話 2
高沢涼乃 POV:
タクシーの中で, 私は藤尾耕平先生に電話をかけた.
「先生, お久しぶりです. 高沢涼乃です. 」
私の声は, 少し震えていた.
先生は, 私の恩師であり, 私がピアニストとしての道を諦めたことを, 誰よりも残念がってくれた人だった.
「涼乃か! どうしたんだい, こんな時間に. 」
藤尾先生の声は, いつものように温かく, 私の心に僅かな安らぎを与えてくれた.
「先生, 私, ウィーンに行きたいです. もう一度, ピアノと向き合いたい. 」
私は, 震える声で, 自分の決意を伝えた.
一瞬の沈黙の後, 先生は言った.
「そうか, ついに決意したか. 待っていたよ, 涼乃. 君の才能は, こんなところで埋もれていていいはずがない. 」
先生の言葉は, 私の心に, 力強い光を灯してくれた.
「すぐに準備する. 君の席は, いつでも空けてあるよ. 」
先生の言葉は, 私にとって, 何よりも心強いものだった.
私は, ウィーンでの新しい生活に, 希望を見出した.
「本当に, ありがとうございます, 先生. 」
私の目から, 熱いものが溢れ落ちた.
それは, 悲しみの涙ではなかった.
それは, 未来への希望に満ちた, 新しい出発の涙だった.
電話を切ると, 私の携帯電話に通知が届いた.
秀臣のSNSの更新通知だった.
私は, 思わず画面をタップした.
そこに表示されたのは, 秀臣と美結の, 親密なツーショット写真だった.
「ついに, 僕たちは自由になった! これからは, 二人で最高の未来を築いていく! 」
秀臣のコメントには, 私に対する一切の配慮がなかった.
いや, 私という存在は, すでに彼の頭の中から消え去っていたのだろう.
彼のSNSの過去の投稿は, 全て削除されていた.
私との結婚生活の痕跡は, 跡形もなく消え去っていた.
まるで, 私が彼の人生に, 最初から存在していなかったかのように.
コメント欄には, 美結のファンからの祝福の言葉が溢れていた.
「美結ちゃん, おめでとう! 」「社長と美結ちゃん, お似合いです! 」「これで, 邪魔な奥様はいなくなりましたね! 」
私は, 世間の人々に, 秀臣と美結の恋愛を邪魔する悪女として認識されているのだと, 改めて悟った.
私の心は, 再び冷え切っていくのを感じた.
「あの人は, 本当に, 私のことを, こんなにも簡単に切り捨てられるのね. 」
私の口から, 乾いた笑いが漏れた.
私たちが共に築き上げてきた五年間は, 彼にとって, 一体何だったのだろう.
私の献身的な愛は, 彼にとって, 何の意味も持たなかったのだろうか.
その時, 私の携帯電話が鳴った.
表示されたのは, 親友の久保田咲良の名前だった.
「涼乃! 見たわよ, 秀臣さんのSNS! あんた, 本当に離婚したの! ? 」
咲良の声は, 怒りと心配で震えていた.
「ええ, 正式にね. 偽装離婚を提案されたけど, 私はもう, 彼とはやっていけないと思ったから. 」
私は, 努めて冷静に答えた.
「あんた…よく決断したわね. 私, ずっと心配してたんだから. あの男, 絶対あんたのこと大切にしてないって. 」
咲良の言葉は, 私の心を温めてくれた.
「ありがとう, 咲良. でも, もう大丈夫. 私は, 新しい人生を始めるから. 」
私は, 咲良にウィーンに行くことを伝えた.
「ええ! ? ウィーンに! ? すごいじゃない! あんたなら, きっと世界で活躍できるわ! 」
咲良は, 心から喜んでくれた.
「でも, あの男, 本当にひどい男ね. あんたの才能を搾取して, 美結の名義で曲を発表させて…」
咲良は, 秀臣に対する怒りを露わにした.
「あの音楽賞だって, 本当はあんたの曲がノミネートされてたのに, 美結の名義で発表されたから, あんたは表舞台に出られなかったんだからね! 」
咲良の言葉は, 私の心の奥底に眠っていた, 怒りの感情を呼び覚ました.
「もういいの. あの男は, 私にとって, もう過去の人間だから. 」
私は, 努めて平静を装った.
しかし, 私の心の中では, 秀臣に対する怒りが, 静かに燃え上がっていた.
私は, 彼に復讐するつもりはない.
しかし, 私は, 彼に, 私がどれほどの才能を持っていたのか, そして, 彼がどれほど大きなものを失ったのかを, 必ず思い知らせてやる.
「そうね, あんたはもっと素晴らしい人生を送るべきよ. あんな男, 忘れちゃいなさい! 」
咲良の言葉に, 私は頷いた.
「ありがとう, 咲良. 」
電話を切ると, 私は車を運転して, ある場所に向かった.
それは, 日本で最も権威のある音楽賞の授賞式の会場だった.
私は, その夜, 会場に現れる秀臣と美結を, 遠くから見つめるつもりだった.
彼らの幸せな姿を見て, 私の心はもう, 何も感じないはずだ.
しかし, 会場に到着すると, そこはすでに騒然としていた.
多くの報道陣が, 会場の入り口を取り囲んでいた.
そして, その中心にいたのは, 秀臣と美結だった.
「福山社長! 夏目美結さん! お二人の関係について, 一言お願いします! 」
「夏目さん, 福山社長との交際について, 偽装離婚の噂がありますが, 本当ですか! ? 」
記者たちの質問が, 二人に浴びせられた.
「あの…私, 福山さんとは, ずっと前から, 本当に真剣にお付き合いさせていただいていて…高沢さんとは, もうずっと前から, 関係が冷え切っていたと聞いています…」
美結は, 涙目で, 悲劇のヒロインを演じていた.
彼女の顔には, 巧妙に計算された悲しみが浮かんでいた.
しかし, その瞳の奥には, 勝利を確信したかのような, 冷たい光が宿っていた.
「美結が言った通りだ. 俺と涼乃の関係は, もう随分前から破綻していた. もう, 牢獄のような婚姻関係からは, 解放されたんだ. 」
秀臣は, 美結の肩を抱き寄せ, 冷たい視線で記者たちを見据えた.
彼の言葉は, 私の心に, 深く突き刺さる氷の刃のように感じられた.
牢獄.
彼にとって, 私との結婚生活は, 牢獄だったというのか.
私の献身的な愛は, 彼にとって, 重荷でしかなかったというのか.
彼の言葉は, 私の心を粉々に打ち砕いた.
しかし, もう涙は出なかった.
私の心は, 完全に枯れ果てていた.
もう, 彼に何を言われても, 何も感じない.
ただ, 彼の言葉が, 私の中で, 虚しく響くだけだった.
その時, 私の隣にいた咲良が, 私の腕を掴んだ.
「涼乃, 大丈夫? あんた, 顔色が悪いわ! 」
咲良の心配そうな顔が, 私の視界に入った.
「大丈夫よ, 咲良. もう, 何も感じないから. 」
私は, 乾いた笑顔を浮かべた.
私の心は, 本当に, 何も感じなくなっていた.
何もかもが, どうでもよくなっていた.
ただ, 早く, この場所から立ち去りたかった.
話 3
高沢涼乃 POV:
秀臣の「牢獄」という言葉は, 私の耳の中で何度も反響した.
彼の言葉は, 私の心を深く抉り, 私の存在価値を根底から揺るがした.
私は, 彼のために尽くしてきた五年間を, 本当に「牢獄」と呼べるほど不幸だったのだろうか.
自問自答したが, 答えは出なかった.
ただ, 私の心は, 空っぽになり, 深い絶望感に包まれていた.
「涼乃, 本当に大丈夫なの? 」
咲良が心配そうに, 私の顔を覗き込んだ.
その声に, 私は我に返った.
「ええ, 大丈夫よ. もう, 彼の言葉なんて, 何とも思わないから. 」
私は, 努めて平静を装った.
会場の入り口では, 秀臣が美結の腰を抱き寄せ, カメラに向かって満面の笑みを浮かべていた.
まるで, 私との過去など, 存在しなかったかのように.
彼の顔には, 幸福感が溢れていた.
私は, その光景を, ただ冷めた目で見ていた.
彼にとって, 私はもう, 過去の遺物なのだ.
そして, 私もまた, 彼を過去の遺物として, 心の中から完全に排除する.
「あんな男, もう忘れなさい. あんたには, もっと素晴らしい未来が待ってるんだから. 」
咲良の言葉は, 私の心を温めてくれた.
「そうね. もう, 彼の存在なんて, 私には関係ないわ. 」
私は, 静かに呟いた.
もう, 彼に囚われる必要はない.
私は, 自由になるのだ.
授賞式が始まった.
華やかなステージの上で, 司会者が受賞者を次々と発表していく.
私は, 自分の受賞は期待していなかった.
なぜなら, 私の曲は, 美結の名義で発表されているからだ.
たとえ, 私の曲が受賞したとしても, その栄光は, 美結のものになる.
私には, 何の権利もない.
「最優秀音楽賞は…夏目美結さん! 」
司会者の声が, 会場に響き渡った.
会場全体が, 拍手喝采に包まれた.
美結は, 秀臣にキスをしてから, 満面の笑みを浮かべてステージに上がった.
彼女の指には, 大きなダイヤモンドの指輪が輝いていた.
それは, きっと秀臣からのプレゼントだろう.
美結は, 受賞スピーチで, 感極まった様子で涙を流した.
「この曲は, 私にとって, 本当に大切な曲です. 私を支えてくれた福山社長, そして, 私のファンの皆さん, 本当にありがとうございます! 」
彼女の言葉は, 私にとっては, 嘘と偽りに満ちた言葉に聞こえた.
この曲は, 私が徹夜して書き上げた, 私の魂の結晶だった.
しかし, その栄光は, 美結のものになった.
私の隣にいた咲良が, 怒りに震えていた.
「なんてこと! あの曲は, あんたが作った曲じゃない! なんで, あんな女が, あんたの功績を横取りするの! ? 」
咲良は, 私を見つめ, 怒りの声を上げた.
「もういいの, 咲良. 私は, もうこの賞には, 何の未練もないから. 」
私は, 咲良の腕を優しく撫でた.
「でも…あんたが作った曲が, あんなふうに…」
咲良は, まだ納得できないようだった.
「大丈夫よ. 私の音楽は, この賞だけじゃない. もっと大きな世界で, 私の音楽を響かせるから. 」
私は, 笑顔で咲良に言った.
私は, もう日本の芸能界には, 何の未練もない.
私の心は, すでにウィーンに向かっていた.
その時, 咲良の友人が私たちに近づいてきた.
「咲良, あの賞, やっぱりおかしいわよ. 夏目美結の曲は, どう考えてもあのレベルじゃないって, みんな言ってるわ. 」
友人は, 怒った口調で言った.
「福山社長が, 裏で何か手を回したんじゃないかって, 噂になってるわよ. 昔, 涼乃さんが作った曲を, 夏目美結の名義で発表させたって話, 本当だったのね. 」
友人の言葉に, 私の心は, 再び冷たくなった.
秀臣は, やはり私を裏切っていたのだ.
彼は, 私が作った曲を, 美結の名義で発表させただけでなく, その賞まで, 美結に与えたのだ.
「そんなことないわ. 秀臣さんは, そんなことをする人じゃない. 」
私は, 反射的に秀臣を庇った.
しかし, 私の心の中では, 彼の裏切りに対する怒りが, 静かに燃え上がっていた.
私は, 彼のことを, まだ信じていたかったのだろうか.
いや, もう信じることはできない.
「涼乃さん, あんた, 本当に優しいわね. でも, あんたは騙されてるわよ. あの男は, あんたを都合のいい道具としか見てないんだから. 」
咲良の友人は, 私に同情の視線を向けた.
「もういいの. 私は, 明日, ウィーンに旅立つから. もう, 日本のことは, 何も関係ないわ. 」
私は, 笑顔で言った.
私の心は, もう完全に, 日本を離れていた.
私の未来は, ウィーンにある.
「ええ! ? ウィーンに! ? 」
咲良の友人は, 驚きの声を上げた.
「うん. 藤尾先生の紹介で, ウィーン国立音楽大学で, もう一度, ピアノを学ぶことになったの. 」
私は, 笑顔で言った.
私の言葉に, 咲良の友人は, 驚きと喜びの表情を浮かべた.
「すごいじゃない! あんたなら, きっと世界で活躍できるわ! 」
彼女は, 私を心から応援してくれた.
「ありがとう. 私は, もう過去を振り返らない. これからは, 私のための人生を生きる. 」
私は, 笑顔で言った.
私の心は, もう完全に, 過去を断ち切っていた.
私は, もう二度と, 秀臣に支配されることはない.
私は, 私自身の人生を, 私自身の音楽を, 自由に奏でるのだ.
「涼乃, あんた, 本当に強くなったわね. 」
咲良は, 私の手を握り, 涙を流した.
「あんたなら, きっと大丈夫. 私も, ずっと応援してるから. 」
咲良の言葉は, 私の心に, 温かい光を灯してくれた.
「ありがとう, 咲良. 私も, ずっとあなたを忘れない. 」
私は, 咲良を抱きしめた.
私たちの友情は, 永遠に変わらない.
私は, もう彼には何の未練もない.
私は, 彼のための人生を生きることはしない.
私は, 私のための人生を生きるのだ.
私は, 授賞式の会場を後にした.
もう, この場所には, 何の思い入れもない.
私の心は, すでにウィーンへと飛んでいた.
私は, 新しい人生を始めるのだ.
会場の出口で, 私は, 偶然, 秀臣と美結の会話を耳にした.
「秀臣さん, 本当にありがとう. この賞は, 私にとって, 本当に大きな意味があるわ. 」
美結は, 甘えた声で秀臣に言った.
「ああ. 君のためなら, これくらいのことはどうってことないさ. あの女が邪魔だったが, これで心置きなく, 君をサポートできる. 」
秀臣の声は, 私に対する侮蔑の感情に満ちていた.
「それにしても, 涼乃のやつ, あの賞を諦めるなんて, 本当に愚かな女だな. どうせ, せいぜい海外に行って, 鳴かず飛ばずで帰ってくるのがオチだろう. 」
秀臣の言葉は, 私の心を再び冷えさせた.
彼は, 私を心底見下しているのだ.
私の才能を, 私の努力を, 彼は一切評価していない.
しかし, もう彼の言葉に, 私は何の感情も抱かなかった.
私の心は, もう完全に, 彼から離れていた.
私は, 彼の言葉に, ただ虚しく笑った.
彼は, 私がどれほどの才能を持っていたのか, そして, 彼がどれほど大きなものを失ったのかを, 一切理解していない.
しかし, 私は, 彼に, 必ず思い知らせてやる.
私が, どれほど素晴らしいピアニストであったか, そして, どれほどの才能を秘めていたのかを.
「秀臣さん, でも…もし, あの女が世界で活躍するようになったら…」
美結の声には, 僅かな不安が混じっていた.
「そんなことはありえない. あの女は, 俺がいなければ, 何もできない女だ. それに, 俺が, そうはさせない. 」
秀臣の声は, 私に対する強い敵意に満ちていた.
彼は, 私が再び表舞台に立つことを, 決して許さないつもりなのだ.
私は, もう振り返らなかった.
彼らの会話は, 私にとって, 何の価値もない.
私は, 私の道を歩む.
私の音楽を, 世界中に響かせるのだ.
私は, もう彼の支配下にはない.
私は, 自由なのだ.