1

ずしりとした重みが身体にのしかかり、服は乱暴に引き裂かれていく。蘇清叙(そ・せいじょ)の耳元では、男たちの下卑た笑い声が渦巻いていた。

かっと目を見開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは、獣欲にぎらつく顔の男だった。 「へへ、起きたか。ちょうどよい、でねえと面白くねえゆえな」

男はそう言い終えないうちに、清叙の襟元を乱暴に引き裂いた。

白くきめ細かな肌が露わになり、獣じみた笑い声がいっそう卑しさを増した。

スパイとしての直感が、瞬時に胸の奥で鋭い警鐘を鳴らす。彼女は全身の筋肉に力を込め、のしかかる男を跳ね除けようと抗うが、身体は意思に反して、綿のように力が入らない。

(違う――これは、私の身体じゃない!)

脳裏をよぎるのは、あの灼熱の閃光と轟音。命知らずのテロリストが爆弾を起爆させ、彼女はあの爆発で確かに命を落としたはずだ。なのに今、見知らぬ誰かの身体で目覚めている。

思考はほんの一瞬。清叙の表情から温度がすっと消え、その瞳の奥に氷のような殺意が満ちていく。

(正面からじゃ勝てないなら、手段は選ばない)

彼女は筋肉の記憶のままに全身の力を溜め、男が身を屈めたその瞬間、的確に股間を蹴り上げた。

バキッと、鈍い音が響いた。

それに続いて鳴り響いたのは、男の苦痛に満ちた叫び声だった。

「ぐっ……この野郎、蹴るか!?殺さむ!」 男は股間を押さえてうずくまり、怒りにまかせて罵声を吐き散らした。

仲間たちが一瞬呆気に取られたその隙を突き、清叙は転がるように起き上がり、包囲の輪から抜け出す。

「捕えよ!地獄の思いを味わわせてつらむ!」 山賊の頭領が股間を押さえ、血走った目で叫んだ。

その言葉を合図に、手下たちが一斉に清叙へと襲いかかった。

その光景を、密かに見つめる者がいた。

林の小道の突き当たり、木々に隠れるようにして、護衛に囲まれた一台の豪奢な馬車がひっそりと停まっている。

長く骨ばった指が、馬車の御簾を静かに持ち上げた。

車内の男は漆黒の蟒袍(もうほう)を纏い、彫りの深い顔立ちには冷厳さが溢れている。その身には生まれ持った威圧感と覇気が宿っており、誰もが畏怖を覚えるような、圧倒的な存在感であった。

ただ、その視線があの娘を掠めた時、そこには僅かばかりの驚きが混じっていた。

見た目はか弱く、たおやかですらある。しかし、その一手一手に迷いはなく、洗練された苛烈さを秘めている。常人離れした動きだ。

馬車の傍らに控えていた護衛の小五(しょうご)は、思わず息を呑んで声を漏らす。「身の働き見事なり。されど、いささか力が足りぬが惜しい。さもなくば、あの程度の山賊、物の数ではあるまいに」

馬車は巧妙に身を隠しており、追走が激しく続いている向こうの者たちは、誰一人としてその存在に気づいていない。

清叙の反撃は、男たちを完全に激昂させた。本来、彼らが受けていた命令は、この女の純潔を奪うことだけで、命まで取ることは禁じられていたはずだった。

だが、女一人に翻弄された屈辱が、彼らから理性を奪い去った。

男たちは歯ぎしりをさせながら腰の刀を抜き放ち、鬼の形相で清叙に斬りかかる。

清叙は胸の内で嫌な予感を覚えた。素手の状態ではただでさえ分が悪いというのに、武器まで加われば、さらに不利な状況に追い込まれるのは火を見るよりも明らかだった。

彼女は頭がフル回転していた。

長年にわたるスパイとしての経験が、絶体絶命の窮地にあっても、冷静さを失わなかった。

狙うは、急所を砕いた頭領。彼を人質に取り、残りをけん制する。

数人の山賊を相手にフェイントをかけると、素早く身を翻して頭領のもとへ駆け出した。

だが、彼女はこの身体の限界を見誤っていた。

数メートルも走らぬうちに、ふっと膝から力が抜け、糸が切れた人形のように、前のめりに崩れ落ちた。

――終わった。

脳裏に浮かんだのは、その言葉だけだった。

案の定、彼女が身を起こす間もなく、冷ややかな刃が、その白い喉元にぴたりと突きつけられた。

「……惜しいことでござるな」 馬車の傍らで、小五がため息と共に、静かに首を振った。

(聡明さの窺える娘であった。ただ、運がなかった)

(ましてや、我が主は無用な面倒事を好まない)

彼がそう考えている、その時。馬車の中から、低く、重厚な声が響いた。「――助けよ」

小五は一瞬、目を丸くした。その瞳には明らかな驚きの色が宿っていたが、彼はすぐに身を正し、恭しく「はっ」と応じた。

ところが、彼が振り向こうとした瞬間、耳に届いたのは山賊の凄惨な悲鳴だった。

目を向けると、清叙が、さっきまで優勢であった山賊の一人の襟首を掴み、その喉元にがぶりと噛みついて力を込めている姿が目に入った。

鮮血が勢いよく噴き上がり、山賊はあふれ出る血を押さえつつ地面に倒れ込み、激痛に身をよじった。

残りの山賊たちは、その血腥い光景に呆然と立ち尽くした。その一瞬の隙をつき、清叙は身を翻して、地に落ちていた刀を素早く拾い上げる。

長刀が鋭く振り抜かれ、残る者たちの喉を切り裂く。宙には血の線が弧を描き、凛冽たる刃の光が、彼女の氷のような眉目を映し出していた。

それは紛れもない殺戮でありながら、どこか舞のような美しささえ帯びていた。

小五の目は、驚愕に大きく見開かれていた。

その直後、清叙の身体からは力が抜け、彼女はその場に崩れ落ちるように地面へと座り込んだ。

この身体はあまりにも脆弱であった。ほんのわずかな攻防で、全身の力は使い果たされてしまっている。

山賊はことごとく始末した。喉を噛み切られた残りの者も、もはやどうということはあるまい。

彼女は地面に身を横たえ、呼吸を整えつつ、この身体に刻まれていた記憶が奔流のように押し寄せてくるのを、ただ受け止めていた。

この身体の本来の持ち主は、安定侯爵府の嫡長女。身分は極めて高貴だが、その境遇はいかにもありふれたネット小説の設定の如く、彼女がこの世に生を受けたその日、母である安定侯前夫人は難産でこの世を去った。

清叙は「母殺し」の烙印を押され、実の父をはじめ、一族郎党から疎まれ続けて育った。

やがて安定侯爵は後妻に徐氏(じょし)を迎え、蘇鳶児(そ・えんじ)という娘が生まれた。その後も一男一女をもうけ、徐氏は安定侯爵府での地位を盤石なものとした。

この徐氏という女は、仏の仮面の下に蛇のような狡猾さを隠し持ち、表向きには清叙を慈しむふりをしながら、裏で策を弄し、清叙が父や祖母にいっそう疎まれるよう仕向けていた。

元の持ち主は、幼い頃から、まるで地獄のような日々を送っていたが、彼女には一縷の望みがあった。それが、当代の第四皇子という婚約者である。

ただし、この第四皇子は他の皇子たちとは事情が違っていた。彼の生みの母は、宮中でも最下層に属する宮女にすぎず、その出自ゆえに、彼自身もまた皇帝から冷遇されていた。

だが、どれほど冷遇されていようとも、皇子は皇子である。

彼に嫁ぐことさえできれば、この苦しい現状から抜け出せる――元の持ち主はそう信じていた。ところが、いよいよ縁談がまとまろうというその時に、徐氏が、毎夜悪夢にうなされると訴え始めたのだ。

高名な僧侶に見てもらったところ、その原因は清叙の持つ凶運のせいだという。

その禍根を断つためには、清叙自らが城外の寺へ赴き、仏前で膝をついて許しを乞わねばならぬ――そうして初めて、災厄は取り除かれるというのだ。

彼女はその言葉に従い、寺へ向かったが、戻る途中で山賊に襲われ、純潔を奪われようとしていた……。

まさにその絶体絶命の瞬間、自分の魂が、この身体へと滑り込んだのである。

元の持ち主の記憶をすべて飲み込むと、彼女の表情には瞬時にして底知れぬ冷徹さが宿った。

当の本人には見抜けなかったことも、今の清叙には手に取るように分かった。

記憶を辿るかぎり、あの婚約者と義妹・蘇鳶児は、どうやら浅からぬ仲らしい。

そもそも、婚儀が間近に迫ったこの時期に、徐氏が頭痛を訴え、その上、城から目と鼻の先で山賊に遭遇し、あわや純潔を失いかけるなど、あまりに出来すぎた偶然ではないか。

純潔を失った娘が、皇室に嫁ぐことなどできるはずもない。

清叙は刀を地面に突き、ゆるやかに身を起こし、口の端をわずかに吊り上げると、低く笑い声を洩らした。「なかなかおもしろうござるわ」

その声を聞き、まだ息のあった山賊の頭領は、かすかな意識を保っていながらも、全身は恐怖に震えていた。

彼の目に清叙の姿は、あたかも地獄の業火を背負った閻魔そのものであった。

清叙の視線が自分に向けられたのに気づくと、男は恐怖に目を見開き、傷ついた喉の痛みも忘れたように、転がるように地面を這いながら後へ退いた。

「く、来るな……!こちへ来るな……げほっ、げほっ!」 血にむせて、男の声はひどく掠れ、もはや意味をなさない呻きへと変わり果てていた。

その頃には、清叙の体力はほぼ回復していた。彼女は迷うことなく男の傍らまで歩み寄ると、その胸を力任せに踏みつけ、喉元に刃を突きつけた。その声は、氷のごとく冷ややかに響く。 「吐き申せ。たれが指図したる?」

山賊の頭領は恐怖に顔を歪め、震える声で命乞いをした。「お、お助け……!見逃してくんなせえ!……なんでも申す!」

清叙は応じることなく、踏みつけた足にさらに力を込めた。「三つ数えるわ。その間に白状せぬなら、地獄の閻魔へ申し上げるがよい」

2

山賊の瞳孔が、はっとするほど急に縮んだ。

男が次の言葉を発する間もなく、蘇清叙(そ せいじょ)が冷えた声で告げる。「ひとつ」

「見逃してくんなせえ……そうすりゃ、なんでも吐く」

脂汗が頬を伝い落ちる。それでも、彼の胸には、まだ甘い望みを持っていた。

(黒幕を知りたがっている以上、そう易々と殺すはずがない――)

清叙は、その愚かな希望を嘲笑うかのように、唇の端を吊り上げた。「ふたつ」

――ドン。

声が響くと同時に、振り下ろされた刃が銀閃となり、一筋走る。

その一刀は、山賊の喉笛を容赦なく断ち切った。

彼は信じられぬものを見るように目を見開き、血を滲ませた唇で掠れた声を漏らした。「みっ……つ……数える、と申した……」

「語る気なき者ならば、時の無駄にあらずや?」

清叙は、流れるような所作で刀を納めた。その手慣れた動きには、一切の無駄がない。

ごくり。

小五が息を呑み込む。

「そやつを殺せば、誰がそなたを陥れんとしたか、知る術を失わざらむや?」

突然、背後から、低く重みのある声が響いた。

清叙は警戒しながら振り返る。そこにいたのは――まるで名工が彫り上げたかのような、峻厳な顔立ちの男だった。

美しく整った顔立ち。纏う気配も常人ならざるものがある。だが、両脚に不自由があるのか、車椅子に身を預けていた。

彼女は元の主の記憶を手繰り寄せた。瞬時に情報が脳裏に流れ込む。

摂政王、裴玄褚(はい・げんちょ)。現皇帝の弟だ。かつては「晋王」の爵位を授かった、一皇族に過ぎなかった。だが、数々の戦功により先帝から摂政王の座を命じられ、現皇帝を補佐する男。 しかし、臣下と民の目には、朝廷を牛耳り、大軍を掌握する「独裁者」――悪名高き男として映っていた。

その後、奇毒に侵され、両脚の自由を失ってしまう。それ以来、朝廷の政にはほとんど関わらなくなったという。

まさか、このような場所で彼に遭遇するとは。

軍人という存在には、彼女は敬意を抱いている。元の主の記憶が告げる裴玄褚は、辺境で本朝の国土を守り、失地を奪還し、赫々たる戦功を挙げた英雄だった。

一瞬の驚きはすぐに去り、清叙はいつもの冷静さを取り戻す。

「わたくしを陥れむとする者など、おのずと限られておりましょう。誰であるか判然とせぬならば、一人ずつ順々に、清算すればよいだけのこと」

その口調はあくまで淡々としていたが、隠しきれない殺意が滲んでいた。

小五はぞくりと身を震わせた。(人は見かけによらぬとは、このことか。か弱い令嬢かを装いながら、その内に棲むのは修羅……)

その時、遠くから馬蹄の音が響いてきた。

清叙はわずかに眉をひそめた。(――もう来たのか。思ったより早い)

だが、死体はまだ片づけられていない。しかも先ほどの一部始終は、目の前の男に全て見届けられていた。

(この京城で、元の主は身を浮き草のように頼りなくさせられていた。もし、この「摂政王」という巨大な後ろ盾を得られれば――どれほど多くの事が、やすやすと片付けられるだろう)

清叙の胸に、ひとつの策が浮かぶ。彼女は覚悟を決め、玄褚を見据えた。「晋王殿下。わたくしと手を組むご興味はござりませぬか?」

玄褚は、すらりとした指先で車椅子の肘掛けを軽く叩いた。「根拠は何ぞ?」

清叙は玄褚の両脚に視線を落とす。唇にかすかな笑みを浮かべ、言い切った。「その、おみ足を治せるゆえにございます」

その言葉を耳にした瞬間、向かいに立つ小五の顔色が瞬時に変わった。

警戒に満ちた眼差しを清叙に向ける。その瞳には怒りの色さえ浮かんでいる。

玄褚の瞳の色も沈み、興は失せたようだった。

(面白い女かと思ったが、これもまた手の込んだ芝居の一環か)

(背後で糸を引くのは、あの「善き兄君」たる帝か――それとも「可愛い甥」どもか……)

だが清叙は、口から出まかせを言ったわけではない。彼女が世界屈指のスパイであったことは周知だが、かつて鬼医に師事し医術を学んだことを知る者は少ない。玄褚の両脚を見た瞬間から、彼女にはすでにその原因を見抜いていた。

清叙は黙したままの玄褚を見つめる。

(信用されてないわね)

彼女は静かに、しかし言い切る口調で告げた。「わたくしの見立てが正しければ、王爺のおみ足を蝕むは寒毒なり。夜ごと、万の蟲に喰い荒らされるが如き激痛に、苛まれてはおりませぬか?」

「無礼者!」

小五が鋭く声を上げた。

疑いの目を向ける玄褚に、清叙はひと息置き、半歩踏み出した。そして、彼の手首にそっと指を添える。

これほどの炎天下だというのに、玄褚の手は骨の芯まで凍みるように冷たい。

さらに清叙が手を伸ばすと、玄褚は反射的に振り払おうと、手を上げた。

だが――その動きは途中でぴたりと止まった。彼は、ふと何か思い当たったように目を細め、清叙を一瞥すると、あえて自ら手を差し出した。

小五は即座に刀を抜き放ち、目の前の女を鋭く警戒する。

彼女が少しでも妙な動きを見せれば、その刃は容赦なく振り下ろされるだろう。

清叙は玄褚の脈に神経を澄ませ、脈の運びを丁寧に追った。

「王爺を蝕むは、粋寒の毒なり。初めは僅かな倦怠感のみ、大方の者は異変に気づきませぬ。されど、やがて下半身より徐々に体の自由を奪いゆく。ついには――毒、全身に回りて果つ。その死に様は、見るに堪えぬほど凄惨なものとなりますわ」

清叙は玄褚の深い瞳を見据えた。「王爺、わたくしの申し上げたことに、相違ございませぬか?」

玄褚の視線が、ほんのわずかに揺れた。だが表情は崩さない。

(……いささかの狂いもない)

遠くの馬蹄のざわめきが次第に近づき、林を貫いて彼女の名を呼ぶ声まで届いた。

継母が案じるふりをして差し向けた追手だろう。真の狙いは、賊に辱められた清叙の姿を「目撃者」に見せつけ――証人をつくること。

玄褚は、清叙の曇りなき瞳をじっと見据え、そして命じる。「小五、綺麗に片付けよ」

「はっ、王爺」

小五は何か言葉を重ねようとしたが、主君の眼差しに押し黙り、踵を返して命じられた役目へと向かった。

呼ばれた数人の衛兵が、手際よく山賊たちの骸を引きずり去り、地に残る血痕を土で覆い隠していく。

瞬く間の出来事であった。清叙の横転した馬車を除けば、あたり一帯には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。

清叙は唇の端に笑みを浮かべた。(……ふふ、やはり話の分かる相手は嫌いじゃないわ)

裴玄褚へ向き直り、彼女はしとやかに膝を折り、流れるような動作で一礼した。「わたくしの馬車が本日、不慮にも横転いたしました。御者は崖へ落ち、命を落としたようにございます。王爺がお助けくださらなければ、わたくしも無事では済まなかったでございましょう。ただ、馬車がこの有様では……屋敷へ戻ることも叶いませぬ」

玄褚はわずかに目を細め、淡々と応じた。「……よかろう。そなたが厭わぬのであれば、余が送り届けてやろう」

清叙が待っていたのは、その言葉だった。

二人は共に玄褚の馬車に乗り込んだ。

継母が差し向けた手の者たちは、どうやら空振りに終わる。

馬車は広々として豪奢な作りで、二人が乗ってもなお余裕があった。

玄褚は単刀直入に切り出した。「余を治せると、違えなく申すか?」

「もちろんでございます。一度誓いしこと、必ずや成し遂げてみせまする」

清叙は静かに頷いた。

服は乱れているが、その表情に動揺の色はなく、彼女の言葉は、不思議と人を信じさせた。

玄褚は目を細め、興味深げに言った。「蘇令嬢。そなたは深窓の令嬢と聞くが、その医術はどこで身につけた? 余を謀る者の末路がどうなるか、知らぬわけではあるまい」

「もちろんでございます」

清叙は淡々と告げた。「師より門を明かすことを固く禁じられておりますゆえ、医術の出所についてはお答えいたしかねます。 ですが、王爺がわたくしをお救いくださった――それこそが、おみ足を治せるのは、このわたくししかおらぬという、何よりの証にございましょう」

「して、治療の手立ては?」

清叙は落ち着いて答えた。「用いる薬材は、いずれも尋常ならざるものばかり。後ほど処方を記し申すが、お集めになるにも時を要することでございましょう。かつ、長年毒に侵されたる御身は、一朝一夕に癒ゆるものにはあらず。王爺には月一度、拙宅にて鍼を施さねばならぬと存じます」

玄褚は一瞬、唇端に笑みを浮かべた。「……ほう。賢しや」

ひと月に一度となれば、その間、彼は清叙の命を守らねば治療も続かない。見事なまでに計算された提案だった。

清叙は否定もせず、紅い唇をかすかに吊り上げ、小悪魔のように微笑んだ。

ほどなくして小五が筆と紙を運ぶと、清叙は迷いなく処方を書き上げた。

馬車に揺られることしばし、やがて侯爵府の門前で静かに止まった。

どうやら捜索に出た者たちより、先に屋敷へ着いたらしい。

「本日はお見送り賜り、誠にかたじけなく存じます。王爺のおみ足は、この蘇清叙が治してみせまする」

そう言い終えると、清叙は玄褚に一礼し、軽やかに馬車から降り立った。そして、振り返ることなく、毅然とした足取りで侯爵府の中へと消えていった。

3

邸の門前。裴玄褚 (はい げんちょ)は去りゆく蘇清叙(そ せいじょ)の後ろ姿を、思案に沈みながら見送っていた。

「王爺、お帰りでございますか?」

傍らの小五が尋ねる。今日の王爺は、どうにも様子が妙だった。

「……否、急ぐには及ばぬ」

一方、清叙は背筋を凛と伸ばし、侯爵府の門へとまっすぐに向かう。だが、門前で立ち塞がれ、あわや止められるところだった。

門番は彼女だと気づくや否や、腰を抜かさんばかりに驚いた。「お、お嬢様!ご無事にてお戻りでございましたか!」

「何故、わらわが戻ってはならぬの?」清叙は氷のように冷たい声で言い放つ。

門番は慌てて大きく首を振った。「否……お嬢様が山賊に攫われたと、夫人が仰せになっておりましたゆえ、御使いを走らせております」

清叙はふっと笑い、悠然と門をくぐった。

案の定、正院へ足を踏み入れた途端、徐氏の泣き声が耳を刺した。「ああ、清叙よ……かくも清らかなる娘が、山賊などに攫われ……いかばかりの苦難を受けおるか……これより先、いかにして生くべきか……」

「お母様、お父様は使いの者を立てられました。必ずやお姉様をお救いになられますゆえ、ご安心くださいませ」

その傍らでは、一人の美しい女が、優しげに徐氏をなだめていた。

その娘こそ、蘇鳶児である。

徐氏は聞く耳も持たぬ様子で涙を拭い続ける。「見つかりたるとて、何の詮がございましょう。山賊に汚されなば、あの子の一生は已にお終いでございます」

彼女は泣きながら、鳶児の隣に立つ男へ縋るように訴えた。「清叙は山賊に身を汚され、もはや皇室に嫁ぐことなど叶いませぬ。四殿下と清叙との婚約は、もはや……尽きにけり。すべてわたくしの責任でございます。もし病に侵されなければ、あの子を城外の寺へ向かわさざりしものを……」

清叙の婚約者と呼ばれたその男――第四皇子である裴景行は、この縁談が壊れる可能性を聞いても怒りや無念を微塵も感じさせず、むしろその口元にかすかな安堵の色が浮かんでいた。

「蘇夫人、己を責むるには及ばぬ。此度の件は、そなたの落ち度にあらず。たとえ真に辱めを受けたるとも、それは自業自得というものなり。余が父皇に奏上し、彼女との婚約を破棄せむ」

清叙の名を口にする時、景行の声には隠しようのない嫌悪と侮蔑が滲んでいた。

その婚約は、景行にとって最大の汚点であった。

(もっとも、清叙の名が地に落ちるなら、それはそれで好都合。そうであれば、正当な理由で婚約を破棄し、真に心を寄せる者と結ばれよう)

そう思うと、彼の目に光が宿り、自然と傍らの蘇鳶児へと視線を注いだ。

鳶児は潤んだ瞳で彼を見つめ返している。翡翠色の衣が、彼女の可憐さをいっそう際立たせていた。

「殿下、お姉様がすでに清らかなる身にあらざれば、蘇家と殿下との婚約は……」

彼女は唇を噛み、目の前の男をおずおずと見上げる。その瞳に潜む慕情が、景行の心を温める。

彼はわずかに口角を上げ、低く笑った。「蘇家と余との婚約なり。清叙が嫁げぬとあらば、代わりを一人寄越すのが道理なるべしや?」

鳶児の頬はたちまち朱に染まり、恥じらいと喜びを隠しきれぬまま、景行をちらりと見上げ、すぐにまた俯いてしまった。

歩み寄った清叙がその光景を視界に捉えると、胸を凍てつくような冷気が吹き抜けた。

この身体の元の主である、あの娘は山賊に命まで奪われたというのに、この者たちはなお、彼女を陥れる算段に余念がない――そう思うと、清叙の胸中に荒々しい衝動が湧き上がった。こいつらの喉笛を掻き切ってやりたい、と。

甘い空気に浸る卑しい男女の元へ、彼女は唇に冷ややかな笑みを浮かべ、大きく進み出た。

「今日の邸は、いと賑やかなることよ」

その声に、居合わせた者たちが一斉に振り向く。

鳶児は信じられないとばかりに目を大きく見開いた。「お姉様、いかにしてここに!」

「あら、わらわは戻ってはならぬの?」 清叙は笑みともつかぬ笑みを浮かべ、棘を含ませて言った。

「いや……わたくしは、かような……」 鳶児の顔が微かに引きつり、慌てて俯いて瞳の中の動揺を隠した。

清叙はそんな彼女の様子など意にも介さず、さらに奥へと歩を進める。

景行に視線を落とすと、くすりと笑い、優雅に一礼した。「四殿下、謹んで御挨拶申し上げます。先ほど、婚約の話を耳にいたしましたるが――本日のお出では、はたしてその件のためにございますか?」

景行が答えるより早く、清叙は言葉を継いだ。「殿下、ご心配には及びませぬわ。婚儀の準備は万事順調。来月の祝言に遅れはございませぬ」

その言葉に、景行の顔色がみるみる曇った。

「蘇清叙!皇室に不浄の者は要らぬ。そなたはすでに山賊に身を汚された身――それにして、いかなる面をもって皇室に嫁がんとすぞや!?」

その言葉に、徐氏と鳶児は視線を交わす。

そして徐氏は、慌ただしく駆け寄り、涙を拭いながら手を取ろうとした。「清叙よ!この母の至らざるゆえに、あの忌々しき山賊どもにそなたを汚させられたりとは……」

甲高い声が響いた途端、その場にいた者たちの清叙を見る目が一変した。

同情、侮蔑、好奇の視線。

無数の針のように清叙に突き刺さる。

誰もが、清叙は恥辱に耐えかねてその場で崩れ落ちると思った――。

だが、清叙は突然顔を上げ、事情が分からない様子で言った。「山賊に攫われしや……? 汚されしや……?お母様、四殿下……お二方の仰せなるところ、わたくしには判然たらず」」

清叙の言葉に、芝居を打っていた徐氏の動きが、ぴたりと止まった。

景行も眉をひそめ、彼女が事実を隠蔽しようとしているのだと思い込み、怒りに駆られて暴きたてようとした。

だが、鳶児が彼より一歩早く口を開いた。「お姉様、御純潔を失い、無念の至りなること、よく存じます。されど、不浄の身で皇室に嫁がんとすれば、君主を欺く大罪にございますわ!どうか愚かな真似はなさらず、蘇家一門を巻き込まぬように」

「ふふっ、鳶児の話はますます分かりませぬな。わらわはただ寺へ祈りに出でたるのみ。いかなる理にて、かかる言が立ちまするやら。純潔を失いしとも、君主を欺かむとも、まるでそのような物言いとなりましょうか」

その言葉に、徐氏の顔色がさっと険しくなる。

鳶児は袖の中で拳を握りしめ、悔しさを噛み殺して言った。「お姉様、まさかお認めになられぬおつもりでございますか? 先ほどお姉様付きの侍女が慌てて駆け戻り、山賊に攫われたと、家中に助けを求めて参りました。この件、四殿下もすでに御承知でございます!」

鳶児はそう言って、地面に跪く一人の侍女を指さした。

清叙はそこで初めて、その侍女の存在に目を留めた。

記憶によれば、その侍女の名は珍珠。以前から徐氏のために動いていた者だ。

今回の件も、この侍女の手引きがなければ、元の清叙がこうも容易く陥れられることはなかっただろう。

その瞳に殺意のきらめく一瞬があったが、すぐに押し殺した。再び鳶児に視線を戻すと、平然と微笑んだ。「山賊でございますか?……わらわはお会いしておりませぬ」

「そのようなはずはあるまい!」 鳶児は眉根を寄せ、思わず叫んだ。

清叙の揺るがぬ様子を見た瞬間、鳶児の脳裏に前世の光景が鮮やかに蘇る。鳳袍(ほうほう)をその身に纏い、天下の母として君臨する、あの女の姿が――。

そう、これは鳶児にとっても二度目の人生だったのだ。

前世、清叙は滞りなく第四皇子に嫁ぎ、皇子妃となった。

婚姻の後、凡庸と思われていた第四皇子が、まるで人が変わったように頭角を現し、次々と大功を立てていった。

ついには他の皇子たちを打ち破り、皇位継承の争いを制したのである。

彼女はこの目で、蘇清叙が天下の母たる皇后となるのを見届けた。一方、己はあらゆる術を尽くして皇太子の側室となりながら、待っていたのは終日の苛虐と屈辱。果てには流刑に処され、無残に害されて命を落とした。

だが、天は自分を見捨てなかった。もう一度、やり直す機会を与えてくれたのだ。

今世では、彼女は早くから第四皇子と情を通わせた。清叙のこの婚約を奪いさえすれば、いずれ彼が帝位に就く時、自分こそ天下の母たる皇后になれる――そう確信していた。

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最凶の狂犬令嬢と、猫かぶりな摂政王様

第1話
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