話 1
「この恩知らず!うちで二十三年も育ててやったのに、恩を仇で返すなんて!今日からもう出て行け。田舎に帰って、本当の親のところへ行け!」
瀬川清美の前で、金の腕輪と翡翠の腕輪を左右の手に光らせ、艶やかなチャイナドレスを纏った貴婦人が、あからさまな嫌悪の眼差しを向けていた。
その女性こそ、清美が二十三年間『お母さん』と呼んできた瀬川佐喜子だった。そして、その腕の中には、佐喜子にそっくりな少女――瀬川心葉が抱かれていた。
「お母さん、いいのよ。お姉ちゃんだって、きっとわざとじゃないの。私が急に現れて、お父さんとお母さんの愛を全部持っていったみたいで、受け入れられなかっただけ……だから、お願い、お姉ちゃんを責めないでね」
佐喜子は腕の中の娘を慈しむように見つめ、ちらりと清美に視線をやると、嫌悪を隠そうともせず吐き捨てた。「あの子こそ本当の悪い子よ。二十三年間、心葉に注がれるはずの愛を、あの子は独り占めしてきたんだから。 どうしようもない田舎者のくせに、瀬川家で贅沢三昧してきた。それなのに、心葉はどれだけ苦労してきたか……!ほんとに許せない!」
心葉の瞳の奥に、ほんの一瞬、勝ち誇った光が宿る。だがすぐにそれを押し隠し、涙に濡れたような哀れさを浮かべてみせた。
つい先ほど、彼女はわざと階下でコップを落として割り、頬を切り傷つけた。そしてそれをすべて清美の仕業に見せかけたのだ。両親は疑うこともなく彼女を加害者と決めつけ、弁明の機会さえ与えなかった。
――そう、彼女の狙いは清美を瀬川家から追い出すこと。
田舎者のくせに居場所を奪い、しかも気取った顔をしている偽物――瀬川清美など、存在自体が癪に障る。
心葉は目の前の清美の美しさに一瞬たじろぎながらも、なおさら自分のやり方に迷いはないと心に決めた。
瀬川幸正も眉をひそめ、あからさまな嫌悪をにじませた。「まさかここまで性根が腐っているとは……妹の顔まで傷つけようとするなんて許さない!そんな娘にこの新容市にいる資格はない。お前の実の親にはすでに知らせてある。今すぐ荷物をまとめて、霧渓里に帰れ!」
本来なら、幸正は清美を手元に置いておくつもりでいた。二十三年ものあいだ大金をかけて育ててきたのだ。たとえ雲野浩司との縁談が成らなくても、離婚歴のある男とでも結婚させれば、瀬川家にとって新たな取引の足掛かりになり得た。
だが、このところ清美はことごとく心葉を傷つけ、
彼女を連れ立っての縁談の席も台無しにしてきた。結果、一つとしてまとまらなかった。
役に立たなくなった以上、幸正にとって清美を養い続ける理由は、もはやどこにもなかった。
清美は俯いたまま、瞳の奥に冷ややかな嘲笑を浮かべていた。
この数か月で、瀬川家の本性を嫌というほど思い知らされたのだ。
瀬川家は数年前に新容市の名門へと食い込んだ。
二か月前、幸正が重い病に倒れ、清美に輸血を求めたことがあった。そこで初めて、清美の血液型が希少なRH陰性であることが分かり――彼女が瀬川家の実の娘ではないという事実が露わになった。
その途端、瀬川家はありとあらゆる人脈を使って、本当の血を分けた娘である心葉を探し出した。
話 2
思い返せば二十数年前、佐喜子が出産した病院で火災が起きた。混乱のなか、看護師たちは必死に赤ん坊を保育器から抱き出したが、人波にまぎれるうちに取り違えが起こり、いくつかの家庭の子どもが入れ替わってしまった。
佐喜子は清美をそのまま抱き帰り、逆に心葉は工場勤めの夫婦のもとへと渡ってしまった。
ようやく実の娘を取り戻した瀬川家は、心葉を宝物のように扱った。
とりわけ佐喜子は、長年外で苦労させられてきた心葉を心から気の毒に思い、その不幸のすべてを清美のせいにしてしまった。
かたや清美は――偽りの令嬢としての役目を終えた途端、あっさりと家を追い出される始末だった。
噂によれば、彼女の実の両親は、新容市で一番貧しい霧渓里に住む農家の人だそうだ。
心葉はあどけない顔を装って清美を見つめた。「お姉ちゃん、田舎に帰りたくないんでしょ?でも仕方ないよね。人は自分に得な方に流れるものだから。だって瀬川家は新容市でも有名な豪門で、お姉ちゃんはここで贅沢三昧に育った。でも実の両親は、満足に食べられない貧しい農家。比べてみれば、差は歴然だよね」
清美の胸には、未練のかけらもなかった。冷静な瞳の奥には、瀬川家の会社をここまで押し上げた自分の手腕への揺るがない自信が宿っていた。
「ふん……」
軽く鼻で笑い、清美は背を向けて階段を上った。衣服を数着と、自分の物だけをいくつかまとめる。
階下へ戻ると、心葉の指先にあった豆粒ほどの傷は、すでに包帯で覆われていた。
この調子なら、もう少し遅ければ自然に治っていたかもしれない。
「お姉ちゃん」 心葉は得意げな顔で、わざとらしく言った。「来月、私と浩司お兄ちゃんの婚約披露宴があるの。お姉ちゃんは田舎に帰ったけど、来てくれると嬉しいな」
雲野浩司は清美の幼なじみで、子どもの頃からずっと一緒に育ち、将来を約束した相手だった。 だが心葉が瀬川家に戻ってきてからというもの、彼の態度は一変。あの日まで清美に向けられていた優しさは影を潜め、代わりに心葉へと向けられるようになった。
その掌を返すような振る舞いに、清美の心はすっかり冷めていた。そんな男を、もはや一瞥する価値すらないと悟っていた。
心葉はかすかに声を潜め、わざとらしく言った。「でもね、浩司とお姉ちゃんは一緒に育ったのに、結婚するのは私なんだもの。お姉ちゃん、ちょっとは悔しいんじゃない?」
背を向けたまま、その言葉に清美は吐き気を覚えた。
くるりと振り返り、冷ややかな眼差しで心葉を見据える。「この時代、ゴミでも奪い合う人がいるなんてね。欲しいなら持っていけばいい。私はゴミを集める趣味なんてないから。わざわざ訪ねて回収してくれるなら、こっちは分別の手間が省けて助かるわ」
「……あんたっ!」心葉は歯を食いしばり、怒りで顔を歪めた。でも、ふと思いつき、佐喜子に向かって声をあげた。「お母さん!お姉ちゃん、こんなこと言ってるけど……やっぱり浩司お兄ちゃんとまだ一緒になりたいんでしょ?」
話 3
瀬川心葉にとって最も許せなかったのは、瀬川清美がまるで高みから見下ろすように、何事も意に介さないでいるあの態度だった。
田舎の農家の娘にすぎないのに、どうしてあんなに美しく生まれついたのか。
いずれ清美が田舎に戻って、毎日畑仕事に汗を流し、風に吹かれ日差しに焼かれ、肌も真っ黒に変わったら――あの傲慢な態度は一体どうするつもりなのか。
「そんなこと、絶対に許さない!」
瀬川佐喜子もまた、清美が心葉の人生を奪ったことを心底から嫌悪していた。その言葉にますます憤りを募らせる。「心葉の身分を奪ったからこそ、今の立場にいられるのよ。田舎者のあんたなんか、浩司さんの靴磨きにすら値しない。雲野家に嫁ぐなんて、笑わせないで!」
だが、この件において清美も被害者である。にもかかわらず、佐喜子はすべての罪を彼女に押しつけていた。
もし叶うなら、清美だって瀬川家との縁を断ち切りたいと思っている。
雲野浩司は雲野家の一人息子。雲野家は新容市で随一の大富豪であり、中京市の富豪ランキングにも名を連ねていた。
たとえ百位を超えたあたりだとしても、瀬川家などよりはるかに格上だった。
清美と浩司は幼いころから共に育ち、自然な流れで婚約することになった。彼の愛情を疑わず信じていた。ところが、自分が瀬川家の実子ではないと判明した途端、彼は裏切りの刃を突き立ててきた。
婚約を一方的に破棄するばかりか、心葉と手を結んだのだ。
清美は無表情のまま口を開いた。「瀬川家のものなんて、何ひとつ欲しくない。雲野浩司も含めて」
背を向けて歩き出そうとしたその瞬間、心葉の声が再び飛んだ。
「お姉ちゃん、本当に瀬川家の物が要らないって言うなら、鞄を開けてみせてよ。口先だけで要らないなんて言って、こっそり持ち出してるんじゃないでしょうね」
佐喜子はすぐに頷き、冷たく言い放った。「そうよ。田舎は貧しいんだから、宝飾品を一つ持ち出しただけで何年も食べていけるでしょう。清美、あんたが瀬川家のものを盗んで、田舎の親を養おうなんて考えるだけ無駄よ!」
そう言うが早いか、心葉は勢いよく清美の背負っていたバッグを引き開けた。そして――驚くべきことが起こった。
中から、ひときわ鮮やかなエメラルドのネックレスが転がり落ちたのだ。
心葉は待ちきれない様子で声を上げた。「これ、ママが私にくれたネックレスじゃない!どうしてお姉ちゃんのバッグに……」
驚きの表情を浮かべながらも、口元がにやりとわずかに上がった。やはりと思ったのだ。あれほどの瀬川家の財産を、清美が何も持たずに立ち去るはずがない、と。
佐喜子は慌ててネックレスを拾い上げた。「この悪娘、よくもこんなことを!このネックレスは国際的なトップジュエリーデザイナー・氷晶が手がけたものよ。私が1億で買ったのに!やっぱり田舎者は品がない……警察を呼ぶわ!」
瀬川幸正も怒りに顔をこわばらせ、清美を鋭くにらみつけた。「どういうことだ、説明しろ」
その眼差しは今にも彼女を喰らい尽くさんばかりの鋭さだった。
心葉はなだめるような口ぶりで話しかけつつ、実際には怒りに油を注いでいた。「パパ、ママ、そんなに怒らないで。お姉ちゃん、このネックレスが大好きだから持ち出したんだよ……まあ、それほど欲しいなら、私はもう譲ってあげる」
佐喜子はますます怒りを募らせた。「この泥棒娘!心葉の人生を奪っただけじゃ飽き足らず、今度は1億のジュエリーまで盗むなんて。こんな子に罰を与えなければ、将来外に出て行っても瀬川家の恥をさらすだけ! このネックレスは氷晶の作品よ、すべてに唯一無二の番号があるの。絶対に警察を呼ぶわ!」
心葉はわざとらしく口を挟んだ。「ママ……警察を呼んだら、お姉ちゃんは牢屋に入っちゃうよ。それってお姉ちゃんの名誉に良くないんじゃない?」
佐喜子は憎悪に満ちた声で言い放つ。「こんな泥棒は牢屋に入って当然よ。徹底的に懲らしめるべきだわ。できるなら、一生出てこなければいいわ。そうすれば瀬川家の顔に泥を塗らずに済む!」
瀬川幸正は一言も発さなかったが、その沈黙がすなわち同意だった。
瀬川家の顔に泥を塗られるくらいなら、牢屋に入れておいたほうがましだ。
清美は、悪意をむき出しにする佐喜子と、それを黙認する幸正を見つめた。
――これが、二十三年間も「父」と「母」と呼んできた人間たちなのだ。
これまで瀬川家に育ててもらった恩を思い、心の奥では、彼らを悪く思わないようにしてきた。だが、目の前に突きつけられた現実は、思っていた以上に非情だった。
彼らは本気で、自分を監獄で死なせようとしているのだ。
その瞬間、清美の中に残っていた最後の情が、音を立てて消え去った。