話 2
クラッチバッグからの微かな振動が、私を記憶から引き戻した。
それは私の個人用のスマホではなく、暗号化された小型の特殊なデバイスだった。
私はバルコニーの隅、大きな観葉植物の陰に隠れるように移動した。
斎藤さんからの電話だった。
「すべて準備は整った、綾子」
彼の声は穏やかで、プロフェッショナルだった。
「プロトコルは準備完了だ。あとは君の最終的な合図を待つだけだ」
「ありがとう、斎藤さん」
「本当にいいのか? 一度実行したら、もう後戻りはできない。少なくとも、家族には別れを告げるべきじゃないか」
彼の言葉が、私の心の奥深くにある何かを突いた。
家族。その言葉は空虚に響いた。喉の奥に塊ができた。
蓮はもう私の家族ではない。
私のベッドを共有する見知らぬ男。私たちの偽りの結婚という名のビジネスパートナー。
「斎藤さん」
胸が締め付けられるのとは裏腹に、私の声は落ち着いていた。
「プロトコルを発動させたら、すべてを消去してほしいの。公的な記録だけじゃない。すべてのサーバー、すべてのデータベースから、桐山綾子を消して。私を、消して」
電話の向こうで、沈黙があった。
「綾子、それは…やりすぎだ。それは『焼かれた』エージェントにしか使わないレベルの抹消プロトコルだぞ。君と蓮は、幸せだと思っていたが」
それは、私がどれだけ完璧に自分の役を演じてきたかの証だった。
私の最も近しい協力者でさえ、私の人生の真実を知らなかったのだ。
「彼に、裏切られたの」
言葉は平坦で、感情がこもっていなかった。
電話の向こうから、長くて重いため息が聞こえた。「…そうか。そういうことだったのか」彼は少し間を置いた。「数ヶ月前の彼女からの電話…君が追跡を依頼した件だ。これで全て合点がいった」
彼はそれ以上何も言わなかった。彼は理解してくれた。
「システムは四十八時間後に準備が整う。身辺整理を済ませておけ。君が飛行機に乗った瞬間、桐山綾子は存在しなくなる」
「分かったわ」
安堵の波が私を包んだ。計画は盤石だ。もう、始まるのだ。
泥沼の離婚劇を演じる必要はない。
財産を争ったり、彼の嘘や謝罪を聞いたりする必要もない。
私はただ、消えるだけ。
「ありがとう、斎藤さん。本当に、何から何まで」
「とにかく、無事でな」
彼は電話を切った。
私がデバイスをクラッチバッグに滑り込ませたその時、蓮がバルコニーのドアのところに現れた。
「誰と話していた?」
彼は目を細め、疑いの眼差しを向けてきた。
私は振り返った。私の顔は完璧な平静の仮面をかぶっている。
「母よ。記念日のお祝いを言いたかったみたい」
私は彼の視線をまっすぐに受け止め、微動だにしなかった。
それは単純で、信じやすい嘘だった。
彼はしばらく私の顔を吟味し、何かを探っていた。
やがて彼は力を抜き、疑念は消え去った。
彼は後ろから私を抱きしめ、その胸に私を引き寄せた。
「愛してるよ、綾子。分かってるだろ? 君なしじゃ生きていけない」
彼の言葉は毒だった。
もし今、私が「もしあなたが私を裏切ったら?」と尋ねたら、彼はどうするだろう。
きっと、笑い飛ばすだろう。
何年も前の、ふざけ合った会話を思い出した。
もし彼が浮気したらどうすればいいかと尋ねたことがある。
彼は笑って言った。「僕を永遠に締め出せばいい。自業自得さ」
もうすぐ、あなたは報いを受けるのよ、と私は思った。
あなたは私の人生から、永遠に締め出される。
ちょうどその時、森莉奈が歩み寄ってきた。
彼女はファイルを手にしており、その表情は真剣でプロフェッショナルだった。
「桐山さん、お話中すみません。フェニックス・プロジェクトについて緊急の報告があります」
蓮は私から手を離し、その態度は瞬時に集中したCEOのものへと変わった。
「何だ?」
彼はファイルを受け取り、私に背を向けた。
彼らの間に、小さなプライベートな空間が作られる。
私は彼らを見ていた。上司とその部下の完璧な絵姿。
彼らの演技は完璧だった。一瞬、私はその手腕に感心さえした。
奇妙な感謝の念が湧いてきた。
気づけてよかった。叫び合いや皿が割れるような修羅場を経ずに、抜け出す方法があってよかった。
蓮がイベントマネージャーにカウントダウンの合図を送った。「五、四、三、二、一…」
彼は私の方を振り返り、その笑顔は大きく、まばゆいばかりだった。
「結婚記念日おめでとう、愛する人」
突然、外の空が鮮やかな色のシャワーとなって爆発した。
私たちのための、巨大な花火の打ち上げ。
群衆は息をのみ、拍手喝采した。
「十年か」
蓮は花火を見つめながら呟いた。「まるで昨日のことのようだ」
私は炸裂する光を見つめた。十年。それは一生のように感じられた。
全く別の人生。
私の隣にいる男は、私が結婚した男ではなかった。
あの男は野心的だったが、優しかった。
この男は傲慢で、空っぽだ。
彼は私の方を向いた。その顔が、点滅する光に照らされる。
彼は私にキスをしようと身を乗り出した。
彼の唇が私のものに触れようとした、その瞬間。
彼のスマホが鳴った。
彼は身を引き、その顔に苛立ちがよぎった。
「一体誰だ、こんな時に」
彼はそう呟きながらスマホを取り出した。
彼は画面を一瞥した。苛立ちは消え、複雑な感情の入り混じった表情に変わった。
薄暗い光の中でも、私にははっきりと見えた。欲望。そして、厄介事。
私は画面をちらりと見た。
「K」からのメッセージ。ハートの絵文字が一つ。
彼はすぐにスマホの角度を変えたが、もう遅い。私は見てしまった。
彼の目には、生の、飢えたような光が宿っていた。
ここ何年も、私には向けられたことのない眼差し。
彼は咳払いをし、スマホをポケットに滑り込ませた。
「仕事だ」
彼は嘘をついた。その声は絹のように滑らかだった。
「海外サーバーの一つに緊急事態が発生した。すぐに対処しなければならない」
「蓮、今日は私たちの記念日よ」
私は静かに言った。その声には、ちょうど良い量の失望が含まれていた。
「分かってる、ベイビー、本当にすまない」
彼は後悔の仮面をかぶりながら言った。
「必ず埋め合わせはするから、約束する」
「いいのよ」
私は、彼がこれ以上嘘を重ねる前に、彼の言葉を遮った。
「行って。仕事は大事よ」
彼は安堵したようだった。なんて簡単なこと。
彼は、私がどれだけ騙しやすい女だと思っているのだろう。
「君は最高だ、綾子。できるだけ早く戻るから」
彼は私の頬に素早く、上の空でキスをし、急いで立ち去った。
私は彼が行くのを見送った。
冷たい確信が、私の心に落ち着いた。
彼はサーバーを直しに行くのではない。
彼女の元へ行くのだ。
そして私は、彼の後を追うことにした。
話 3
彼がパーティーを抜け出してから十分後、私もそっと会場を後にした。
業務用エレベーターで駐車場へ下り、その動きは素早く静かだった。
私の車はプライベートな区画に停めてある。
車に乗り込み、通りに出た。
彼の車を見つけるのは簡単だった。
彼が乗っているのは特注のスポーツカーで、見失いようがなかった。
私は安全な距離を保ち、ヘッドライトを消して後を追った。
彼はスピードを上げ、オフィス街から離れ、都心の新しい高級タワーマンションの方へ向かっていた。
彼は洗練された近代的なマンションの地下駐車場に入っていった。
私は通りの向かいに車を停め、様子を窺った。
数分後、森莉奈がエレベーターホールから出てきた。
彼女のプロフェッショナルな態度は消え失せていた。
シルクのローブを羽織り、髪を下ろしている。少し焦れた様子だった。
蓮の車が近づくと、彼女は彼に駆け寄った。その表情は、拗ねたような、それでいて喜びに満ちたものだった。
「遅かったじゃない」
彼女は甘えた声で文句を言った。
蓮は車から降り、満面の笑みを浮かべていた。
彼は彼女を腕の中に引き寄せた。
「パーティーから抜け出すのが大変でね」
彼は低く、親密な声で言った。
「特別な誰かのために、サプライズを用意したんだ」
彼は空の方を曖かいに指差した。そこでは、最後の花火が消えかけていた。
「気に入ってくれたかい?」
「私のために?」
彼女は目を丸くして尋ねた。
「てっきり…彼女のためのものかと」
「ずっと君のことだけを考えていたよ」
彼はそう言って、彼女に深くキスをした。
「約束する、莉奈。もう少しだけ時間をくれ。この取引が終わったら、ちゃんと片を付けるから」
私はエンジンを切った車の中で、バックミラー越しに彼らを見ていた。
何年も前の自分の言葉が、心の中でこだまする。
記念日の花火。私は彼に、そんな贅沢はやめて貯金すべきだと言った。彼は譲らなかった。
今、その理由が分かった。
壮大なロマンティックな演出は、妻のためではなかった。愛人のためのものだったのだ。
どうして私はこんなに愚かだったのだろう。
莉奈は彼の首に腕を絡ませ、その体を彼に押し付けた。
「待ちたくないわ、蓮」
彼女は喉を鳴らすように言った。
「あなたが彼女と一緒にいるのを考えると、嫉妬しちゃう」
彼は低く、喉の奥で笑った。「嫉妬することなんて何もないさ」
「じゃあ、証明して」
彼女は囁き、その手は彼の胸を滑り落ちていった。
「あなたが本当に欲しいのは誰なのか、見せて」
彼にそれ以上の言葉は必要なかった。
彼は彼女を抱き上げた。彼女の脚が彼の腰に絡みつく。
そして、彼は彼女を自分の車の方へ運んでいった。
彼女は甲高い笑い声を上げた。
彼は彼女を助手席のドアに押し付け、再びその口を彼女の口に重ねた。
窓はスモークガラスだったが、二人のシルエットが重なり合って動いているのが見えた。
狂おしく、必死なダンス。
私はシートに深く沈み込み、その体を影に隠した。
一筋の涙が頬を伝ったが、私はそれを乱暴に拭った。
写真で一度見るのと、生で見るのとでは全く違った。
裏切りの痛みは生々しく、再び引き裂かれた傷口のようだった。
彼の約束、誓いの言葉を思い出す。すべて嘘だった。
彼は彼女のどこに惹かれたのだろう?
彼女は若く、野心的で、そして分かりやすかった。
それだけで十分だったのか?
古く、見慣れたおもちゃを、新しくてピカピカのおもちゃに替えるように。
私はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。そしてもう一度。
ここで崩れてはいけない。今、ここで。
私には計画がある。抜け出す方法がある。
あと、四十七時間。
その思いが、命綱だった。
私は耐える。今夜を乗り越えれば、私は自由になれる。
私はパーティーには戻らなかった。
二人で建てた、今や汚された思い出でいっぱいの、だだっ広い空っぽの家に車を走らせた。
寝室に直行し、ドレスのままベッドに横になった。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
寝室のドアが開く音で、はっと目が覚めた。午前三時近くだった。
蓮が戸口に立っていた。廊下の光に照らされて、その姿はシルエットになっている。
彼は緊張しているように見えた。
「綾子? ここにいたのか。心配したんだぞ」
彼はベッドに駆け寄り、私を見て安堵の表情を浮かべた。
「パーティーに戻ったら君がいないんだ。電話にも出ないし。何かあったのかと…」
笑いそうになった。心配?
彼が心配しているのは、彼の完璧なアリバイである、愛情深い妻が姿を消したからに過ぎない。
「遅かったのね」
私は平坦な声で言った。
「サーバーのトラブル、大変だったみたいね」
「ああ、そうなんだ」
彼は間髪入れずに答えた。
「本当に大変だった。でも、もう全部解決したよ」
彼はベッドの端に腰掛け、私の手を取った。
彼の感触が、吐き気を催すほど不快だった。
私も上手くなったものだ、と気づいた。嘘をつくこと。ふりをすること。
彼が良い先生だった。
彼は私が無事であること、彼の完璧な世界がまだ無傷であることに心から安堵しているようだった。
彼は私を抱きしめ、私の髪に顔をうずめた。
「二度とこんな風に心配させないでくれ」
彼は囁いた。
「もし君を失ったら、どうしていいか分からない。世界の果てまで探しに行くよ」
私は彼の腕の中で、完璧に静止していた。
彼の言葉が、檻のように私を包み込む。
心配しないで、蓮、と私は思った。
もうすぐ、それを証明する機会が訪れるわ。