話 1
IT企業の若きカリスマ社長、神宮寺蓮。私の夫は、完璧な人だった。
この二年間、彼は私を女神のように崇め、その愛は私たちの周りの誰もが羨むものだった。
そんな日々は、彼の過去から来た一人の女によって、突然終わりを告げた。
女の手を引いていたのは、青白い顔をした、病気の四歳の男の子。
彼の、息子だった。
少年は白血病を患っていた。蓮は息子を救うことにすべてを捧げ、心を奪われていった。
病院で起きたアクシデントで、少年が痙攣発作を起こした日。
パニックの中、私は激しく転倒し、腹部に焼け付くような激痛が走った。
蓮は、床に倒れた私を気にも留めず、息子を抱きかかえて走り去った。
血を流しながら、私は独り、置き去りにされた。
あの日、私は私たちの赤ちゃんを失った。たった一人で。
彼からの電話は、一本もなかった。
翌朝、彼がようやく私の病室に現れた時、昨日とは違うスーツを着ていた。
彼は、私の涙の本当の理由も知らずに、そばにいられなかったことを涙ながらに謝罪した。
その時、見えてしまった。
彼の首筋に刻まれた、生々しい紫色の痕。
私が私たちの子供を失っている間、彼は、あの女といたのだ。
彼は言った。息子の最後の願いは、両親が結婚するところを見ることだと。
だから、一時的に別居して、彼女と偽りの結婚式を挙げることに同意してくれと、私に懇願した。
彼の必死で、あまりにも身勝手な欲望に歪んだ顔を見つめていると、不思議なほど、心が凪いでいくのを感じた。
「わかったわ」
私は言った。
「そうしましょう」
第1章
ツンと鼻をつく消毒液の匂いが、クリニック全体に満ちていた。
私は診察台の端に腰掛け、看護師が私の手の小さな切り傷に手際よく包帯を巻くのを眺めていた。
料理中に、うっかり包丁で滑らせてしまっただけ。
大したことないのに、蓮が大騒ぎして、無理やり診察に連れてこられたのだ。
突然、クリニックのドアが勢いよく開き、彼が駆け込んできた。高級スーツが少し着崩れている。
「依織、大丈夫か?」
役員会議を支配するのと同じその瞳が、今は心配そうに大きく見開かれている。
彼は看護師を無視して駆け寄ると、私の怪我をしていない方の手を握った。
「蓮さん、大丈夫よ。ほんの小さな切り傷だもの」
私の声は、彼には聞こえていないようだった。
彼はまるで重傷でも見るかのように真新しい包帯を検分し、親指で優しく私の手首を撫でた。
「もっと気をつけないとダメだぞ」
彼の声は低く、私の胸をいつもときめかせる、独占欲に満ちた響きを帯びていた。
優しそうな顔立ちの若い看護師が、私たちを見て微笑んだ。
「幸せですね。すごく愛されてる」
私も微笑み返すと、温かい気持ちが胸に広がった。
「ええ、わかっています」
私たちは完璧な夫婦だった。橘依織と神宮寺蓮。
そのキャリアを捨てて、彼女を溺愛するIT企業のカリスマ社長と結ばれた元人気バーテンダー。
私たちの二年の結婚生活は、誰もが羨むものだった。
突然、子供の胸が張り裂けるような泣き声が、静かなクリニックに響き渡った。
純粋な痛みに満ちたその声に、必死であやす女性の声が続く。
声は隣の診察室から聞こえてくる。私の笑みは消えた。
看護師は悲しそうな表情でため息をついた。
「かわいそうに。あの子、抗がん剤治療のために来てるの」
「抗がん剤…?」
私は自分の小さな怪我のことなど忘れ、尋ねた。
「白血病なの」
彼女は静かに言った。
「まだ四歳なのに。本当に、ひどい話よ」
同情の波が押し寄せてくる。
あの子と、その母親が経験している痛みを想像することなんて、私にはできなかった。
「なんてこと…」
私は囁いた。
蓮は私の手を握りしめ、無関心な口調で言った。
「悲しいことだが、俺たちには関係ないことだ、依織。家に帰ろう」
彼はいつもこうだった。自分たちの完璧な世界の外部で起きることには、少し冷淡で、集中力を欠いていた。
彼は私を診察台から降ろそうと、立ち去る準備を始めた。
しかしその時、隣の部屋のドアが開いた。
疲れ切った目をした、安っぽい服の女が、小さな青白い男の子の手を引いて出てきた。
男の子は静かに泣いていて、顔は涙で濡れていた。
女は必死の形相で部屋を見渡し、やがてその視線は蓮の上で止まった。
彼女は凍りついた。
そして、その顔は衝撃と、私には名付けようのない何かが入り混じった感情で歪んだ。
彼女は一歩前に出て、小さな男の子をぐいと引いた。
「蓮さん…?」
彼女の声は震えていた。
「神宮寺蓮さん、ですよね?」
私の隣で、蓮の体がこわばった。
彼は振り向かない。何も言わない。
女はもう一歩近づいた。
「私です。沙耶です。ラスベガスの…。四年前の」
私は彼女と夫の顔を交互に見た。心臓が少しずつ速く鼓動し始める。
冷たい恐怖が、背筋を這い上がってきた。
玲央と呼ばれたその少年が、蓮を見上げた。
そして、その小さく青白い顔の中に、私は見てしまった。
蓮と同じ、シャープな顎のライン。同じ、奥まった瞳。
彼は、私の夫をそのまま小さくしたようだった。
蓮はようやく振り向いたが、その顔は信じられないといった表情の仮面で覆われていた。
「人違いだ」
彼の否定は、あまりにも早すぎた。
「ザ・ヴェネチアンよ」
沙耶は声を強めて続けた。
「あなたはIT系のカンファレンスで来てた。私たちは…私たちは、一夜を共にしたわ」
記憶が蘇る。ずっと昔、蓮が一度だけ話してくれたこと。
私と出会う前のラスベガスでの、酒の勢いで犯した一度きりの過ち。
意味のない一夜の関係で、後悔している愚かな判断だったと彼は言っていた。
私の視線は、再び玲央という少年に戻った。四歳。
計算は単純。そして、残酷だった。
私が生きてきた温かく幸せな泡は、ただ弾けただけではなかった。
粉々に砕け散り、無数の氷の破片になった。
私は蓮を見た。声はかろうじて囁きのようだった。
「本当なの?」
彼は私の目を見ようとしなかった。
「DNA鑑定をしましょう」
私は言った。その言葉は口の中で異物のように感じられた。
自分の声が、まるで他人のもののように遠く聞こえた。
結果を待つ一時間は、私の人生で最も長い時間だった。
沙耶は息子を抱き、落ち着き払い、どこか勝ち誇ったような表情で静かに座っていた。
蓮は険しい顔で床を行ったり来たりしていた。彼のカリスマ性は消え失せ、生々しく煮えたぎる罪悪感が取って代わっていた。
私はただそこに座り、膝の上で手を固く握りしめ、自分を保とうと必死だった。
感覚が麻痺し、まるで自分の人生が崩壊していく映画を観ているようだった。
ついに、看護師が一枚の紙を持って戻ってきた。
彼女は一言も発する必要はなかった。その顔を見れば、すべてがわかった。
結果は確定だった。親子確率99.9%。
玲央は、蓮の息子だった。
蓮は報告書を凝視し、顔面蒼白になった。
彼は私を見て、口を開閉させたが、言葉は出てこなかった。
ただ、途方に暮れ、打ちのめされたように見えた。
沙耶は、計算された哀れな声で泣き始めた。彼女は玲央を強く抱きしめた。
「蓮さん、この子は死にかけてるの」
彼女は叫んだ。
「お医者様は、骨髄移植が必要だって。あなたが唯一の希望なの。お願い、あなたの子なのよ」
「息子」という言葉が、物理的な打撃のように蓮を襲ったように見えた。
彼は病気の小さな少年を、その顔の涙を見つめた。そして、私の夫の中で何かが変わった。
彼の瞳にあった罪悪感は、獰猛で絶望的な責任感に取って代わられた。
彼は私を見たが、その視線は遠かった。
まるで彼はもう別の世界、私が存在しない世界にいるかのようだった。
「依織」
彼は strained 声で言った。
「家に帰ってろ。俺が…俺がなんとかする。だから、家に帰って休んでてくれ」
家に帰ってろ。
その言葉が頭の中で響いた。
彼は私を追い払おうとしている。
私たちの結婚生活で初めての本当の危機に、彼は彼女たちを選んだ。
私を、押し出そうとしている。
それは判決だった。宣告だった。
そしてその瞬間、私は自分が負けたのだと悟った。
戦うための怒りさえ見つけられなかった。
ただ、深く、心をえぐるような悲しみを感じた。
この男は、私を永遠に愛し、守ると誓った男だった。
私が心の底から愛した男だった。
しかし、彼には秘密があった。
四年前の秘密が、今、死にかけている。
そして、自分の子供を救いたいと願う彼を、私は憎むことができなかった。
私は立ち上がった。足元がおぼつかない。世界が少し傾いた。
私はクリニックを出て、彼を彼の過去と、彼の息子と、そして私の未来を破壊した女と共に、そこに残した。
美しく、しかしがらんとした私たちの家に戻った。
玄関ホールに飾られた巨大な結婚式の肖像画が、私を嘲笑っているように見えた。
希望に満ちた、私たちの笑顔。吐き気がした。
めまいに襲われ、世界が真っ暗になった。
目を覚ますと、私は自分のベッドにいた。
家政婦の佐々木さんが、心配そうな目で私を見下ろしていた。
「奥様、気を失われたんですよ。お医者様をお呼びしました」
優しそうな顔の医者は、鞄を片付けていた。彼は穏やかに微笑んだ。
「おめでとうございます、神宮寺奥様。ご懐妊ですよ」
妊娠。
その言葉が宙に浮いた。
小さな喜びの火花が私の中で瞬いたが、すぐに打ち砕くような不安の波に飲み込まれた。
赤ちゃん。私たちの、赤ちゃん。
でも、今の蓮は、私たちの赤ちゃんを望んでいるのだろうか?
「彼はどこ?」
私はか細い声で佐々木さんに尋ねた。
「蓮さんは?」
「旦那様はまだお戻りになっていません。お電話も…」
彼はまだ病院にいる。彼女たちと。
私はそこに横たわり、片手を平らな腹に、もう片方の手で携帯電話を握りしめた。
喜びと恐怖の嵐が、私の中で荒れ狂っていた。
彼は一晩中病院にいた。電話も、メッセージもなかった。
翌朝、私が巨大なダイニングテーブルで一人、トーストを無理やり喉に押し込んでいると、携帯が震えた。
見知らぬ番号からのメッセージ。
『あなたの家族を探しているそうですね。力になれるかもしれません』
私は画面を見つめた。心臓が激しく鼓動する。
私の家族。私が覚えていない家族。永遠に失われたと思っていた家族。
私は震える指で、たった一言、返信を打った。
『どちら様ですか?』
話 2
メッセージはロサンゼルスからの国際番号だった。
『柏木慧だ。俺は、君の兄だと思う』
兄。
一瞬、荒唐無稽な希望が胸に突き上げてきた。
私はずっと児童養護施設で育ち、自分は孤児で、過去のない少女だと信じて生きてきた。
十代の頃に記憶を奪った交通事故の後、私には誰もいなかった。
なのに、今、これだ。
私は震える指で、急いで返信を打った。
『どうやって私を?』
私は画面に目を釘付けにして待った。しかし、返信は来なかった。
朝食を脇に押しやった。トーストは段ボールのような味がした。
大邸宅の静寂は耳をつんざくようだった。
ホールにある大きな古時計の針が刻む一刻一刻が、私の胸の空虚さを反響させていた。
一日中、私は待った。
謎の慧と名乗る人物からの返信を。夫からの電話を。
どちらも来なかった。
夕暮れが訪れる頃には、朝に瞬いた希望はゆっくりと消えていった。
私の瞳の光は、沈む夕日と共に翳っていった。
蓮は帰ってこなかった。
私は完璧な家の中を、自分の人生の中の幽霊のようにさまよった。
彼が私と夕食を共にするためだけに早く帰ってきた時のことを、何度も思い出した。
私が料理をしている間、キッチンで私を抱きしめ、彼の顎が私の頭の上に乗っていた時のことを。
そのすべてが、遠い昔のことのように思えた。
今あるのは、沈黙だけ。孤独だけ。
続く数日間も同じだった。蓮は影のようだった。
私が目覚める前に家を出て、私が寝静まった深夜に帰ってくる。
キングサイズのベッドの隣のスペースは、冷たく空っぽだった。
私の中の傷は、重く、絶え間ない痛みとなって育っていった。
私がマニキュアの色を変えただけで気づいていた男が、今では私のことなどほとんど見ていないようだった。
彼と話さなければならない。
こんな宙吊りの不幸な状態で生き続けることはできない。
ある夜、私は暗いリビングルームに座って彼を待ち続けた。
時計が二時を打つ頃、ようやく鍵が錠に差し込まれる音が聞こえた。
彼は疲れ果てた様子で入ってきた。ネクタイを緩め、肩を落としている。
「依織?どうしてまだ起きているんだ?」
彼の声は疲れていて、怒ってはいないが、そこには距離があった。
「話があるの、蓮さん」
心臓が肋骨に激しく打ち付けているにもかかわらず、私は声を平静に保った。
「あなたと…あの人と…玲央くんとのこと、どうなってるの?」
彼はためらい、髪をかき上げた。
「複雑なんだ」
「愛してるのは依織だけだ。お前だけだ。それはわかってるだろ」
彼はそう言ったが、その言葉は空虚に感じられた。練習したかのように。
「玲央の責任は取らなければならない」
彼は続けた。
「沙耶には、彼が最高の治療を受けられるように、金銭的に望むものは何でも与える。だが、それだけだ。金と責任だけの話だ」
私は彼を見つめ、その顔を探った。
疲労と、罪悪感が見えた。
しかし、彼が私を含まない彼の人生の一部を囲い込み、壁を築いているのも見えた。
「彼女に、気持ちがあったことはあるの?」
その質問は、小さく、生々しく、我慢できずに私の唇から漏れた。
息が喉に詰まった。私は答えを恐れながら、彼の顔を見つめた。
「ない」
彼はついに私の目を見て言った。
「あれは過ちだ。一度きりのこと。それ以上は何もない。俺の人生は、お前と共にあるんだ、依織。お前だけだ」
安堵の波が押し寄せ、めまいがしそうになるほどだった。
私は彼を信じた。信じたかった。
私は立ち上がって彼の手を取り、それを私の平らな腹に引き寄せた。
私は彼に告げようとしていた。この混乱の中で唯一の良い知らせを分かち合おうとしていた。
「蓮さん、私…」
鋭く、執拗な着信音が静寂を切り裂いた。彼の携帯だった。
彼は私から手を引き離して電話に出た。その表情は、一瞬にして純粋なパニックに変わった。
「何だって?すぐ行く」
彼は電話を切り、すでにドアに向かって動いていた。
「玲央の熱が上がってる。治療への拒絶反応かもしれないそうだ。行かなきゃならない」
彼はまた、行ってしまう。
「寝てろ、依織」
彼はドアノブに手をかけ、肩越しに言った。
「いい子でな」
彼は行ってしまった。
私は広大で空っぽなリビングルームに一人で立ち尽くし、手はまだ腹の上にあった。
「私、妊娠してるの」
私は彼がいた空っぽの空間に向かって囁いた。
その言葉は沈黙に飲み込まれた。
一筋の涙が頬を伝った。
私の中の何かが、冷たい確信と共に知っていた。
私たちの完璧な世界にはひびが入り、二度と元には戻らないかもしれないと。
翌朝、目覚めるとナイトスタンドにギフトボックスが置いてあった。
中には美しいダイヤモンドのペンダントが入ったネックレス。メモが添えられていた。
『すまない、依織。埋め合わせはする。愛してる、蓮』
私の心の一部が和らいだ。彼は努力している。彼はまだ私の蓮だ。
私はそれを身につけようと、宝石箱に向かった。
そして、それを見てしまった。
ベルベットの箱に収められた、全く同じネックレス。去年のクリスマスにもらったプレゼント。
彼は、二度も同じものを買ったことにさえ気づいていなかった。
胸の中の小さな温かさは、氷に変わった。
これは心のこもった贈り物ではない。
秘書にでも買わせた罪悪感からのジェスチャー、もはや注意を払っていない男からの手っ取り早いごまかしだ。
まるで合図のように、私の携帯が鳴った。蓮の母、珠代さんからだった。
「依織さん」
彼女の声は磨かれた鋼のようだった。
「蓮の…状況を聞いて、本当に驚いたわ」
彼女が私に電話してきたことに驚いた。
神宮寺珠代は、家柄のない孤児の私を決して認めようとしなかった。
「大変な時期でした」
私は慎重に言った。
「ええ、そうね」
彼女は鼻を鳴らした。
「蓮には跡継ぎが必要だと、ずっと思っていたのよ。あなたがなかなか授からないのが残念だったけれど。でも、今や彼には息子ができたのよ!私にとっては孫がね。あなたは協力的でなければならないわ、依織さん。病院へ行って、沙耶さんとあのかわいそうな子に、少しは優しさを見せなさい。それが、あなたにできる最低限のことよ」
電話は切れた。
私はそこに立ち尽くし、彼女の言葉が耳の中で響いていた。
あなたにできる最低限のこと。
私の手は腹にいった。苦く、空虚な感情が私の中に広がっていく。
蓮と私が二年間話し合ってきた赤ちゃんのことを思った。
彼はいつも、急ぐことはない、もう少しの間、私を独り占めしたいと言っていた。
今、彼には息子ができた。彼を必要とする、病気の息子が。
そして私はただの…妻。子供を産めない妻。
でも、私は子供を産めないわけじゃない。
私は彼の子供を宿している。
そして彼は、そのことさえ知らない。
話 3
落ち着かず、傷ついた私は、かつて私の居場所だった場所へと車を走らせた。
恵比寿にあるシックなバー「アルケミスト」。蓮と出会う前に、私がバーテンダーとして名を馳せた場所だ。
グラスの触れ合う音、私とは何の関係もない会話のざわめき、そんな馴染みのある騒音が必要だった。
私はバーの隅のスツールに滑り込んだ。磨かれた木のカウンターが、手のひらにひんやりと心地よかった。
「あら、あら。誰かと思えば」
見上げると、そこにいたのは柏原沙耶だった。
彼女はバーカウンターの後ろで、安っぽく、体に合っていない制服を着て、カウンターを拭いていた。
「ここで何してるの?」
私は混乱して尋ねた。
彼女は疲れた笑みを浮かべた。
「家賃稼ぎよ。グラフィックデザインの仕事は不安定で、玲央の医療費が…大変なの」
彼女がここにいることが、まるで侵略のように感じられた。ここは私の聖域だったのに。
「クラブソーダにライムを」
私は苛立ちを押し殺して言った。
彼女は頷き、ゆっくりとした動きで私の飲み物を作った。
「あなたが誰か、知ってるわよ。というか、誰だったか。柏木依織。この街で最高のバーテンダー。蓮さんから、あなたの話を聞いたわ」
彼女の言葉はさりげないが、計算されているように感じられた。
蓮が彼女に他に何を話したかなんて知りたくなかった。ただ一人になりたかった。
「昔の話よ」
私は飲み物を一口飲んで言った。
彼女はカウンターに寄りかかり、声を潜めて共謀者のように囁いた。
「あの夜、ラスベガスで彼はとても寂しそうだった。お金目当ての浅はかな女たちにはうんざりだって。本物が欲しいって言ってた」
私はこわばった。こんな話は聞きたくない。
「彼はとても優しかった」
彼女は夢見るような目で続けた。
「私は大変な時期だったの。父が病気で。彼はただ、話を聞いてくれた。安心させてくれたの」
一言一言が、意図的にナイフをねじ込むようだった。
彼女が何をしているのか、私にはわかっていた。
彼女は、ただの酔った上での過ちではなく、深く感情的な繋がりがあったかのような絵を描いている。
私を、まるで「もう一人の女」であるかのように感じさせようとしている。
そして、それは効果を発揮していた。
抑えつけていた怒りと嫉妬が、喉元までせり上がってきた。
しかし、私は怒鳴りつけることができなかった。
なぜなら、彼女は彼の子供の母親だから。
彼女は、私が決して持つことのできない、彼に対する権利を持っている。
歪んだ形で、彼女が優先されるのだ。
痛みは、胸の中で固く、動かない塊となっていた。
私は顔を背け、ダンスフロアの点滅するライトを見つめながら、呼吸を整えようとした。
そして、彼を見た。
蓮。
彼は入り口に立って、部屋を見渡していた。私の心臓が跳ね上がった。
私を迎えに来てくれたんだ。
しかし、彼の視線は私には止まらなかった。沙耶を見つけたのだ。
彼はまっすぐ彼女に向かって歩いていった。その顔には心配の色が浮かんでいる。
ほんの数フィート先に座っている私にさえ、彼は気づかなかった。
「沙耶、ここで何してるんだ?」
彼は言った。その声は柔らかく、ここ数日、私には見せてくれなかった優しさに満ちていた。
「休んでなきゃダメだろ。玲央がお前を必要としてる」
私の心は沈んだ。彼は私のために来たのではなかった。彼女のために来たのだ。
かつて彼は、どんな人混みの中でも私を見つけることができた。
彼の目はいつも私の目を探し出し、大勢の人がいる部屋の中で、二人だけの秘密の繋がりがあった。
今、私は見えなくなっていた。
沙耶の目が私の方へちらりと動き、その奥に勝利の輝きが宿った。
その時になってようやく、蓮は彼女の視線を追い、私に気づいた。
彼は驚いたように見え、それから眉をひそめて不満げな表情になった。
「依織?こんな場所で何してるんだ?家にいるべきだろ」
その皮肉のあまりの酷さに、吐き気がした。
彼は街の半分を所有する億万長者なのに、私の世界は私たちの家の四つの壁に縮小してしまった。
しかし、彼の世界は、もう一つの家族を含むまでに拡大していた。
私は無理に、硬く、もろい笑みを浮かべた。
「昔を懐かしんでいたの」
私は傷ついた心を押し殺し、立ち上がってバーカウンターの後ろに移動した。
馴染みのある道具が、手にしっくりと馴染んだ。
「一杯、作らせて。昔みたいに」
それは私たちの儀式だった。彼を愛する、私のやり方。
彼はためらい、視線を沙耶に移した。
「無理だ。沙耶を病院に送り返さないと」
言い訳は薄っぺらかった。彼には24時間待機している運転手がいる。
私の手はシェーカーの上で止まった。
彼が私の作るカクテルだけが飲みたいと、私が彼の一番のファンだと、何度も言ってくれたことを思い出した。
「本当に、私に一杯も作らせてくれないの?」
私は小さな声で尋ねた。
「依織、今はそんな時じゃない」
彼は焦れた声で言った。
「玲央が病気なんだ。お前は休んでなきゃ」
いつも玲央のこと。いつも私の健康のこと。
まるで私が、彼が現実の生活に対処している間、棚にしまっておくべき壊れやすい人形であるかのように。
私の熱意は消え失せた。私は静かな音を立ててシェーカーを置いた。
蓮は私の失望を感じ取ったようだった。
彼は近づき、私の両肩に手を置いた。
「すまない、依織。約束する、玲央が良くなったら、旅行に行こう。二人きりで。そして、沙耶のことは俺が何とかする。彼女は俺たちの人生には入ってこない。約束する」
彼の約束は、私をなだめるためだけの、空虚な言葉のように感じられた。
私は答えなかった。
バーの向こうで、沙耶が制服から着替えていた。
彼女はこちらへ歩いてきて、その視線は蓮の私の肩にある手に止まった。
憎しみの閃光が彼女の顔をよぎったが、すぐに心配の仮面の後ろに隠された。
彼女は蓮が私を愛していることを知っていた。
しかし、そんなことは問題ではなかった。彼女には彼の息子がいる。
彼女は究極の切り札を持っていて、そして彼女が得られない唯一のもの、彼の心を持っている私を、憎んでいた。
「蓮さん、行きましょう」
彼女は切迫した声で言った。
「病院からまた電話があったの。玲央があなたに会いたがってるって」
蓮はため息をつき、私の肩から手を下ろした。
彼は一瞬、引き裂かれたように見えたが、それはほんの一瞬だった。
「そうだな」
彼は私に向き直り、再び声を和らげた。
「家に帰ってろ、依織。後で電話する」
彼は彼女と共に背を向けて歩き去り、もはや存在しない人生からの遺物である私を、そこに残していった。
私は彼らが行くのを見送った。視界が涙でぼやける。
わかっている。彼は疲れている。ストレスが溜まっている。私は彼のために言い訳をしようとした。
私はシェーカーを手に取り、彼の好きだった、複雑でスモーキーなオールド・ファッションドを作った。
バーカウンターに置くと、琥珀色の液体がライトの下で輝いた。
そして、私は店を出た。
彼は、私が作ったカクテルを、決して手つかずのままにはしないと約束していた。
今夜、それは、そのまま残されるだろう。