話 1
今日は凛と夫の結婚 3 周年の記念日ですが、しかし今、彼の夫は他の女性と一緒に夜を過ごしているのだ。
後部座席の窓はスモークがかかっているが、中の人影ははっきりと見えた。寄り添い、親密に囁き合う二つの影。
心臓がバラバラに砕け散る音がした。
凛は震える手で、冷たい窓ガラスを叩いた。コン、コン、と乾いた音が響く。車内の二人の動きが、ピタリと止まった。
数秒の沈黙の後、窓がゆっくりと半分だけ下がる。現れたのは、眉間に深い皺を寄せた暁の不機嫌そうな顔だった。ネクタイは緩められ、ワイシャツのボタンが二つ外れている。
「……何をしている、ここで」
低い、地を這うような声。凛は思わず一歩後ずさった。
暁の肩越しに、後部座席の奥にいる美咲と視線がぶつかる。美咲の唇の端が、挑発的に吊り上がっていた。その瞬間、凛の胃が再び激しく痙攣した。
「暁さん……帰ってきてください……お願いですから……!」
凛の声は震え、涙で潤んだ目は必死に暁を捉えている。
「今日は……私たちの結婚記念日なんです……あなた、今朝『早く帰る』って言いましたよね……? 私、あなたの好きなローストビーフもテリーヌも……シャンパンもあの時のと同じものを……」
「美咲の帰国祝いだ。そっちの方が重要だろう」
暁は、凛の言葉を遮って冷たく吐き捨てた。
「暁さん……」美咲が、甘えた声で暁の腕にすがりつく。「雷が鳴って、怖くて……。私が呼び出しちゃったの。凛さん、ごめんなさい」
嘘だ。今日は雷なんて鳴っていない。
凛は車のドアハンドルに手を伸ばした。中に入って、美咲を引きずり下ろしてやりたい。だが、その指がハンドルに触れる寸前、カシャリ、と冷たい音がして、車全体のロックがかかった。
希望が、完全に打ち砕かれた。
「ヒステリックな女は嫌いだ」暁の言葉が、氷の刃のように凛の胸に突き刺さる。「見苦しいぞ、凛」
その言葉に、凛の足から力が抜けた。よろめいて、水たまりを踏んでしまう。
冷たい泥水が、今日のためにおろしたばかりのハイヒールを汚した。
暁は、そんな凛を冷たい目で見下ろすと、容赦なくパワーウィンドウのスイッチを上げた。ガラスが上がりきり、二つの世界が完全に遮断される。
マイバッハのエンジンが唸りを上げ、凛のコートの裾をかすめて走り去っていく。排気ガスが、凛の顔に吹き付けられた。
彼女は激しく咳き込み、その拍子に、抑えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
1 時間前まで、彼女は家で夫が帰ってくるのを待っていました。彼女は、「私が帰ってきました」という言葉を聞くことができると思っていました。
その声が聞こえるはずだと、清水凛は何度も玄関の方に目をやった。
ダイニングテーブルには、完璧な焼き加減のローストビーフ、彩り鮮やかなテリーヌ、そして結婚記念日のために開けた高級シャンパンが並んでいる。すべて、夫である高橋暁の好物だ。
壁の時計の針が、無情にも夜の十時を指した。凛の胸の奥が、きりりと痛む。心臓が冷たい手で掴まれたような感覚。
彼女はスマホを手に取り、暁の番号をタップした。呼び出し音は鳴らない。代わりに、感情のない機械的な音声が耳に届いた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所に……』
指先に力が入らなくなり、スマホが手から滑り落ちそうになる。その瞬間、画面に一件の通知がポップアップした。匿名のメール。
胸騒ぎを覚えながら、凛は震える指でメールを開いた。添付された画像ファイル。それをタップした瞬間、凛の呼吸が止まった。
薄暗い車内。見慣れた黒のマイバッハの後部座席で、暁が、渡辺美咲を強く抱きしめていた。美咲の顔は暁の肩に埋もれ、その角度からは満足げな笑みが透けて見える。写真の背景に写り込んでいた微かなネオンサイン。六本木の、あのホテルだ。
凛は息をしようとしたが、空気が喉に引っかかってうまく吸い込めない。胃が痙攣し、吐き気がこみ上げてくる。
彼女は椅子から立ち上がろうとして、テーブルの脚に強く膝をぶつけた。激しい痛みが走ったが、それすら感じなかった。痛みよりも、心臓を直接抉られるような感覚の方が遥かに強かった。
クローゼットからコートを掴み取ると、凛はハンドバッグも持たずに玄関を飛び出した。
そして、今のこの状況が生まれたのです。
東京の夜景が、涙で滲んで歪んでいく。
冷たい隙間風が吹き抜ける。凛は凍える体を、自分の両腕で強く抱きしめた。震える指でスマホを取り出すが、涙で画面が濡れて、ロック解除すらままならない。
何度か失敗した後、ようやく親友の松本桜子の名前を探し当て、通話ボタンを押した。
『もしもし、凛?どうしたの、こんな時間に』
電話が繋がった瞬間、凛は声を上げて泣き崩れた。
「さくら……っ、わたし……」
言葉にならない。ただ、嗚咽が漏れるだけだ。
『凛!?何があったの!』
「捨てられた……わたし、捨てられた……!」
『あのクズ野郎!』桜子の激しい怒声が、凛の意識をわずかに現実に引き戻す。『今どこ!?すぐ迎えに行くから!』
その言葉だけが、暗闇の中の唯一の光だった。
電話を切り、凛は駐車場の出口スロープをゆっくりと上った。外は、土砂降りの雨だった。傘など持っていない。冷たい雨粒が、容赦なく彼女の体を打ち据える。
六本木の華やかなネオンが、雨に濡れたアスファルトに反射して、滲んでいる。
その時、けたたましいブレーキ音と共に、一台の真っ赤なスポーツカーが凛の目の前に滑り込んできた。運転席の窓が開き、桜子の怒りに満ちた顔が現れる。
「乗って!」
凛は、逃げるように助手席に転がり込んだ。暖房の温かい風が、凍えた体に染み渡り、ぶるりと身震いする。
桜子が、何も言わずにバスタオルを凛の頭に被せた。その優しさに、止まっていたはずの涙がまた溢れ出した。
桜子はアクセルを強く踏み込んだ。スポーツカーは轟音を立てて、六本木の街を猛スピードで離脱していく。
凛は、窓の外に流れていくネオンを見つめながら、心に誓った。
この涙を最後にしよう。
あの男への未練は、今夜、この雨の中に全て捨てていく。
話 2
桜子の車を降り、冷たい夜風に吹かれながら、凛はタワーマンションのエントランスへと向かった。冷たい風が頬を打つ中、凛の脳裏にあの匿名メールの送り主に対する疑問がふとよぎった。あれは美咲の自作自演だったのか、それとも暁を陥れようとする誰かの仕业なのか。だが、今の彼女にはそんなことすらどうでもよかった。オートロックのドアを抜け、エレベーターで最上階へ。三年間住んだ家の暗証番号を打ち込む指先は、氷のように冷え切っていた。
リビングは真っ暗だった。凛は電気もつけず、ソファに深く沈み込む。冷え切った革の感触が、肌に直接伝わってきた。
ただ、待つ。あの男が帰ってくるのを。
時計の針が深夜二時を回った頃、玄関のドアが静かに開いた。疲れた様子の暁が、ネクタイを緩めながら入ってくる。
凛が音もなく立ち上がって近づくと、暁は彼女から漂う夜風の冷たさと、その幽霊のような佇まいに、眉をひそめた。
「どこをほっつき歩いていた」
冷たい声。凛が彼の腕に触れようと手を伸ばすと、暁はまるで汚いものにでも触れられたかのように、その手を乱暴に振り払った。
「触るな」
暁はリビングの床に自分のスマホを投げ出した。画面には、週刊誌の電子版ゴシップ記事が表示されている。
『清純派女優・渡辺美咲、帰国早々、財界プリンスと密会か』
「お前がリークしたんだろう」
冷酷な声が、凛の鼓膜を突き破る。
「違う……」
「言い訳は聞きたくない」
暁は凛に背を向け、バスルームへと向かう。パタン、とドアが閉まる冷たい音が、静まり返ったリビングに響き渡った。
凛は、床に落ちたままの暁のスマホを見つめた。画面의光が、彼女の絶望に満ちた顔をぼんやりと照らし出す。
三年間、信じてきた。いつか彼が自分を見てくれると。その愛情が、今、完全に音を立てて崩れ去った。
凛はゆっくりと立ち上がった。その足取りに、もう迷いはなかった。
書斎へ向かい、引き出しの奥から一枚の用紙を取り出す。薄緑色の、離婚届。
ペンを握る手が、微かに震える。だが、凛は一度深く息を吸い込むと、よどみない筆跡で自分の名前を書き込んだ。住所、本籍。一つ一つ、丁寧に。
引き出しの更に奥から、実印を取り出す。躊躇なく朱肉をつけ、名前の横に強く押し付けた。
寝室へ移動し、クローゼットを開ける。暁が買ってくれた、趣味の悪い、派手なブランド服には一切触れない。その奥に押しやっていた、独身時代に着ていたシンプルな服だけを、古いスーツケースに詰め込んでいく。
洗面所から、シャワーの音が聞こえてくる。その音をBGMに、凛は黙々と荷造りを終えた。
リビングに戻り、記入済みの離婚届をダイニングテーブルの真ん中に置く。
その横に、マンションのカードキーを。
そして、左手の薬指から、結婚指輪を静かに引き抜いた。
指輪を外した跡が、白い線となってくっきりと残っている。一瞬だけ、胸の奥がチクリと痛んだ。だが、凛はすぐに表情を引き締めた。
スーツケースのハンドルを握り、三年間過ごした部屋を最後に見渡す。楽しかった思い出など、何一つ思い浮かばなかった。
玄関のドアを開け、迷うことなく廊下へと足を踏み出す。
背後で、オートロックのドアがガチャン、と重い音を立てて閉まった。
過去との、完全な決別だった。
エレベーターを待ちながら、凛はスマホで弁護士の連絡先を検索する。この時間では電話はできない。後でメールを送ろう。
一階に下り、自動ドアが開く。深夜の冷たい風が、凛の頬を撫でた。不思議と、心が軽くなっていくのを感じた。
タクシーを拾うために、大通りに向かって歩き出す。
通り過ぎる車のヘッドライトが、彼女の決意に満ちた横顔を一瞬だけ照らし出した。
空車の赤いランプを見つけ、凛は大きく手を挙げる。タクシーが、彼女の目の前で静かに停車した。
運転手がトランクを開け、凛はスーツケースを自分で積み込む。后部座席に深く腰を下ろした。
「お客様、どちらまで?」
運転手の問いに、凛ははっきりとした声で、都心から少し離れたアトリエの住所を告げた。
車が滑らかに走り出す。
凛は窓の外に流れる景色を見ながら、新しい人生の始まりを、静かに実感していた。
話 3
タクシーの揺れに身を任せながら、凛はスマホの画面をタップし、弁護士宛てのメールを作成した。
件名:離婚の件
本文:高橋暁との離婚にあたり、財産分与は一切放棄します。慰謝料等も不要です。可及的速やかに手続きをお願いいたします。清水凛。
送信ボタンを押した瞬間、ずっしりと肩にのしかかっていた重荷が、ふっと消え去ったような気がした。過去のしがらみから解放された、深い安堵感。
やがてタクシーは、古びたレンガ造りの建物の前で停まった。
「Aimon」
控えめな真鍮のプレートに刻まれたその文字を見上げ、凛の目に、この三年間失われていた鋭い光が宿った。
料金を支払い、スーツケースを引きながら建物の階段を上る。二階のオフィスフロアのドアを開けた。
「……凛!?」
デスクで徹夜作業をしていた親友の松本桜子が、驚いて顔を上げた。彼女の視線が凛の足元のスーツケースに落ち、全てを察した。
桜子は何も言わなかった。ただ椅子から立ち上がり、凛の体を強く、強く抱きしめた。
その温かさに触れた瞬間、堪えていた涙が一筋、凛の頬を伝った。
「……ごめん、桜子。迷惑かける」
「バカ。迷惑なんて思うわけないでしょ」
桜子は凛の背中を優しく叩いた。
凛は涙を乱暴に拭うと、桜子のデスクに山積みになったファイルに目を向けた。クライアントからの未処理案件が、66件。
凛は、自分が着ていた主婦らしい地味なカーディガンを脱ぎ捨て、ソファに置いてあった黒のタートルネックに着替えた。
無造作に下ろしていた髪を、手際よく高い位置でポニーテールに結ぶ。その表情から、先ほどまでの弱々しさは完全に消え去っていた。
凛はデスクの前に座ると、一番上にあったクライアントの要望書を手に取った。
ペンを握った瞬間、彼女の周りの空気が変わった。
背筋が伸び、瞳に冷徹なまでの集中力が宿る。
眠っていた天才デザイナー、YUZUが、完全に覚醒した瞬間だった。
凛は、驚異的なスピードでスケッチブックにデザインを走らせ始めた。ペンの先から、まるで魔法のように美しいラインが生み出されていく。
桜子は、凛の圧倒的なオーラに息を呑んだ。慌ててコーヒーを淹れ、彼女のデスクにそっと置く。
凛は差し出されたマグカップを無言で受け取り、一口だけ飲むと、視線を紙から一切外さずに作業を続けた。
窓の外が白み始め、夜明けの光が差し込む頃には、凛はすでに十着以上のドレスのデザインを完成させていた。
完成したスケッチを見た桜子が、その斬新さと息をのむような美しさに、思わず歓声を上げる。
「すごい……凛、あんたやっぱり天才だよ!」
凛は疲労の色一つ見せず、鋭い眼差しで次の布地のサンプル帳を開いた。
朝八時、アシスタントの加藤陽菜が出社してきた。デスクで神がかった集中力を見せる凛の姿を見て、目を丸くする。
「え……凛さん?……もしかして、YUZU先生……?」
陽菜の声が興奮で裏返る。彼女は、伝説のデザイナーYUZUの正体が、オーナーである桜子の親友・凛であることを知る数少ない人物の一人だった。
凛は陽菜の方をちらりと見ると、冷静な声で言った。
「加藤さん、このリストの布地、今すぐ発注して。最優先で」
「は、はいっ!」
陽菜は緊張した面持ちでリストを受け取り、駆け足で電話に向かった。
アトリエに、活気が戻ってきた。ミシンのリズミカルな音、布地を裁つハサミの音。
凛は自らトルソーの前に立ち、立体裁断の作業に没頭していた。一枚の布が、彼女の手にかかると、魔法のように生命を吹き込まれ、美しいドレスの形を成していく。
桜子は、そんな凛の姿を眩しそうに見つめながら、デリバリーで豪華な朝食を注文した。凛の完全復帰を祝うためだ。
作業の合間にサンドイッチをかじりながら、凛は今後のブランド戦略を早口で語る。その瞳には、過去の陰りは微塵もない。野心と、揺るぎない自信の光だけが宿っていた。
「Aimonを、世界一のブランドにする。桜子、手伝ってくれるでしょ?」
「当たり前じゃない!」
桜子は力強く頷いた。
その時、凛のスマホの画面が光り、不在着信の通知が表示された。
『高橋暁』
その名前を、凛は無表情で見つめると、何も操作せずに画面を伏せてテーブルに置いた。
彼女は再びトルソーに向き直る。
デザイナー、YUZUとしての新しい一日が、今、力強く始まった。