話 1
東京の雨は何も洗い流してはくれない。ただ汚れをぬめらせるだけだ。
藤原聖絵はイエローキャブを降りた。ヒールはすぐに灰色のぬかるみにはまり、安物の革靴から水が染み込み、靴下を濡らし、肌の感覚を奪っていく。聖絵は身じろぎもしなかった。寒さには慣れていた。
ベルベットのケーキ箱を、盾のように胸に抱きしめる。特注の、レッドベルベットケーキ。純一の好物だ。少なくとも、夫になる前の彼が好きだったもの。
聖絵は、麻布にある会員制プライベートクラブ『オブシディアン』の、威圧的な黒いファサードを見上げた。その建物は、彼女のような人間を締め出すために設計された要塞のようだった。
コートの前を合わせた。ここ2年で増えた体重を隠すために買った、ワンサイズ大きすぎるコートだ。代謝異常のせいで、体はたるんだ肉とむくみの牢獄と化していた。かつてはただ地味なだけだった顔も、今ではむくみ、顎のラインに沿ってできたしつこい発疹のせいで、ドラッグストアのファンデーションでは到底隠しきれないほど無残なありさまだった。
「お名前は?」ドアマンは彼女の顔を見ず、その靴に視線を落とした。
「佐伯です」と聖絵は言った。声がわずかに震えた。その名を口にするときはいつもそうだ。まるで盗んでいるかのような気分になる。
ドアマンは一瞬動きを止め、リストに目をやり、それから彼女を見た。唇の端が歪む。それは些細な動きだったが、彼女が記録することにかけては専門家となった、マイクロアグレッションだった。彼は彼女が誰なのか知っていた。誰もが知っていた。藤原家の失敗作。一族の恥。
「佐伯様はVIPスイートにおられます」ドアマンは平坦な口調で言った。「邪魔をしないようにと申しつかっております」
「今日は結婚記念日なんです」聖絵が言う。その言葉は湿った空気の中に、哀れでちっぽけに響いた。「届け物が…ありますので」
彼女は箱を少し持ち上げた。
ドアマンはため息をつき、冷たい空気の中に白い息を吐き出した。そしてベルベットのロープを外した。だが、ドアを開けてはくれなかった。
聖絵は重いオーク材のドアを押し開けた。雨音は消え、代わりにジャズの低い響きと、年季の入った革製品や高級葉巻の香りが漂ってきた。薄暗い廊下を進む。濡れたコートから、豪華なペルシャ絨毯のランナーに水滴がしたたる。ポツリ、ポツリ、ポツリ。自分が場違いであることの証拠を残しながら。
廊下の突き当たりに着いた。VIPスイートのドアは、重厚なマホガニー製だった。ノックしようと手を上げたが、指の関節は木材から数センチのところで止まった。
笑い声。けたたましい、下品な男たちの笑い声。
「おいおい、純ちゃん」と声が響いた。純一の大学時代の友人、大空の声だ。「まさか今夜、あの化け物のところに帰るなんて言わないよな。まだ深夜0時にもなってないぜ」
聖絵は凍りついた。心臓が肋骨に叩きつけられ、痛みを伴う不規則なリズムを刻む。
「顔だけは出さないと」純一の声が騒音を切り裂いた。冷たく、突き放したような声。弁護士と話すときに使う声だ。「3回目の結婚記念日だ。契約では、信託基金からの支払いを有効に保つために、重要な日には夫婦の住居に物理的に存在しなければならないことになっている」
「金のためなら何でもするんだな」と大空が笑った。「見たぜ、あいつ。昔の聖絵を食っちまったみたいだな。それにあの肌…うつるのか?」
聖絵は吐き気を覚え、固く目を閉じた。
「見た目はどうでもいい」と純一は言った。その無関心な口調は、嘲笑よりもひどかった。「あいつは書類上の署名にすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。この街で俺が尊敬する女はエレナだけだ。彼女は自分の立場をわきまえている。分不相応なものを要求したりしない」
「エレナに乾杯!」誰かが音頭を取った。グラスが触れ合う音がする。
聖絵はケーキの箱に目を落とした。指は白くなり、ボール紙がたわみ始めるほど強く握りしめていた。
この日のために3日間も計画を練った。ケーキ屋は敷居が高すぎて、自分で焼いたのだ。ささやかなことを覚えていると示せば、もしかしたら、ほんの少しでも、彼が嫌悪以外の目で見てくれるかもしれないと思った。
しかし、彼は彼女のことなど見ていなかった。彼にとって、彼女は妻ではなかった。人間ですらなかった。祖父の遺言書にある一項にすぎなかった。
鋭い、物理的な痛みが胸を切り裂いた。失恋なんかじゃない。失恋は詩的だ。これは、切断。麻酔なしで手足を切り落とされるような感覚だった。
彼女はかがみ込んだ。膝がポキリと鳴った。ドアの外の床に、そっとケーキの箱を置いた。
ノックはしなかった。
立ち上がった。ドアを最後にもう一度見た。泣かなかった。涙は胸の奥深くで、固く凍りついていた。
振り返る。動きはロボットのようだった。左足。右足。
廊下を引き返した。ドアマンが、唇に笑みを浮かべてこちらを見ていた。追い出されるのを期待していたのだ。ひと騒動あるだろうと。
聖絵はまばたきもせずに彼の横を通り過ぎた。重いドアを押し開け、再び雨の中へと足を踏み出した。
冷たい水が顔を打ち、羞恥心の熱と混じり合った。タクシーは拾わなかった。歩いた。足の感覚がなくなるまで歩いた。オブシディアン・クラブが遠くに黒い染みのように見えるまで歩き続けた。
ポケットから携帯電話を取り出した。指は震えていたが、頭は水晶のように澄み切っていた。
ある番号に電話をかけた。
「佐伯家法律顧問団です」と、疲れた声が応答した。
「聖絵です」と彼女は言った。今度は声が震えなかった。「書類にサインします」
「佐伯夫人?こんな時間に?本気でございますか?」疲れた声は驚いているようだったが、完全に衝撃を受けたわけではなさそうだった。「佐伯様がずいぶん前にご用意されておりました。明朝までには署名をいただくために手配できますが」
彼が何か言う前に、彼女は電話を切った。
ペントハウスに戻った。中は暗く、レモンポリッシュと空虚な匂いがした。純一がここで寝ることはめったにない。彼は都心に別のアパートを借りており、そこは彼女が訪れることを許されていなかった。
主寝室に入った。ベッドは整えられ、シーツはぱりっとしていて、誰も触れた形跡がなかった。壁の金庫へ歩み寄った。暗証番号を入力する――純一の誕生日。彼はそれほど自己陶酔的な男だった。
中には、結婚式の日に彼がくれたダイヤモンドのネックレスが入ったベルベットの箱があった。彼はそれを「写真撮影用の小道具」と呼んだ。それ以来、一度も身につけたことはなかった。
それを取り出し、ナイトスタンドに置いた。
左手の薬指にはまった金の指輪をひねった。きつかった。密かに服用していた薬のせいで指がむくんでいたのだ。効き目のない薬だった。ぐいっと引っ張った。皮膚が裂けた。指輪が外れると、一滴の血が金に付着した。
ネックレスの隣に指輪を置いた。
クローゼットへ向かった。使い古されたスーツケースを一つ取り出す。3年前に藤原邸から持ってきたものだ。
古い服を詰めた。安物のコットンシャツ。履き古したジーンズ。絹も、カシミアも、純一のアシスタントが公の場に出るために買い与えたブランド品も、すべて置いていった。
化粧台の鏡の前に立った。自分を見つめた。
青白い。むくんでいる。目は赤く縁どられている。左頬を走る傷跡は、赤く腫れ上がり、怒っているかのようだ。
「醜い」鏡の中の自分にささやいた。「弱い」
重い香水の瓶を手に取った――シャネルの5番。純一の母親からの贈り物で、聖絵が嫌っていたものだ。
ガシャン。
それを投げつけた。鏡が粉々に砕け散る。ガラスの破片が飛び散り、大理石のカウンターに降り注いだ。蜘蛛の巣状のひびが彼女の姿を歪め、その顔を無数のギザギザのかけらに分解した。
それでいい。
便箋を一枚つかみ、二行だけ書いた。
信託基金はあなたのもの。私の人生は私のもの。
メモの上に家の鍵を置いた。
スーツケースのジッパーを閉めた。軽かった。3年間の結婚生活で得たものは、この軽いスーツケースと重い心だけだった。
二台目の携帯電話を取り出した。使い捨ての携帯だ。3年間、靴下の引き出しの奥に隠し、充電し続けていた。
10年間一度もかけていない番号に電話した。
一度だけ呼び出し音が鳴った。
「もしもし?」年配の、英国訛りの声。
聖絵は目を閉じた。「ゴッドファーザー」とささやいた。「帰る準備ができました」
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話 2
ペントハウスに差し込む朝日は強烈だった。床から天井まである窓から光が溢れ、よどんだ空気の中を舞う埃を照らし出していた。
午前8時、佐伯 純一が姿を現した。二日酔いだった。オブシディアンで飲んだスコッチの置き土産か、鈍くリズミカルな痛みで頭がずきずきと痛む。うめきながらネクタイを緩め、襟元から引き抜いた。
いつもの匂いがするはずだった。聖絵が焚きたがる、安っぽいバニラキャンドルのむせ返るような香り。彼女の引きずるような足音も、彼の機嫌をうかがうように神経質に咳払いする音も聞こえるはずだった。
静寂。
室内は静まり返っていた。
「聖絵?」と彼は呼びかけた。声はかすれていた。心配して呼んだわけではない。コーヒーが欲しかったのだ。彼女はいつも用意してくれていた。ブラックに砂糖二つ。
返事はなかった。
彼は眉をひそめた。苛立ちが肌をちくちくと刺す。「聖絵、ふざけるな。一時間後には会議なんだ」
キッチンへ入った。カウンターには何もなく、コーヒーメーカーは冷たいままだった。
廊下を抜け、主寝室へ向かう。ドアは少し開いていた。
彼はそれを押し開けた。
まず目に入ったのは、床に散らばったガラスの破片に反射する光だった。
純一は立ち止まった。化粧台を見つめる。鏡は粉々になっていた。中央にはギザギザの穴が口を開け、その周りには蜘蛛の巣状のひびが広がっている。シャネルの5番の強烈な香りが、破壊の金属的な匂いと混じり合っていた。
「一体何が…」
ガラスを踏みしめ、部屋に足を踏み入れる。靴底で破片がじゃりじゃりと音を立てた。
ナイトスタンドが目に入った。
蛇のようにとぐろを巻いたダイヤモンドのネックレス。乾いた血の染みがついた結婚指輪。そして、メモ。
彼はその紙を拾い上げた。丁寧な、小さな文字だった。『信託基金はあなたのもの。私の人生は私のもの』
彼は二度読んだ。それから笑った。短く、乾いた、吠えるような笑いだった。
「芝居がかってやがる」と彼はつぶやいた。「交渉のつもりか」
メモをテーブルに投げ返す。おそらく父親の家に行ったのだろう。あるいは、安ホテルにでも泊まって、彼が電話をかけてきて戻ってきてくれと懇願するのを待っているのかもしれない。彼女は時々こういうことをした。24時間ももたない、ささやかな反抗だ。
彼は携帯電話を取り出し、弁護士に電話をかけた。
「離婚届の草案はどこだ?」純一はこめかみを揉みながら尋ねた。「あいつが癇癪を起こしている。弱っているうちに書類を叩きつけてやりたい」
電話の向こうで間があった。長く、気まずい沈黙。
「佐伯さん」弁護士はゆっくりと言った。「奥様の…聖絵さんが…午前4時3分に、電子権利放棄書に署名されました」
純一は凍りついた。こめかみを揉んでいた手が止まる。「何だって?」
「彼女が申し立てを開始しました。無争議の権利放棄です。慰謝料、配偶者扶養、夫婦共有財産に対するすべての権利を放棄しています。完全な秘密保持契約にも署名済みです。彼女はやるべきことをすべて終えています、旦那様」
純一は床がわずかに傾くのを感じた。「財産を放棄しただと?」
「すべてです。一銭も受け取っていません。共同名義の当座預金口座の彼女の持ち分さえ、あなたに送金しています。あとはあなたの副署があれば、裁判所に提出できます」
純一は電話を下ろした。部屋を見回す。クローゼットのドアが開いていた。彼はそちらへ歩いて行った。
クローゼットの彼女の側は、普段着ていたみすぼらしい服はなくなっていた。しかし、彼がガラで見栄えがするようにとアシスタントに買わせたデザイナーズドレスの列、毛皮、バッグはすべてそこにあった。値札もついたままだ。
何も持っていかなかった。
なぜだ?
藤原 聖絵は慈善事業の対象のような女だった。父親に嫌われ、金も、仕事も、将来性もない。彼女には彼が必要だった。この街で生き残るためには、佐伯の名が必要だったのだ。
突然、胃に空虚な感覚が広がった。コントロールの喪失。彼はコントロールを失うのが嫌いだった。
「申し立ては保留しろ」純一は電話口で言った。
「旦那様?しかし、あなたは…」
「保留しろと言ったんだ!」純一は怒鳴った。「彼女を見つけるまで何も提出するな。署名する前に、彼女がどんなゲームをしているのか知る必要がある」
彼は電話を切った。もし彼女が家出で彼を操ろうとしているのなら、このゲームの主人が誰であるかを思い知ることになるだろう。彼女の目を見て後悔の色を確かめるまで、あっさりと解放してやるつもりはなかった。
彼は彼女の携帯に電話をかけた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
彼は画面を見つめた。
携帯が震えた。エレナからだった。
「純一、ベイビー」エレナの甘ったるい声が聞こえる。「また車が変な音を立ててるの。それに、カルティエでとっても可愛いブレスレットを見つけちゃった。ランチに会えない?」
この三年で初めて、純一は彼女の声に苛立ちを覚えた。
「今はだめだ、エレナ」彼は吐き捨てた。
「なんですって?」
「今はだめだと言ったんだ」彼は電話を切った。
彼は個人秘書に電話をかけた。「聖絵のクレジットカードを追跡しろ。アメックス・ブラックカードだ。どこにいるか教えろ」
二分後、秘書から電話がかかってきた。「旦那様、カードは破棄されています。最後の取引は午後11時半のミッドタウンまでのタクシー代です。それ以降、何もありません。ホテルやフライトの予約も彼女の名前ではなく、ATMからの引き出しもありません」
純一は部屋を歩き回った。足元のガラスが砕ける音だけが響く。
彼女は消えた。跡形もなく。
成田国際空港。第4ターミナル。
VIPラウンジは静かで、ベージュの革とろ過された空気に満ちた聖域のようだった。
聖絵は隅の椅子に座っていた。顔の半分を覆う大きなサングラスをかけ、黒いトレンチコートのベルトを腰できつく締めている。
真新しいスーツを着た背の高い老紳士が彼女に近づいてきた。革のブリーフケースを手にしている。使用人というよりは、政治家のような風格があった。
「菊田様」彼は静かに言った。
聖絵は顔を上げた。母の旧姓で呼ばれたのは、三年ぶりだった。ニューヨークにおける佐伯の名よりも、ヨーロッパでは重みを持つその名前。
「真一郎」と彼女は言った。手は冷たかったが、声は落ち着いていた。
「ジェット機は給油を終え、チューリッヒへ向かう準備ができております」と真一郎は言った。彼は彼女の前のテーブルに新しいパスポートを置いた。濃紺の表紙。英国のものだ。
「手配は?」
「スイスのクリニックでお待ちしております。栗林医師は世界最高の代謝専門医です。損傷は回復可能ですが、痛みを伴うだろうとのことです」
「痛みは気にしないわ」と聖絵は言った。
「形成外科の診察は?」
「いいえ」聖絵はきっぱりと言った。彼女は自分の頬に触れた。「整形手術はしない。肌を治したいのであって、顔を変えたいわけじゃない。私らしくありたいの。彼らが殺そうとした、私に」
真一郎は頷き、その目には尊敬の念が宿っていた。「承知いたしました、お嬢様」
彼は手を差し出した。「携帯電話を」
聖絵は使い捨ての携帯を彼に渡した。
「もう一つは?」
「5番街のゴミ箱に捨てたわ」
真一郎は使い捨て携帯を受け取った。「こちらは安全に処分いたします」彼は近くの警備員に合図した。スーツ姿の男が二人、前に進み出る。一人が彼女の使い古されたスーツケースを受け取った。
「お荷物はこちらで処理いたします、お嬢様。行き先ではその服は必要ございません。すべてご用意してあります」
警備員がスーツケースを運んでいくのを、聖絵は見つめた。その中には、望まれぬ娘、愛されぬ妻であった藤原 聖絵の最後の名残が詰まっていた。
彼女は立ち上がった。
振り返り、ゲートに向かって歩き出す。スーツケースを振り返ることはなかった。巨大な窓から見えるニューヨークのスカイラインを振り返ることもなかった。
彼女は駐機場へと歩いた。風が髪を打ちつけたが、雨は止んでいた。
ガルフストリームG650に乗り込む。内装はクリーム色と金色だった。
窓際の席に座る。飛行機がタキシングを始めると、エンジンの振動が骨に響いた。
純一は今頃目を覚ましているだろう。きっと怒っている。誰かのせいにしようとしているはずだ。しかし、彼はすぐには書類を提出しないだろう。彼女は彼を知っている。彼は独占欲が強い。勝つために、まず彼女を見つけ出そうとするだろう。
探させればいい。彼女が本当にいなくなったと彼が気づく頃には、彼女はゴーストになっているだろう。
飛行機は轟音を立てて加速した。その力で彼女の体は座席に押し付けられる。
地面が遠ざかっていくのを見つめた。車は蟻のように、ビルはおもちゃのようになった。あのペントハウスは、汚れた街のただの塵芥に過ぎなかった。
「さようなら、佐伯 純一」彼女は冷たいガラスにささやいた。「次に会うときは、私だとわからないわ」
飛行機は鋭く右に旋回し、雲の中へと消えていった。
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話 3
3年後。
東京のスカイラインは、黒いベルベットの上にこぼれた宝石箱のようにきらめいていた。
5月の第一月曜日。都立美術館本館で開催される『星明かりのチャリティ・ガラ』の日だった。
空気は電気を帯びたように張り詰めていた。日中の湿気はすっかりなくなり、ハイファッションと、それ以上に大きな賭けにふさわしい、爽やかで涼しい夜となっていた。
佐伯 純一が黒塗りのリムジンから降り立った。カメラのフラッシュが一斉にたかれ、目がくらむような白い光の壁ができた。
3年前よりも、彼の姿はシャープになっていた。顎のラインはより硬質に、瞳はより冷たくなっていた。彼が身にまとっていたのは、まるで鎧のように体にフィットした、藤本 智則のオーダーメイドのタキシードだった。
エレナ・ローズが彼の腕にまとわりついていた。彼女が着ていたドレスは、いかにも頑張りすぎという感じだった。想像力をかき立てる隙もないほど、肌が透けるスパンコールのドレスだ。高価なものだったが、彼女が着ると安っぽく見えた。
「純一さん!純一さん!こっちです!」とカメラマンたちが叫んだ。
「元奥さんはどこですか?」と、ある記者が大胆かつ無遠慮に叫んだ。
純一の表情は微動だにしなかった。彼はその質問を無視した。この3年間、聖絵に関する質問をずっと無視し続けてきたのだ。彼女は忽然と姿を消した。パパラッチに撮られた写真は一枚もなく、クレジットカードの利用履歴も一切なかった。彼が雇った私立探偵でさえ、手詰まりになっていた。まるで地球が彼女を丸ごと飲み込んでしまったかのようだった。
厳密に言えば、彼女は彼の「元」妻ではなかった。離婚届は、彼女の署名だけがあり、彼の署名がないまま、今も彼の金庫に眠っている。彼が決して手放さなかった、ちっぽけなパワーゲームだった。
「無視して、ベイビー」とエレナは喉を鳴らすように言い、彼の二の腕を握りしめた。彼女の爪が生地を通して食い込む。「ただの嫉妬よ」
純一は、いつもの疲労感に襲われた。彼は優しく、しかしきっぱりと彼女の手をほどいた。
突然、騒然としていた群衆が静まり返った。カメラマンたちでさえ、一瞬カメラを下ろした。
一台の車が停まった。リムジンではない。深夜の闇のような深い青色に塗装された、ヴィンテージのロールス・ロイス・ファントムだった。それは、旧家の富をささやくような車だった。
ドアが開いた。
一本の脚が伸びる。
長く、しなやかで、引き締まった筋肉が滑らかに輝く肌に包まれていた。
一人の女性が降り立った。
フラッシュの光が狂ったようにたかれた。その音は、まるで機械仕掛けのイナゴの大群のように、耳をつんざくほどだった。
彼女は背が高かった。まるで液体のシルクでできているかのような、エメラルドグリーンのガウンをまとっていた。タイトなマーメイドカットは、彼女の歩幅を優雅な滑るような動きに制限し、深く入ったスリットが想像力をかき立てた。その色は、彼女の肌をアラバスターのように見せていた。
髪は深く豊かなマホガニー色で、クラシックなハリウッドウェーブにスタイリングされ、片方の肩に流れ落ちていた。
彼女は群衆の方を向いた。その顔は…息をのむほど美しかった。高い頬骨、深いベリーレッドに彩られたふっくらとした唇、そして、はっとするほど鋭い灰色の瞳。
彼女は微笑まなかった。手を振ることもしなかった。ただそこに立ち、エレナがおままごとをしている幼児のように見えるほどの、冷たく荘厳な力を放っていた。
車の反対側から男が降りてきた。セバスチャン・コール。純一のビジネス上のライバルであり、古賀製薬のオーナーだ。
セバスチャンは車を回り込み、女性に腕を差し出した。彼女はそれを取り、その動きは流れるように優雅だった。
「彼女は誰だ?」というささやきが群衆に広がった。
「モデルか?」
「セバスチャンの婚約者か?」
純一は階段の最上段に立ち、下を見下ろしていた。彼は麻痺したように感じた。心臓が一度跳ね、そして倍の速さで鼓動を打ち始めた。
あの顔を知らなかった。いや、本当は。あまりにもシャープで、完璧すぎた。
だが、あの瞳。
あの瞳は知っていた。
彼を悩ませ続けた瞳だ。
「あれは誰?」とエレナが、即座の嫉妬をにじませた声でささやいた。
「わからない」と純一はつぶやいた。彼は目を離すことができなかった。奇妙なデジャヴの感覚が彼を襲ったが、彼はそれを押し殺した。ありえない。彼が知っている女は、弱々しく、打ちひしがれ、地味だった。この女は鋼とダイヤモンドだ。
女とセバスチャンが階段を上り始めた。彼らが近づくにつれて、女は顔を上げた。
彼女の灰色の瞳が、純一の瞳を捉えた。
一瞬、時間が引き伸ばされた。群衆の騒音が遠のいていく。
純一は、賞賛や欲望の眼差しを期待した。普段、女性たちが彼に向ける視線だ。
しかし、そこには何もなかった。
彼女の瞳には温かみがなく、まるで家具でも見るかのように彼を見ていた。無関心で、退屈そうに。
彼女は臆することなく視線を外し、セバスチャンがささやいた何かに笑いながら、彼に注意を向けた。彼女の笑い声は低く、ハスキーで、音楽のようだった。
純一は、息が詰まるほど鋭い、身体的な拒絶の痛みに襲われた。
「中に入ろう」と彼は唐突に言い、緑の幻影に背を向けた。
都立美術館の内部、グレートホールは白いバラの庭園へと姿を変えていた。ウェイターたちがシャンパンを手に巡回していた。空気は高価な香水と金の匂いがした。
藤原 聖絵はシャンパンのグラスを手に取った。だが、飲まなかった。ただステムを持ち、光にかざして回していた。
「君のせいで交通渋滞が起きそうだ」とセバスチャンが彼女の耳元でささやいた。「純一は息が止まっていたと思うよ」
「窒息させておけばいいわ」と聖絵は言った。声は穏やかだったが、脈拍は速まっていた。彼と再会するのは…思った以上にきつかった。彼を愛しているからではない。怒りがまだあまりにも生々しいからだ。
「何か疑っているな」とセバスチャンは指摘した。「じっと見ていた」
「彼が見ているのは、彼がナルシストで、私がこの部屋で唯一、彼の所有物ではないからよ」と聖絵は訂正した。「彼は私に気づいていない。結婚していた頃、彼は私のことなんてまともに見ていなかったもの」
彼女は部屋を見渡した。かつてカントリークラブで彼女を嘲笑っていた女たちの顔が見えた。宇都宮夫人。鳥井姉妹。
今や彼女たちは皆、新しい「イット・ガール」が誰なのか知りたくてたまらない様子で、ささやきながら彼女をじっと見つめていた。
「セバスチャン!」甲高い声がした。
エレナだった。彼女は純一を引きずってきたのだ。彼女は我慢できなかった。自分の縄張りを主張しなければならなかったのだ。
純一は気乗りしない様子だったが、その目は聖絵に釘付けになっていた。彼は彼女を研究するように見つめ、言葉にできない何かを探していた。
「やあ、セバスチャン」と純一は硬い声で言った。彼は聖絵を見た。「まだ自己紹介をしていなかったと思うが」
セバスチャンは、サメのような笑みを浮かべた。「純一。エレナ。今夜の私のゲストだ」
彼は効果を狙って間を置いた。
「藤原 聖絵。菊田 聖絵と呼んでいただいても構いません」
純一は凍りついた。
その名前は、物理的な打撃のように彼を襲った。聖絵。
彼は彼女を凝視した。贅肉を探した。発疹を探した。恐怖を探した。
どれもそこにはなかった。それなのに…その名前。
「菊田?」と純一は繰り返した。「菊田卿と何か関係が?」
「彼の名付け子よ」と聖絵は言った。その声は滑らかで、かつて彼が近くにいると出ていたどもりは微塵もなかった。
「聖絵」と純一は再び言った。彼はその名前を舌の上で試していた。それは灰と後悔の味がした。
「ありふれた名前よ」と聖絵は冷ややかに言った。「でも、私たちには共通点があるようね、佐伯さん。いえ…共通の人物が」
彼女はエレナを見た。その視線は外科医のメスのようだった。一瞥でエレナの不安を切り裂いた。
「素敵なドレスね」と聖絵は嘘をついた。「とても…大胆だわ」
エレナは顔を赤らめた。
純一はエレナに気づかなかった。彼は聖絵の瞳をじっと見つめていた。同じ灰色だった。彼の元妻と全く同じ色合いの灰色だ。
だが、そんなはずはない。彼の元妻はめちゃくちゃだった。この女性は女王だ。それに菊田? 藤原家は日本の名家とは何の関係もなかったはずだ。偶然に違いない。残酷で、嘲笑うかのような偶然だ。
「どこかでお会いしましたか?」と純一は尋ねた。止める間もなく、質問が口から滑り出た。それは丁寧な問いかけではなく、探りを入れるようなものだった。
聖絵は微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。
「いいえ、佐伯さん。あなたのような方なら、きっと覚えているはずですから」
彼女はセバスチャンの方を向いた。「少し外の空気を吸いたいわ。この一角は、必死な感じがして少し息苦しいの」
彼女は立ち去り、純一はその場に立ち尽くしたままだった。彼はグラスを強く握りしめ、クリスタルのステムが折れそうになっていた。
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