2

霧島夢と蒼井嵐はエレベーターに乗り、最上階へと向かった。

道中、蒼井嵐は終始にこやかで、途切れることなく紹介し続けていた。「最上階は宮崎社長のオフィスと私的エリアになってるの。特別な用がない限り、誰も立ち入れないのよ」

霧島夢は黙って聞き入っていた。

新しい上司についての注意事項は、確かにしっかり把握しておく必要がある。

蒼井嵐はふと彼女に視線を向け、何気ないふうを装いながら問いかけた。「霧島さんって、ずっと海外支社にいらしたって聞きましたけど……どうして突然、本社に異動されたんですか?もしかして、宮崎社長とは以前からお知り合いだったり?」

問いかけの中に浮かぶ瞳の色は、抑えきれない好奇心を物語っていた。

宮崎グループが創設されて以来、いわゆる“上からの抜擢”という前例は一度もなかった。

霧島夢は、その慣例を破った初めての存在だ。

蒼井嵐にはどうしても知りたかった。この女性がいったいどれほどの腕前を持ち、いかにして宮崎蒼の信頼を得たのかを。

なにしろ、宮崎蒼は自身の個人広報には常に厳格な基準を課していて、妥協など一切しない

霧島夢はわずかに眉をひそめた。あけすけにプライバシーを詮索されるのは、あまり気が進まない。

彼女は蒼井嵐のネームホルダーに目をやり、冷ややかに言った。「広報の仕事って、まず空気読む力が大事じゃない?」

その一言には、蒼井嵐の無神経さを皮肉る含みがあった。

ちょうどその時、エレベーターが最上階に到着した。

霧島夢は彼女を一瞥することもなく、さっさと先に降りた。

蒼井嵐の顔がわずかに引きつった。

唇を噛みしめ、彼女もすぐ後に続く。

――新人のくせに、あの口ぶりは何様のつもり?

二人はオフィスの外で静かに待っていた。

蒼井嵐は腕時計に目をやると、少し離れた場所へ行って電話をかけ、戻ってくるなり霧島夢に告げた。「宮崎社長は、まだ移動中だそうよ。もう少し待っててほしいって」

霧島夢は軽く頷いて、理解を示した。

再び沈黙が落ち、数秒経った……蒼井嵐はついに我慢できず、口を開いた。「ねえ、どうして宮崎社長が遅れてるか、知ってる?」

その問いかけには、明らかに意図があった。――『個人広報に選ばれたからって、いい気にならないで』。蒼井嵐の言葉には、そんな無言の圧が込められていた。

霧島夢は、上司のゴシップになど興味はなかった。ただ黙って聞き流すことにした。

だが蒼井嵐は、彼女の無関心さに構わず、話し続ける。「今日、宮崎社長の奥様が汐見浜に戻ってきたんですって。それで、社長は全部の仕事を後回しにして空港まで迎えに行ったそうよ。ほんと、仲睦まじい夫婦よね」

そう言って、蒼井嵐は両腕を胸の前で組み、うっとりしたような、そしてどこか寂しげな表情でため息をついた。「宮崎社長って、若くして結婚してるのよね。あんなに完璧な男性を射止めたのって……一体どんな女性なのかしら?」

霧島夢はその言葉を聞きながら、今日の自分の出来事を思い出し、胸の奥がざらついた。

――つくづく、人と比べるもんじゃない。

今朝、彼女は車の中で蒼穹空を待った末に、「急な用事で行けない」という連絡をようやく受け取ったばかりだった。

いくら忙しいと言っても……宮崎グループの社長より忙しいなんてことがある?

内心で毒づいたそのとき――「ピン」という音とともに、エレベーターの扉が開いた。

蒼井嵐はすぐさま身なりを整え、霧島夢の腕を軽く引いた。

エレベーターの扉がゆっくりと開いていく――

現れたのは、完璧に仕立てられたスーツを纏った男だった。すらりと伸びた手足に、凛とした立ち姿。歩を進めるたびに、その存在感が空気を変えていく。

高身長に長い脚、広い肩幅と引き締まった腰。鼻筋は通り、唇は薄く、輪郭のくっきりとした顔立ちは、どこを見ても隙がないほど整っていた。

霧島夢は目の前の男を見上げながら、おおよその身長を推測した――おそらく188センチはあるだろう。

そして何より、彼の全身から漂う気品が、どこに立っていても人の視線を引き寄せて離さないのだった。

「宮崎社長」

蒼井嵐の声が、その視線を遮った。

霧島夢はふっと意識を戻し、自ら一歩前に出て名乗った。「宮崎社長、初めまして。霧島夢と申します。 私は海外支社から異動してきた広報担当の、霧島夢です」

その名を耳にした瞬間、宮崎蒼の眉が微かに動いた。

どこかで聞いた覚えがある――そんな感じだったが、すぐには思い出せないようだった。

一瞬だけ戸惑うように目を細めると、彼は目の前の女性を一瞥し、言った。「オフィスで話そう」

そう言い終えるや否や、宮崎蒼はすでにオフィスの中へと足を踏み入れていた。

霧島夢も、何のためらいもなく身を翻し、自然な足取りでその後に続いた。

——

デスクの前――宮崎蒼は視線を落とし、手元の資料に静かに目を通していた。

彼が霧島夢を選んだのは、去年、海外で一つ厄介な広報対応を、彼女が一人で見事に収めたからだった。

だが、それ以上に――

宮崎蒼は履歴書を最後のページまでめくり、その瞳に一瞬だけ光が宿った。

「君、デザインもできるのか?」

その低く響く声が、静まり返ったオフィスの空気を破った。

霧島夢は、その問いが最初に飛んでくるとは思っておらず、一瞬だけ呆けた。そしてすぐに、少し戸惑いながらも答える。「少しだけ、やっていました」

宮崎蒼は顔を上げ、その視線を霧島夢の落ち着いた表情の上にすっと走らせた。そして、淡々と問いを重ねる。「君の本職は広報だろう。どうして履歴書にデザイン画まで載せてる?」

この質問には、霧島夢も予想していたようだった。

淀みなく、はっきりと答える。「最近、宮崎グループがアパレル業界でのシェア拡大に力を入れていると伺いました。広報の役目は、企業のブランドイメージをどう魅せるかにもあると思いまして……それで、いくつか描いてみたんです」

宮崎蒼は小さく頷いた。

宮崎蒼は静かに書類を閉じると、視線を横に移し、蒼井嵐のほうを見やった。「彼女を連れて、業務をひと通り案内してくれ。それから、何かひとつ仕事を任せてみて」

蒼井嵐は一瞬、目を見開いた。

……これで面接、終わり?

あまりにもあっさりしていて、内心では納得のいかない思いが渦巻いた。

だが、それを口に出すことはなく、彼女はただ一言、従順に答えた。「かしこまりました」

オフィスを出た瞬間、霧島夢はようやく胸の奥の緊張が解けるのを感じた。

握っていた手をそっと緩めると、ほんの数分だったはずなのに、掌にはじんわりと汗が滲んでいた。

――これから、あの冷徹そうな社長と直接向き合っていくのかと思うと……思わず、心の中で小さくため息をつき、自分自身に「しっかりしろ」と言い聞かせた。

3

ふたりが広報部に到着すると、蒼井嵐が控えめな笑みを浮かべながら同僚たちに紹介した。「こちら、新しく入った同僚の霧島夢さんです」

それに応えるように、霧島夢は簡潔な自己紹介をした。声の調子は淡々としているが、言葉は丁寧だった。「ご一緒できて嬉しいです。これから、どうぞよろしくお願いします」

彼女の迅速な入社に、社員たちは明らかに驚いた様子でざわつき始めた。

「この人が、海外支社から来たっていう宮崎社長の個人広報? 確かに綺麗な人ではあるけど、実力のほどはどうなのかしらね」

「でも、あの宮崎社長が選ぶくらいだし、ただ者じゃないはずよ」

「羨ましいよね、毎日あの顔を間近で見られるなんて。仕事の疲れも吹き飛びそう」

そのざわめきは、一語一句漏らさず霧島夢の耳に届いていた。だが、彼女は微笑を浮かべたまま、何も言わなかった。

けれど、蒼井嵐の顔色の方がみるみるうちに曇っていく。その視線には、不快と苛立ちが色濃く滲んでいた。

――やっぱり気に食わない。

宮崎蒼の面接は、いつだって厳しい。それなのに、ほんの二言交わしただけで、彼女を採用だなんて…。

見た目だけ取り繕って何の意味があるというのか。

蒼井嵐は、霧島夢にもこの会社の裏にある苦労を味わわせてやろうと決めた。

しばらく考えた後、彼女は一番やっかいなクライアントを夢に押しつけることにした。

「宮崎社長が、まずはこれを任せて様子を見ようって。今、みんなの手元のプロジェクトはほぼ終わりかけていて、残ってるのは宮崎グループの周年記念パーティーで使うBGMの選定くらいなの」 蒼井嵐はごく自然な口調で言った。「相手とのやり取りはあなたが担当して。BGMを確定させてちょうだい」

霧島夢は眉を寄せ、前のめりに尋ねた。「何か問題でもあるんですか?」

――宴会で使うBGMなんて、一番簡単なセクションのはずだ。それが今になっても決まっていないなんて、怪しい。

だが蒼井嵐は、それ以上語りたいくない。資料一式を夢に放り渡すと、「このあとクライアントが直接来るから。会って話せば、すぐに分かるわよ」

そう言い残すと、蒼井嵐はそのまま自分のデスクに戻っていった。

霧島夢もそれを見て、これ以上は聞いても無駄が察し、黙って頷いた。

資料を手に取った彼女は、そのまま会議室へと足を向ける。

扉が閉まると同時に、オフィスには再びひそひそとした噂話が広がり始めた。

「新人、もう終わったわね。氷見春樹がどれだけ神経質で扱いづらいか、知らない人なんていないでしょ。それに――あの人、女癖も最悪らしいし」

「一秒だけ黙祷してあげよ。…ご愁傷様、頑張ってね」

――

会議室。

霧島夢は手際よく、クライアントの情報をメモしていった。

相手の名前は氷見春樹――ピアニストだ。

今回の宮崎グループ創立三十周年記念晩餐会では、彼のピアノ曲を採用したいと考えていたが、何が原因なのか、どうしても交渉がまとまらないままだった。

霧島夢が資料を読み終えた直後、オフィスの扉が押し開けられた

入ってきたのは、白いカジュアルなシャツを着た男性だった。袖は肘のあたりまで無造作にまくり上げられ、その佇まいにはどこか気だるげな雰囲気が漂っていた。

霧島夢はすぐに立ち上がり、柔らかく微笑んだ。「氷見先生、こんにちは。霧島夢と申します。これから宮崎グループの晩餐会用のBGMについて、私が担当させていただきます」

「うん」 氷見春樹は短く返事をし、霧島夢の隣の椅子を何のためらいもなく引いた。

椅子に深く腰かけると、そのまま彼女をじっと見つめる。瞬きひとつせず、視線を逸らすこともなく――。

霧島夢はそっと視線を伏せ、その目を彼の視線から逃がした。

席に着くと、何気ない動作でわずかに身を横へずらし、慣れた手つきで淡々と切り出した。「氷見先生がなかなかご承諾くださらないのは、やはり今回の提携に何かご懸念がおありなのでしょうか? もしそうでしたら、どうか正直にお聞かせください。可能な限りご希望に沿えるよう、誠心誠意ご対応いたします」

氷見春樹は彼女に一瞥をくれたが、言葉はなく、そのまま黙していた。

霧島夢の胸の奥に、ふと小さな違和感が灯る。けれども、その表情はあくまで穏やかで礼儀正しく保たれていた。「氷見さんが全国ツアーの準備でお忙しいのは承知しています。だからこそ、こちらの誠意をお伝えしたくて。パーティー当日、特別に時間を取ってツアーの宣伝枠をご用意します。それをささやかな贈り物として…… いかがでしょうか?」

氷見春樹はしばし黙考し、ようやく口を開いた。

「霧島さんの提案は……魅力的ですね」 そう言って、微笑を湛えたまま彼女を見やる。

夢は、用意していた契約書を静かに彼の前へ差し出す。「こちらが契約書です。ご確認いただければと思います。もし何かご不明な点があれば、すぐにでも修正いたしますので」

しかし氷見は椅子の背もたれに体を預け、両腕を後頭部に回した。「字が多すぎて、読む気になれないな」

その言葉に、夢は一瞬言葉を詰まらせる。

「そっちに来て、条文を読み上げてくれない?」 霧島夢を見る視線は、興味津々

夢はそっと唇を引き結ぶ。

――この仕事を始めてから、変わった要求なんて山ほど見てきた。

契約書を読むくらい、大したことじゃない。

彼女は静かに身体をずらし、氷見のそばへと寄る。ただし、決して近づきすぎず、きちんと節度ある距離を保ったまま。そして、一言一句漏らさずに契約書の条文を読み上げていく。

けれど、どうしても意識してしまう。熱を帯びた視線が、まるで火傷を起こしそうなほど強く、彼女の全身を這うようにまとわりついてくるのだった。

居心地の悪さに、まるで椅子に針でも仕込まれているかのような感覚に襲われる。

霧島夢は背筋を正すのをやめ、不快感を無理にやり過ごそうとした。

そのとき、不意に氷見春樹が身を乗り出した。

夢は咄嗟に身体を引いた。

氷見は微笑んだ。けれど、引き下がる様子もなく、さらに距離を詰めてくる。

「君がつけてる真珠のネックレス、とても綺麗だね。すごく似合ってる……」

そう言いながら、彼は夢の首元に手を伸ばした。

夢は眉をひそめ、その手を避けた。胸の奥に広がる嫌悪感は、もはや無視できないほどだった。

「氷見さんがそのネックレスを気に入ったのなら、後ほど会社に同じものをお送りします。今は契約の話を続けましょうか」

氷見春樹の手が宙で止まり、鼻先で笑った。「宮崎グループには、どうやら本気で組む気はなさそうだね。そうなると――話す意味もないか」

まるで霧島夢を手玉に取ったような顔で、彼は片眉を上げて彼女を見下ろす。その視線には、かすかな脅しの色さえにじんでいた。

そのとき――。オフィスの扉が再び開き、低く落ち着いた声が響いた。

「契約は白紙だ」

宮崎蒼が無表情のまま氷見春樹の前まで歩み寄り、霧島夢をその背後へとかばうように立った。

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社長の素顔は、私の“夫”でした

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