話 2
航佑 POV:
俺の言葉に対し, 直実は何の反論もせず, ただ顔色を青褪めさせていた.
その様子を見て, 俺の心臓はなぜか締め付けられるような痛みを覚えた.
だが, 杏樹の手前, 俺は感情を押し殺し, 冷酷な言葉を吐き続ける.
「直実, 杏樹の荷物を部屋まで運べ. お前が使っていた部屋だ」
俺の言葉に, 直実は一度だけ俺を見た.
その瞳は, 深淵の闇を湛えており, 俺はそこに吸い込まれそうになった.
彼女はすぐに視線を逸らし, 無言で荷物を運び始めた.
杏樹は, 俺の隣で, 満足げに微笑んでいる.
その笑顔が, なぜか俺の胸をざわつかせた.
直実が, 使用人と共に杏樹の荷物を運び終え, 部屋から出てきた.
その足取りは重く, まるで引きずられるかのようだった.
「直実さん, 本当にありがとう. 助かったわ」
杏樹は, 甘ったるい声で直実に話しかけた.
直実は, ただ無言で頷き, 部屋を出て行こうとした.
その瞬間, 杏樹の手元が, 俺の視界に入った.
彼女の薬指には, 大粒のダイヤモンドが輝く指輪が嵌められていた.
それは, 俺が杏樹のために, 特別に用意させた婚約指輪だった.
俺が直実と結婚した時, 彼女に渡した指輪は, もっと簡素なものだった.
あの指輪は, 俺が杏樹を失った絶望の中で, 似た顔の直実に見せかけの愛情を与えるために選んだ, 安物の偽物だった.
直実は, その指輪を見て, 一瞬だけ立ち止まった.
だが, すぐにまた歩き出した.
その背中が, 俺の目には, なぜかとても小さく見えた.
直実が部屋を出て行こうとしたその時, 玄関のチャイムが鳴った.
使用人が出て行くと, すぐにケーキの箱を抱えた配達員が戻ってきた.
「お兄様, まさか, 杏樹さんの誕生日ケーキですか? 」
妹が, 興奮した声で尋ねた.
「ああ, そうだ. だが, まだ杏樹の誕生日ではない. 手違いで, 今日届いてしまったようだ」
俺は, 少し不機嫌な顔で答えた.
「航佑さん, そんな. 私の誕生日のことまで覚えていてくれたなんて」
杏樹は, 俺に抱きつき, 甘えた声を出した.
その声を聞いて, 俺の胸に, またしてもざわつきが走った.
その時, 配達員の声が, 室内に響き渡った.
「松原直実様, お誕生日おめでとうございます! 遠方にお住まいのご親族様から, お祝いのメッセージも預かっております」
配達員は, にこやかにそう言った.
その言葉に, 部屋の中は, 一瞬にして静まり返った.
全員の視線が, 直実に集中する.
直実は, その場に立ち尽くし, 真っ青な顔で配達員を見つめていた.
「直実…お前, 今日が誕生日だったのか? 」
俺は, 思わず尋ねた.
直実は, ただ首を横に振る.
「いいえ, 違います. 私の誕生日は, もう過ぎました. たぶん, 手違いでしょう」
彼女の声は, 震えていた.
「松原様, ご親族様が何度も日付を確認されましたので, 間違いございません」
配達員は, きっぱりと言い切った.
俺の胸に, またしても, 鉛のような重みがのしかかる.
俺は, 直実の誕生日を, 完全に忘れていたのだ.
杏樹の誕生日ばかりを気にかけ, 直実の誕生日は, 頭の片隅にもなかった.
「直実…すまない」
俺は, 思わず謝罪の言葉を口にした.
だが, 直実は, ただ乾いた笑いを浮かべるだけだった.
その笑顔は, 俺の心を深く抉った.
「航佑さん, そんな. 直実さんも, きっと, わざと黙っていたんでしょう? 私たちが, あなたを独り占めしていると, 思われたくなかったから」
杏樹は, 甘ったるい声で俺に話しかけた.
その言葉は, まるで直実を追い詰めるための, 巧妙な罠のようだった.
「杏樹, お前は黙っていろ」
俺は, 思わず低い声で言った.
杏樹は, 驚いた顔で俺を見つめた.
「直実, 俺は…」
俺が何かを言おうとしたその時, 杏樹が俺の腕を掴んだ.
「航佑さん, 見て! 今日, あなたの秘書さんが, 私のために素敵なネックレスを用意してくれたの. これ, 直実さんへの誕生日プレゼントにしない? きっと, 喜んでくれるわ」
杏樹は, そう言って, 大粒の真珠が連なったネックレスを, 俺の秘書から受け取った.
そして, それを直実に差し出した.
「直実さん, お誕生日おめでとう. これ, 航佑さんからよ」
杏樹の声は, 甘く響いていた.
だが, その瞳の奥には, 冷たい光が宿っていた.
直実は, そのネックレスを, ただじっと見つめていた.
その瞳には, 何の感情も宿っていなかった.
そのネックレスは, 俺が杏樹のために, 特別に用意させたものだった.
話 3
その真珠のネックレスは, 唯一無二の輝きを放ち, まるで「唯一の愛」を象徴しているかのようだった.
しかし, その「唯一の愛」は, 私のものではない.
私はただ, その輝きを, 遠くから見つめることしかできなかった.
「いりません」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
「人から奪い取ったものを, 私が受け取るわけにはいきません」
私の言葉に, 杏樹は一瞬, 顔色を変えた.
だが, すぐに, また甘ったるい笑顔を浮かべた.
「直実さん, 何を言っているの? これは, 航佑さんからあなたへのプレゼントよ. 遠慮しないで」
彼女は, そう言って, ネックレスを私に押し付けようとした.
「いりません」
私は, もう一度きっぱりと言った.
私は, このネックレスが欲しいわけではない.
このネックレスを贈った, 彼も, 欲しくない.
「直実! お前, 一体どういうつもりだ? 俺の気持ちを踏みにじる気か? 」
航佑が, 怒りの声を上げた.
その声は, まるで私を責めるかのように, 鋭かった.
「気持ち? 一体, 何の気持ちですか? 私の誕生日を忘れておいて, 今さら気持ちも何もないでしょう」
私は, 頭を振った.
なぜ, 私はこんなにも怒っているのだろう?
彼の言葉に, なぜこんなにも傷ついているのだろう?
「忙しかったんだ! 俺だって人間だ. 忘れることもあるだろ! 」
彼は, 私を睨みつけ, 怒鳴りつけた.
「そうですね. お忙しい航佑様には, 私の誕生日など, 取るに足らないことでしょう. では, 私がどうすれば, 航佑様は満足されるのですか? 」
私の声は, もはや感情を失っていた.
「私のことを, 愚かだと思うなら, そうおっしゃってください. ただ, 私は, もう, あなたに何も期待していません」
私は, そう言って, 深く頭を下げた.
「あなたがいいと言うなら, このネックレスを受け取ります. そして, 杏樹さんにも, お礼を言います」
私の言葉に, 杏樹は, 満足そうに微笑んだ.
私は, ネックレスを受け取ると, 杏樹に深々と頭を下げた.
「ありがとうございます. 大切に…させていただきます」
私の声は, 震えていた.
私は, 彼らの顔色を伺い, 最大限の配慮をしたつもりだった.
だが, 航佑の表情は, ますます不機嫌になっていた.
「お前は…本当に, 俺を怒らせるのが得意だな」
彼は, そう言って, 部屋を出て行った.
その背中には, 怒りが満ち溢れていた.
私は, ただその場に立ち尽くしていた.
ああ, 私は, 一体何をしても, 彼を満足させることはできないのだ.
愛されていない者は, 何をしても, 愛されている者には敵わない.
私は, そう, 心の中で呟いた.
広いリビングには, 私一人だけが残されていた.
テーブルの上には, 巨大な誕生日ケーキが, 寂しそうに鎮座していた.
私は, そのケーキを, 一人で全て食べた.
遠い異国から, 私の誕生日を祝ってくれた, 親族の気持ちを無駄にしたくなかったから.
だが, 全てを食べ終えた後, 私は, 激しい吐き気に襲われた.
トイレに駆け込み, 全てを吐き出した.
冷たい床に座り込み, 私は, 乾いた笑い声を上げた.
「昔は, ケーキなんて, めったに食べられなかったのにね…」
私の目からは, 熱いものが溢れ出していた.
貧しかった頃の私は, ケーキを見るたびに, いつかお腹いっぱい食べたいと願っていた.
その願いは, 今, 叶えられた.
だが, その喜びは, どこにもなかった.
私は, 立ち上がり, 自分の部屋に向かった.
もう, この部屋にいる必要はない.
私は, ベッドの上のシーツを剥がし, トランクに荷物を詰め込んだ.
彼の妻として, この部屋にいる資格は, もうない.
その時, 寝室のドアが, ゆっくりと開いた.
そこに立っていたのは, 薄手のナイトガウンを纏った杏樹だった.
「あら, 直実さん. まだ起きていたの? 航佑さん, まだ戻ってこないのよ. もしかして, 私といるのが, 嫌なのかしら? 」
彼女は, 甘ったるい声で話しかけた.
その言葉は, まるで私を挑発しているかのようだった.
「別に, どうでもいいです. 私が, 航佑様の部屋から出て行けば, もう, あなたたちには関係ないでしょう」
私の声は, 冷たく響いた.
明日には, 離婚届を提出する.
そうすれば, 全てが終わるのだ.
「そうね. でも, 航佑さん, あなたと離婚したくないって言っていたわよ. どうするのかしら? 」
彼女の言葉に, 私の心臓が, ドクンと音を立てた.
「そんなことはありません. 彼が, 私と離婚したがっていることは, 知っていますから」
私は, 頭を振った.
「ふふ, そう? でも, 私, 航佑さんの気持ち, よく分かっているの. 彼は, あなたのことが, 好きなのよ」
彼女は, そう言って, 私の腕を掴んだ.
「だから, お願い. 彼を, 私に譲ってくれるかしら? そうすれば, あなたも, 私も, 幸せになれるわ」
彼女の言葉は, まるで私を弄ぶかのように, 歪んでいた.
「私は, あなたたちの間で, ただの道具だったのよ. もう, 十分だわ」
私は, そう言って, 彼女の手を振り払った.
「離婚届は, 明日提出します. それまでは, あなたたちで, ご自由にどうぞ」
私は, そう言って, 部屋を出て行った.
その背中には, 彼女の冷たい視線が突き刺さっていた.