話 1
平市に夜の帳が下りる間もなく、暗雲が渦を巻き、白昼の名残をあっという間に飲み込んでいった。
室内の灯りだけが、非現実的なほど白い光を放っている。 高台に立つこの部屋の、三百六十度見渡せるパノラマガラス窓からは、眼下に広がる都市の繁栄が一望できた。
いつの間にか窓は白く曇り、雨粒が幾筋もの線を描いて流れ落ちていく。 榎本真衣は、床まで届くその窓ガラスに、その身を預けるように押し付けられていた。 濡れた黒髪が額に張りつき、シルクのガウンは肩から滑り落ち、かろうじて腰のあたりで留まっている。 雪のような肌は熱を帯び、艶めかしく上気していた。
空を裂く雷鳴が、真衣が絶頂に達した瞬間の、か細い嬌声を攫っていく。
男が一歩後ずさると、背中に感じていた熱がふっと遠のき、肌寒ささえ覚えた。 真衣は思わず身を震わせる。
これでようやく終わったのだと安堵の息も束の間、その身体は大きな手に易々と翻され、引いたはずの熱が再び荒々しく襲いかかってきた。 まるで意思を奪われた深海のマーメイドのように、寄せては返す熱の波に翻弄された。
どれほどの時間が経ったのか、何度求められたのか、真衣の意識はとうに曖昧だった。 ただ、意識が途切れる寸前、死の淵を覗き込むたびに、身を焦がすような快楽が荒々しく現実へと引き戻されたことだけを、朧げに記憶している。
雨が窓辺を叩き、空気がじっとりと肌にまとわりつく。
空が白み始めた頃、背後から男が覆いかぶさってくる気配がした。 細く白い両手首を掴まれ、男の指先が、目の下の赤いほくろをゆっくりとなぞる。
低く、磁性を帯びた声には、抗いがたい色香と危険が孕んでいた。
「俺が誰だか、分かっているのか?」
「よくもまあ、俺のベッドにまで潜り込んできたもんだ」
「ん?」
その声はあまりにも蠱惑的で、そして恐ろしかった。 真衣の心臓が氷で掴まれたように跳ね上がり、強烈な窒息感に襲われる。 この荒唐無稽な一夜の夢の中で、本当に溺れ死んでしまうのではないかと思った。
真衣は大きく喘ぎ、浅い呼吸を繰り返す。 もう少しで、本当に悪夢に窒息させられるところだった。
その時、枕元の電話が、まるで死の宣告のように鳴り響いた。 「渉お兄ちゃん」という三文字が画面に灯り、真衣は無意識に眉をひそめる。
一週間前の、横江渉の無情な言葉が脳裏に蘇った。
「真衣、藤井家の御曹司の噂は聞いているだろう?……お兄ちゃんを助けると思ってくれないか。 一度でいい、あいつの夜の相手をしてやってくれ」
「お前も知っての通り、俺は星奈一筋なんだ。 彼女が藤井海渡を諦めてくれさえすれば……きっと、俺のところに来てくれる」
「だから、協力してくれるよな?」
微笑みを浮かべてそう告げた渉の顔を、真衣ははっきりと覚えていた。 だが、彼の口から紡がれる言葉は、まるで知らない国の言葉のように、真衣の耳をすり抜けていった。
あの時、真衣は尋ねたのだ。 「藤井海渡のベッドに潜り込みたい女なんて星の数ほどいるのに、どうして私じゃなきゃいけないの?」
渉は、こう答えた。
「お前が、星奈の妹だからだよ。 彼女が一番疎ましがっている妹だからさ」
真衣は目を伏せ、唇の端が、自嘲するように歪んだ。 呼び出し音が途切れる寸前で電話に出る。
『何か御用ですか、 渉お兄ちゃん』 感情を殺した、 低く従順な声で応えた。
渉は一瞬黙った後、本題を切り出した。 『今夜、飲み会がある。 藤井海渡も来る』
なるほど、と真衣は合点がいった。 だから珍しく、彼の方から電話を寄越したのか。
『はい、わかりました』穏やかな声で返す。
『後で運転手に服を届けさせる。 それに着替えて迎えを待っていろ』 渉はゆっくりと指示を出し、さらに続けた。 『それから、近々あるE.R春夏レトロショーのトリは、星奈に譲ってやれ。 お前の仕事は、また別に用意してやる』
あまりにも当然のように告げる渉の言葉に、真衣は乾いた笑いを噛み殺した。
かつて姉の星奈は、真衣が家督争いに加わることを恐れ、あの手この手で彼女を榎本グループの経営から遠ざけた。
いいだろう、争うつもりなど、とうになかった。 そう思って、偶然の巡り合わせからモデルの世界に足を踏み入れた。
これでようやく星奈と榎本家から離れられると思ったのに、昨年、星奈が気まぐれにモデルを始めると言い出したのだ。
渉の力添えと榎本グループの後ろ盾を得た彼女は、瞬く間に業界の寵児となり、本来なら真衣に与えられるはずだったチャンスは、ことごとく星奈のものとなった。
星奈の気まぐれ一つが、真衣のキャリアに致命的な傷をつけた。 その裏に渉の暗躍があったことは言うまでもない。
彼はいつも同じ言葉で真衣をあしらい、言い訳を考える手間すら惜しんだ。 真衣がどれほどの努力を重ねて掴んだチャンスであろうと、渉の一言で、いとも簡単に星奈へと渡った。
幼い頃から、星奈が欲しがるものは、たとえそれが自分のものだったとしても、すべて譲らなければならなかった。
理由は、ただ一つ。
星奈こそが榎本家の正統な令嬢であり、渉が心から慈しむ唯一の存在だからだ。
そして自分、榎本真衣は、陽の当たらない溝の底で、ただ息を潜めて生き延びるしかない、哀れな鼠なのだ。
『ええ、渉お兄ちゃんの仰せのままに』真衣の声は羽のように軽く、あっさりと妥協を告げた。
渉は満足げに電話を切る。
その瞬間、真衣の瞳からすっと温度が消えた。 白く細い指先が画面を滑り、「渉お兄ちゃん」という甘ったるい表示を『横江渉』に変える。 だが、それすら気に入らず、最終的にたった一文字、『屑』とだけ登録した。
彼女はゆっくりと息を吐き出すと、立ち上がって身支度を整えた。
三十分後、横江家の運転手から電話が入る。
ドアを開けて用意された服を受け取ると、覚悟はしていたものの、肌の露出を一切躊躇わない、挑発的なシルクのドレスを前に、やはり息を呑んだ。
何かを言おうと唇を開きかけたが、その無意味さを悟り、すぐに閉ざす。
寝室へ戻り、ドレスに身を包んだ。
真衣は、 一目で人の心を奪う美貌の持ち主だった。 雪のような肌、
星を宿した瞳。 切れ長の目元は見る者を惑わす狐のようで、 その目尻にぽつりと灯る赤いほくろが、 蠱惑的な色香を添えている。
肉感的すぎず、痩せすぎてもいない、天性の魔性とでも言うべき肢体。
彼女が部屋から姿を現すと、運転手は一瞬、その妖艶さに息を呑んだが、すぐに我に返ると、慌てて視線を逸らした。 「榎本様、ご準備はよろしいでしょうか」
真衣は静かに頷いた。
夜陰は、平市でその名を知らぬ者はいない、選ばれた者だけが集う社交場だ。
初めて訪れた真衣は、好奇心に駆られるままに周囲を見回した。
運転手は彼女をVIP用の通路へと案内し、エレベーターで一気に最上階へと昇る。
個室の中は、紫煙が立ち込めていた。
ドアを開けた途端、煙が目に染み、思わず咳き込む。 熱くなった目頭にじわりと涙が滲み、視界がぼやけた。
罵りたい衝動を抑え、煙たい空気の中から渉の姿を探し出すと、微笑んで声をかけた。 「横江渉お兄ちゃん」
渉はちらりとまぶたを上げ、真衣の姿を一瞥した。 その身を包む布の少なさに僅かに目を細めたが、すぐにいつもの無表情に戻って手招きする。 「真衣、こっちへおいで」
真衣は淑やかに「はい」と応える。
シルクの布地は、丸みを帯びたヒップをかろうじて覆っているに過ぎず、しなやかな太ももから下は惜しげもなく晒されている。 歩くたびに、艶めかしく揺れた。
背中は大胆に露わになり、浮き立つ肩胛骨が玉のように白く、しなやかに動く様が人を惹きつける。
獲物を品定めするような下卑た視線が四方八方から突き刺さるのを感じながらも、真衣は気にも留めず、密かにある人影を探した。
やがて、真衣の視線は部屋の南西の角で留まった。
ソファに深く身を沈め、どこか投げやりな仕草で足を組む男。 逆光がその輪郭を縁取り、纏う空気をより一層冷たく、近寄りがたいものにしていた。 その眼差しは、深く静かだ。
こちらの視線に気づいたのか、男がふと顔を上げ、真衣を淡々と一瞥した。 その無感情な瞳と交錯した瞬間、真衣ははっと息を呑む。
心臓が大きく臓腑を打った。 全身の血が沸騰するような感覚。 今夜の目的を思い出し、身体の芯が興奮に打ち震えた。
話 2
「横江、 どこからこんな極上の女を連れてきた? 紹介しろよ」
「そこらの芸能人よりよっぽど綺麗じゃねえか。 大スターになれるぞ!」
「こっちに来いよ、兄ちゃんの隣に座りな……」 下卑た声が飛び交う中、栗原家の御曹司が、隣の女の腰をにやつきながら叩き、有無を言わさず席を空けさせた。
追い払われた女は、去り際に榎本真衣を憎々しげに一瞥する。
真衣は表情ひとつ変えず、そのすべてを黙殺する。 今夜の目的はただ一つ、藤井海渡という男と接点を持つこと。 こんな雑魚どもの相手をしに来たのではない。
ひとしきり野次が飛び交うのを待って、横江渉が頃合いを見計らい口を挟んだ。 「榎本真衣、うちの事務所のモデルです。 今日はたまたま休みが合ったんで、皆さんに顔見せに。 今後、何かとお世話になるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
栗原がふん、と鼻で笑った。 「お前、横江渉の息がかかった人間を、わざわざ俺たちに紹介する必要なんてあるのかよ」
渉は笑って答えず、真衣に視線を流す。 「真衣、好きなところに座れ」
その視線が意味するところを、真衣は言われずとも理解していた。 男たちの好奇の視線を浴びながら、その人だかりを縫うようにまっすぐ進み、南西の隅へと向かう。
通り過ぎる間際、栗原がわざとらしく尻をずらして席を空けたが、真衣はそれに目もくれず通り過ぎていった。
「チッ……!」
栗原が苛立ちを露わにしようとした瞬間、その女が信じられないものを見るかのように、命知らずにも“あの男”の隣に腰を下ろしたのを見て、目を剝いた。
驚愕したのは彼だけではない。 その場にいた他の者たちも、まるで時が止まったかのように、誰もが息を殺して南西の隅に視線を注いでいた。
藤井海渡が帰国して一週間余り。 今夜は、栗原光一が音頭を取って開いた彼の歓迎会だった。
ここに集まっているのは、皆、幼い頃からの腐れ縁で繋がった仲間うちだ。
だが、藤井海渡という男は、馬鹿騒ぎに興じるだけの自分たちとは住む世界が違う。 祖父は政界の重鎮、叔母は外交官、父は上級大将、母は科学研究の第一人者。 そして母方の祖父に至っては、億単位の資産を動かす財界の巨頭だ。
絵に描いたようなエリート一族。 富と権力をその手に握っている。
海渡自身は控えめで滅多に人前に姿を現さない。 この名利の世界では、見えざる階級(カースト)が厳然と存在する。 光一ですら、母方の祖父の威光を借りて、ようやくこの平城市で藤井家との繋がりを保てているに過ぎない。
実のところ、今日、海渡が光一の顔を立ててこの場に来てくれたこと自体、三代分の徳を積んだおかげだとすら思えるほどだった。
ましてや、この界隈で藤井海渡が女に興味を示さず、冷淡で孤高の存在であることは誰もが知る事実。
あの女、命知らずにもほどがある。
あの方の不興を買いに行くとは!
光一の背中にじっとりと冷や汗が噴き出す。 あの無謀な女を引きずり戻そうと腰を浮かせた、その時だった。 強い力で肩を押さえつけられた。 振り返ると、渉がそこにいた。
光一は訳が分からず視線で問う。 「?」
渉は何事もなかったかのようにグラスを掲げ、淡々と言った。 「栗原さん、一杯どうだ?」
光一は目を細め、その意図を悟り、背筋に冷たいものが走った。
――こいつ、榎本真衣を贄にする気だ!
海渡が少しでも機嫌を損ねれば、 指先一つで真衣をこの平城市から消し去ることなど造作もない。 横江渉とは、
どこまでも非情な男だ。
だが、目の前で繰り広げられるであろう面白い見世物を、みすみす見逃す手はない。
万が一、海渡が本気で咎めてきても、すべてを渉のせいにすればいい。
自分が駒として扱われているとは露知らず、真衣は身を縮めるようにして男の隣に座ると、空になりかけていた彼のグラスに、自ら酒を注ぎ足した。
極度の緊張からか、手首が微かに震え、高価な酒が数滴こぼれ落ちる。
手首を濡らす冷たい感触にも構わず、真衣は慌てて頭を下げた。 「藤井様、大変申し訳ございません。 すぐに新しいものをお持ちします……」
言葉を言い終える前に、すっと目の前に一枚の紙ナプキンが差し出された。
「榎本さん、お気をつけて」 海渡の眼差しは凪いだ湖面のように穏やかで、一秒たりとも彼女の上に長く留まることはない。
そこには、噂に聞く上位者の傲慢さも、人を寄せ付けぬ冷徹さも、一片たりとも感じられなかった。 まるで、ごく親しい知人のように。
真衣は唇をきつく結び、絞り出すような声で「ありがとうございます」と礼を言った。
個室は広く、海渡が静かに過ごせるよう、光一はわざと彼の席を離れた場所に設けていた。 そのため、今、渦中の二人がどうなっているのか、こちらの喧騒からは声も聞こえず、様子もよく見えない。
彼は渉の方へ向き直った。 「お前、本気であの榎本真衣を差し出すのか?」
渉は杯を口に運ぶ手を止め、淡く笑う。 「取るに足らない私生児だ。 星奈とは比べ物にならん」 光一は舌打ちした。
先ほど彼女が通り過ぎた際にふわりと漂った甘い香りを思い出し、ふと、言いようのない哀れみが込み上げてきた。 「あの子は八年間、お前の後ろをついて『兄さん』と呼んでいただろう。 それに、榎本星奈の実の妹だぞ。 私生児だからって、それは……」
「栗原光一」 渉が冷ややかにその名を呼び、言葉を遮った。 「あいつを藤井海渡のベッドに送り込まなければ、星奈は諦めない」
光一は黙り込んだ。
他の者こそ知らぬが、光一はこの歪んだ関係の内情を多少なりとも知っている。
榎本星奈は幼い頃から、藤井海渡に嫁ぎ、良妻賢母になることだけを夢見てきた。
たとえ、彼女の幼馴染が渉であり、渉が彼女に深い想いを寄せていたとしても。
彼女は藤井家との縁談に固執した。
榎本家と藤井家の夫人が大学の同級生で、無二の親友だったという背景もある。
まだ子供たちが腹の中にいる頃から、両家の母親は許嫁の約束を交わしていた。
つまり、海渡は星奈の婚約者。 まだ確定こそしていないが、この界隈では公然の秘密だった。
特に星奈自身が、ことあるごとに海渡の婚約者然として振る舞ってきたのだ。
「気になるんだが、どうしてお前は、榎本真衣が藤井海渡のベッドに潜り込めると確信してるんだ?」光一はついに堪えきれず尋ねた。 真衣が美しいのは確かだが、海渡ほどの男なら、これまでどんな女でも見てきただろうに。
渉は遠くに視線をやったまま、その横顔からは何の感情も読み取れない。 「試してみなければ、分からないだろう?」
光一は渉に親指を立ててみせた。
榎本星奈がこの世で最も憎んでいるのは、腹違いの妹である榎本真衣だ。 真衣が触れたものは、どんなものでも欲しがらない。 それは幼い頃から変わらない彼女の性分。
渉は、その手で星奈に諦めさせようというのだ。 その非情なまでの策略に、光一はもはや感服するしかなかった。
話 3
バーの頼りない照明が揺れる中、藤井海渡の広い背中はまるで壁のように、その光の大半を遮っていた。 おかげで榎本真衣は彼の影に身を潜め、好奇の視線から逃れることができた。
声をかけようと、わずかに唇を開きかけたが、彼の纏う寄せ付けないオーラを前に言葉を飲み込む。 その横顔は、真衣の存在などまるで意に介さないとでも言うように、冷ややかだった。
真衣は、誰にも聞こえないほどの小さなため息を落とした。
(本当に、厄介な人)
結局、酒席が終わるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。 彼女は輪から外れた隅の席で、涼しい顔で談笑する海渡の姿を、ただ見つめるしかなかった。
その様子に、横江渉が気づかないはずもなかった。
苦々しく眉をひそめる彼に、隣の栗原光一が嫌味っぽく囁く。 「どうやら、君の当ては外れたようだな」
「……俺が榎本真衣を買い被っていたらしい」 渉は無表情のまま、そう吐き捨てた。
これで二度目だ。
藤井海渡という男は、そもそも彼女のようなタイプを好まない。
散会の刻、真衣は渉の後ろを歩きながら、淡い期待を込めて時折振り返る。 だが、海渡の視線が自分と交わることは、ついぞなかった。
上機嫌に酔った光一が、馴れ馴れしく海渡の肩を叩こうとする。 だが、その手は海渡の纏う近寄りがたい空気に阻まれたかのように、空中でぴたりと止まり、気まずげに下ろされた。 「藤井さん、俺たち幼馴染じゃないですか。 また集まりましょうよ!……あ、それと、例の件です! 市の東側プロジェクトの……どうか、お心に留めていただけると!明日、企画書を藤井グループ様までお届けに上がりますので!」
これこそが、今夜光一がこの席を設けた真の目的だった。
「ええ」 海渡は表情一つ変えずに応じる。 「栗原さんがわざわざお越しになるには及びません。 後日、こちらから秘書に取りに行かせます」
「いえ、 そんな! お手間を取らせるなんて滅相もございません!」 光一が恐縮しきって頭を下げるのを、 海渡は感情の乗らない 「いえ」
の一言で制した。
すぐ後ろに立つ真衣には、そのやり取りが手に取るようにわかった。 今にもひざまずきそうな光一の姿に、思わず心の中で「馬鹿」と毒づく。
秘書に取りに行かせる、それはつまり「正規のルートで審査する」という、ビジネスライクな宣告に他ならない。
そこには、幼馴染への情けなど一欠片も含まれていないというのに。
この愚か者は、そのことにも気づいていないらしい。
「榎本真衣」 不意に呼ばれ、 真衣ははっと顔を上げた。 だが、
その視線は呼びかけた渉ではなく、 藤井海渡へと吸い寄せられる。
けれど、彼の黒曜石のような瞳に、自分の姿はやはり映り込んではいなかった。
「藤井さんをお送りしろ」 渉が、 有無を言わさぬ口調で命じた。 その魂胆はあまりにもあからさまだ。
願ってもない申し出に、真衣の心臓が小さく跳ねる。 海渡へと半歩踏み出した、その時。
「榎本さんには及びません」 冷たい声が、彼女の動きを縫い止めた。 伏し目がちだった瞳がすっと持ち上がり、初めて真っ直ぐに真衣を射抜く。
その視線に射竦められ、真衣は首筋に氷を当てられたような悪寒を覚えた。
海渡はなおも彼女を見つめたまま、言葉を続ける。 「少し、処理すべきことがありますので」
渉は不快感を露わに顔を歪めたが、すぐにそれを押し殺した。 海渡の背中を見送ると、冷え冷えとした視線で真衣を睨めつける。 「真衣、お前がこの程度のこともできないとは思わなかったぞ」
「だって、彼が私に興味ないんだもの。 どうしようもないじゃない」
真衣は、ぱちりと無邪気に瞬きをして見せた。 渉が失望を隠しもせずに何かを言いかけた、その時。 背後から、鈴を転がすような、しかし今は怒気を含んだ美しい声が響いた。
「榎本真衣!」
その声は、真衣にとって聞き慣れすぎた響きを持っていた。
(ちょうどいい。 これで逃げられる) 口の端に、 計算高い笑みを浮かべると、 真衣はそれを好機とばかりに、
くるりと身を翻して走り出した。
燃えるような真紅のドレスを纏った榎本星奈が、厳しい詰問の表情を浮かべて立ちはだかる。
渉は彼女の前に立ち、 なだめるような口調で言った。 「星奈、どうしてここに?」
「よくも聞けたものね!」 星奈は彼の言葉を鼻で笑い飛ばした。 「私がもう少し遅かったら、この女は義兄さんのベッドに潜り込んでいたんじゃないの!?」
渉の眉間に深いしわが刻まれる。 「君はまだ、藤井海渡と結婚したわけじゃないだろう!」
渉の言葉など耳に入らないとばかりに、星奈は彼を乱暴に突き飛ばし、真衣の後を追った。
海渡が消えた廊下を、真衣は夢中で走った。 どこまでも続くかのような長い廊下。
息を切らして壁に手をつく。 背後から迫る星奈の甲高い叫び声が、呪詛のように耳にまとわりついてきて、苛立ちと焦りが募る。
真衣は眉をひそめ、 やけっぱちになって近くのドアに、 もたれかかるように身体を預けた、 その瞬間だった。 ぐらりと傾いだ身体が、 内側から開かれたドアの向こうへ吸い込まれる。 背中が、 ひやりと冷たい、
けれどどこか嗅ぎ覚えのある香りを纏った硬い胸板に受け止められた。
頭上から降ってきたのは、低く、そして揶揄するような響きを含んだ声だった。
「ふっ……、榎本さんは、人の懐に飛び込むのが随分とお好きなようだ」