ける.
浩之の心の声が, 私の耳に届く.
私はゆっくりと立ち上がった.
私の心は, もう揺らぐことはない.
「あなたたち, 少し休んだら? 私は夕食の準備があるから」
私の声は, ひどく穏やかだった.
浩之は, 少し驚いたような顔をした.
いつもなら, 彼が仕事から帰ってくれば, 私は彼の疲労を労い, 彼のために尽くす.
しかし, 今の私は, 彼らに何もしてやりたいとは思わなかった.
「ああ, そうだな. 直世も無理するなよ」
浩之はそう言いながら, 私の頬にキスをしようとした.
私は身をかわすことなく, ただ無表情で彼のキスを受け止めた.
彼の唇が私の頬に触れた瞬間, 私は心の中で冷笑した.
この男のキスは, もう何の感情も動かさない.
ただ気持ち悪いだけだ.
彼の心の声が, 私の耳に聞こえる.
私は, 彼らに一つの物語を語って聞かせることにした.
これは, 彼らへの, 私からの最後の警告だ.
「ねえ, あなたたち. 昔, ある国の王女様がいたの. 彼女はとても無垢で, 誰をも信じたわ. ある日, 彼女は愛する人から裏切られたの. その裏切りは, 彼女の心の全てを壊してしまったわ」
浩之と光翔が, 私の顔を見上げた.
光翔の瞳には, ほんの少しの不安が宿っている.
浩之の顔には, 奇妙な戸惑いが見て取れた.
「その王女様はね, 復讐を決意したの. 彼女は自分の死を偽装して, 裏切った者たちから姿を消したわ. そして, 最も幸せな瞬間だと思っていた時に, 彼らの全てを奪い去ったのよ」
私の言葉が, 重く部屋に響く.
部屋の空気が, 一瞬で凍りついたように感じた.
光翔の小さな体が, ビクリと震えた.
彼の心の声が, 恐怖に震えている.
浩之は, 顔から血の気を失っていた.
「直世, 急にどうしたんだ? そんな怖い話, 光翔が震えてるじゃないか」
彼の声にも, 動揺が隠しきれていない.
その時, 再び浩之のスマートフォンが鳴った.
今度は, 明らかに催促するような振動音.
浩之は, 一瞬私から目をそらし, スマートフォンの画面を見た.
その顔には, 焦りが浮かんでいる.
「すまない, 直世. 急な仕事の連絡が入った. 少し出かけてくる」
彼はそう言い残し, 光翔の手を引いた.
光翔は私を振り返り, 心配そうな顔をした.
しかし, 浩之に引っ張られるようにして, 部屋を出ていく.
「ママ, 大丈夫? 」
光翔の声が, 遠ざかっていく.
私は何も答えなかった.
ただ, その背中を, 冷たい瞳で見つめていた.
ドアが閉まり, 再び部屋に静寂が訪れる.
私は, ゆっくりとソファに体を横たえた.
そして, 目をつぶった.
しかし, 眠りについたわけではない.
私の耳は, 玄関のドアが閉まる音, エレベーターが降りていく音, そして車が走り去る音を, 鮮明に捉えていた.
やがて, 遠ざかっていく車のエンジン音.
その音は, 私にとって自由への賛歌だった.
私はゆっくりと目を開けた.
部屋は闇に包まれている.
しかし, 私の瞳には, 以前のような絶望の色はなかった.
代わりに宿っていたのは, 鋼のような強い意志と, 燃え盛る復讐の炎.
窓の外を覗くと, 浩之の車が, 見慣れた道ではなく, 脇道へと入っていくのが見えた.
その脇道の先は, 彼の不倫相手である桑名亜矢子のマンションがある場所だ.
私は冷笑した.
「さようなら, 私の愛しい裏切り者たち」
私の目に, もう涙はなかった.
涙は, 弱さの証だ.
私はもう, 弱い女ではない.
私の心は, 彼らがくれた痛みで, 完全に凍りついた.
だが, その凍った心の中で, 復讐の炎だけが, 激しく燃え盛っている.
私はベッドの下に隠しておいた小さなバッグを取り出した.
中には, 新しい身分証と, 失踪屋との契約書が入っている.
そして, いくつかの現金.
これさえあれば, 私はどこへでも行ける.
長谷部直世という過去を捨て, 新しい人生を歩むことができる.
「待ってなさい, 浩之, 光翔, そして桑名亜矢子」
私の唇から, 呪詛のような言葉が漏れた.
私から奪ったもの, 全てを奪い返す.
それどころか, 彼らが今まで築き上げてきたもの全てを, 私はこの手で破壊する.
長谷部直世は死んだ.
そして, これから現れるのは, 彼らに地獄を見せるための悪魔だ.
私はベッドから立ち上がり, 新しい自分になるための準備を始めた.
外から, 遠くでサイレンの音が聞こえる.
それは, 私の新しい人生の始まりを告げる, 合図のようだった.
嵐が, 今, まさに始まろうとしている.
話 3
光翔の声が, 車の中で響いた.
助手席でハンドルを握る浩之に, 彼は不安げに尋ねている.
「ねえ, パパ. ママ, 最近変だよ. なんか元気ないみたい」
浩之は運転しながら, ちらりとバックミラーで私を見た.
私の顔は, 感情を読み取れないほど無表情だ.
彼はすぐに光翔に目を向け, 努めて明るい声を出した.
「大丈夫だよ, 光翔. ママは少し疲れているだけさ. それに, 今日は亜矢子ママに会えるんだぞ? 楽しみじゃないか? 」
光翔の顔が, とたんに輝いた.
彼の不安は, あっという間に掻き消された.
「やったー! 亜矢子ママに会えるの! ? 」
浩之は満足げに頷く.
私の心は, 凍りついていた.
私の存在は, 彼らにとっては既にどうでもいいものなのだ.
浩之も光翔も, 私が後部座席にいることすら忘れているかのように, 亜矢子の話題で盛り上がっていた.
彼らは知らない.
私が, 彼らの会話の全てを聞いていることを.
そして, 彼らがどこへ向かっているのかを, 私が既に知っていることを.
その日の朝, 私のもとに, 再び見知らぬ番号からメッセージが届いた.
浩之と亜矢子の, ベッドの中での写真.
そして, 亜矢子からの挑発的な言葉.
『あなた, まだその席にしがみついているの? 笑わせないで. 浩之は私のものよ. 』
吐き気がした.
しかし, 同時に, 私の心に燃え盛る復讐の炎は, さらに激しさを増した.
私は, 彼らの「秘密の場所」がどこにあるのかを突き止めていた.
そして, 彼らの車を密かに追尾していたのだ.
浩之の車は, 高速道路を滑るように走っていく.
あっという間に, 市街地から離れ, 緑豊かな郊外へと入っていく.
やがて, 車は高級住宅街の入り口を通り抜けた.
そこは, 浩之が以前, 「仕事で使う別荘があるんだ」と私に話していた場所だった.
その時, 私は何の疑いも抱かなかった.
しかし, 今となっては全てが繋がる.
ここは, 彼と亜矢子の, 秘密の巣だったのだ.
車が止まったのは, 見覚えのある, モダンで洗練されたデザインの邸宅の前だった.
浩之が「私の作品の中で一番気に入ってる」と得意げに語っていた家.
まさか, それが, 彼の裏切りの証拠の場所だとは.
私の目には, 怒りと絶望と, そして深い憎しみが渦巻いていた.
浩之と光翔が車から降りた.
その瞬間, 邸宅のドアが開き, 亜矢子が現れた.
彼女は白いドレスを纏い, まるでその家の主であるかのように, 優雅に微笑んでいる.
私の心臓が, まるで誰かに握りつぶされるかのように痛んだ.
「浩之さん, 光翔くん, よく来たわね! 」
亜矢子の声が響く.
光翔が彼女に駆け寄る.
そして, 私の最も恐れていた言葉を, 何の躊躇もなく口にした.
「亜矢子ママ! 」
その瞬間, 私の体の全ての感覚が麻痺した.
呼吸ができない.
喉が締め付けられる.
視界が真っ白になり, 足元がぐらついた.
光翔が, 私の息子が, 何の罪悪感もなく, あの女を「ママ」と呼んでいる.
私の愛は, 一体どこへ消えてしまったのだろう.
光翔は亜矢子の腕の中に飛び込み, 彼女は彼を優しく抱きしめた.
その光景は, まるで本物の母子のようだった.
そして, 亜矢子が光翔に問いかける.
「ねえ光翔くん. 直世ママと亜矢子ママ, どっちが好き? 」
光翔は一瞬, 戸惑ったような顔をした.
しかし, すぐに満面の笑みで答える.
「亜矢子ママ! 」
その言葉が, 私の心臓を打ち抜いた.
私は, その場に崩れ落ちそうになった.
しかし, 必死に耐えた.
私の体は, まるで石になったかのように, 動かない.
私の世界は, 完全に崩壊した.
私の愛する夫と息子は, 私ではない別の女と, 完璧な家庭を築いている.
三人は, 楽しそうに笑いながら, 邸宅の中へと消えていった.
私は, まるで魂を抜かれたかのように, その場に立ち尽くしていた.
どれくらいの時間が経っただろうか.
私はゆっくりと, まるで幽霊のように, 邸宅の裏口へと回り込んだ.
鍵はかかっていなかった.
用心深さに欠ける, 傲慢な裏切り者たち.
私は, 音を立てないように中へと足を踏み入れた.
リビングから, 亜矢子の声が聞こえる.
彼女は光翔を膝に乗せ, 絵本を読んでやっている.
その声は優しく, まるで慈愛に満ちた母親のようだ.
私の知らない, もう一つの家族の姿.
やがて, 光翔が眠りについたらしい.
亜矢子の声が, 浩之に語りかける.
「ねえ, 浩之さん. 直世さんのこと, どうするの? 」
浩之の声が, 少し不機嫌そうに聞こえる.
「今はまだ, 仕方ないだろう. だが, すぐにでも…」
亜矢子が, 浩之の言葉を遮った.
彼女の声には, 甘えと挑発が混じっている.
「ふふ, じゃあ約束の, ご褒美ちょうだい? 」
私は, その場から動くことができなかった.
部屋の奥から, 浩之と亜矢子の親密な声が聞こえてくる.
そして, 服が擦れ合うような音.
吐き気が込み上げた.
私は, これ以上聞いていられなかった.
しかし, 聞かなければ, 真実を知ることはできない.
浩之の, 獣のような低い唸り声.
そして, 亜矢子の甘ったるい嬌声.
その全てが, 私の耳に直接届き, 私の心を深く切り裂いた.
彼らは, 私の家で, 私の息子が眠る隣の部屋で, 私を裏切っていたのだ.
私は, 膝から崩れ落ちた.
床の冷たさが, 私の頬を伝う涙と混じり合った.
愛も, 信頼も, 家族も.
全てが幻だった.
私は, 一体何を信じて生きてきたのだろう.
光翔の裏切りが, 私の心を最も深く傷つけた.
ママが一番好き, そう言っていた彼の声は, あの女を「ママ」と呼ぶ声に変わっていた.
私の存在は, 彼らにとって, 何の意味も持たなかったのだ.
私は, 乾いた笑いを漏らした.
喉の奥から, 絞り出すような声が漏れる.
もう, 悲しむ必要はない.
もう, 泣く必要もない.
私の心は, 完全に死んだ.
そして, その灰の中から, 新たな私が生まれたのだ.
私は, ゆっくりと立ち上がった.
私の瞳には, もはや哀しみの色はなかった.
そこにあったのは, 冷たいほどの決意と, 復讐への執念.
「お前たちに, 地獄を見せてやる」
私は静かに, しかし, はっきりと呟いた.
私の声は, 私自身にも, まるで別人のもののようだった.
私は, 来た時と同じように, 音もなく邸宅を後にした.
車に乗り込むと, 私はアクセルをいっぱいに踏み込んだ.
後部座席には, 彼らの幸福な笑い声が, まだ残響のように響いている.
しかし, その残響は, やがて私の復讐の炎によって, 焼き尽くされるだろう.
私は, もう二度と, あの場所へは戻らない.
私の人生は, 今日, ここで終わった.
そして, 新たな復讐の物語が, 今, 始まったのだ.
携帯が震えた. 新たなメッセージ.
開くと, そこには短い動画が添付されていた.
今日の, あのリビングでの, 浩之と亜矢子の姿.
そして, 彼らが私のことを嘲笑う声が, 流れてくる.
私の心は, 完全に麻痺していた.