話 1
5年間、私は神宮寺 司の婚約者だった。
5年間、兄たちはようやく私を愛すべき妹として扱ってくれた。
けれど、祭壇の前で彼を捨てた双子の姉、詩織が、偽のがん宣告を盾に帰ってきた。
そして彼は、たった5分で彼女と結婚した。
誰もが姉の嘘を信じ込んだ。
姉が毒蜘蛛で私を殺そうとした時も、彼らは私を大げさだと罵った。
姉のパーティーを台無しにしたと濡れ衣を着せられた時は、兄たちに血が滲むまで鞭で打たれた。
彼らは私を「価値のない代用品」「姉の顔をしただけの仮の存在」と呼んだ。
そしてついに、彼らは私をロープで縛り、崖から吊るして見殺しにした。
でも、私は死ななかった。
崖を這い上がり、自分の死を偽装して、姿を消した。
彼らが亡霊を望むなら、本物の亡霊になってやろうと決めた。
第1章
ベイリー・ダグラス視点:
5年間、神宮寺 司は私の世界が回る中心、太陽そのものだった。
5年間、私は彼の婚約者として、あらゆるパーティーで彼の腕に寄り添い、その名前はいつも彼の隣で囁かれた。
そして、たった5分。
私は通りの向かいにあるコーヒーショップの冷たいリノリウムの床に立ち、彼が私の双子の姉、詩織と結婚するのを見ていた。
彼には、私たちが役所の窓口にたどり着けなかった理由が山ほどあった。
彼の全神経を必要とする数十億円規模の合併。
延期不可能な敵対的買収。
どうしても外せないモナコへの出張。
私がドレスを選び、花に頭を悩ませた、私たちの本当の結婚式は、いつもすぐそこにあるはずだった。
地平線にきらめく、甘い約束のように。
「来年の春には、ベイリー。約束する」
彼は私の髪にそう囁いた。
その低く、酔わせるような声は、私に何でも信じさせてしまう魔力を持っていた。
「この取引さえ終われば、僕の時間はすべて君のものだ」
私は彼を信じた。
馬鹿だった。
でも、彼を愛していたから信じた。
ずっと飢えていた私の心の片隅が、ようやく満たされる気がしたから。
彼の瞳に宿る温もりは、私だけのものだと思っていた。
彼が私の手を握る、その温もりも。
今、コーヒーショップの埃っぽい観葉植物の陰に隠れながら、私は彼が詩織の指にシンプルなゴールドの指輪をはめるのを見ていた。
5年前、彼を祭壇に置き去りにし、どこかのミュージシャンと駆け落ちした、あの詩織。
刺激的な人生を追い求めた末に、ボロボロになって一文無しで舞い戻ってきた姉の指に。
疲れきった顔の役所の職員が、書類に判を押す。
司は窓の外に目を向けることすらなかった。
彼の世界は、あの無機質な部屋の中にしかなかった。
区役所のドアが開き、二人が厳しい東京の日差しの中に足を踏み出す。
私と瓜二つの双子の姉、詩織は、輝くように見えた。
彼女が死にかけているなんて、誰も思わないだろう。
少なくとも、それが彼女の話だった。
ステージ4の膵臓がん。
かつて無慈悲に捨てた男と結婚することが「死ぬ前の最後の願い」なのだと。
彼女は婚姻届を胸に抱きしめていた。
真紅のドレスに映える、鮮やかな白。
それは勝利の旗だった。
彼女は誰にというわけでもなく、世界中に向かってそれを振っているようだった。
私が勝ったのよ、と。
またしても。
「ああ、司さん」
彼女は、偽りの涙で声を詰まらせて泣き叫んだ。
「本当にごめんなさい。5年前にあなたにしたこと、心から謝るわ。私、なんて愚かだったんでしょう」
彼女が振り向いた。
そして初めて、彼女の瞳が、私の瞳が、通りの向かいにいる私を捉えた。
ゆっくりと、勝ち誇った笑みが彼女の顔に広がる。
「でも、教えて、司さん」
静かな午後の街に、彼女の声が響き渡った。
私に一言一句聞こえるほど、大きな声で。
「あなたは本当に彼女を愛したことがあったの? それとも、彼女はただの『私』だった?」
時が止まった。
黄色いタクシーの列が、意味のない色の流れにぼやける。
街の喧騒が、鈍い唸りへと遠ざかっていく。
私は司を見ていた。
私の司。
数えきれない夜、私を抱きしめ、涙をキスで拭い、私だけを見ていると誓ってくれた男を。
彼の顎がこわばる。
彼は答えない。
1秒。2秒。10秒。
永遠のような時間が過ぎていく。
肺が焼けるように痛い。
湿ったセメントのように重く、冷たい絶望が、体の内側から私を満たしていく。
彼はようやく私を見た。
その視線は空っぽで、まるで他人を見るかのようだった。
「愛してたかって?」
彼は詩織の質問を繰り返したが、その言葉は私に向けられていた。
判決。
そして、死刑宣告。
「ベイリー」
彼の唇に乗った私の名前は、侮辱に聞こえた。
「彼女は、詩織なんだ」
それだった。
私が5年間、真実ではないと偽り続けてきた真実。
私はベイリーではなかった。
ただ、「詩織ではない」存在だった。
仮の存在。
スペア。
同じ顔を持つ、都合のいい代用品。
詩織の偽りの涙は消え、きらびやかな勝利の笑みに変わっていた。
彼女は司の首に腕を回し、深く、所有権を主張するかのようにキスをした。
彼も彼女にキスを返す。
その手は、かつて百万回も私の髪に絡んだのと同じように、彼女の髪に絡んでいた。
世界が傾き、私はよろめいた。
口に手を当て、体を二つに引き裂くような嗚咽を必死に押し殺す。
そう。
すべて、嘘だったんだ。
黒塗りの高級車が、キーッという音を立てて歩道に停まった。
ドアが開き、3人の兄――大樹、海斗、陸――が満面の笑みで飛び出してくる。
「話を聞いてすぐに来たぞ!」
長兄の大樹が、シャンパンのボトルを掲げて叫んだ。
「お祝いをしなくちゃな!」
彼らは詩織に駆け寄り、グループハグで彼女を包み込む。
その声は、心配と愛情が入り混じった騒がしい音だった。
「詩織、大丈夫か?」
「ベッドから出ちゃだめじゃないか!」
「早く家に帰ろう」
私の兄たち。
この5年間、私の守護者だった人たち。
私が生涯渇望してきた温もりで、ようやく、ようやく私を扱い始めてくれた人たち。
彼らは私の方を見向きもしなかった。
私は見えない存在。
彼らの再会を祝う宴の、招かれざる亡霊。
私はそこに立ち尽くし、震えていた。
彼らが勝利の英雄である詩織を車に押し込むのを、ただ見ていた。
司も、彼女の背中に庇うように手を添えて、後に続く。
車のドアが閉まり、彼らは去っていった。
私は歩道に取り残された。
決して私のものにはならなかった人生の、忘れ去られた付属品として。
膝が崩れ落ちそうになる。
倒れはしなかったが、コーヒーショップの冷たいガラス窓に身を預けた。
ぶつかった衝撃の痛みは、遠く、どうでもいいことに感じられた。
私は詩織の3分後に生まれた。
その瞬間から、私は彼女の影の中で生きてきた。
彼女は明るく、活発で、両親や兄たち、出会う人すべてを魅了した。
私は静かで、忘れられたスペア。
彼女は称賛され、私はお下がりをもらった。
彼女は学芸会で主役になり、私はその他大勢。
彼女は神宮寺財閥の跡取りで、東京で最も人気の独身男性、神宮寺 司を手に入れた。
私は脇役として、静かに痛む心で見守るしかなかった。
そして彼女は逃げた。
置き手紙一つで、彼を祭壇に置き去りにした。
ダグラス家は屈辱にまみれ、神宮寺家は激怒した。
彼女を溺愛していた兄たちは、詩織という名の妹はもういないと誓った。
「これからはお前が俺たちのたった一人の妹だ、ベイリー」
陸がそう言った。
彼の手は私の肩に置かれ、その目は硬かった。
一週間後、酔ってボロボロになった司が、私のアパートに転がり込んできた。
彼は詩織の名前を呼び、私の顔を両手で包み込んだ。
その息はウイスキーと悲しみに満ちていた。
「どうして僕を捨てたんだ、詩織」
彼はろれつの回らない口で言い、親指で私の頬骨を、顎のラインを――私たちの顎のラインをなぞった。
彼は私の目を見て、彼女を見た。
そして、絶望の淵で、彼は私に提案をした。
「結婚してくれ、ベイリー」
彼はひび割れた声で囁いた。
「あいつらに見せつけてやろう。彼女に、見せつけてやるんだ」
私はどうしようもなく彼を愛していた。
それが間違っていることはわかっていた。
私が代用品であることも。
でも、いつか、彼は私自身を見てくれるようになると、そう祈っていた。
だから、私は「はい」と答えた。
5年間、それは夢のようだった。
司は私に愛情を注いでくれた。
私の絵を展示するためのギャラリーを買ってくれた。
私たちは世界中を旅した。
彼は私を抱きしめ、美しいと言ってくれた。
兄たち、大樹、海斗、陸は、私がずっと夢見ていた兄になった。
彼らは私を試合に連れて行き、投資の仕方を教え、ただ様子をうかがうために電話をくれた。
彼らは私を守り、温かく、いつもそばにいてくれた。
生まれて初めて、私は愛されていると信じた。
ありのままの私を、本当に愛されていると。
そして、二週間前、詩織が帰ってきた。
あっという間に、夢は砕け散った。
愛も、愛情も、庇護も、すべてが輪ゴムのように彼女の元へと弾け飛び、私にはそれがかつてあった場所の、刺すような空虚さだけが残された。
喉から strangled laugh が漏れた。
それは痛々しく、壊れた音で、やがて嗚咽に変わった。
涙が頬を伝う。
熱く、無意味な涙が。
犬を散歩させていた男性が、哀れみと警戒が入り混じった表情で、私を大きく避けて通った。
私は身代わりだった。
一時しのぎの修理品。
棚に並べられた商品で、オリジナルが再入荷するまで、新品同様の状態で保管されていたにすぎない。
もう、ごめんだ。
その思いは、圧倒的な暗闇の中の、小さな火花だった。
もう、代用品にはならない。
私は窓から身を起こした。
動きは硬く、ロボットのようだ。
足は鉛のように重いが、無理やり動かした。
彼らが共有するあのヴィラには戻らない。
彼らの影に戻るつもりはない。
手の甲で涙を拭う。
無駄な仕草だった。
拭っても、すぐに新しい涙が溢れてくる。
「もう嫌」
私は無関心な街に囁いた。
「あなたたちの愛情の残りかすなんていらない。哀れみなんて受け取らない」
内臓をえぐられるような痛みが胸を貫いた。
あまりに深く、物理的な痛みに感じられる。
私は一瞬、息を吸うために身をかがめた。
そして、背筋を伸ばした。
どこへ行くともなく歩いていると、滑らかな黒いタクシーが隣に停まった。
何も考えずに、乗り込む。
「どちらまで?」
運転手が尋ねた。
一つの住所が頭に浮かんだ。
超富裕層のポートフォリオを専門とするオーダーメイドの不動産会社。
祖母が利用していた会社だ。
彼女が私に残してくれた、手つかずで忘れられていた信託財産が、突然、命綱のように感じられた。
「レキシントンのサザビーズ・インターナショナル・リアルティまで」
私はかすれた声で言った。
40分後、私は豪華な革張りの椅子に座り、アバーナシーと名乗る男性と向かい合っていた。
彼のスーツは非の打ちどころがなく、その気遣いは本物でありながらも控えめだった。
「ダグラス様」
彼は優しく言った。
「どのようなご用件でしょうか?」
私は深呼吸をした。
空気が肺の中で震える。
彼の瞳に映る自分の姿は、幽霊のようだった。
「島を買いたいんです」
驚くほど落ち着いた声で、私は言った。
「一番人里離れていて、無人で、誰も近づけない島を」
話 2
ベイリー・ダグラス視点:
アバーナシー氏のプロフェッショナルな平静を保った表情が、一瞬だけ揺らいだ。
驚きが彼の目にちらついたが、すぐに丁寧な微笑みで覆い隠された。
彼は磨き上げられたマホガニーのデスクの上で両手を組んだ。
「島、でございますか、ダグラス様? もちろんです。私どものポートフォリオには、いくつかの特別な物件がございます。ご希望の地域はございますか? カリブ海、あるいは南太平洋など」
「一番、人里離れたところを」
私は平坦な声で繰り返した。
「誰も探そうと思わないような場所。私が消えられる場所を」
彼はしばらく私を見つめていた。
涙で汚れた私の顔、震える手、そして瞳の奥にある空虚な絶望を。
哀れみの色がちらりと見えたが、彼はプロとして深入りはしなかった。
ただ頷くだけ。
彼が理解する必要のない痛みを、静かに受け入れた証だった。
「ぴったりの物件がございます」
彼はコンピューターに向き直りながら言った。
「カリブ海にある小さな岩礁で、ほとんど地図に載っていません。公にはリストされておらず、少々…風変わりなお客様から差し押さえた物件です。自給自足可能なヴィラ、太陽光発電、海水淡水化システムが備わっています。しかし、はっきり申し上げて、完全に孤立しています。物資の補給は月に一度、船でしか行えません。携帯電話の電波もありません。最も近い有人島まで、100海里以上離れています」
「完璧だわ」
私は囁いた。
その言葉は、祈りのようだった。
「それにします」
彼は静かに、効率よく仕事を進めた。
その動きには、彼が私から感じ取った切迫感が表れていた。
書類が印刷され、権利証が用意され、祖母の信託財産から資金を送金するための衛星電話が持ち出された。
私はほとんど震えない手で書類に署名した。
ペンの運びは、最後の、断ち切るための行為だった。
決済端末に表示された数字は天文学的で、小さな国が買えるほどの額だったが、何でもないように感じられた。
それは自由の代償だった。
「権利証は、ご希望通り、新しいお名前で登録されます」
アバーナシー氏は最後の書類を私の方へ滑らせながら言った。
「そして、輸送船は明後日の夜明けに、プライベートマリーナから出発できるよう手配いたします。お時間はそれで十分でしょうか?」
「ええ」
私は、かつての自分の声の亡霊のような声で答えた。
タクシーが私をブレア家の邸宅、司と私が我が家と呼んでいた広大なヴィラの門の前で降ろしたときには、もう暗くなっていた。
私の家。
そう思っていた場所。
重いオーク材のドアを押して開けると、温かさと笑い声の波にすぐに包まれた。
ローストチキンとローズマリーの香りが空気に満ちていた。
そして、彼らがいた。
私がもはやその一部ではない、完璧な家族の肖像画が。
司はキッチンにいた。
不器用なエプロンを腰に巻き、オーブンからローストポテトのトレイを取り出している。
彼は料理なんてしない。
5年間、一度だって私のために料理をしてくれたことはなかった。
詩織はキッチンアイランドのスツールに腰掛け、彼にあれこれ指示しながら笑っていた。
兄たちは忠実な番人のように彼女を取り囲んでいた。
大樹は彼女のためにリンゴを薄切りにしている。
海斗は彼女に水を注ぎ、完璧な温度になるように気を配っている。
陸はブランケットを手に、彼女が少しでも寒気を感じたらすぐに肩にかけられるよう準備していた。
「違うわ、おバカさん。先にジャガイモの皮をむかなきゃ!」
詩織はクスクス笑いながら、司の腕を playful に叩いた。
「あなたって本当にダメね」
「頑張ってるんだよ」
司の声は、私が今まで聞いたことがないほど柔らかく、甘やかだった。
「薬は飲みたくない」
詩織は、海斗が差し出した小さなピルカップを押し返しながら、ぐずった。
「すごく苦いんだもの」
「ほら」
陸がすぐに小さな蜂蜜の瓶を取り出した。
「これを少し舐めれば大丈夫だ」
それは完璧に振り付けられた献身のダンスで、私は舞台袖の招かれざる観客だった。
最初に私に気づいたのは司だった。
彼の笑顔が凍りつく。
「ベイリー。どこに行ってたんだ?」
彼の声はまだ優しかったが、今ではそれが嘘のように、他の人たちのための演技のように感じられた。
私は答えなかった。
私の目は詩織に、彼女の唇に浮かぶ勝ち誇った小さな笑みに釘付けだった。
彼女は知っていた。
この光景すべてを、私のために演出したのだ。
「今は詩織が僕たちを必要としているんだ、ベイリー」
司の声のトーンが、優しく諭すようなものに変わった。
「彼女には時間がない。僕たちみんなが、彼女のためにここにいる必要がある。君の姉さんのために」
君の姉さん。
その言葉は嘲笑だった。
「それは彼女のため?」
私は危険なほど静かな声で尋ねた。
「それとも、あなたのため、司さん? 5年間あなたを支えた女を捨てて、あなたの心を壊した女の死に際の願いを叶えることで、少しは気分が良くなるのかしら?」
彼の顎の筋肉がぴくりと動いた。
「それはフェアじゃない」
「ベイリー、もうやめろ」
大樹の声は鋭かった。
彼は詩織を守る盾のように、一歩前に出た。
「お前の姉さんは病気なんだ。もっと理解してやれ」
「俺たちは家族だ」
海斗が、不満そうに眉をひそめて付け加えた。
「力を合わせなきゃいけない」
「わがままを言うな」
陸が、氷のように冷たい声で締めくくった。
「詩織には俺たちが必要なんだ。お前は大人になれ」
彼らの言葉が、見慣れた拒絶の波となって私に押し寄せる。
何も感じなかった。
彼らに傷つけられる可能性のあった私の部分は、今日の午後、すでに死んでいた。
「わかったわ」
私は言った。
その一言は降伏のように聞こえた。
でも、そうではなかった。
それは解放だった。
彼らの顔に安堵の波が広がった。
彼らは勝ったのだ。
厄介なスペアパーツは、元の場所に戻された。
「いい子だ」
司の声が再び柔らかくなった。
「さあ、二階へ行って詩織と過ごしてやれ。彼女、君と話したがっていたんだ」
彼と兄たちは、詩織の部屋を準備するために向き直った。
かつて私のアトリエだった部屋を。
彼らは私を双子の姉と二人きりにして、去っていった。
彼らの姿が見えなくなるとすぐに、詩織はスツールから滑り降り、私の方へ悠々と歩いてきた。
か弱く、死にかけている患者の姿は消え、私がよく知る捕食者の顔になっていた。
「あなたにちょっとしたプレゼントがあるの」
彼女の声は、偽りの甘さに満ちていた。
彼女はシルクリボンで結ばれた、美しく包装されたギフトボックスを差し出した。
「私へのおかえりなさい、そしてあなたへのおかえりなさい、影の世界へ、のプレゼントよ」
私は一歩後ずさった。
「いらない」
私は彼女のプレゼントを知っている。
プロムの前に下剤入りのチョコレートの箱。
16歳の誕生日には、シラミがわいた美しいスカーフ。
「まあ、そんなこと言わないで、お姉ちゃん」
彼女は甘い声で言い、私たちの間の距離を詰めた。
「噛みついたりはしないから、約束するわ」
彼女は私の手を掴んだ。
その握力は驚くほど強い。
そして、箱を無理やり私の手に押し付けた。
「ほら、開けるの手伝ってあげる」
手首をひねると、彼女は蓋を勢いよく引き剥がした。
黒くて毛むくじゃらの、足が多すぎる何かが、箱から飛び出した。
それは私の手の甲に着地した。
焼けるような、白熱した痛みが、接触点から爆発した。
私の喉から悲鳴が迸った。
茶色の隠遁蜘蛛。
毒蜘蛛。
致命的な。
本能が働いた。
私は手を振り回し、その生き物を振り払おうとした。
箱は宙を舞い、詩織の胸にまともに当たった。
彼女は微動だにしなかった。
ただ、目を白黒させて床に崩れ落ち、血も凍るような悲鳴を上げた。
「彼女が私を殺そうとしてる!」
話 3
ベイリー・ダグラス視点:
心臓モニターの規則正しいビープ音と、消毒液の無機質な匂いで目が覚めた。
病院。
まただ。
私の手は厚い包帯で巻かれ、鈍く、脈打つような痛みが腕を駆け上っていた。
「ベイリーお嬢様? ああ、よかった、お目覚めですか」
20年以上も我が家の家政婦を務め、私に唯一、変わらぬ優しさを見せてくれたマリアが、ベッドサイドに駆け寄ってきた。
いつもは温かい彼女の目は赤く腫れ、安堵と怒りが入り混じった表情をしていた。
「どうして…?」
私はかすれた声で尋ねた。
喉が乾いている。
「先生は、毒の回りが早いって…」
「奇跡でした、お嬢様」
彼女は震える声で言った。
「もし私がプライベート救急車を呼ぶのが5分遅れていたら、お嬢様は…助からなかったと」
彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
「私はお願いしたんです、ベイリーお嬢様。ブレア様とご兄弟方に、お嬢様を見てください、噛まれた跡を見てください、お医者様を呼んでくださいと、お願いしたんです。でも、彼らは聞いてくれませんでした。詩織お嬢様の周りに群がって、お嬢様が箱を投げつけたと泣き叫ぶのを聞いていたんです。箱ですって! お嬢様が床で痙攣しているというのに」
彼女は手を固く握りしめ、指の関節が白くなった。
「彼らは私をヒステリックな老婆だと呼びました。陸様は、騒ぎを起こすな、自分の立場をわきまえろと」
私の立場。
忘れられたスペア。
「私は思い出していただいたんです」
マリアは涙で声を詰まらせながら囁いた。
「お嬢様がどれだけ彼らの面倒を見てきたか。大樹様がひどいインフルエンザにかかった時、一晩中そばにいて、冷たいタオルを替え続けたのはお嬢様でした。海斗様がスキーで足を骨折した時、彼が看護師を嫌がるからと、週に3回もリハビリに連れて行ったのはお嬢様でした。陸様の最初の会社が倒産しかけた時、おばあ様の形見の宝石を売って助けたのもお嬢様でした。そのこと、彼にさえ話していませんでしたのに」
彼女の言葉は小さな短剣のようだった。
一つ一つが、私が心の周りに築いた無感覚の殻を突き破っていく。
「そしてブレア様」
彼女は嗚咽を漏らした。
「5年間、お嬢様は彼の家事全般、社交スケジュールを管理し、彼のお母様しかレシピを知らない、彼の大好物のスープの作り方まで覚えました。お嬢様は彼らのためにすべてを尽くした。なのに、彼らは何も見ていなかった。彼女しか見ていないのです」
私は黙って聞いていた。
熱い涙が一筋、こめかみを伝って髪の中に消えていく。
心の痛みは、手の疼きよりもずっとひどかった。
もう少しだけ、と私は自分に言い聞かせた。
島のことが、焼けるような魂への遠い、冷たい癒しのように感じられた。
もう少しだけ。
そうすれば、自由になれる。
二日後、私はプライベートクリニックを退院した。
ヴィラに戻ると、風船やリボンで飾り付けられていた。
歓喜に満ちたお祝いの音が、物理的な打撃のように私を襲った。
彼らはパーティーを開いていた。
詩織の誕生日パーティー。
それは、私の誕生日でもあった。
誰も覚えていなかった。
彼らはリビングルームに集まり、詩織に山のような豪華なプレゼントを贈っていた。
司からはダイヤモンドのネックレス。
大樹からはヴィンテージのスポーツカー。
海斗からは限定版のハンドバッグ。
陸からは希少な初版本。
私が戸口に立っているのに気づくと、笑い声が止んだ。
彼らの顔から笑顔が凍りつく。
「おや、誰かと思えば」
海斗が、皮肉たっぷりの口調で言った。
「ようやくお出ましか? スパでのんびり休暇でも楽しんでたのか?」
「クリニックには電話した」
陸が、冷たく硬い目で付け加えた。
「軽い蜘蛛の咬み傷だそうだ。昨日退院できたはずだ。そんなに大げさに振る舞う必要があったのか?」
「嘘をつくのは悪い癖になってきてるぞ、ベイリー」
大樹が嘲笑した。
司が私に近づいてきた。
その表情は、どんな怒りよりも鋭く切りつける、穏やかな失望の仮面だった。
「ベイリー、頼むから」
彼はまるで難しい子供に言い聞かせるように、優しく言った。
「詩織は起きたことをひどく気にしている。君が彼女を責めていると思っているんだ。彼女がどれだけか弱いかわからないのか? 彼女は君の姉さんだ。そして、僕の妻だ。僕たちは家族なんだ」
僕の妻。
彼はそれをいとも簡単に口にした。
私たちが共に過ごした5年間、築き上げた人生は、彼が彼女のために熱心に署名した一枚の法的書類によって消し去られた。
そして彼は、ここに立って私に家族について語る厚かましさを持っていた。
純粋で、白熱した怒りが、私の中を駆け巡った。
視界が揺らぐ。
顔から血の気が引いていくのを感じたが、無理やり唇に笑みを浮かべた。
それは脆く、顔を二つに引き裂いてしまいそうだった。
「その通りよ、司さん」
私は不気味なほど甘い声で言った。
「あなたの言う通りだわ」
彼は虚を突かれたようだった。
彼の目に不安の色がちらつく。
私がこれほど素直に同意するとは思っていなかったのだろう。
ちょうどその時、詩織が手を叩いた。
「ああ、時間だわ! 私の誕生日ビデオの時間よ!」
照明が落とされ、暖炉の上の大きなスクリーンが点灯した。
詩織の子供時代の写真のスライドショーのはずだった。
しかし、スクリーンに映し出されたのは、5歳若い詩織が、薄汚いクラブで二人の男と際どいポーズをとっている高画質の画像だった。
彼女のシャツは破れ、その表情は奔放そのものだった。
そして、別の写真が点滅した。
また別の写真。
一枚一枚が、前のものよりスキャンダラスだった。
部屋の空気は、衝撃と恐怖で重くなった。
スクリーンの向こう側、太い赤い文字でキャプションが現れた。
「東京一の尻軽女に、ハッピーバースデー」
部屋は混乱に陥った。
「消せ!」
大樹が、顔を紫色にして怒鳴った。
海斗が電源コードに飛びつき、壁から引き抜いた。
スクリーンは真っ暗になった。
陸がイベントマネージャーの襟首を掴んだ。
「このことが一言でも外に漏れたら、お前を破滅させてやる」
彼は唸った。
詩織は一瞬、凍りついたように立っていた。
その顔は、芝居がかった恐怖の仮面だった。
そして、彼女の目は部屋の向こうにいる私を捉えた。
彼女は震える指で私を指さした。
「ベイリー」
彼女は、練習を積んだ苦悩で声をひび割れさせながら、泣き叫んだ。
「どうして? どうして私にこんなことができるの?」
そして、合図があったかのように、彼女の目は白黒し、床に崩れ落ちた。
司の待つ腕の中へ、優雅に気絶してみせた。
「詩織!」
彼はパニックに満ちた声で叫んだ。
「誰か医者を! 今すぐ!」
彼は彼女を腕に抱き上げたが、二階へ駆け上がる前に、彼の目は私の目と合った。
その眼差しはもはや優しくも失望してもいなかった。
それは純粋で、混じりけのない憎悪だった。
「この代償は払ってもらう」
彼は、低く、恐ろしい約束のように唸った。