1

清水汐里は妊娠していた。

――だが、その子は、夫の子ではない。

診察室を出た彼女は、妊娠検査の紙を強く握りしめたまま、足元がふらついて思わず立ち止まった。あまりに突然の出来事に、頭が追いつかない。まさに晴天の霹靂だった。

つい最近、五年間付き合ってきた恋人と結婚式を挙げたばかりだ。しかし新婚初夜、彼女は知ってしまった。夫の裏切りを。彼のスマートフォンには、見知らぬ女との親密な写真が、これでもかというほど並んでいた。

胸が張り裂けそうになり、汐里は酒に溺れた。そして、ふらふらと歩いた先で、彼女は誤って別の部屋に足を踏み入れてしまった。

そこで出会ったのは、見ず知らずの男だった。その夜のことを、彼女ははっきりとは覚えていない。ただ、男の放つ圧倒的な存在感。やけに広い部屋。そして、息が詰まりそうになるほどの重圧だけが、今も身体に焼きついている。

翌朝、彼女は相手の顔をきちんと見る勇気もないまま、逃げるように部屋を後にした。

まさか、あの一夜の過ちが、こんな形で現実になるなんて――。

汐里はどうすればいいのか分からず、焦りと不安に心をかき乱されていた。

そのとき、新婚の夫からメッセージが届く。

「汐里、もう病院の外に着いた。待ってるよ」

画面を見つめたまま、汐里は何も返さず、静かにスマートフォンをポケットにしまった。そして、そのままエレベーターへと向かう。

ここ数日、食欲がなく、めまいも続いていた。耐えきれず受診しただけだったのに、まさか妊娠だなんて。

病院の正面玄関を出ると、汐里は一目で伏見彰人の黒いベンツを見つけた。

胸いっぱいに息を吸い込み、彼女は足早に車へと向かう。

彰人は車を降り、彼女のためにドアを開けた。仕立てのいい黒いスーツに身を包み、その姿は相変わらず端正で、どこか知的な雰囲気すら漂わせている。

「先生は、何て言ってた?」

「胃の調子がよくないって」

「君、普段から辛いもの好きだろ。これからは少し控えないと。胃を悪くしたら大変だ」

汐里は軽く、曖昧に相槌を打った。車に乗り込んだ瞬間、ふわりと鼻をかすめる香りがあった。ごく淡い、女物の香水の匂い。彰人は、車内に香水を置くのを嫌う人だった。つまり――この香りは、別の女が残していったものだ。

彰人は何も知らない顔で彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。「今日は家まで送るよ。ゆっくり休んだほうがいい。俺はそのあと会社に戻らないと」

「うん」

車は信号待ちで止まり、彰人は電話に出た。

その間、汐里は無意識に身体を動かし、座席に手を伸ばす。指先に触れたのは、柔らかな布地。――ピンク色のシルクのスカーフだった。

汐里はそれを手に取り、目を伏せた。見覚えがあった。はっきりと。

通話を終えた彰人が、こちらを向いて穏やかに言う。「汐里、家に送ったら、そのまま会議で――」

彼女はスカーフを持ち上げ、低い声で遮った。「……これ、誰の?」

一瞬、彰人の瞳が揺れた。ほんの一瞬だけ。だがすぐに、気まずそうに笑みを浮かべる。「今朝の取引先の人じゃないかな。車に忘れていったんだろ。明日、返しておくよ」

彰人が手を伸ばしてスカーフを取ろうとした、その瞬間――汐里はさっと身を引き、彼の手を避けた。「彰人……私たち、離婚しましょう」

車内の空気が、一気に張り詰める。「汐里、たかがスカーフ一本だろ?なんでそんなに大げさにするんだ。離婚なんて、そんな軽々しく言うものじゃない」

「……ふふ」汐里は乾いた笑いを漏らした。「いつまで、私を騙すつもりだったの?新婚初夜、あなたが外に出て行ったのも――あの女のところだったんでしょう?」

それまで平静を装っていた彰人の表情が、わずかに崩れた。焦りが、隠しきれずに滲み出る。「違う。あれは急な打ち合わせが入っただけだ。君が思ってるようなことじゃない」

汐里は、もうそれ以上聞く気にもならなかった。彼は裏切った。そして自分は、別の男の子を宿している。この結婚が、もう続けられないことなど、考えるまでもない。

「……長い付き合いだったんだから。せめて、きれいに終わりましょう」 そう言い残し、彼女はドアを押し開け、車を降りた。

後部座席に取り残された彰人は、呆然としたまましばらく動けずにいたが、やがて苛立ちを爆発させるように、ハンドルを強く叩いた。

汐里はタクシーを拾い、ひとりで家へ戻った。玄関を開けた瞬間、目に飛び込んでくるのは、まだ色褪せない祝祭の名残。部屋中に飾られた、赤や白の装飾。リビングの中央には、幸せそうに笑う二人のウェディングフォトが飾られている。――あまりにも、皮肉だった。

新婚初夜のあの晩、彼女のもとには、彰人が小林穂香と関係を持っている証拠の写真が、次々と届いた。目を背けたくなるほど、露骨で、不快なものばかりだった。

あんなことを、平然とできる人だったなんて。そう思うたびに、胸が締めつけられる。怒りと悲しみがない交ぜになり、込み上げてくる。五年間――彼に捧げた青春は、全部が笑い物に終わった。

汐里は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。両手で胸元を強く掴み、息が詰まるのも構わず、必死に耐える。積もり積もった屈辱と痛みが、この瞬間、堰を切ったように溢れ出していった。

涙は、切れた数珠のように、止めどなく頬を伝って落ちた。

どれほど泣き続けたのか、自分でも分からない。気づいたときには、身体の奥まで力が抜けていた。

深夜になって、彰人が車で帰ってきた。

汐里は新婚の寝室のベッドに、静かに横たわっていた。背中に、広い胸板の温もりが触れたとき、彼女はゆっくりと目を閉じる。

彰人の身体は、外の夜気をまとってひんやりとしていた。布団越しに彼女を抱き寄せ、低い声で囁く。「汐里……もう、喧嘩はやめよう。今日のことは、俺が悪かった。謝る。もう二度と、あんなことはしない。……愛してる」

その言葉に、胸がざわついた。汐里は、彼の腕の中にいること自体が耐えがたく、わざと内側へと身をずらす。

彰人は小さく、くすりと笑った。衣擦れの音がして、彼はさらに距離を詰めてくる。

「今夜、ちゃんと夫婦になろう。もう、気分は落ち着いたんだろ?」

2

新婚初夜のあの晩も、彰人は深夜になってから帰ってきた。汐里は「どうしても気分が優れなくて」と言葉を濁し、最後まで彼に身を許さなかった。だから今日――謝罪さえすれば浮気の一件も水に流せると、本気で思っているに違いない。

「……出ていって。私の部屋から」

汐里は上半身を起こし、氷のように冷たい声で言い放った。

その一言で、彰人の身体に燻っていた欲は一気に冷えた。彼はこめかみを押さえ、苛立ちを隠そうともせずに言う。「もういい加減にしないか。体調が悪くて、気分が不安定なのは分かる。でもな……俺の我慢にも限度がある」

「……言ったでしょう。出ていって」

汐里の表情は、揺るがなかった。その頑なな顔を前に、彰人は関係を取り繕おうと、声の調子を和らげる。「もう夫婦なんだ。こんなことしてどうする。ちゃんとやっていこう。これからは、今まで以上に大切にするから」

――浮気した男というものは、排水口に詰まった髪の毛の塊のように気持ち悪い。見るだけで吐き気がする。

汐里は枕を抱え、静かに立ち上がる。「……客間で寝る」

その行動が、彰人の神経を逆撫でした。彼にとっては、これ以上ないほど譲歩しているつもりだった。ここまで頭を下げているのだから、彼女のほうが折れるべきだ――そう思っている。

「好きにすればいい。行きたければ、行けば?」

投げやりに吐き捨てられた言葉を背に、汐里は自分のスマートフォンとノートパソコンを手に取り、ドアへ向かった。

彰人は苛立たしげに寝返りを打ち、客間へ向かう汐里の細い背中に向かって言った。「明日は伏見家の家族会だ。お前も一緒に来い。結婚して、まだ日も浅いだろ。外野に笑われるような真似はしたくない」

そう吐き捨てると、低く舌打ちし、手に取った枕を床に叩きつけて鬱憤を晴らした。

汐里は、伏見家の家族会など行きたくもなかった。ましてや、彼と並んで人前に立つなど、想像するだけで気が滅入る。だが、彰人は清水グループを盾にして彼女を脅した。出席を拒めば、即座に売却すると言い放ったのだ。

清水グループは、母が彼女に遺したものだった。

あの会社のために、母は人生のすべてを注ぎ、最後は過労で命を落とした。

――母が残してくれた、たった一つの宝。

伏見家。

帝都でも名を知らぬ者はいない名門中の名門。生まれながらにして選ばれた者だけが立ち入る、いわば貴族の家だった。

彰人の車が伏見家の邸宅前に停まるや否や、執事がすぐに出てきて声を荒げた。「ここは関係者以外の駐車は禁止です。すぐに移動してください」

その態度は、あからさまに無礼だった。だが汐里は、もう慣れていた。何も言わず助手席を降り、静かに脇へと移動する。

彰人も「伏見」の姓を名乗ってはいるが、伏見家の中では取るに足らない存在に過ぎない。彼の母親は、伏見家当主の非嫡出の娘だった。かつて、家の反対を押し切り、車も家も持たない貧しい男と結婚したことで、激怒した当主により伏見家を追放された。

年月が流れ、彰人が成長するにつれ、母は悟った。――自分の力では、息子に何も与えてやれない、と。そこで彼女は、あらゆる手を使って彰人を伏見家に戻そうとした。姓を「伏見」に改めさせたのも、その一環だった。

だが、彰人の立場は、伏見家の中でいまだに受け入れられてはいなかった。伏見家に戻るたび、必ずと言っていいほど皮肉や嘲笑を浴びせられる。それでも彼は意地を張り続けていた。――いつか必ず、伏見家の連中全員に思い知らせてやる。自分は「出来損ない」なんかじゃない、と。

彰人が立ち上げた会社の名は「万森グループ」。起業当初の資金――最初の数百万円は、すべて汐里が出したものだった。その後も、清水グループの全面的な後ろ盾があったからこそ、彼は短い年月で会社をここまで大きくできたのだ。

けれど今となっては、汐里にはそう思える。――全部、無に帰したようなものだ、と。あの頃の自分は、人を見る目がなかった。

彰人は車を別の場所へ移動させたが、執事は首を縦に振らなかった。どこに停めても、「ここも不可です」と繰り返すだけだ。

ついに堪忍袋の緒が切れ、彰人は怒鳴った。「自分の家に帰ってきて、車を停める場所すらないのか!」

執事は相変わらずの作り笑いを浮かべたまま、丁寧に頭を下げる。「申し訳ございません。『余分な方』には、余分な駐車スペースもございませんので」

その言葉に、彰人の顔が一瞬でこわばった。消えかけていた怒りが、再び胸の奥で燻り始める。

汐里は、その様子を横目で見ながら、ふと感じた。――正直、少し痛快だ。

そのとき、数台の黒いセダンが、静かに門前へと滑り込んできた。それを見た執事は、表情を一変させ、慌てた様子で彰人を急かす。「早くお下がりください。征臣様がお戻りです!」

伏見征臣。伏見家現当主・宗元の末子であり、次期当主の座に最も近い男。帝都の裏表を支配するその姿は、畏怖を込めて――『黒冥の魔王』と呼ばれている。

汐里は、ゆっくりと門内へ入ってくる数台の車を見つめていた。執事は、先ほどまでの高圧的な態度が嘘のように、弾かれた勢いで駆け寄り、中央の一台のドアを恭しく開ける。

先に目に入ったのは、黒いスラックスに包まれた長い脚だった。地面に降り立つと同時に、磨き上げられた革靴が照明を反射する。

次の瞬間、場の空気が変わる。――圧倒的な存在感。何もしていないのに、人を無言で威圧する力。

汐里の視線は、無意識のうちに男の手元へと吸い寄せられた。指にはめられていたのは、金縁の翡翠の指輪。

心臓が、強く跳ねた。――見覚えがある。あの夜。ホテルの部屋で、暗がりの中でもはっきりと目に焼きついた、あの指輪。

「……まさか……」

息を呑み、汐里はゆっくりと顔を上げた。視線が交わる。鋭く、冷えた黒い瞳。感情を一切映さない、凛とした眼差し。

――あの夜、彼女と一夜を共にした男。それは、彰人の叔父だった。

3

その男は、見上げるほどに長身だった。内に光を秘めたような佇まいには、気品があり、俗世の喧騒に紛れても、彼がいる場所だけが別の空間のように浮き上がって見える。

漆黒のスーツは禁欲的で、隙がない。年齢の読めない端正な顔立ちは、整いすぎているほどに美しく、そしてひどく冷たかった。

汐里は、思わず息を詰めた。これほど完成された男を前にすれば、誰だって無意識に呼吸を忘れてしまう。

征臣は、ふと彼女のほうへ視線を投げた。それだけで、汐里の胸が跳ねる。理由も分からないまま、罪悪感に似た感情が込み上げ、反射的に視線を伏せた。

幸いにも、彼はそれ以上こちらを見ることはなかった。部下を伴い、大股でその場を離れていく。

一方、彰人はというと、ようやく見つけたスペース――それはゴミ置き場のすぐ横の横の、わずかな空き地だった。

「汐里、俺たちも入ろうか?」 そう言って、彼は彼女の手を取ろうとする。

汐里は咄嗟に、軽く振り払った。「……一人で歩けるから」

彰人は一瞬だけ表情を曇らせたが、伏見家の中で笑い者になるのは避けたかったのだろう。すぐに口調を和らげた。「……分かった」

家族会が始まっても、征臣の姿はなかった。そのことに、汐里の胸に張り詰めていた不安が、ようやくほどけていく。

もし彼が同席していたら――自分は、きっと平静ではいられなかった。

会の途中、トイレに立つふりをして、汐里はそっと席を抜けた。向かったのは、邸宅の裏に広がる庭だった。

人々は皆、正面ホールに集まっている。裏庭は、驚くほど静まり返っていた。

伏見家の豪奢さは、並の名門とは次元が違っていた。これでは――彰人がどれほど必死になって伏見家へ戻ろうとしたのかも、理解できてしまう。金と権力。その誘惑は、あまりにも露骨な形で、そこにあった。

汐里は裏庭を歩き回っていたが、気づけば完全に道に迷っていた。

やがて、小さな池のほとりへと辿り着く。そのとき――水音と、低く押し殺した声が耳に届いた。反射的に足を止める。

一人の男が、ボディーガードに引きずられるように連れてこられ、そのまま頭を掴まれて、水の中へ押し込まれた。

数秒後、男はもがきながら水面から顔を出し、悲鳴を上げる。

池の周囲には、十数人のボディーガードが立っていた。黒い影が密集し、息が詰まるほどの威圧感を放っている。

汐里はとっさに身を隠し、口を押さえた。心臓が、壊れそうなほど激しく打つ。

再び、男の頭が水中へ沈められる。限界寸前になってから、ようやく引き上げられ、まるで死んだ獣でも扱うかのように、地面へ投げ捨てられた。

「伏見様……本当に、あの日、部屋にいた人物が誰なのか分からないんです。俺は……見てない……」

言い終わる前に、ボディーガードの拳が男の顔を打ち抜いた。「まだ『知らない』と言うか」

「ほ、本当です!あの時、居眠りしてて……何も見えなかった……」

次の瞬間、男の指が一本、無惨に潰され、悲鳴が夜空に響き渡った。

汐里は、頭皮が痺れるような感覚に襲われ、背中を冷たい汗が一気に流れ落ちる。

――やはり。征臣は、あの夜、ホテルにいた男だ。そして今、彼は――彼女の存在を追っている。

――つまり。あの夜の女が、自分だとは、まだ気づかれていない。

その事実に、汐里は恐怖を覚えながらも、ほんのわずかな奇妙な安堵感を覚えていた。――今すぐ、ここを離れなければ。

そう思い、身を翻した瞬間。目の前に、黒服の男が二人、音もなく立ちはだかった。

「……やはり、いましたか」

汐里は引きつった笑みを浮かべ、必死に平静を装う。「た、たまたま通りかかっただけです。何も……見ていません」

高木慎一は、彼女を一瞥すると、池のほうへ視線を送り、淡々と告げた。「若様。伏見彰人の女です」

しばしの沈黙。やがて、低く、磁力を帯びた声が闇の奥から響いた。「……連れてこい」

汐里はボディーガードに挟まれ、否応なくその場へ連れて行かれた。背中を押され、前によろめく。転びそうになり、慌てて足を踏みとどまった。

喉が鳴る。怖くて、とても顔を上げられない。

男は、ガーデンソファにもたれかかるようにして座っていた。黒のVネックのニットに、ゆったりとしたストレートパンツ。 整った顔立ちは庭の照明に浮かび上がり、全身に淡い金色のオーラを纏っているようだった。

――美しすぎる。まるで、闇に展示された一枚の絵画のように。

征臣の視線が、静かに彼女を射抜く。

細く、華奢な身体。雪のように白い肌。恐怖のせいで、長い睫毛が小刻みに震え、その様子がかえって人の庇護欲を掻き立てる。

「……顔を上げろ」低く、抗えない声。

汐里は両手でスカートの裾を強く掴み、唇を噛みしめた。胸の鼓動を必死に抑えながら、ゆっくりと顔を上げる。

視線がぶつかった瞬間、男の表情はどこか淡々としていた。「……なぜ、ここへ来た」

「わ、私は……道に迷ってしまっただけで。決して、他意があったわけではないのです」

「迷った?それとも、彰人に言われて様子を探りに来たか」

「違います!本当に違います。誓ってもいいです!」汐里は小さな手を上げ、必死に訴えた。だが男は、彼女の言葉など最初から眼中にないように、冷ややかに視線を逸らす。その態度だけで、彼女の『誓い』が無意味だったことが分かった。

幸い、征臣はそれ以上追及するつもりはなかったらしい。短く合図を出し、ボディーガードに彼女を下がらせた。

――助かった。胸を撫で下ろした、その瞬間。胃の奥が、突然ひっくり返る。「……っ」吐き気を堪えきれず、汐里は思わず口元を押さえた。

視界の端に、男が横たわっていた長椅子のそばのゴミ箱が映る。――あそこへ。

そう思った次の瞬間、足取りを誤った。身体が前へと傾き、そのまま――男の胸元に、勢いよくぶつかる。「……っ」

――この女、いったい何様のつもりだ。

その場にいたボディーガードたちが、一斉に息を呑み、慌てて駆け寄った。

「動くな」征臣の低い声に、全員が凍りついた。

汐里は彼の胸元に伏したまま、何度かえづいて、ようやく落ち着いた。幸い、吐いたのは空えずきだけだった。

次の瞬間、彼女の身体は突き放された。

「……彰手に使われて、俺に取り入りに来たのか」 怒気を含んだ声。冷ややかな刃のような圧が、言葉に滲んでいる。

汐里は床に座り込んだまま、無垢な目で彼を見上げた。「……体調が悪かっただけです。叔父様、ごめんなさい」

その呼び方に、征臣はわずかに眉を寄せた。――賢い女だ。こうも早く、取り入る隙を見つけてくるとは。

庭の灯りに照らされた彼女の顔は、小さく整っていて、不安と恐怖がそのまま表情に浮かんでいる。まるで、怯えきったウサギのようだった。

「叔父様……それでは、失礼します」

汐里はそう言って立ち上がり、踵を返す。だが次の瞬間――手首を、強く掴まれた。

征臣の視線が、彼女の潤んだ瞳に留まる。逃がさないと言わんばかりに、じっと、丹念に見据えていた。

汐里の鼓動は異様なほど速かった。――まさか、気づかれたの?

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身籠ったのは、元カレの叔父でした。

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