話 1
七年間、私のすべてだった婚約者。裏社会を牛耳る名家の跡取りである彼は、結婚式の三週間前に、私のことだけを忘れる記憶喪失になったと告げた。
でも、聞いてしまった。彼がビデオ通話で笑いながら、それを「結婚前にインフルエンサーと寝るための、最高の口実」だと言っているのを。
彼は情事を隠そうともせず、彼女をかすり傷から守るために仕組んだ事故で、腕を折った私を置き去りにした。そして、私を家なしにしようと画策した。彼は私のことを、飽きたら棚に戻せる「所有物」の人形だと呼んだ。
彼は私が、彼の「奇跡的な回復」を待ちわびていると思っていた。でも、私は彼の指輪と一枚のメモを残して、姿を消した。「全部、思い出した。私もね」とだけ書き残して。
第1章
美咲 POV:
七年間愛した男が、記憶喪失になったと主張している。忘れたのは、私のことだけ。――でも、聞いてしまった。彼がビデオ通話で、結婚前にインフルエンサーとヤるための最高の口実だと笑い飛ばしているのを。
指先が、ベッドに広げられた繊細なレースのベールをなぞる。このウェディングドレス一式は、私が初めて買った中古の軽自動車よりずっと高価だ。これは象徴。愛の、ではない。この街を牛耳る二大勢力を一つにするための、七年越しの政略結婚の証。完璧な縁組。完璧な人生。
ただ、私の婚約者であり、藤堂組の跡取りである藤堂蓮が、そのどれも覚えていない、という一点を除けば。彼はそう言っている。
三週間前、彼は軽い頭部の怪我を負った。組の稽古中に転んだ、と若頭補佐の亮が真顔で私に説明した。そのせいで記憶が飛んだらしい。選択的に。自分の名前も、家族も、次期組長としての役割も覚えているのに。ただ、私のことだけを覚えていない。
あの日から毎日、私は彼の記憶の欠片を繋ぎ合わせようと必死だった。私たちが暮らすタワーマンションの最上階は、私たちの愛の、あるいは私が愛だと思い込んでいたものの博物館と化した。壁には写真が並び、一つの音でも彼の記憶の鍵を開けてくれるかもしれないと期待して、私たちの最初のダンスになるはずだったマニアックなインディーズの曲を繰り返し流した。
「いい曲だね」。昨日、彼が言ったのはそれだけだった。その目は冷たく、どこか遠くを見ていた。
諦めるわけにはいかなかった。両家がこの縁談に期待している。私も、期待していた。これはただの結婚じゃない。血で血を洗う抗争が始まる前に、それを終わらせるための条約なのだ。
親友で弁護士のマヤ――私専属の相談役――は警告してくれていた。「美咲、これ、絶対おかしいよ。婚約者だけ忘れる頭の怪我なんて、三文芝居の筋書きみたい。医学的な診断とは思えない」
私はその言葉を無視した。そうするしかなかった。希望だけが、私に残されたすべてだったから。
今夜、彼の書斎に古いアルバムを探しに入ろうとして、ドアが少しだけ開いていることに気づいた。デスクの上ではノートパソコンが開かれ、ビデオ通話がまだ続いている。そして、聞こえてきた。ここ数週間、聞いていなかった音が。
蓮の笑い声。心の底からの、傲慢な笑い声が。
私は凍りついた。ドアノブに手をかけたまま。
「あいつ、全部信じきってるぜ」。蓮の声が、 smug な満足感に満ちて響き渡る。相手は亮だ。「一日中、俺たちの曲を流しやがって。あのデカい、悲しそうな目で見つめてきやがって。哀れすぎて笑える」
胃が締め付けられる。息が喉に詰まる。
「お前も悪党だな、蓮」。亮も笑っている。「クロエのためだけに?そこまでする価値あんのか?」
クロエ。何百万人ものフォロワーを持ち、整形と野心で作り上げられた体を持つインフルエンサー。彼女のブランドを通じて金を洗浄するために利用されている、組の協力者。でも、私たちの世界の人間じゃない。決して。
「これは一時的な『最後の火遊び』ってやつだ」。蓮は椅子に深くもたれかかり、革が軋む音がした。「組のしきたり、婚約、掟…全部、クソみたいな檻だ。この『記憶喪失』は、その檻から出るための鍵なんだよ」
掟。沈黙の掟。私たちが子供の頃に最初に教えられたルール。身内のことを決して外に漏らすな。公の場で軽率な振る舞いをして、組の名に泥を塗るな。それは私たちの世界のすべてを支える土台であり、家族を繋ぎとめる接着剤だった。そして彼は、その掟を浮気のための言い訳に使い、自分勝手な嘘の檻を築くためにその意味を捻じ曲げていた。
彼はウイスキーを一口飲む。グラスの中の氷がカランと音を立てた。「美咲は俺が記憶を取り戻せば、何でも許すさ。そうするしかない。あいつは俺の『所有物』なんだから。取引の一部だよ」
その言葉は、物理的な一撃のように私を打ちのめし、肺から空気を奪い去った。私の全世界、七年間の献身、人生を賭けた未来――そのすべてが嘘だった。ゲームだった。クソみたいな「最後の火遊び」だった。
心にあった愛が、冷たく鋭い何かに変わっていく。悲しみはあまりに巨大で、ブラックホールのようにすべてを吸い込んでいく。でも、その向こう側で、一つの計画が形作られ始めた。冷酷で、緻密で、美しい計画が。
私はゆっくりと、静かにドアを閉めた。カチリというラッチの音は、檻の扉が閉まる音。でも、今度は、彼がその中にいるのだ。本人はまだ、それに気づいていないけれど。
彼は私を所有物だと思っている。彼のゲームの駒だと思っている。
いいわ。そのゲーム、乗ってあげる。でも、これが終わったとき、勝っているのは彼じゃない。
話 2
美咲 POV:
翌朝、アパートメントはパンケーキの香りで満たされた。彼の好物。バターミルクとチョコチップの。私は彼の前に皿を置き、彼の記憶喪失と同じくらい偽物の笑顔を浮かべた。今にも砕け散りそうなガラス細工みたいな笑顔。
「これで何か思い出すかなって思って」
私の声は、砂糖でコーティングされた毒のようだった。
彼はただ唸り声をあげ、スマホに目を落としたまま、食べ物を口に放り込む。胸の痛みは鈍く、絶え間なく続き、心臓を握りつぶす拳のようだ。私はそれを押し殺し、氷の層の下に埋めた。
彼が出て行ってドアが閉まるやいなや、私の顔から笑顔が消えた。私はマヤに電話をかけた。
「あなたの言う通りだった」
前置きはなかった。言葉は平坦で、死んでいた。
一瞬の間があって、それから彼女の口からスペイン語の罵詈雑言が飛び出した。それは最も凶悪な裏切りに対してのみ使われる言葉だと私は知っている。「どうするの?」
「ここを出る」
その言葉が、初めて確かな現実味を帯びて感じられた。「でも、うまくやらなきゃ。消える必要があるの。彼は次期組長よ、マヤ。私がただ逃げたと思ったら、彼は私を追い詰める。彼に恥をかかせたことに対する『落とし前』として。だから、私がただ…蒸発したように見せかけないと」
落とし前。報復。それは私たちにとって単なる言葉ではなかった。血塗られた神聖な約束。目には目を、命には命を、暴力によって回復される名誉。公然と恥をかかされた組長は、それを宣言する以外に選択肢はない。私はその矛先になるつもりはなかった。
「戸籍ロンダリングね」
マヤの声は、すっかりビジネスモードに切り替わっていた。「複雑だけど、不可能じゃない。彼の目はどこにでもある。新しい名前、新しい人生が必要よ」
私はペントハウスの窓から、眼下に広がる巨大な都市を見下ろした。コンクリートの檻。「栞。遠山栞」
その日の午後、私は自分の名前で新しい銀行口座を開設し、わずかな個人資産を移した。現金払いのフリーランスのグラフィックデザインの仕事を請け負い始めた。オンラインプラットフォームを通じて匿名で支払われる小さな仕事。一円一円が、私の脱出の土台を築くレンガのように感じられた。
北海道、札幌。その地名は夢の中で浮かんだ。雨とバラで知られる街。藤堂組のネットワークが及ばない、三千マイル離れた場所。中立地帯。私の匿名の目的地。
その夜、私は七年間のすべての痕跡を箱に詰めた。写真、手紙、彼がカーニバルで私のために取ってくれた馬鹿げたぬいぐるみ。箱を封印し、クローゼットの奥に押し込んだ。まるで死体を埋めているような気分だった。私の死体を。私は痛みを伴いながら、一本一本、繋がりを断ち切っていた。
一週間後、いつものコーヒーショップでマヤを待っていると、ドアのベルが鳴った。私はハッとして顔を上げた。
蓮が入ってきた。息が止まる。
彼は一人ではなかった。クロエが彼の腕にまとわりつき、彼を見上げて笑っている。その唇は彼のキスでまだ腫れぼったい。彼らは見せ物だった。私たちの婚約、彼の家族の名誉に対する、公然たる「ファックユー」だ。彼は協力者、一時的な利用価値しかない使い捨てのアクセサリーをひけらかしていた。一方で、彼の婚約者――彼の家族の権力を次世代にわたって確固たるものにするための政治的同盟の鍵――は、二十フィート先で座っている。それは単なる無礼ではなかった。それは、ルール、私たちの世界の構造そのものが、彼には適用されないという公の宣言だった。
蓮の目が、部屋の向こう側で私を捉えた。一瞬、何か――罪悪感?苛立ち?――がよぎったように見えたが、すぐに彼の顔は丁寧な困惑の仮面に戻った。彼は私に、まるで遠い知り合いにするかのように、小さく気まずそうに手を振った。
しかし、クロエはそれほど巧妙ではなかった。彼女の目は勝利の輝きを放ち、わざと蓮から離れて、腰を揺らしながら私のテーブルに向かって歩いてきた。
「美咲さん、よね?」
彼女の声は、偽りの同情でねっとりと濡れていた。「蓮から色々聞いてるわ…あなたがどれだけ大変か、って。私が彼を支えるために何かできることがあったら、何でも言ってね」
その挑発はあまりに露骨で、哀れですらあった。彼女は反応を求めている。涙を、修羅場を。彼の人生における新しい女としての地位を固めたいのだ。
私は彼女を見上げた。私の顔は完璧な無表情。微笑みもしない。何も与えない。
「その必要はありません」
私の声は、死体安置所の石板のように平坦で冷たかった。
彼女は瞬きをした。私の感情の欠如に不意を突かれたのだ。彼女は「籠の中の鳥」を期待していた。だが、そこにいたのは全く別の何かだった。
私は彼らが去っていくのを見つめた。彼の腕は今や、所有欲をむき出しにして彼女の腰に回されている。その光景はもはや私に痛みを与えない。ただの燃料だ。私の決意は鋼のように硬くなった。
私はもう、組長の従順な婚約者、橘美咲ではない。私は遠山栞だ。
私の唯一の目標は、脱出すること。
話 3
美咲 POV:
数日後、私の電話が鳴った。蓮からだった。彼の声には、私の肌を粟立たせるような、練習されたパニックが滲んでいた。
「美咲、クロエが」と彼は言った。「事故があって…彼女、転んで頭を打ったんだ。今、救急病院に向かってる」
組の示威行為がうまくいかなかったのだろう。ライバルに送ったメッセージが、協力者をかすめたのだ。私は深く、冷たい虚無を感じた。
「彼女、大丈夫なの?」
私は完璧な心配を装って尋ねた。私はとても良い女優になった。
「わからない。病院で会ってほしい」と彼は言った。「頼む」。その懇願はショーの一部だ。心配する婚約者が、危機の時に忘れられた恋人に頼る、という筋書き。
私は行く。私が演じている役柄がそれを要求するからだ。待合室で彼を見つけると、クロエが診察を受けている間、彼は大げさに歩き回っていた。彼は看護師たち、そしてドアのそばに潜む彼の部下たちのためにショーを演じている。彼女がどれほど大切な「友人」であるかを語り、彼女の地位を引き上げようとしている。未来の組長の付き添いに値するほど重要な存在だと見せかけたいのだ。
私のスマホが震えた。カレンダーのリマインダー。「蓮 - 脳神経外科 フォローアップ」。それは組の上層部のメンバーにとって定期的な検診で、彼の最も重要な資産である頭脳のチェックだ。損傷しているはずの、頭脳の。
私は彼の元へ歩み寄り、表情を柔らかく保った。「蓮、一時間後に脳神経外科の予約があるわよ」
彼は dismissive に手を振った。「キャンセルしてくれ。クロエを置いていけない。これは緊急事態だ」
私たちの世界では忠誠がすべてだ。忠誠の至上性は提案ではなく、戒律だ。家族への、自分の役割への、未来への忠誠。彼は自分の情事を跡継ぎとしての義務よりも優先することで、その戒律に唾を吐きかけていた。彼は部下たちに、父親に、すべての人々に、自分の個人的な気まぐれが組そのものよりも重要だと告げていた。
後で、待合室の硬いプラスチックの椅子に座っていると、私のスマホが光り始めた。知らない番号からの連続したテキストメッセージ。写真。車の中でキスをする蓮とクロエ。クラブで、彼女の手が彼にまとわりついている蓮とクロエ。タイムスタンプはここ数週間のものだ。これは彼が画策し、彼女が実行した、意図的で悪質な攻撃だ。
私は無表情でそれらの画像を見つめた。そして、一枚一枚丁寧に写真を削除し、番号をブロックした。まるで素手でガラスの破片を掃き集めているような気分だった。
しかし後で、自分の車の中で一人になると、消毒液の無機質な匂いがまだ服にまとわりついている中、一つの記憶が蘇った。二年前、私がインフルエンザにかかった時の蓮。彼は三日間私のそばにいて、スープを食べさせ、本を読んでくれた。彼の心配はとてもリアルで、優しかった。
あれも演技だったのだろうか?どれか一つでも本物だったのだろうか?
鋭く、ねじれるような痛みが胃を掴んだ。その痛みは、今の彼に対するものではなく、かつての愚かで、人を信じやすかった私自身に対するものだ。彼が歌う歌を信じていた「籠の中の鳥」に対するもの。
あの電話を聞いて以来初めて、一筋の涙が頬を伝った。それは怒りで熱かった。彼のための涙ではない。私がかつてそうであった愚か者のための、葬送の炎だった。
一週間後、マヤが私をギャラリーのオープニングに連れ出した。そしてもちろん、彼らがいた。蓮とクロエが、腰に手を回してくっついている。彼の笑い声が、無機質な白い部屋に響き渡る。彼は彼女をひけらかしている。彼の父親の権威と私の立場に対する、直接的な挑戦だ。
彼はバーで飲み物を取るために私のそばを通り過ぎた。「赤ワインでいい?」と彼は反射的に尋ね、そして我に返った。「あ、ごめん。忘れてた」
でも、彼は忘れていなかった。本当は。私は赤ワインにアレルギーがある。彼が覚えていないはずの七年間の記憶の底に埋もれているはずの詳細だ。一瞬、私の心臓が不規則に脈打った。愚かで、希望に満ちたときめき。
そして彼はクロエの方を向き、グラスを手渡した。彼の顔は再び、丁寧な困惑の白紙の状態に戻っていた。
どうでもいい。言い間違いが何かを変えるわけじゃない。彼の策略は、私がもはやプレイしていないゲームだ。