話 1
「理紗、綺麗になったな……」
熱を帯びた声が、紀伊理紗の耳朶を打つ。灼熱の手が肌を滑り、甘い痺れが走った。
表の斎場からは、厳かな鐘の音と、すすり泣きが微かに聞こえてくる。
理紗は木の欄干に男――谷川智彦に押さえつけられ、涙声で懇願した。「見られてしまいます……」
黒のタイトなワンピースの裾は乱れ、白くしなやかな太腿が、智彦の仕立ての良いスラックスにぴたりと密着していた。
禁忌。背徳。
……
「ねえ、お聞きになりました?昨日の中村先生の葬儀で、斎場の裏手で不義を働いていた不埒な男女がいたそうよ……」
夢語りカフェの、二階個室。
富豪である河合夫人は扇子で口元を隠し、侮蔑の色を浮かべながら谷川美桜の耳元へ身を寄せた。
「きっと、どこぞの放蕩息子が夜の蝶と戯れていて、厳粛な場で堪えきれなくなったのでしょうね」 美桜は眉根を寄せ、心底からの嫌悪感を露わにした。
彼女が人生で最も忌み嫌うのは、男女関係にだらしない人間であった。
「中村家ではすでに監視カメラの映像を確認しているそうですわ。二日もすれば、どこの誰か突き止められるでしょう」 と河合夫人は言った。
その言葉に、理紗は動揺してしまい、淹れていたお茶をテーブルにこぼしてしまった。
美桜が顔を上げた。「理紗、お茶を淹れる時は、手を落ち着かせなさい」
「理紗さんは、あなたが大切に育てただけあって、本当に素晴らしいわね。容姿端麗な上に、何より素直で慎み深い」河合夫人は理紗を品定めするように見つめた。
美桜は茶碗を手に取り、一口含むと満足げに頷いた。「女にとって最高の嫁入り道具は貞操ですわ。名家の令嬢であれば、なおのこと」
その時、個室の扉が開いた。
「谷川様がお見えになりました」
理紗は俯いたまま、視界の端でオーダーメイドの革靴と、高価な真新しいスラックスを捉えた。
「河合夫人、そして義姉さん」智彦の低く、優雅な声が響いた。
美桜は微笑んだ。「智彦さん、昨日はご帰国されるなり、飛行場から直接中村先生の葬儀に駆けつけてくださったそうね。理紗、あなたは斎場で智彦さんに会ったかしら?」
昨夜の、衝動的で背徳的な情景が脳裏をよぎり、理紗は俯いたまま顔を真っ赤に染めた。
なぜ彼があれほどまでに我慢ならなかったのか、理紗には理解できなかった。
熱いティーポットを握りしめている手の痛みにも、気づかないほどだった。
「会っていません」 智彦は理紗の手からこともなげにティーポットを受け取ると、自分のために茶を注ぎ、ゆっくりと答えた。
理紗の手のひらは、真っ赤に染まっていた。
(ピラミッドの頂点に立つ男は、こうも容易く手のひらを返すのか)
「理紗は昔から、叔父であるあなたのことが怖くて仕方がなかったのよ。七年前にあなたが出国されてからは、二人の仲もすっかり疎遠になってしまったわね」と美桜は笑った。
「ええ、見ていればわかりますわ。まるで猫に睨まれた鼠のように、怖がって顔も上げられないご様子ですもの」と河合夫人も笑った。
美桜は理紗を庇うふりをして言った。「理紗、この人を怖がる必要はないのよ。いずれ、この人をしっかり躾けてくれるお嫁さんを見つけてあげるから」
「そういえば、今日は杉山夫人もこの夢語りカフェにいらっしゃるとか」と河合夫人が茶碗を置いた。
美桜は智彦に向き直った。「杉山家から、谷川家との縁談に前向きなお話をいただいています。智彦さん、あなたはどうお考え?」
智彦は茶を一口飲むと、白いボーンチャイナの茶碗をその長い指で弄びながら答えた。「すべて、義姉さんにお任せします」
理紗は俯き、赤くなった掌に爪が食い込むのも構わなかった。
「では、まずはお二人で一度お会いになる機会を設けますわ」美桜は満足げに微笑んだ。
「まあ、おめでとうございます……。これは近いうちに、谷川様の祝杯をいただけそうですわね」 河合夫人は手を叩き、満面の笑みでおべっかを使った。
茶会が終わり、美桜と河合夫人が店の入り口で言葉を交わしている隙に、理紗は智彦のそばに歩み寄った。 「斎場の裏手には、監視カメラがありました。中村家はもう映像の確認を始めているそうです」
智彦は煙草入れから一本を取り出すと、唇に咥えた。彼の纏う不遜な空気が、周囲を圧する。「それが、どうした?」
「私たちだと、わかってしまいます」理紗は驚いて顔を上げた。
汐辺テラスは四方を水に囲まれ、竹の簾が頼りなげに掛かっているだけだ。外から見ればぼんやりとしか見えないが、隠せるものなど何もない。
監視カメラには、すべてが鮮明に記録されているはずだ。
「わかったところで、どうなる?」 智彦は煙草の端を軽く噛み、まるで他人事のように面白がる口調で言った。
谷川家の長男が亡くなって以来、次男である彼が谷川グループを率いている。
鳴海市の産業の半数以上を支配下に置く谷川グループのトップとして、智彦はまさにピラミッドの頂点で輝く存在だ。
世の趨勢を意のままに操り、彼に逆らえる者などいやしない。
この一件は、理紗にとっては破滅を意味する。
だが、鳴海市を牛耳るこの御曹司にとっては、取るに足らない色恋沙汰の一つに過ぎないのだ。
「谷川様、これからクラブにでもどうです?」 一台の黄色いポルシェが道端に停まり、窓が下がった。サングラスをかけた遊び人風の男たちが、智彦に手招きをしていた。
智彦は持っていた煙草を指で折ると、あたりを見回したが灰皿は見当たらず、こともなげにそれを理紗の手に押し付けた。
彼は長い足で歩みを進め、男たちの輪に溶け込んでいく。
ポルシェは轟音とともに走り去った。
理紗は手のひらで二つに折れた煙草を見つめ、どうしようもない悲しみに襲われた。
自分は、彼の気まぐれな玩具に過ぎないのだと。
谷川家の本邸、一階の居間。
智彦は、ここ数日家に戻っていなかった。
義姉の美桜は智彦に電話をかけた。「杉山汐里さんとお会いする約束をしましたの。智彦さん、一度会ってみてくださる?」
その夜、智彦は屋敷に戻った。
美桜は理紗に聞こえるように、からかうように言った。「智彦さんは遊びはしても、本分は弁えているわ。汐里さんとのお見合いの話をしたら、すぐに帰っていらしたものね」
ソファに腰掛けた智彦は、理紗を一瞥した。「手は、もういいのか?」
「理紗の手がどうかしたの?」と美桜が尋ねた。
「いえ、何でも。少し火傷しただけです」理紗は咄嗟に拳を握った。
そばにいた家政婦が微笑んだ。「谷川様はお優しいのですね。きっと将来、奥様をとても大切になさるでしょう」
「これが杉山汐里さんの写真よ。智彦さん、見てみて。お気に召すかしら」美桜が一枚の写真を差し出した。
智彦はちらりと理紗に視線を送り、尋ねた。「理紗はどう思う?」
美桜は写真を理紗の目の前に差し出した。「あなたの未来の叔母さんよ」
写真の中の少女は、一抱えの百合を胸に抱いていた。その清純な顔立ちとは裏腹に、豊かな胸元が隠しきれずに主張している。
「……ええ」 理紗はかろうじて声を絞り出した。
智彦は写真を受け取ると、しげしげと眺めた。「確かに、悪くない。理紗は見る目があるな」
理紗は眉をひそめた。
(ご自分で選んだくせに、どうして私の見る目があることになるの)
だが、彼が豊満な胸を好むことは、理紗も知っていた。
「まあ、相思相愛ですわね。杉山夫人のお話では、汐里さんはずっと前から智彦さんに想いを寄せていらしたとか。これはまさに、縁結びの神様のお導きね。きっとうまくいきますわ」美桜は手を叩いて喜んだ。
理紗が二階へ上がろうとすると、大きな影が階段の踊り場で彼女の行く手を塞いだ。
「ここから出て行け」 智彦の熱い吐息が、理紗の耳元を焼いた。
理紗はもがいたが、力強い両腕が彼女を逞しい身体にきつく引き寄せる。
「家なら、俺が買ってやる」 智彦は理紗の首筋に顔を埋め、熱心に唇を寄せた。
理紗の瞳に、涙がみるみるうちに溜まっていく。
彼は明日、お見合いに行く。家柄の釣り合った、申し分のない結婚。半年もすれば、式を挙げるだろう。
では、自分はいったい何なのだろうか?
「杉山家のお嬢様に、知られてもいいのですか?」理紗の声は嗚咽に震えた。
「あいつに知られるものか」智彦は彼女の首筋に吸い付きながら、情欲に掠れた声で囁いた。
理紗は目を閉じた。熱い涙が、頬を伝って流れ落ちる。
日陰の恋人。
決して光の当たることのない、籠の中の鳥。
世間では、彼女は谷川美桜の養女であり、名目上の谷川家の令嬢だ。
だが、それが孤児であるという事実を変えてくれるわけではない。
幸いにも普通の少女として育ち、学問を修めることができたのは、ひとえに谷川美桜の気まぐれな善意のおかげに過ぎない。
彼女には、頼れる者など誰もいないのだ。
幸い、学業の成績は良く、鳴海市で一番の大学に入ることができた。
卒業まで、あと一年。自分の力で働き、お金を貯めて、ささやかな家を手に入れたい。
そして、普通の女の子のように恋をして、家庭を築きたい。
理紗の人生の選択肢に、誰かの愛人になるという道はなかった。
「叔父さん……」理紗は口を開いた。
「俺の名前を呼べ」 智彦が、彼女の顎を掴んだ。
鳴海市を牛耳るこの男の名を、誰が気安く呼べるというのだろう。
理紗は唇の端を歪めた。「谷川様。あの夜のことは、何もなかったことにさせてください」
暗闇の中、智彦の瞳の奥で、どす黒い感情が渦を巻いた。
階下から、美桜の電話の声がはっきりと響いてくる。「ええ、監視カメラの映像は手に入れたわ。……一体どこの恥知らずな女が、神聖な葬儀で男を誘惑したのか、この目で確かめてやる」
話 2
「見つかったら、私は……。谷川様なら監視カメラの映像を消去できるはずです、どうか……」 紀伊理紗は谷川智彦の袖をつかみ、泣きそうな声で懇願した。
「明日、見合いがある。時間がない」 智彦は理紗の手を振り払い、冷たい背中を向けた。
簡単なことのはずだった。だが、彼は手を貸さなかった。
理紗はその場に立ち尽くし、全身の血が凍るようだった。
中村先生の葬儀で智彦と密会していたことが明るみに出れば、自分は再起不能なほど落ちぶれてしまうだろう。
谷川家からは追い出される。
大学は退学処分。
卒業証書も手に入らず、就職もできない。長年の努力が、すべて水の泡となる。
人望の厚かった中村先生、その葬儀で義理の叔父である智彦を誘惑したとなれば、 万死に値する罪だ。
悪評が立てば、鳴海市に自分の居場所はなくなるだろう。
これほど広い世界で、一体どこへ行けばいいというのか。
理紗は壁に沿ってずるずると座り込み、口を手で覆い、声を殺して泣いた。
翌日、理紗は大学へは行かず、家で生きた心地がしないまま、頭上に吊るされた剣がいつ落ちてくるかと怯えていた。
昼食後、間もなくして智彦が帰ってきた。
「杉山汐里さんとのお見合いはどうでした?」と、義姉の谷川美桜が彼を迎えた。
智彦は眉を軽く上げ、機嫌が良さそうに答えた。「とても気が合いましたよ」
美桜はほっと息をついた。「それは良かった。すぐに杉山夫人に電話して、あなたたちの結婚について相談します」
智彦は玄関の靴に目をやった。「理紗は家に?」
美桜は電話をかけながら言った。「お腹が痛いと言って、今日は学校を休んでいます」
智彦は上着を脱いだ。「様子を見てきます」
「理紗ももう大人です。叔父と姪とはいえ、立場をわきまえるべきですよ」
智彦は階段の途中で立ち止まり、軽く笑った。「あの子は俺が小さい頃から見てきましたから」
「それもそうね」美桜は頷き、そして満足げに続けた。「理紗は誰よりも規律正しい子です。一線を越えるようなことは決してしません」
二階の寝室。
「生理か?」 ピンク色の布団の小さな膨らみに向かって、智彦は声をかけた。彼は布団の中に手を差し入れ、彼女のしなやかな体の曲線に沿って下へと滑らせる。
「叔父さん」 理紗は悲鳴に近い声をあげ、慌ててその不躾な手を捕まえようとした。
「顔色が悪いな」 智彦は、理紗の額にかかった乱れ髪を耳の後ろへとかき分けた。
理紗は彼の手から逃れるように顔を背けた。
智彦は彼女を自分の膝の上へと引き寄せ、下腹部をさすった。「何度かすれば、生理痛も軽くなるらしいぞ」
全身に電流が走ったかのように、理紗は震えた。
何度かする。
彼が自分を手放す気がないことを、 理紗は悟った。
智彦はわざと監視カメラの映像が見つかるように仕向けたのだ。そうすれば、自分は谷川家を追い出され、大学を退学になり、行き場を失う。彼に屈し、飼われるしかなくなる。
理紗は声もなく泣いた。「谷川様、お願いです……せめて、卒業までは……」
智彦は理紗ごと布団に潜り込んだ。布団の中は、たちまち熱っぽく、甘い空気に満たされ、彼は彼女が何を言っているのかまるで聞いていなかった。
不意に、彼は眉をひそめた。「生理じゃないな」
理紗はこくりと頷いた。
智彦は深く息を吸い、その手で悪戯を始めた。「嘘つきめ……」
理紗の頭の中は混乱していた。
智彦に逆らうことも、拒むこともできない。
身じろぎ一つもできない。
智彦は手慣れた様子で下着のホックを外し、一枚、また一枚と衣服を剥いでいく。その瞳に宿る欲望の色は、次第に濃くなっていった。
布団の下で、彼の手は理紗のすべてを確かめるように動き回り、呼吸はますます荒くなる。
理紗は体を縮こませた。顔が熱い。男の濃密な気配に包まれ、 理紗の理性が溶けていく。
彼の愛撫に、全身が汗ばんだ。
欲望が、爆ぜる寸前だった。
コン、コン、コン――。
「どうしてドアを閉めているのです? 智彦さん、お話があります」美桜の声がドアの外から響いた。
理紗は魂が抜けたようにベッドから飛び起き、慌てて服をつかもうとする。
智彦は彼女をベッドに引き戻し、布団でその体を包み込んだ。
彼は立ち上がってドアへ向かった。
ドアが開くと、そこにいたのは微笑みを浮かべた智彦だった。その表情はすっかり落ち着き払っている。「義姉さん、何か御用ですか?」
彼の顔には先ほどまでの情欲の痕跡は微塵もなく、 まるで別人のようだった。
「中村家の方が言うには、監視カメラの映像は手に入ったものの、距離が遠くて男女の顔がはっきりしないそうです。あなたの下には、最高の技術チームがいますね。映像の解像度を上げてもらえないかしら」 美桜が言った。
智彦は袖口を整えながら答えた。「簡単なことですよ」
理紗は眉をひそめた。
断ることもできたはずなのに。
美桜は安堵のため息をつくと、理紗に視線を向けた。「あの日、理紗が奥のホールから戻ってくるのを見ました。汐辺テラスに誰かいるのを見かけましたか?」
あの日、中村先生の葬儀でのこと。
すべてがあまりに突然だった。
汐辺テラスで、二人は上半身の服は着たまま、下半身は隙間なく重なり合っていた。遠目には、ただ寄り添っているようにしか見えなかっただろう。
激情の最中だった。
湖を挟んだ向こう岸で、誰かがこちらに手を振っているのが見えた。
極限の状況で、すべてが解放された。
そして、前田夫人が近づいてきて、智彦に挨拶をした。
理紗はスカートの裾を引き下ろすのが精一杯だった。
顔は紅潮し、目は動揺に揺れていた。
顔を上げると、智彦はすでに背を向け、ポケットに両手を突っ込んで涼しい顔で立っていた。その身なりは、寸分の乱れもない。
瞳からはとっくに情欲の色が消え失せていた。
まるで、さきほど欲に溺れていたのは自分だけだったかのようだ。
思い出にふけっていた理紗は、我に返った。視線を上げ、美桜の目とぶつかった。慌てて首を横に振った。「い……いませんでした」
美桜は頷いた。「いないなら結構です。あなたは良家のご令嬢なのですから、あのような汚らわしい話は耳に入れるのも、目にするのもいけません」
理紗は罪悪感に苛まれ、うつむいた。
美桜が尋ねた。「一週間以内に結果は出ますか?」
智彦は落ち着いた口調で答えた。「長くとも五日です」
理紗ははっと顔を上げた。目の縁が赤くなっている。
(谷川智彦は一体どういうつもりなのだろう)
二人の不貞を天下に知らしめたいとでもいうのか。
それもそうか。この不貞が露見すれば、世間は間違いなく自分が意図的に誘惑したと決めつけるだろう。何しろ、谷川グループの御曹司が女に困るはずがないのだから。
理紗の目に涙が滲んだ。
「早ければ早いほどいいです。一体どこの恥知らずな女か、この目で見てやりたいものです」美桜は歯ぎしりをした。
彼女は、色香で男を惑わす女を心の底から軽蔑していた。
美桜は理紗の方を向いて言った。「理紗、叔父様がいらっしゃるのに、布団に潜っているなんてはしたない。早く起きなさい」
理紗に起き上がることなどできるはずがなかった。
布団の下は、裸なのだ。
「どうしたの?熱でもあるの?」美桜は理紗の顔が真っ赤なことに気づき、その額に手を伸ばした。「どうしてこんなに汗をかいているの」
理紗は俯いたまま、心臓が喉から飛び出しそうだった。
熱などない。智彦のせいでかいた汗だ。
智彦はポケットに両手を突っ込み、まるで他人事といった表情で言った。「理紗は生理なんですよ。長谷川に生姜湯でも作らせてください」
「生理なら私に言えばいいものを、叔父様に言うなんて、はしたない」美桜は咎めるように言った。
智彦の口元に、意味ありげな笑みが浮かんだ。「俺に甘えているんですよ」
理紗の神経は切れそうだった。智彦は、自分をいたぶるこの状況を心から楽しんでいるようだった。
美桜は手を引っ込め、微笑んだ。「叔父さんと姪が仲睦まじいのは良いことです。杉山汐里さんがお嫁に来たら、理紗も彼女と仲良くしてちょうだいね」
智彦は眉を上げた。肯定のしるしだ。
布団の下で、理紗は指の関節が白くなるほど、シーツを強く握りしめた。
美桜は智彦と連れ立って部屋を出て行く。「汐里さんへの贈り物をいくつか選びに行きましょう。次に会う時に渡せるように」
一週間の猶予を得て、理紗は大学に戻った。
そんなある日、美桜から電話がかかってきた。「理紗、すぐに戻ってきなさい」
理紗の心臓が、どきどきと音を立てた。来るべき時が、来てしまった。
話 3
「理紗、いらっしゃい。あなたの未来の叔母さんになる方よ」
谷川家の本邸に足を踏み入れると、谷川美桜が親しげに彼女を手招きした。
杉山汐里がゆっくりと顔を上げた。清らかな大きな瞳が、涙で潤んでいる。
美桜はため息をつき、汐里の手を握った。「どこの御曹司だって、夜のお店に入り浸って女遊びの一つや二つはするものですわ。ましてや智彦さんのような方ならなおさらよ」
汐里はしゃくりあげた。「兄から、智彦さんがクラブにいると聞いても信じられなくて……自分の目で見に行ったら、本当に彼は女を両脇にはべらせて……」
「あなたはもう彼の彼女なのだから、きちんと引き戻してあげなさい」
汐里は顔を覆って泣き崩れた。「一緒に帰りましょうって言ったのに、聞いてくれないの」
「福田さんに行かせて、連れ戻させましょう」
汐里は首を横に振った。「福田さんはもう行ってくれたわ。でも、智彦さんは帰ろうとしないの」
美桜は少し考え込むと、顔を上げて言った。「理紗、あなたは年下なのだから、叔父様を呼びに行けば、彼も無下にはできないはずよ」
理紗は踵を返して玄関へ向かった。
「福田さんを連れて行って」と美桜が呼び止めた。
よほどのことがない限り、理紗をクラブのような場所に行かせたくはなかった。
家の運転手である福田剛志は思慮深く、彼女の腹心でもある。
彼が一緒なら安心だった。
クラブの中は、色とりどりのライトが乱舞し、着飾った男女が騒めく、まさに絢爛たる夜の世界が広がっていた。
理紗は、むせ返るようなアルコールと香水の匂いが渦巻くフロアを抜けながら、何度も言い寄ろうとする男たちを振り払った。
個室の扉を開けると、そこには男女が入り乱れていた。
谷川智彦の指先には、赤い光点が揺らめき、もう片方の腕はソファの背もたれにゆったりと伸ばされている。
官能的なドレスをまとった女が彼の膝に座り、酒を飲ませていた。立ち上る紫煙が彼の目元を覆い、その表情は窺い知れない。
理紗の品のある佇まいは、その場の雰囲気から明らかに浮いていた。
突然音楽が止み、全ての視線が彼女に突き刺さる。
理紗は前に進み出て、小声で言った。「叔父様、杉山さんがお屋敷でお待ちです」
「叔父様? これが谷川様のところの養女か。ずいぶんと瑞々しく育ったもんだな」 と隣の男が下卑た笑いを浮かべた。
理紗が顔を上げると、その男が鳴海市でも有名な高官、井上泰弘の息子――井上琢真であることに気づいた。
父親の権力を盾に、彼は傍若無人の限りを尽くしていた。
杉山さんが腹を立てるのも無理はない。こんな男とつるんでいて、ろくなことをしているはずがなかった。
「極上の水蜜桃だな……」琢真は淫らな視線を向け、ワイングラスを片手に理紗の前まで来ると、彼女の髪の先端を掴んで深く匂いを嗅いだ。
芳しい香りが鼻孔をくすぐり、琢真は陶然とした表情を浮かべた。「いい香りだ……」
「消えろ」 智彦の眼差しに、昏い光が宿る。
理紗の体が微かに震えた。
琢真は智彦を一瞥し、唇の端を吊り上げてさらに大胆になる。ワイングラスを理紗の口元に押し付けた。「せっかく来たんだ。俺と一杯付き合ってから帰りな……」
個室にいた五、六人の男たちが、一斉に面白がるような笑い声を上げた。
ガシャン――。
ボトルが砕け散る音と共に、赤ワインが飛び散り、智彦の隣にいた女が耳を塞いで甲高い悲鳴を上げた。
琢真は信じられないといった様子で振り返った。一筋の血が、彼の額を滑り落ちていた。
智彦は砕けたボトルを投げ捨てると、指を鳴らした。「チャンスは一度しかやらん」
その場にいた者たちは、先ほどの「消えろ」が琢真に向けられた言葉だったことを、ようやく理解した。
智彦は理紗を懷に引き寄せると、氷のように冷たい声で言い放った。「お前たちのプロジェクトは全て白紙だ。谷川グループは提携を拒否する」
部屋中の人間が愕然とした。
一晩かけて、ようやく谷川智彦を説得し、投資の約束を取り付けたというのに。
一瞬のうちに、なぜこの金のなる木を怒らせてしまったのか、誰にも分からなかった。
智彦は理紗の肩に腕を回し、千鳥足で部屋を出た。
福田が車のドアを開けると、智彦は理紗を抱えるようにしてマイバッハの後部座席に転がり込んだ。
「雲上ヴィラへ」 智彦が理紗の上にのしかかり、低く掠れた声で命じた。
雲上ヴィラは、鳴海市で最も豪華な邸宅街だ。
二年前に分譲が開始されたとき、美桜がコネを使っても手に入れられなかった場所である。
智彦がどうやって手に入れたのかは、誰も知らなかった。
智彦の手が、タイトスカートのスリットから伸び、太ももの付け根で止まった。「こんな窮屈な服は嫌いだ」
彼は不快感を露わにした。
理紗は顔を背け、アルコールの匂いが混じる吐息から逃れながら、彼に言い聞かせた。「杉山さんと奥様が、お屋敷であなたを待っています」
「そんなにあの家が好きなのか?」智彦が理紗の耳たぶに噛みついた。
理紗は思わずくぐもった声を漏らし、慌てて口元を覆った。
福田は谷川美桜の人間だ。
谷川智彦は怖いもの知らずだが、自分は違う。
携帯電話が鳴り響いた。智彦は彼女の手を押さえつけた。「出るな」
理紗は電話に出た。
美桜の声が聞こえてくる。「叔父様は見つかった?」
車窓の外に広がる深い夜が、車内を薄暗く包み込む。
その闇に紛れて、智彦はさらに大胆になった。
ビリッ――。
太ももに冷たい空気が触れた。
智彦がタイトスカートを引き裂き、その手はあるべきでない場所へと侵入していく。
理紗は頭皮が粟立つのを感じながらも、必死に声の調子を保った。「まだ……」
その返事に満足したのか、智彦の手つきが少し優しくなる。
電話の向こうから、汐里の泣き声が聞こえてきた。
美桜が厳粛な声で告げた。「叔父様にお伝えなさい。汐里さんはずっとあそこにいると。彼が帰ってこなければ、彼女も帰らないそうよ」
智彦は携帯電話をひったくって一方的に通話を切り、彼女の顔を自分の方に向けさせると、有無を言わさず唇を重ねた。
アルコールが混じった息が理紗の鼻孔に流れ込む。その後から、智彦だけが持つ清冽な香りが追いかけてきた。
理紗の体から、抗う力が抜けていく。
彼女の心は、罪悪感と背徳感でかき乱されていた。
物心ついてから、美桜に嘘をついたことなど一度もなかった。
だが、智彦が帰ってきてからというもの、良心を裏切る嘘を重ね続けている。
車は雲上ヴィラに到着した。
福田はバックミラー越しに、顔を紅潮させた理紗に言った。「若様はひどく酔っておられます。申し訳ありませんが、中に入って介抱をお願いできますでしょうか」
智彦は彼女の肩にぐったりと寄りかかり、人事不省に陥っていた。
理紗は仕方なく、彼を支えて家の中へ入った。
玄関をくぐった瞬間、世界が反転するような感覚と共に、理紗の体は広くて暖かい腕の中に落ちていた。
智彦は立ち止まり、福田に告げた。「一ヶ月、里帰りの休暇をやろう」
福田は全てを察し、頷くと、そのまま車で故郷へと向かった。
理紗は自分が虎の穴に入ってしまったことに気づいたが、もう手遅れだった。
智彦は彼女をベッドに放り投げると、その体を押さえつけ、覆いかぶさった。
初めては汐辺テラスだった。
立ったままの、緊張と痛み、そしていつ誰かに見られるかもしれないという恐怖に満ちた行為。
だが今回は、彼の呼吸は荒いものの、動きは驚くほど優しく、忍耐強かった。
理紗は、この行為が苦痛だけではないことを知った。痛みの後には、身を焦がすほどの快感が待っていた。
夜が明けるまで、二人は幾度となく求め合った。
朝、目を覚ますと、智彦がベッドのヘッドボードに寄りかかっていた。その長い指には一枚のカードが挟まれており、顔には侮蔑的な笑みが浮かんでいる。「『絵画のごとき絶景も、君が眉間に差す一抹の紅にはかなわない』……随分と気障な詩を書いてくれるじゃないか」
理紗が手を伸ばして奪おうとすると、智彦は指先でひらりとそれをかわし、床に投げ捨てた。
「前田晟とは誰だ?鳴海大学の学生会長か? それとも、品行方正な奨学金受給者の貧乏学生か?」
その声には、あからさまな嘲りが含まれていた。
理紗は何も言わず、黙って下着を身につけた。
前田晟は学生会長で、大学で最も優秀な学生だ。
そして、自分とは違う。裕福な家庭に生まれ、幸せな家族に囲まれた、いわゆる御曹司だった。
彼が自分に想いを告げてくれたことにも驚いたが、それを谷川智彦に見つかってしまうとは。
理紗はカードを拾い上げ、鞄にしまった。
智彦は無造作に一枚のブラックカードを彼女の前に放った。「上限なしだ。好きにしろ」
カードに刻まれた001の金色の文字が、理紗の目を焼いた。
これは、一夜の代償ということだろうか。
理紗はクレジットカードを脇に置いた。「必要ありません。お金には困っていませんから」