話 1
シャンゼリゼグランドホテル。
早川寧寧は医療系の学術会議を終え、ロビーから外へ出た途端、吹きつけてきた冷たい風に思わず肩をすくめた。骨の髄まで凍るような寒さだ。
ポケットからスマホを取り出し、夫・川村真佑にメッセージを送ろうと、画面を開いたそのとき――
ニュースの見出しが目に飛び込んできた。
『川村グループ、新型標的薬の開発に成功 シャンゼリゼグランドホテルにて祝賀パーティー開催』
「……え?」一瞬、見間違いかと思った。
新型標的薬は、寧寧が夫――川村真佑の会社・川村グループのために開発したものだ。その祝賀パーティーが、まさに今このホテルで開かれている?なのに、自分には一言の連絡もない――?
胸の奥がざわつきながらも、寧寧は少しだけ迷い、きゅっと唇を噛むと踵を返した。エントランスを抜け、案内ボードに目をやる。「三号ホール 川村グループ 新薬開発祝賀会」
宴会場の入り口まで来た瞬間、寧寧の足が止まる。視界の正面、スポットライトに浮かび上がるようにして、真佑と荒木雪乃が寄り添って立っていた。背の高い男と、華やかな女。まるで絵画の一場面みたいに“絵になる二人”だった。
荒木雪乃は、寧寧と同じ病院の同僚であり、真佑の幼馴染みでもある。
――ただの幼馴染み、のはずだった。けれど今の二人の距離は、そんな言葉ではとてもごまかせない。
男の大きな手が雪乃の腰をしっかりと抱き寄せ、時おり向けられる視線は、どうしようもなく優しく、甘い。
真佑……
あの目で――彼が自分を見たことなんて、一度でもあっただろうか。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。こみ上げてくるみっともない感情を、なんとか飲み込もうとしたそのとき、
そばで飲んでいた真佑の友人たちの声が、嫌でも耳に入ってきた。
「真佑、お前と荒木先生、ほんっとお似合いだよな。 いつになったら荒木先生を嫁にもらうんだ?」
「そうそう。荒木先生、美人だし仕事できるしさ。お前が一度も連れてこない、あの地味な奥さんより、よっぽどマシじゃね?さっさと離婚した方がいいって!」
別の男が首をかしげる。「でもさ、その標的薬って、真佑の奥さんが開発したんだろ? 標的薬を作れるあの奥さん、そう簡単には手放せないんじゃないの?」
一言一言が、鋭い針になって寧寧の全身に突き刺さる。骨の隙間という隙間まで、じくじくと痛みが広がっていくようだった。
それでも――寧寧は、まだ彼を信じようとしていた。きっと真佑は、こんなふうに妻を侮辱されても黙ってはいない。そうであってほしい。そうでなければ、今までの自分が、あまりにも哀れすぎるから。
けれど。真佑は鼻で笑い、抱き寄せた雪乃の腰に回した腕を、さらにきつくした。
「あの地味な女に、何の取り柄がある?この標的薬は全部、雪乃が研究してくれたんだ。雪乃こそ、うちの川村グループの大功労者だろ」
――轟、と。頭の中で、何かが爆ぜた。
(……真佑? 今、なんて言ったの?)
昼も夜もなく、何日も何日もかけて作り上げた標的薬。眠る時間を削り、身体を壊すのもかまわず続けてきた研究。その成果を、彼はあっさりと別の女の手柄にしてしまった。
視界がじわりとにじむ。涙があふれそうになるのを、寧寧は歯を食いしばってこらえた。
彼を何年も、ずっと好きで。川村グループのためにどれだけのものを差し出してきたか。
それが今では、笑い話にしか見えない。自分自身が、滑稽な冗談そのものみたいだ。
――ああ、私はこの結婚で、完膚なきまでに負けたんだ。
胸の奥が鈍く痛む。息を吸うだけで苦しい。
このままここにいたら、みじめな顔を誰かに見られてしまう。それだけは嫌で、寧寧は踵を返し、足早に化粧室へと向かった。
どうにか涙の跡を整え、深呼吸をしてから化粧室を出る。そのとき――
「ねえ真佑、いつになったら早川寧寧を追い出してくれるの?正式に籍を入れたのは私なのに、あの女が“川村夫人”の肩書きを何年も名乗ってるなんて、納得いかない」甘えているようで、どこか傲慢な女の声が耳に飛び込んできた。
寧寧は思わず、声のする方角の陰に身を隠し、そっと覗き込む。そこにいたのは――やはり、荒木雪乃と川村真佑だった。
(……正式に結婚したのは、荒木雪乃?どういう意味……?)
心臓が、ずるりと足元へ落ちていくような感覚。
真佑は雪乃をなだめるように、その唇に軽くキスを落とし、腰を撫でながら甘い声でささやいた。
「雪乃、もう少しだけ我慢してくれ」
「早川寧寧が標的薬の第一段階を完成させただけで、うちの川村グループは二百億近く稼げた。これで第二、第三段階まで作り上げたら、川村グループは数百億規模の利益を得られる。俺が苦労してあいつと“偽の婚姻届”まで交わしたのは、 標的薬を研究するあいつの能力に目を付けたからだ。 いいか、雪乃。焦るな。あいつが川村グループのために稼いだ金は、全部、俺たち夫婦の共同財産になる。そして、用が済んだらあいつは叩き出されて、一円たりとも手にできない」
呼吸が途端にうまくできなくなる。
寧寧は思わず、自分の口を両手で押さえた。この場で悲鳴を上げてしまいそうなほど、込み上げてくる憎しみと痛みを、どうにか押し殺すために。
目の縁が焼けるように熱い。涙で真っ赤に染まったそれは、まるで血の涙を湛えているみたいだった。
――そうか。こんなにも長いあいだ、自分はずっと騙されてきた。
夫は自分を愛してなどいなかった。必要だったのはただ、標的薬を作る“道具”だけ。
そして極めつけに、あの婚姻届さえ、本物ではなかった。
雪乃は真佑の話に満足したのか、とろけるような笑みを浮かべ、彼の首に腕を回して唇を求める。
「真佑、やっぱりあなたが一番……」
二人がキスするのを見て、寧寧の瞳の中の悲しみは、一瞬にして憎しみへと変わった。
「川村真佑、何をしているの!」堪えきれず、寧寧は飛び出していた。
「……寧……寧寧?なんでここに」
冷たく整った顔に、わずかに気まずさが浮かぶ。
寧寧は喉の奥にこみ上げるものを必死に押し込み、涙で赤くなった目で二人を睨みつけた。「来なかったら知らないままだったわ。自分の“夫”が、幼馴染とキスしてるだなんて」
「あ、あれは……その……」真佑はあわてて雪乃から手を離し、言い訳を探すように口を開いた。「寧寧、俺は……さっき少し飲み過ぎてて――」
寧寧は彼にとって“金のなる木”だ。どうにか機嫌を直させなければならない、と彼は思っている。
手を伸ばし、寧寧の肩に触れようとしたそのとき――パシンッ、と乾いた音が響いた。寧寧はその手を振り払い、逆に彼の頬を全力で打ち据えた。「川村真佑、その汚い手で、私に触らないで!」
頬に走った熱に、真佑の表情が一瞬で歪む。もう、いつもの温厚そうな仮面を被ってはいられなかった。 「早川寧寧、お前、気でも狂ったか!」
雪乃が悔しそうに唇を噛みしめ、寧寧を睨みつける。「ちょっと、寧寧!真佑はあなたの夫よ?なんで殴ったりするの!」
寧寧は鼻で笑った。その瞳の奥には、痛みが濃く滲んでいる。
「クズ男とあばずれ女。殴られて当然じゃない?」
その瞳に、もう迷いはない。「川村真佑――離婚しましょう」
短くそう告げると、寧寧は振り返りもせず、その場を去った。
ホテルを出ると、外はすでに土砂降りになっていた。
びしゃびしゃと雨粒が顔に当たり、髪を濡らしていく。それが雨なのか、涙なのか、もう自分でも分からない。
分かるのは、胸の中が、ナイフでずたずたに切り裂かれたみたいに痛いということだけ。
そのとき、スマホが震えた。画面には、Y国からの国際電話の表示。
寧寧はぼんやりとした頭で通話ボタンを押す。
『寧寧か?』低く、よく通る男の声が耳に響いた。 『私は君の父親だ。華国一の大富豪――松村隆一という』
話 2
愛した人に裏切られた衝撃の中から、早川寧寧はまだ抜け出せずにいた。電話越しの男が、同じ言葉を二度目に口にして――ようやく意識が現在に引き戻された。
「な……何って、今、何て言いました……?」
受話器の向こうで、男――松村隆一は静かに続けた。『私は君の父親だ。 君の母・早川葵とは、若い頃、互いの初恋相手だった。 だが当時君の爺さん――松村本家の当主が、どうしても私たちの交際を認めてくれなくてな。結局、別れるしかなかった』
低い声が、遠い過去をなぞるように淡々と告げた。『私は知らなかった。 別れを選んだあのとき、葵の腹の中に、すでに命が宿っていたことを。
父が亡くなり、もう誰にも邪魔されないと分かった頃には…… 母娘二人を迎えに行こうとした時には、葵は病で先に逝ってしまっていた』
一瞬、沈黙が落ちる。その沈黙の重さが、どれだけの後悔を含んでいるのか、想像に難くなかった。
『私は、今もあの頃の自分を呪っている。 寧寧。 この数年、私の事業は主に海外で展開しているが、華国国内にもまだ数兆円規模の資産がある。君は、私にとって唯一の娘だ。 その資産は、君が相続しなさい。 これは……葵と、君への、せめてもの償いだと思ってくれ』
プツン、と通話が切れる音がしたあとも、しばらくの間、寧寧はスマホを耳に当てたまま動けなかった。
(私が、華国一の大富豪の娘……?)現実味のない言葉を、頭の中で何度も反芻した。
そうだ、そう言えば。。母が亡くなる少し前、握った手を決して離そうとせずに、何度も言っていた。――本当は、あなたはもっと良い人生を送れる子なのよ。――自分のものは、自分でしっかり掴みなさい。絶対に手放しちゃダメ。
あのときは、ただの励ましだと思っていた。けれど今なら分かる。あれは、母なりの“遺言”だったのだ。
ぼんやりと曇っていた視界に、ふっとピントが合った。(私は……もっといい人生を生きるべきなんだ)母が望んだとおりに。川村真佑なんていうクズ男の裏切りに、いつまでも囚われている場合じゃない
翌朝。寧寧は身分証明の書類を手に、松村隆一の指定した弁護士事務所を訪れた。重厚な応接室で待っていた弁護士に、書類を渡した。
しかし、書類を確認していた弁護士が、途中で眉をひそめた。「早川さん。失礼ですが……」「はい?」
「当事務所のシステムで確認したところ、あなたは“既婚”という登録になっています。 このまま資産移譲の手続きをしますと、その資産は法律上、ご夫婦の“共有財産”扱いになります。 もしその点でご懸念があるようでしたら、ご主人に“財産放棄同意書”へ署名をいただく必要があります」
「……え?」頭が真っ白になった。――既婚?
川村真佑と交わしたあの婚姻届は、“偽物”のはずだ。そう、本人の口からそう聞かされてきた。それなのに、どうしてシステム上では既婚者になっている?
喉がカラカラに乾き、声がかすれた。
「せ、先生……ひとつ、確認してもいいですか」
「どうぞ」
「私の……私の“夫”が、誰になっているのか、調べてもらえますか?」
弁護士は、露骨には表情を変えなかったものの、どこか奇妙なものを見るような目をした。――自分の夫を、本人が知らない?
それでも、仕事として淡々と端末を操作し、照会をかけた。
数秒後、画面を見ていた弁護士が顔を上げた。「早川さん。システム上の配偶者欄には――」コン、とEnterキーを叩く音を伴い、名前が告げられた。「星野拓海さん、とあります」
星野……拓海。どこかで聞いたような、その名前。けれど顔はまったく浮かんでこない。
(星野……誰?私、そんな人と結婚した覚えなんて……)
戸惑いの波が、何度も胸の中を押し寄せては引いていく。――(とにかく家に戻ったら、この人が一体何者なのか徹底的に調べる。そして絶対に“財産放棄”の同意書にサインさせる)
顔も知らない男に、自分の財産を持っていかれてたまるものか。
そう心に決め、寧寧は立ち上がった。ちょうどその時。けたたましい着信音が、静かな応接室に響き渡った。
スマホを見ると、表示されたのは「院長・内山」の文字。
『早川先生!すぐ病院へ戻ってくれ!』電話に出た途端、切羽詰まった声が飛び込んでくる。『下のクラスの病院から、重要な患者が緊急搬送されてきた。脳幹の海綿状血管腫だ。このケースを救えるのは、君の“ペプチド模倣融合術”だけなんだ!』
「……っ」心臓がどくんと高鳴る。
病院の中で、彼女が世界的に名高い医科の鬼才「夜寐」であることを知っているのは、院長・内山清一郎ただ一人。
多ペプチド模倣融合術は、「夜寐」が編み出した秘術。本来なら、その名も技術も、徹底的に隠し通すはずのものだ。
だからこそ、内山はいつも、寧寧の正体を守るように立ち回ってくれていた。院内で彼女に執刀させるなんて、本来ならあり得ない。それでも、今日に限ってこうして電話をかけてきた。しかも「君にしか救えない」とまで言う。――つまり、それだけこの患者が“重要”だということ。
「すぐ戻ります」通話を切ると同時に、寧寧は弁護士事務所を飛び出し、タクシーを拾って華清総合病院へ向かった。
病院に到着すると、すでに救急のスタッフが慌ただしく動いている。「早川先生!」内山がすぐに駆け寄ってきた。「今回の患者さんは、海外から帰国した重要人物だ。アジア一の大富豪直系の御曹司だぞ。何としても、彼の命を助けてくれ!」
「了解しました」寧寧はキャップとマスクを装着し、淡々と頷く。消毒を済ませると、そのまま一直線に手術室へ向かった。
中に入ると、手術台の上に若い男が横たわっているのが目に入る。
その顔を見た瞬間、寧寧は息を呑んだ。
手術室のライトが月光のように青白く男の顔を照らし出し、どこか現実離れした妖しい美しさを帯びさせている。
完璧な彫刻のような顔立ち。意識を失い、手術のために髪を丸刈りにしていても、それでも艶やかな美しさが際立っていた。――きれい……
医者にとって、患者の顔立ちなど関係ない。自分の仕事は、命を救うこと。それだけだ。
寧寧は表情を引き締め、メスを手に取った。「手術、開始します」
頭皮にそっと刃を入れ、切開していく。脳幹部の海綿状血管腫――一歩間違えれば、その瞬間に命が尽きる。ミリ単位での判断が求められる、極めて繊細な手術だ。
顕微鏡越しの視界だけに集中し、多ペプチド模倣融合術の手順を、ひとつも間違えないようになぞっていく。
時間の感覚は、すっかり失われていた。額を伝った汗が、マスクの縁からぽたぽたと落ちる。
どれほど経っただろうか。手術室のランプが、赤から青へ切り替わった。
外で落ち着かない様子で行ったり来たりしていた内山が、ドアが開くなり、弾かれたように駆け寄ってきた。「早川先生! 手術の結果は?」
寧寧はマスクを外し、少し息を整えてから答える。「――成功です。 出血もコントロールできましたし、後遺症のリスクも最低限に抑えられたと思います。 患者さんは、そう時間を置かずに目を覚ますでしょう」
「そうか……それは本当によかった……!」内山は大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。「もしこの星野家のご子息に何かあったら、 星野会長にどう説明すればいいか分からなかったところだ」
「星野……?」その名字を聞いた瞬間、寧寧の眉がぴくりと動いた。「院長、患者さんのフルネームは?」
「ん? ああ、星野拓海だよ。 アジア一の大富豪・星野家の後継者なのは有名な話だろう? 知らなかったのか?」
名前を聞いた瞬間、視界がぐらりと揺れた気がした。星野拓海。――さっき、弁護士が端末から読み上げた名前。『あなたの夫の名前は、星野拓海さんです』その言葉が、鮮やかに蘇る。
「……っ」寧寧の瞳が、大きく見開かれた。まさか、自分が救った患者は――法律上の夫だったなんて。
話 3
二時間後。
星野拓海は、ゆっくりと意識の底から浮かび上がってきた。
まぶたを開けた瞬間、視界の真ん中に飛び込んできたのは――ひとりの女。端正どころか、息が止まるほどの美貌。なのに、どこにも刺々しさがなくて、ふわりとした柔らかさだけが先に伝わってくる。……天使か?
術後のぼんやりした頭で、拓海は本気でそう思った。そんな彼に向かって、女は一瞬だけ言葉を選ぶように唇を結び、それから意を決したように口を開いた。「星野さん……一緒に、離婚の手続きをしていただけませんか」
「……は?」冷たく整った顔に、ぱきんとひびが入った。拓海は手でベッドを支え、術後で重い身体を無理やり起こすと、ぐいっと女を見上げた。
そして、指で自分の頭をとんとんと叩く。「なあ、先生。頭はどうかしているんじゃないか?」
恋人すらいないこの俺に、どこから“妻”が湧いたっていうんだ。
寧寧は、苦笑ともため息ともつかない表情を浮かべた。少しだけ肩を落としながら、カバンから一枚の書類を取り出す。「星野さん。正直に言うと、私も信じたくはないんです。今日、初めて会った見知らぬ人が、法的に“夫”だなんて」ベッド脇のテーブルに、その書類をそっと置く。「でも……この通り、戸籍上は私たち、夫婦になっているみたいで」
拓海は書類に視線を落とした。そこには――『配偶者 早川寧寧』
はっきりと、自分の名前と彼女の名が並んでいた。
(……あっ?)脳裏に、二年前のことがよぎった。――じいさんに、身分証を渡した日だ。『ちょっと必要だから』と言われ、特に疑いもせずに渡した。まさか、そのとき勝手に――
(あのジジイ……)星野正義の顔が、これでもかというほどはっきり思い浮かぶ。
寧寧は拓海の顔色の変化など知る由もなく、言葉を続けた。「星野さんは、アジア首富・星野家の御曹司だと伺いました。そんなあなたの財産を、法律上、半分持っていける“よく知らない妻”なんて、きっと要らないでしょう?」 一拍置いて、真正面から拓海を見据える。「それに、今日あなたを手術で助けたのは私です。命の恩人の頼みとして“離婚してください”と言うのは、そこまで無茶ではないと思うのですが」
ふっと面白がるような色が灯った。(……普通、逆じゃねえか?)
どう見たって損をするのは、星野家の孫である自分の方。なのにこの女は、まるで「あなたに利用されるのはごめんです」とでも言いたげな顔をしている。
ベッドの上で体を少し起こし、拓海は顎をしゃくって彼女の胸元――ネームプレートに目をやった。
「……早川寧寧、だっけ」
名前をゆっくりと噛みしめるように呼んでから、口角を上げた。「もし、俺が“離婚したくない”と言ったら?」
「っ……!」寧寧の顔が、みるみるうちに真っ赤になった。
「な、何言ってるんですか、あなたは……!」
思わず数歩詰め寄った、そのとき――床に無造作に落ちていた拓海のスリッパに、つるりと足を取られた。
「きゃ――」
前のめりに倒れ込んだ身体を支えるものはなく、そのまま――柔らかな唇が、拓海の薄い唇に、ぴたりと重なった。
(……は?)一瞬にして、寧寧の全身が石のように硬直した。
拓海はわずかに眉をひそめ、唇が離れるや否や彼女を見下ろした。「……早川寧寧。妻の権利を行使したいなら、口で言えばいい。わざわざ抱きついてくる必要はない」
女の髪から、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。
(厄介だな)これまで誰に対しても覚えたことのない、妙な衝動が胸の奥で疼いた。この女を、自分のものにしたくなるような――そんな感覚。
それでも寧寧は、まだ固まったまま動かない。
拓海は軽く目を細め、低く言い放つ。「いつまで俺の上にいるつもりだ。このまま動かないなら――ここを夫婦のベッドにしてやってもいいが」
「なっ……!」寧寧は慌てて彼の胸から手を突いて起き上がり、真っ赤な顔のまま振り返る。「あなた、さっき大きな手術をしたばかりなんですよ!一緒に寝るなんてできるわけないでしょう!」
(できるかどうかの話はしてない)ツッコミたいのを飲み込みながら、拓海は黙って彼女を見上げた。
寧寧は咳払いをひとつして、羞恥をごまかすように顔を引き締める。「と、とにかく――私たちの婚姻登録は、どう考えてもシステムのトラブルです。 ですから、あなたと私は“離婚”しなければならないんです」
「……そうか」拓海は表情を崩さないまま、深い瞳で彼女をじっと見つめた。
「もし、俺が“離婚しない”と言い続けたら?」
寧寧はその言葉を聞き終えるより早く、バッグから書類とペンを取り出した。
「それなら――これにサインしてください」テーブルに差し出されたのは、一枚の契約書。「離婚しないというなら、“私の財産には一切手を出さない”という財産放棄の合意書にサインをお願いします」
拓海はその紙を手に取り、内容にすっと目を走らせた。そして、ある一文に視線が止まった。「……お前、松村隆一の娘か」
拓海は一瞬だけ瞳の奥に暗い影を宿し、それをすぐに押し隠した。「いいだろう、サインしてやる」
「本当ですか?」ぱっと顔を明るくする寧寧に、彼は条件を付け加える。「ただし、条件がある。俺がこの合意書にサインする代わりに、お前は星野夫人の役を完璧に演じろ。星野家の親戚たちと戦うときは俺のそばに立つこと、そして俺の体を完治させることだ」
寧寧は、ほんの一瞬だけ迷った。星野家。アジア首富の一族。その渦中に身を置くことになるかもしれない。それでも――(家の財産を守れるなら、それでいい)母の“遺言”のような言葉が、胸の奥で静かに響く。
「……分かりました。約束します」
拓海が、くっと口角を上げた。ペンを走らせ、自分の名前をさらりと署名する。「これでいいだろ」
「……ありがとうございます」寧寧は、ようやく大きく息を吐いた。
これで、松村家の財産が知らない誰かの手に渡ることはない。
安堵で胸がいっぱいになり、何か言おうと口を開きかけた、そのとき――ガラッ、と勢いよく病室のドアが開いた。
「早川先生!」若い看護師が、息を切らしながら駆け込んでくる。「早川先生!大変です!あなたのご主人が、脳出血を起こした川村老夫人を連れて救急に来られました!」