話 1
芳村智子と宗谷晴真は二年という月日を共にしていたが、彼が唐突に結婚を切り出した。今日の宗谷家当主の葬儀を機に、彼女を親族に紹介し、その立場を確固たるものにしようという算段だったのだ。
しかし、一時間ほど前のこと。葬儀に現れた一人の女を目にした途端、晴真は血相を変え、智子に「少し用ができた」とだけ告げると、慌ててその女の後を追っていってしまった。
「智子さん、あちらは他の者に任せて、晴真が休憩室にいるか見てきてちょうだい。叔父様がもうすぐお見えになるから」
姑となる紀村琴子は、息子が連れてきたこの恋人を快く思っていなかった。家柄は平凡、その上、まるで狐に化かされたような妖艶な顔立ち。玄関で客を出迎えさせるなど、家の格が下がる、と。
智子は、未来の姑の言葉に、素直に「はい」と頷いた。
ホールを抜け階段を上り、晴真の私室の扉を開ける。中は静まり返り、誰の気配もなかった。
他の場所を探そうと踵を返した、その時。浴室から漏れ聞こえる妙な音に、智子はぴたりと足を止めた。
ハイヒールを脱ぎ捨て、音を殺して半開きの扉へと近づく。
その隙間から見えたのは——二年間、愛し続けた恋人が、女の脚を担ぎ上げ、洗面台に押し付けている光景だった。浴室には、生々しい水音と嬌声が満ちていた。
「帰ってこなきゃよかった……」女は泣きじゃくりながら喘いだ。「あなたに弄ばれて、他の女と結婚するところを見せつけられるなんて……離して!」
「離さない。君が黙って消えたのが悪いんだ。もう戻らないと思って、俺は智子と付き合うことにしたんだ」 晴真は彼女を慰めるように腰を動かしながら囁く。「あいつは、ただの気晴らしの……代用品だよ」
「じゃあ、その子と別れてよ」 女は彼の首に腕を回し、潤んだ瞳で訴える。「私はもう昔の私じゃないの。六条家の娘になった今、あなたの妻になる資格があるはずよ」
晴真は、一瞬ためらった。智子と過ごした二年間は、たとえ相手が犬であったとしても情が湧くほどの時間だ。
「そんな簡単な話じゃ……」
彼が言い終わる前に、裏切られた智子は冷静にドアを押し開けた。そして、悲しみの色を浮かべた瞳で告げる。「ええ、別れてあげる」
彼女の堂々とした登場に晴真は度肝を抜かれ、女の内にあったものは見る影もなく萎んでしまう。その顔には、ありありと動揺が浮かんでいた。「……智子」
智子は、無様に絡み合う二人の裸体を一瞥し、まるで初めてこの男を見たかのような目を向けた。
みるみるうちに瞳に涙を溜め、二、三歩あとずさる。「結婚したら、あなたに私のすべてを捧げるつもりだった……なのに、二年間も愛した人が、私をただの代用品としか見ていなかったなんて」
彼女は背を向け、しかし一度だけ、感情を押し殺した声で振り返った。「ズボン、穿きなさい。叔父様がお戻りよ」
晴真は狼狽えながらズボンを穿くと、六条玲奈のスカートの裾を雑に下ろし、後は自分で何とかしろと目で合図して、急いで智子の後を追った。
廊下で追いつき、彼女の腕を掴む。何度か口を開きかけては閉じ、やがて途方に暮れたように弁解を始めた。 「玲奈は、俺の初恋の相手なんだ。昔、本当に幸せな時を過ごした。……今もまだ彼女を愛していて、突然目の前に現れたものだから、どうかしてたんだ……」
智子は彼の手を振り払い、彼の後ろから現れた玲奈に視線を投げると、堪えていた涙を絶妙なタイミングで一筋、流してみせた。「あなたにはたくさん助けていただきました。感謝しています。でも、私の二年という貴重な時間を無駄にした今回の裏切りで……ええ、お互い、貸し借りなしにしましょう」
「智子、待ってくれ!別れるなんて思ってない!」 晴真は必死に彼女の行く手を阻む。玲奈に誘われ、彼女の身体を貪っていた時でさえ、彼の頭には智子と別れるという選択肢は微塵もなかったのだ。
「今日は、お祖父様の葬儀です。私は、まだ『あなたの恋人』を演じきります」
智子は二人を置き去りにした。そして、顔を背けた瞬間、ぴたりと感情を切り替え、涙を拭うと、口の端を微かに吊り上げた。
大学二年の時、海外から帰国した智子の生活は困窮を極めていた。学費と生活費のために昼夜を問わず働き詰めだった彼女を救ったのが、晴真だった。学費、家賃、そして塾の費用まで、すべて彼が工面してくれたのだ。
彼は智子に惜しみなく金を使い、彼女が見たこともない世界をたくさん見せてくれた。
その恩に報いるため、彼女は彼の猛アプローチを受け入れ、物分かりが良く、決して我儘を言わない恋人を演じてきた。
ただ、身体の関係だけは別だった。愛していない相手とはどうしても一線を越えられず、「結婚するまで」を口実に、二年間清い関係を保ってきた。
思えば、今回晴真が結婚を急いだのも、あまりに長く待たされ、欲求が限界に達していたからだろう。
そして今、彼の浮気によって別れに至る——これは、好都合にも智子の思惑通りだった。非は晴真にあるのだから、円満に、そして傷一つなく身を引ける。恩返しという重荷からようやく解放されたような、晴れやかな気持ちさえあった。
話 2
二人が階上に消えてから、やや時間が経っていた。
琴子が階段の下まで来ると、階上を見上げながら声をかけた。「智子さん、晴真は見つかったかしら?」
「はい、お義母様。見つかりました。今すぐ参ります」
智子は階下へ返事をした。
参列者がまもなく揃うとあっては、晴真も智子と事を構えるわけにはいかない。玲奈に至っては口を挟む資格すらない。三人は静かに階段を降り、前庭へと向かった。
その小さな庭の先に、一台の黒いマイバッハが静かに滑り込んできた。
智子は、晴真のネクタイが曲がり、シャツのボタンが緩んでいるのが目に入った。最後に残った情けだろうか。彼の体面を保つため、そっと手を伸ばして直してやる。
「兄さん、義姉さん」
不意に響いた男の声は、低すぎず、どこか水気を含んだような色香を帯びて、智子の耳朶を直接打った。
智子の指先がぴくりと強張る。――骨になっても忘れようのない、声だった。
振り返り、人々の向こうに目を向けた瞬間、その視線は、有無を言わさぬほど攻撃的な漆黒の瞳に絡め取られた。
男はここで彼女に会うとは想定外だったのだろう。その眼差しは鋭く底には激情が渦巻いていた。
視線がぶつかり、智子は息が詰まるのを感じた。心臓が跳ね上がり、咄嗟に赤らんだ目を逸らす。
まさか。二年前に理由も告げず一方的に自分を捨て、姿を消した元カレと、宗谷家の葬儀で再会するなんて。
それも、こんなにも見違えるほど、立派な姿で。
琴子は宗谷颯介にひとつ頷いてみせた。「あなたで全員よ。さ、中に入りましょう」
智子の傍らを通り過ぎる際、颯介はぴたりと足を止め、全身から冷気を放ちながら、感情の読めない声で問いかけた。「……彼女が?」
晴真は、微かに震える智子の手を握りしめ、答えた。「ああ、俺の恋人だ」
颯介は、ふん、と鼻を鳴らし、二人を追い越していった。
その一瞥と鼻息には、宗谷家にとって何の益にもならぬ女を選んだ甥への、侮蔑がありありと含まれているようだった。
一同が通り過ぎた後、晴真が智子に囁きかける。 「どうした?手が震えてるぞ」
智子は浅く息をし、ありきたりな嘘を吐いた。「あなたに腹を立てて、心臓が痛むの」
晴真は言葉に詰まる。「俺は……」
「さっきの方は、どなた?」智子は声を潜めて尋ねた。
晴真は眉根を寄せる。「俺の、叔父だ」
智子は凍りついた。瞳の奥に、氷のような冷たさが広がる。「……奇遇ね」
「何がだ?」
「昔、車に撥ねられて死んだ元カレがいたんだけど、その人にそっくり」
かつて海外で、素行の悪いチンピラのように拳で日銭を稼ぎ、古びた安アパートで智子の首を絞め、息もできなくなるほど激しく貪ったあの男が――。二年ぶりに再会した彼は、晴真の叔父であり、正真正銘の名家の人間になっていた。
体よく捨てられただけ。クズ中のクズだ。
晴真は智子に元カレがいたことなど初耳で、途端に不機嫌な色が顔に浮かんだ。
やがて、参列者が全員、霊堂の中へと入っていく。
晴真は智子を促し、声を落とした。「いいか、俺のそばを離れるな。……あとの話は、祖父さんの葬儀がすべて終わってからだ」
この期に及んで、晴真もようやく理性を保っていた。背後から玲奈が哀れな子犬のような視線を送ってきていたが、大勢の前で醜態を晒すことだけは避けねばならない。
今日、智子が宗谷家の未来の嫁としてこの場にいることは、ここにいる誰もが知っているのだから。
智子は晴真に連れられ、何人かの親族に紹介された。自分に向けられる値踏みするような、あるいは侮蔑の籠もった視線など全く意に介さず、ただ、颯介の前に立たされた時までは。
つい先ほど、彼女はゴシップ好きの親族たちの会話から、この『死んだはずの』元カレが、今年は神代家の令嬢との婚約が有力視されていることを耳にしたばかりだった。彼のアプローチは、かなり積極的らしい。
名家同士、二人とも素行は清らかで、共同事業も多い。まさしく、天が定めた縁なのだと。
智子は、聞いているだけで吐き気がした。
話 3
胃の奥からこみ上げてくる強い吐き気を必死にこらえ、智子は微笑みを浮かべた。優しく晴真の襟元をもう一度直し、その腕にそっと自分の腕を絡めると、颯介に向き直って自己紹介をする。「叔父様、はじめまして。私、晴真さんとお付き合いさせていただいております、芳村智子と申します」
そう言って白く細い手を差し出したが、目の前に立つ、圧倒的な威圧感を放つ男は、ただ真っ直ぐに彼女を見据えるだけだった。その引き結ばれた顔には、自らの領域を侵されたかのような、怒りの色が滲んでいる。
彼に握手をする気など毛頭ない。言葉を返すことすらせず、意図的に彼女を立往生させようという魂胆が見え透いていた。
颯介のこの態度は、ここにいる全ての者に対し、この芳村智子という女は晴真の恋人にふさわしくないと、暗に示しているも同然だった。
「叔父様…?」智子は、目の奥が一切笑っていない微笑みを保ったまま、あくまで物腰柔らかく、丁寧に問いかける。
ほんの五分前まで、晴真の恋人という立場など投げ出して、穏やかな日常に戻りたいとさえ思っていた。だが今、颯介を前にし、その恐ろしい眼差しを受け、彼の過去の所業を思い返した今、智子は悟る。この男がいる限り、安穏とした日々など決して訪れない。ならば、晴真の恋人というこの立場は、まだ手放すわけにはいかない。
琴子にしてみれば、ふらりと戻ってきたこの義弟の今日の振る舞いは、実に小気味良いものだった。少なくとも、甥の嫁選びという点においては、二人の意見は完全に一致しているのだから。
颯介が頑なに握手を拒み、自分の存在を認めようとしない。その仕打ちに、智子はいかにも傷ついたという風情で、晴真に縋るような視線を送った。
晴真は、智子がいかに純粋で従順かを知っているだけに、今日彼女が受けた屈辱を思い、堪らない気持ちになった。彼女の手を引いてぐっと自分の胸に抱き寄せると、不満を隠そうともせず颯介に言い放つ。「叔父さん、どんな事情があれ、智子は俺が連れてきた彼女なんだ。少しは俺の顔を立ててくれてもいいだろう」
颯介は唇の端を吊り上げ、冷笑を浮かべる。その視線は智子の横顔と、彼女の細い腰に回された晴真の腕に突き刺さっていた。「お前、血迷ったか。どんな女にでも手を出すとはな」
晴真が憤然と何か言い返そうとするのを、智子は彼の胸に手を当てて制した。彼のシャツに残る、別の女の悪趣味な香水の匂いに耐えながら、か細い声で囁く。「私は大丈夫よ、晴真さん。あなたが分かってくれれば、それでいいの。私が好きなのは晴真さんであって、ご家族の方々ではありませんから」
こういった甘い言葉で男を懐柔する手管は、この二年間、晴真を相手にするうちにすっかり手慣れたものになっていた。
案の定、晴真は一層罪悪感を募らせ、彼女の小さな手を揉みながら言う。「分かってる。お前のことを一番理解してるのは、ここにいる誰でもなく、俺だ」
「ふっ」
颯介は鼻で笑い、嘲りを込めた視線を投げかける。「お前が、こいつを一番理解している、だと?」
「じゃあ、あんたが知ってるって言うのかよ」晴真は食ってかかった。「今日のあんたは、智子に対してあんまりじゃないか」
颯介がここまで感情を露わにする姿を、晴真は見たことがなかった。そもそも、大勢の人の前で、か弱い一人の女をやり込めるような男ではないはずだ。今日の彼は、まるで人が変わってしまったかのようだった。
智子を巡って空気が張り詰める中、前方から晴真の父、宗谷清志の重々しい声が響いた。「もういい。ここでみっともない真似はよせ。宗谷の人間は、前へ出て焼香を」
宗谷家の者、と名指しされ、智子はすっと空気を読んで晴真から身を離した。さも涙を拭うかのような仕草で目元を隠し、ただ辛そうに一言、「……行ってきて」と告げる。
晴真は、ようやく不承不承といった体でその場を離れた。
宗谷家当主の葬儀は、大小様々な雑事に追われ、全ての弔問客を見送る頃には、時刻はとっくに深夜を回っていた。
智子はその中で、成り上がりを狙うしたたかな女の役を完璧に演じきり、一日中立ち働いて、ようやく水を一口飲む暇ができたところだった。
「さっき、私たちのアレを見た時は、きっぱり晴真と別れるなんて言ってたのに。ずいぶんと殊勝な女だと思ったけど、結局この有様ね。やっぱり、晴真のお金が手放せないんでしょう?」いつの間にか背後に立っていた玲奈が、嘲るように言った。