話 2
家に戻った彼女が最初にしたのは、陽菜が作品を盗用した証拠をすべて整理することだった。
撮影のために移動した時に使った航空券。数え切れないネガフィルム。
それらは紛れもない証拠だった。
瑠衣はそれらを一つにまとめ、迷うことなくネットへ投稿した。
一瞬でネット中が騒然となった。そして画面のコメント欄には、瑠衣の胸を抉るような言葉が並んだ。
だが、投稿から10分も経たないうちに、すべてが削除され、アカウントごと凍結された。
404のエラー画面を見つめながら、瑠衣は拳をぎゅっと握りしめた。
蒼空は、ついに、あの女のためにここまでやるのか。
凍結されたIDを凝視しながら、思考は真っ白になった。
だが、すぐに理解した。今日は、陽菜が写真界の最高峰の賞を受け取る祝賀の日。蒼空が、自分に邪魔をさせるわけがない。
その時、外から突然エンジン音が響き、玄関のドアが乱暴に開いた。
振り返ると、 蒼空が険しい表情でまっすぐに歩み寄り、瑠衣の手首を掴んだ。
嵐の前の海のような彼の威圧感が、瞬時に室内を支配した。
「俺の言ったことを忘れたのか」
もしアシスタントがすぐ知らせてくれなかったら、今頃ネットは炎上して、陽菜の始まったばかりのキャリアは大きな傷を負っていたはずだ。
それでも瑠衣は一歩も退かなかった。「言ったでしょ。私の命を削って作り上げた作品を、あなたが他人に渡すなんて、絶対に許さないって!」
それが、彼女にとって初めての反撃だった。
蒼空は思わず目を見張った。
(いつもは俺を気遣う優しい女なのに。どうしてこんなふうに変わった?)
瑠衣は袖をぐいっとまくり上げ、並んだ傷跡と消えきらない注射痕を見せつけた。
「見える?この写真のために、私がどれほど犠牲を払ったか。
蒼空、私はあなたに対等な愛なんて求めてない。でも、最低限の尊重くらいはしてくれてもいいでしょ!」
長い間押し込めてきた感情、恨み、悔しさ――そのすべてが堰を切ったようにあふれ出した。
目元は赤く染まっていたが、涙はこぼれない。ただ燃えるような怒りだけが宿っていた。
蒼空の視線はさらに鋭くなり、静かに彼女を見下ろした。その瞳には、ほのかな嘲りが浮かんでいた。 「それは、お前が自分で招いた結果だろ。嘘から始まった結婚に、幸せな結末なんてあると思ったか?」
その瞬間、瑠衣の力は一気に抜け落ちた。
彼女は目を固く閉じる。「好きに言いなさい。でも、私の目的は一つ。離婚よ!」
蒼空は見下ろしたまま、皮肉を滲ませて言った。
「本気なんだな?」
瑠衣の手はすでに固く握りしめられていた。爪が手のひらに深く食い込んでいた。
実家が破産した時、救ってくれたのは蒼空だった。母の高額な医療費を肩代わりしてくれたのも彼だ。
その感謝が、彼への愛をより強くしていた。
だから数年もの間、彼のどんな要求にも応えようと努力してきた。
――ただ、今回だけは限界だった。自分の作品を譲れと言われたのだ。
蒼空は表情一つ変えずに電話をかけた。『瑠衣の母親の治療措置を、すべて停止しろ』
話 3
電話越しに誰かと話しながらも、彼の視線は瑠衣から一瞬も離れなかった。
瑠衣の瞳孔がきゅっと縮んだ。この仕打ちは立川蒼空による“罰”なのだと彼女は悟った。
蒼空を前にした彼女には、反撃の術すら残されていなかった。
抑えつけられ、見下され、息苦しさだけが幾重にもまとわりつき、胸の奥で重く膨らんでいく。
やがて蒼空は、興味を失ったように乱暴に通話を切った。「あとは、お前がいつ自分の過ちを認めるかだ。それ次第で、お前の母親の治療を再開してやる」
瑠衣は胸の中で無数の棘が暴れ回るのを堪え、奥歯を噛みしめて言い返した。「私には落ち度なんてない。絶対に認めたりしない。 蒼空、あなたの冷たい本性が、見抜いたわ!」
しかし蒼空は、氷より冷たい目で彼女を見下ろしながら、ゆっくりと言葉を落とした。「そのうち、お前が俺の前に跪いて許しを乞う日が来る」
そう吐き捨てると、彼は一度も振り返らずに踵を返し、そのまま部屋から出て行った。
実際にはわずか10分ほどの出来事に過ぎなかったのに、その時間は彼女にとって、逃げ場のない災厄そのものだった。
そして力が抜けた瑠衣は、ソファへ崩れ落ちるように腰を下ろし、その顔には疲労と絶望だけが色濃く刻まれていた。
彼女は一瞬うなだれたものの、すぐに気力を立て直した。母の治療が停止された以上、今すぐ病院へ向かわなければならない。
その頃、父と会社がほぼ同時に行き詰まり、母は追い詰められて自ら命を絶とうとしたのだ。
だが幸運にも救急搬送が間に合い、命こそ助かったものの、母は意識を取り戻さないまま植物状態となり、残りの人生を高額な生命維持装置に繋がれて過ごすしかなくなった。
だからこそ瑠衣は病院に駆け込むと、まずカードに残ったお金をすべて引き出し、それを母の治療費の支払いに充てた。
結婚してからの3年間、彼女は一日たりとも休まず働き続けてきた。
それでも、口座に残った額は、わずか3カ月分の医療費にしかならなかった。
この結婚生活から抜け出すには、まず自分の足で立てるようになり、蒼空の助けに一切頼らずに済むようにならなければならない。
そう考えた瑠衣は、外線へと電話をかけた。
頭の奥には、あのとき蒼空が言い放った言葉がこびりついていた。「君に母親の治療費が払えるのか?」――あのあからさまな軽蔑の声が。
電話の相手、田中静香は、彼女にとって半分マネージャーのような、頼れる存在だった。
ここ数年、フリーランス写真家として名が知られるようになるにつれて、細かな仕事や交渉の一部を静香が引き受けてくれるようになったのだ。
しかも静香は顔が広く、人脈も豊富で、今回のような問題を解決するきっかけを必ず作ってくれると信じられた。実際、先ほどの電話でも静香は彼女の事情に深く同情し、全力で助けると言ってくれた。
そして午後7時。
瑠衣はハンドルを握りしめ、車を走らせて景瑞ビルへと向かった。
静香が、今回のコンテストの主催者との面会をセッティングしてくれていたのだ。